からたち日記
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 こころで好きと叫んでも (セリフ) 2 くちづけすらの想い出も (セリフ) 3 からたちの実が実っても (セリフ) |
《蛇足》 昭和33年(1958)のヒット曲。
失恋の歌ですが、遠藤実のメロディは、ただ寂しいのでなく、温かみのあるのがいいですね。2番のセリフ部分ではメロディが寂しくなりますが、その終わりから元のほんわかしたトーンに戻ります。これが恋の行方にかすかな希望を感じさせる効果を生んでいます。
からたちはミカン科の落葉低木で、生け垣によく使われます。枝に大きいトゲがあり、晩春に白い五弁花をつけます。中国原産であることから、「唐橘(からたちばな)」と呼ばれ、これが短縮されてからたちとなりました。
漢字では「枳殻」または「枸橘」と書きます。ですから、京都・東本願寺の飛地境内地にある渉成園の別名・枳殻邸は「からたち屋敷」という意味になります。この歌とは全然関係ありませんが。
(二木紘三)
コメント
高校時代はラジオ作りに明け暮れしていました。当時は部品をパ-ツ屋さんで買ってきて、好きなように組み立てるのが流行っていて、学校帰りに、回り道になるのを苦にもせず、毎日のように通ったものです。
5球ス-パ-と言うのが主流で、人に頼まれて何台作ったものか・・・・・
当時は真空管式で、出来たばかりのラジオを心弾ませ、スイッチを入れると、真空管に灯が点りゆっくり暖まると、そこから聞こえて来る歌は、当時大流行していたからたち日記だったのを覚えています。なつかしい・・・・・
投稿: Hikoさん | 2008年7月29日 (火) 17時19分
Hikoさん 2008年7月の投稿ですね。お元気ですか。ラジオ作りが流行っていて友達との話もラジオのことばかり。この曲と共に懐かしいです。当時秋葉原は何も無く神田駅から須田町にかけて通りの両側が電気屋さん歩道にも部品を並べた露店がびっしり繋がっていました。この露店が強制的に移されたのが今の秋葉原の電気街の始まりですね。友人達と良く部品を探しに行きました。品川から神田まで自転車で途中東通工(ソニー)がありました。品川には島倉千代子さんが住んでました。小学校は一つ下です。歌の上手な姉上と街の公園のお祭りなどで唄ってくれていたのを良く憶えています。また、父上の区議会立候補でけなげに応援していました。とにかく真面目に丁寧に一生懸命歌を唄う人ですね。このデビュー曲もゆっくりと人気が出てきたように思い出があります。
投稿: 釈 浄慶 | 2010年5月28日 (金) 16時06分
ラジオ作りですか。私の中学校時代、先生がこれに精通しておられて、見よう見まねで「12F]とか「6ZP1」という真空管をおぼえました。自分では「4球スーパー」ぐらいまでしか作れなかったと思います。
その後、ゲルマニュウームやトランジスターの鉱石ラジオになっていきましたから。でも経費がかかることで挫折しました。
その頃の歌がこれですね。最近、近くのコーラスグループでこの歌も話題になったようです。
投稿: 今でも青春 | 2014年7月 6日 (日) 09時28分
「すら」のつかない想い出はどんな想い出かなあと考えたことがあります。
投稿: 颱風人 | 2014年9月10日 (水) 22時56分
私が住んでおります佐賀地方でも、このところ寒い日が連日続いております。昨日は、零下2度・・・寒かったです!
先ほどまで、遅い夕食とともに「芋焼酎」で元気をもらいました。
明日からの仕事(惣菜・食材等の宅配)のため、明日の天気が気になり外へ出たところ、夜空にはいくつもの星が輝いていました。
ジーと見つめていたら、私の大好きなお千代さんのこの歌が頭の中で歌い始めました。
「こころで好きと叫んでも 口にはいえず ただあの人と・・・」
二木先生の蛇足にあるように、この歌は「失恋の歌」だったんですね ♪・・・知りませんでした。
中学三年の同じクラスの「T子ちゃん」との片想いのまま過ぎ去った日々が懐かしく想い出され、お互いに後期高齢者・・・どうなされておられるのかなと・・・。
でも、二木オーケストラの名演奏を繰り返し聴いているうちに、ふんわりとした温かみのある気持ちが心の中に伝わってきました。
二木先生! いつもながらの素敵なアレンジと演奏ありがとうございます。
投稿: 一章 | 2018年1月14日 (日) 21時50分
「からたち日記」島倉千代子がこれまでに輩出したヒット曲の数々において、この唄こそお千代さんらしい可憐な魅力が最も滲み出ているのではないかと私は思っています!
そして私が眼にした某コラムには、「この唄には、長調の曲と短調の曲が作られたが、この時、島倉千代子が長調の曲がいいといったことで現在の「からたち日記」がレコード化された」との記術があります。
そう云えば昔のことですが、偶然私が観ていた某テレビ番組で、作曲家の遠藤実自身が「からたち日記」の唄について、実はこの歌詞には最初二曲のメロディを付けていたんだと語りながら、その短調の方のメロディを実際に紹介していたことを憶えています。
その後1996年に発売された「幻のからたち日記」と云われる短調の曲「想い出のからたち日記」を改めてじっくりと聴いてみると、やはりこれも遠藤実の作曲ですが、昭和36年に発売されている「かるかやの丘」のようなそんな淋しいイメージの作風に仕上がっている、私はそんな感じを受けます。
昭和33年10月「からたち日記」昭和34年6月「想い出日記」と、このセリフ入りの二曲は、ほぼ同時期に発売されていますが、このころの若き日のお千代さんのセリフの語り口調には、ほのぼのとした乙女の可憐な魅力を感じさせるものがあります。
それが、昭和52年7月に発売されている、戦争で我が子を亡くしてしまった母の悲しみを歌いあげた「ひろしまの母」でのセリフの語り口調には、熟練されたお千代さんならではの実に巧みな表現がなされており、上記二曲とはまた違った重厚な魅力を感じさせます。
「からたち日記」・「想い出日記」・「東京だョお母さん」・「ひろしまの母」この四曲に限っては、私はあえてお千代さんのセリフが聴きたくて、今でも時々YouTube動画を視聴をしたりすることがあります。
投稿: 芳勝 | 2021年4月12日 (月) 16時57分