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2007年9月 4日 (火)

湖畔の宿

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一、唄:高峰三枝子

1 山の淋しい湖に
  ひとり来たのも悲しい心
  胸の痛みに耐えかねて
  昨日の夢と焚き捨てる
  古い手紙のうすけむり

2 水にたそがれせまる頃
  岸の林を静かに行けば
  雲は流れてむらさきの
  薄きすみれにほろほろと
  いつか涙の陽が落ちる

   (台詞)
   「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
   静かに静かに黄昏れて行く……。
   この静けさ、この寂しさを抱きしめて
   私は一人旅を行く。
   誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
   幼な児のような清らかな心を持ちたい。
   そして、そして、
   静かにこの美しい自然を眺めていると、
   ただほろほろと涙がこぼれてくる」

3 ランプ引き寄せふるさとへ
  書いてまた消す湖畔の便り
  旅の心のつれづれに
  ひとり占うトランプの
  青い女王(クイーン)の淋しさよ

《蛇足》 日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15年(1940)に発表され、大ヒットした歌。
 感傷的で淋しい詩とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にしましたが、国民が歌うのを止めることはできませんでした。

 歌手たちの戦地慰問で、兵士たちからのリクエストが圧倒的に多かったのがこの曲だったといいます。とりわけ、特攻隊の基地で、若い航空兵たちが直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っています。
 「この静けさ、この寂しさを抱きしめて私は一人旅を行く。誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて……」の部分がとくに兵士たちの胸に響いたのでしょう。

 後年、「ひとり来た湖」はどこかが話題になり、舞台探しが行われました。作詞者・佐藤惣之助の足跡から長野県の諏訪湖、静岡県の浜名湖、山梨県の山中湖などの諸説が生まれましたが、昭和63年(1988)2月、佐藤惣之助の手紙が見つかり、モデルは群馬県の榛名湖(写真)だとわかりました。

 手紙は昭和17年(1942)、彼が亡くなる少し前、榛名湖畔の旅館「湖畔亭」の仲居に宛てたもので、問題の箇所は次のようになっています。
「『湖畔の宿』は榛名湖のことではあるが、あの中のことは全く夢だよ。ああいう人もあるだろうとおもったので書いたもの。宿は湖畔亭にしておこう……」。

(二木紘三)

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コメント

 夜は湖畔の宿で、ふるさとへの便りをしたためます。「ランプ引き寄せ」に時代を感じます。帰れないふるさとに便りを出すことによって、心の中で擬似的にふるさとから都会への再出発の誓いとします。
 再出発の前途はいかに。今度こそ良い恋ができますように。彼女はトランプに託して一人占います。「青い女王(クィーン)」。その象意とは?
 「青」クール、知性。「女王」気高さ、気ぐらい。彼女はクールビューティ?それゆえの「淋しさよ」?

 戻っていった都会の雑踏にまぎれて、ヒロインはその後どのような運命をたどったのでしょう。興味深いところです。

投稿: 大場 光太郎 | 2008年2月22日 (金) 17時53分

人間は死を覚悟したらこの様な曲を聴きたくなるのでしょうか。心を癒してくれ、まるで母親が歌ってくれているように
思えたのでしょうか。

投稿: M.U | 2008年5月30日 (金) 16時59分

私が大学2年の時、冬のデパートのアルバイトで高校2年の清純な可愛い子に会いました。アイススケート場に行ったりした淡い恋でした。

それから5年後、彼女から突然「会いたい」と電話があって食事をしたり、喫茶店で話したりした後、日比谷公園に行ってベンチで二人でトレンチコートにくるまって、話の続きをしました。彼女の好きな「湖畔の宿」も二人で歌いました。キスすることもなく、ただ懐かしくてそのまま別れました。

翌日、彼女から電話があり、きのうはどうしても言い出せなかったのだが、よんどころない事情があり、少しお金を貸して欲しいとのことでした。私は貯金があまりなかったのですが、何とか都合をつけて数万円を貸してあげました。ありがとう、ごめんねと言い、彼女は少しづつだが毎月返すからと言いました。

それから、2ヶ月は2千円ずつ送られてきましたが、その後、ぱったりと途絶えました。

その後私は彼女の家に電話しましたが、お母さんが出て「うちの子は、妻子ある男と駆け落ちして、ここにはいない。あちこちに借金をして、私達は面倒を見きれない」と電話を切りました。彼女の家は裕福ではありませんでした。

それから1年半後の日中、私はばったり日暮里駅のホームで彼女に会いました。彼女はびっくりして、口ごもりながら借金のことについて謝り、何とか返しますからと言いました。

私はそのことについてはもう忘れているから良いよと言い、元気でねと言ってすぐ立ち去りました。「湖畔の宿」を聞くたびに彼女のことを思い出します。

投稿: 吟二 | 2008年9月 7日 (日) 16時57分

高峰三枝子のろうたけた美しさは、原節子と共にあの時代を代表する美人女優でした。東北の田舎にいた頃は彼女の歌った〔一人来た湖・・・〕とはどんなきれいな湖だろうと想像したものですが、なんと現在私の住む場所からそう遠くない榛名湖だったとは。。。
榛名湖にはたまにドライブに行き、帰りは伊香保の日帰り温泉に入って帰るのが楽しみです。

投稿: おキヨ | 2008年9月 8日 (月) 02時18分

 戦後、この歌が一世を風靡した当時わたしは小学生でした。当然歌詞の意味も分からず、一番の「胸の痛み」は肺病(結核)のことであり、「焚き捨てる」は‘焚きつけ’とばかり一人合点していました。男女の機微に疎い子どもの頃ですし、燃料にも事欠く時代でしたから、こんな風に誤解をしていたのでしょう。自嘲しながら子どもの頃を回想しています。閑話休題。               
 蛇足ですが、先年榛名湖に遊んだとき、思い出して「湖畔の宿」の歌碑を探しました。歌碑は惣之助の書簡に出てくる‘湖畔亭’の近くにできた‘湖畔の宿記念公園’にありました。メロディセンサー付きの立派なもので、隣には珍しいメロディフェンスもあり、楽しめます。また、公園は眼前に榛名湖と対岸の榛名富士を眺望できるロケーション抜群ですが、歌の雰囲気を体感するには、夏季の喧騒を避けた夕暮れ時がベストかと思います。

投稿: ひろし | 2009年4月30日 (木) 12時56分

二木先生の御多忙中とは存じますが、是非にも次のレコードもしくはテープをお探しの上で此のアルバムに収録して戴きたい歌がありますので、お手数を煩わせて恐縮には存じますが宜しく御計らいを戴きたく御願を申し上げます。

※ 歌の題名   【湖底の故郷】  歌詞
1・夕日は赤く 身は悲し
     涙は熱く  頬ぬらす
  さらば湖底の  我が村よ
     幼き夢の  揺り籠よ
2・宛て無き道を  辿り行く
     流離(ながれ)の旅は  涙さえ
  涸れて儚き  思いでよ
     ああウラブレの身は  何処
3・別れは辛し  胸痛し
     何処に求む  故郷ぞ
  今ぞあてない さすらいの
     旅路に昇る  今朝の空

以上が私のうろ覚えの歌詞の内容です。
此の歌は、現在では都民の皆様の憩いの場として、又は・ニジマス釣り場として都民の皆様には御馴染みであろうと思われます『小河内ダム』に沈んだ集落を歌い上げた名曲でありますので、甚だ恐縮には存じますが宜しく御配慮を賜りたく存じ上げます。
  

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 5日 (木) 02時45分

渡邉秋夫様へ
【湖底の故郷】のより正確な歌詞は以下の筈では?訂正すべき語句のみ記します。用いる漢字は人様々なので問いません。

1.夕日は赤し  
3.故郷よ  今ぞあて無き  旅路へ上る  今日の空

投稿: 槃独の呟き | 2010年8月 5日 (木) 17時01分

浅学無知な私には御尊名の程は解釈が出来ずに甚だ申訳の無いことでありますが、何卒・御容赦の程を御願い申し上げます。情報の提供有り難うございました。 
私が昭和57年夏・娘の小学校の夏休みを利用致しまして小河内ダムにニジマス釣りに行きました際には、既にダムサイトに此の歌碑が建立されていましたので、其れ以後好きになった曲の一つです。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 6日 (金) 19時02分

渡邉秋夫様へ二伸
 名前を打ち間違えたため、さぞ怪訝に思われたことでしょう、申し訳ございません。歌詞の訂正、お役に立てば幸いです。

 私が1960年代終わりにドライブしてまわった頃の小河内ダム周辺は人影もまばらで、水面は静まり返っていて、建設当時の農民が氷川あたりまで蓆旗を立てて押し進んだ喧騒は想像するのも困難な風情でした。おそらく、第一回芥川賞受賞作家、石川達三の『日蔭の村』を通して想像するしか無いのかも知れません。

投稿: 槃特の呟き | 2010年8月 6日 (金) 23時33分

山の淋しい湖で思い出しました。ある時登った山の山小屋の前に小さな沼がありボートを好きに使えるようになっていました。彼女が乗ろうとしたら失敗して足だけ水にはまってしまいました。その時は大変叱られた事を思い出します。

投稿: 海道 | 2011年12月 2日 (金) 13時40分

 おキヨ様、ひろし様は湖畔の宿をよくご存じですね。
 私は榛名湖を抱く連峰を間近に仰いで育ちましたが、その頃はまだ、前橋市方向から見てあの榛名連峰の真ん中あたりに——一番高くはないけれど——秀麗な形を見せる榛名富士の麓の宿がうたわれているとは知りませんでした。いま、生家の近くの田んぼの中に住居を作って数十年ぶりに帰去来してからは、朝ごと夕ごとの犬の散歩に、「昨日の夢と焚き捨てる」煙を思い浮かべながら,口ずさみます。高峰三枝子にこの歌をリクエストして、「直立不動で」聴いて飛び立った特攻隊の少年たちには、どれほどたくさんの夢があったことだろう。一切を思い切るためのリクエストでもあったのでしょう。
 佐藤惣之助の手紙が公表されて、地元の榛名町(今は高崎市榛名町)は大喜びで湖畔の宿公園を作りました。私も寄る時はいつもひろしさんのお話にあるメロディセンサー、メロディフェンスを楽しみます。
 惣之助が榛名町を喜ばせる手紙を書いたのは亡くなる直前だったのですね。謎のままでも良かったのに、と思う人も、思う湖もあるでしょうが。
 問題の手紙発見のことを知ったとき,佐藤惣之助がそれほど榛名湖に縁があったかな、とちょっと不審でした。でも、現代詩の金字塔である詩集「月に吠える」などで知られる前橋市出身の詩人萩原朔太郎の妹アイと結婚していたことを思い出して納得しました。昭和8年、惣之助は再婚でした。朔太郎、惣之助と「ふるさとは遠きにありておもふもの」の室生犀星は親友で、あるとき犀星が朔太郎に「流行歌というのはお金になるらしいぜ、惣之助などは随分儲けているということだ」と、極貧の朔太郎に流行歌を書かせようとしたということです。
 

投稿: dorule | 2012年12月24日 (月) 11時04分

dorule様
40数年前現在住む埼玉北部の町に越して以来、わずか小一時間で爽やかな自然を味わえる榛名湖にはよく出かけます。
昭和初期の歌謡曲の舞台はほとんどが関東の山岳地方ではなかったでしょうか。都会暮らしの作詞家、作曲家が比較的行き来しやすかった絶好の場所だったかもしれません。

昔と比べ今はだいぶ俗化したようですが、竹久夢二他大勢の作家、歌人など文化人が訪れた榛名湖はいまだ高峰三枝子が歌う〔湖畔の宿〕のロマンチックな舞台背景として偲ばれること充分だと思います。

遠方からの知人を案内すると喜ばれる場所の一つです。

投稿: おキヨ | 2012年12月25日 (火) 12時17分

dorule 様
 5、6年前だったでしょうか、朝日新聞の“歌の旅人”版に、「山のさびしい湖」の所在論争に終止符が打たれたのを機に、榛名湖畔に“湖畔の宿記念公園”がつくられ、メロディーセンサー付きの歌碑が建てられた、とありましたので、伊香保温泉に行った折、寄ってみました。晩夏でもあり、夕刻でもあったので人影はほとんどなく、哀愁に満ちた、この歌のメロディが、折しも夕靄の立ち始めた湖面に流れて行きました。柄にもなく、センチな気分になったことを覚えています。

 還らざる身に歌ひとつ薄すみれ  ひろし
 
 太平洋戦争も終盤、若い特攻隊員たちがこの歌を聴いて、断腸の思いで出撃していったことを思い起こす必要があります。二度と、このようなことがおこる国にしてはいけません。不戦の誓いを立てるときが近づいていると思うのは、わたしだけでしょうか。

 朔太郎の「月に吠える」という詩集は知っていますが、詩そのものはあまり知りません。「ふらんすへ行きたしと思へど ふらんすはあまりに遠し」でしたか、この詩くらいで、恥ずかしいですね。
 dorule様は朔太郎の出身地にお住まいだけあって、かれについて研究されているのですね。本歌の作詞家惣之助と朔太郎が義兄弟であることなど教えていただきありがとうございました。
 
 

 

投稿: ひろし | 2012年12月26日 (水) 11時10分

おキヨ様
関東平野の北西隅を飾る上毛三山の中でも、奇岩怪峰の妙義山は早くから文人墨客の筆に乗り、赤城山は高村光太郎、志賀直哉、西条八十その他大勢の近代詩人小説家画家たちの題材になって来ました。榛名山はそれにくらべて地味な感じでしたが、「湖畔の宿」で一躍スポットが当たりましたね。それにふさわしい優雅な山と思います。
ひろし様
不戦の誓いを立てるとき、同感です。
「極貧の朔太郎」と書きましたが、語弊がありすぎるようなので「極貧」は訂正削除したいと思います。惣之助のような流行作家ではなかったという言葉の綾のつもりでした。朔太郎は早くから不世出の詩人として尊敬されただけでなく、生家は進んだ医学を採り入れた富裕な医院で、その長男でした。

投稿: dorule | 2012年12月29日 (土) 00時14分

懐かしい曲でハーモニカで時々吹いています
榛名湖との事ですが・・近くの小さな湖畔で
この曲を吹くと・青春時代の想い出が胸に浮かび
熱くなります
昔の・・夢を見ています

投稿: 田中 喬二 | 2013年2月19日 (火) 16時49分

榛名湖のある群馬県に住んでいます。今までに何回も榛名山へは行ってますが、まさか「湖畔の宿」のモデルになっているとは知りませんでした。特攻隊の若者がこの曲をリクエストして、夜明けとともに飛び立っていったというあの件で、特攻隊員は一体どう言う気持ちで操縦桿を握ったのか、想像しただけでただ唯、落涙。

投稿: 赤城山 | 2013年6月30日 (日) 18時19分

dorule様
交通機関の乏しかった頃には関東地区でも奇岩の妙義やゆったりと横たわる風情の赤城山などはあまり移動時間がかからなくてしかも情緒的に申し分のない処のようでしたね。その他四万温泉や伊香保などの温泉場も文学の場になっていますので、群馬県は文学作品の舞台背景が多い処のようです。以前に法師温泉で与謝野晶子の歌碑を見ましたが、当時はとんでもない山奥、さすが情熱の歌人バイタリティーも素晴らしい。。。籠で移動したようで、どこかで籠に乗る与謝野晶子の写真をみました。
榛名湖は竹久夢二の理想郷で、彼のアトリエ跡が残っていますが、アトリエとして機能したかどうかは定かではありません。

投稿: おキヨ | 2013年7月 2日 (火) 12時24分

おキヨ様
 こどもの頃に登ったのは赤城榛名妙義の「上毛三山」だけで、長い首都圏暮らしの後、連れ合いに先立たれたあと榛名山の麓に帰去来した20年近く前に、見渡せる稜線をみんな歩いてみようと思い立ちました。北東に赤城山、左へ武尊山、万葉集で有名な子持山、小野子山、西から南へ榛名連峰、浅間隠山、浅間山、荒船山、妙義山、赤久縄山から御荷鉾連山と続きます。これら上州の山々の背後に、特に冬季に覗かれる銀嶺が北に谷川岳と上越国境の山々、西に八ヶ岳、南にところどころ奥秩父が覗かれます。冬山やロッククライミングはやりませんが、数年間は毎週のように出かけていました。寄生火山の多い榛名山は寓居からは南北に連なる山脈に見えます。あの稜線をみんな踏んだなあ、と眺めています。
 竹久夢二は榛名を愛し、「さだめなく鳥はゆくらん青山の青のさびしさ限りなければ」などの歌もあります。晩年、この地に産業美術研究所を設立することを念願として奔走しました。病に倒れて実現しませんでしたが、湖畔のアトリエ(画家山口薫の言う「山荘」)はその拠点でした。中腹の伊香保には立派な竹久夢二記念館もあります。
 法師温泉は二、三度訪ねましたが、おキヨ様が見られた与謝野晶子の歌碑を私は見落としています。地元でも情けないですね。晶子は榛名にも行っていて、歌も詠んでいます。
 思ひ出は榛名の山に満ちわたり君がいくつの面影も立つ
 はるかにも白根が張れる幕光り伊香保の雪はかげろふを上ぐ
など。与謝野晶子と言えば、高校生の頃までは「みだれ髪」の浪漫的歌人とだけ思っていましたが、「君死にたまふことなかれ」を知って驚嘆しました。日露戦争の最中に「旅順の城はほろぶともほろびずとてもなにごとぞ」商人のわが家の掟にはないことだ、と言い切り、「すめらみことはたたかひにおほみづからは出でまさね」、獣のように殺し合って死ねよとは「大みこころの深ければもとよりいかでおぼされむ」と痛烈。今の若い人には何でもないでしょうが、明治を忠君愛国にこりかたまった時代の始まりと思っていた私には衝撃でした。しかし夏目漱石も「我が輩は猫である」のなかで大和魂をからかったりしていました。石川啄木が感じた「時代閉塞」が際だってきたのは明治も末の大逆事件のあたりからなのでしょう。
 

投稿: dorule | 2013年7月 2日 (火) 16時29分

この歌の「ひとり来た湖」が土地の人には悪いですが、諏訪湖、浜名湖、山中湖ではなく榛名湖だったと言う話さもあらんと思います。

投稿: 海道 | 2013年7月 3日 (水) 16時21分

高峰三枝子さんを封切りの銀幕で見たのは、「光る海」、「赤い蕾と白い花」など日活映画でよく吉永小百合さんのお母さん役で出ておられた昭和37年(小生18歳)の頃です。本当に美しく、気品に満ちた上流夫人といった役柄をよく覚えています。
この「湖畔の宿」は戦前の歌のようですが、戦後、昭和27年(小生8歳)の頃でもよくラジオから流れており、子供ながらに替え歌などで歌って育ちました。その後、昭和40年・50年代とテレビの成熟時代に入っても、歌謡曲番組で「湖畔の宿」をはじめ「懐かしのブルース」、「純情二重奏」など衰えを知らぬ美しい容姿に歌声を披露しておられました。
 さてこの「湖畔の宿」を聞くと私の大好きな松島アキラさんの「ひとり旅」、「湖愁」の両方の歌詞と重なります。
 特に「ひとり旅」の3番の最後の方に《♬ランプ引き寄せわびしくつづる~青い表紙の日記帳♬》とあり、戦前も戦後も女が男を、男が女を恋する気持には変わりはなく、せつないものですね。ここでも《青い》という表現が出てくるのを興味深く感じます。

投稿: 迷える古羊 | 2016年10月 2日 (日) 00時29分

 この歌には思い出があり、独り者でしたが、ゴミを焼いてこの歌を口ずさんでいたら、隣のやはり独身の若い男性が「その歌いいですね。何という歌ですか。」と聞いてきました。古い手紙の薄けむり」というところに惹かれたようです。別れてもう逢うこともない若者でしたが、ときどき思い出します。
 

投稿: 今でも青春 | 2016年10月 2日 (日) 09時01分

天は二物を与えずに反して高峰三枝子さんは美貌の歌うスターでしたね。最も美人と思う女優は誰かと問われたら
高峰三枝子さんを挙げます。気品がありました。
原節子さんはリアルタイムで観てないのでピンと来ません。
原節子さんの西洋風の美人に対して、高峯三枝子さんは日本的美人でしたね。くぐもったような声も素敵でした。

投稿: りんご | 2017年12月25日 (月) 08時43分

今朝、台所仕事をして居る時、ふっとこの歌が口をついて出てきました。久しく忘れていた哀しみが甦ってきました。あの人の手紙が1通でもあったら、どんなに慰められた事だろう。
「白く積もった春の雪の上を白い蝶が舞っています」昭和33年の4月に貰った最初の手紙に書いてありました。
手紙は良いものですね。段ボール箱2杯ありましたが、大事な手紙以外は焼いてしまいました。残した手紙は実家の机の引き出しにしまって置きましたが、何年か後に机ごと捨てられてしまっていました。それを聞いた時の悲しみは今でも消えていません。手紙にはロマンがありますね。その人と湖畔を歩いた時の楽しさはしっかり胸の奥にしまってあります。今の想いをもう一度手紙にしたためたくなりました。そういえばその人に手紙を書いた時は緑色のシェードが付いたちょっとロマンを感じる電気スタンドの下でした。18歳の私が万年筆で未来を書いていました。

投稿: ハコベの花 | 2019年1月 8日 (火) 14時47分

今朝、NHKの朝のドラマに角帽を被った大学生が出ていました。あまりの懐かしさに一日涙が目に浮かびました。
この歌が口について出てきます。もうかえる事のない青春、多分彼も亡くなって居られるだろうと思っています。でももう一度この年になって二人で岸の林の中を歩いてみたかったと思います。何も話さずただ黙っているだけでも会話が成り立つような気がします。段ボール箱2杯の手紙は私の心の中にちゃんとしまわれています。流れれていく雲の向こうに彼がいるような感じがしました。たまには一人で流す涙も良いものですね。

投稿: ハコベの花 | 2019年4月30日 (火) 23時08分

「湖畔の宿」私が物心ついたときにはいつしか口ずさんでいたこの曲ですが、長年の年月を経た今ではこの唄の詩の中にある淋しい湖畔の情景が浮かんでくるようなこのメロディが無性に聴きたくなります!

私が成人になってからですが、高峰三枝子さんの懐かしい映像の数々を時々YouTube映像などで観たりするたびに常に感じてきたのは、舞台のステージで華やかに歌っておられる時も、スタジオでワイドショーの司会をなさっておられる時にも、そこにはいつも気品を放ち上品さが漂っているそんな素敵なお姿でした。

『蛇足』に記してある、>「・・・特攻隊の基地で、若い航空兵たちが直立不動で聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っています。」

ステージの上で湖畔の宿の前奏が流れ出した時に、この上記に関するお話をされておられる、少しお歳を召された高峰三枝子さんの映像を観ながら私は思わず胸を熱くしたこともありますが、それは大正7年にお生まれの高峰三枝子さんならではの、命を懸けて出撃して行く悲しい定めを背負った若き航空兵の悲哀を思うこの方の深い慈しみの心からきたのではなかったのかと、私は今そのような気がしています。

1982年私が28歳の時にはテレビで放映されていた国鉄の旅行コマーシャル・フルムーンで、上原謙さんと入浴されておられた映像が頻繁に映しだされていましたが、そんな頃にもこの方は大女優ならではの気品を漂わせておられました。
そう云えば、私が幼いころ「南の花嫁さん」を台所でよく母が口遊んでいたことも憶えています。

「湖畔の宿」私も現在66歳になりましたが、以前にも増してこれまでに私が数々の映像を観ながら感じてきた高峰三枝子さんのそのお人柄と相まって、最近はこの素晴らしいメロディが私の心にはより沁みてくるようになりました。

投稿: 芳勝 | 2020年9月 6日 (日) 12時32分

腰が引けてしまってカラオケになかなか出かかりません。楽しんでいた頃の湖シリーズです。洞爺湖畔の夕月に、風蓮湖の歌、サロマ湖の空、水に咲く花支笏湖へ、霧の摩周湖、毬藻の歌、湖畔の乙女、湖畔の宿、野尻湖ひとり、鳰の海。次が列車シリーズです。早く歌いたい。のどが枯れてしまう前に。

投稿: 海道 | 2021年10月 9日 (土) 10時55分

『湖畔の宿』は、私が子供だった頃、母が家事をしながら口遊んでいるのを聴いて憶えたように思います。
高峰三枝子さんの歌では、やはり、まず、この歌を思い浮かべます。尤も、私が最近好んで聴いたり口遊んだりするのは、『南の花嫁さん』(藤浦恍 作詞、荘 光 作曲、高峰三枝子 唄 S17)ですが、…。

この歌が世に出た昭和15年といえば、日米開戦の一年前。戦雲が迫りくる重苦しさのなか、そのような世相を少しも感じさせない、『湖畔の宿』や『燦めく星座』(S15/3)、『目ン無い千鳥』(S15/6)、『森の小径』(S15/10)のような歌が出てきたことに、どうしてだろうと、ミス・マッチ感が頭をもたげます。
思うに、重苦しいときだからこそ、息抜きの作品が求められたということでしょうか。

この歌を聴くと、同じ高峰三枝子さんが歌う『懐かしのブルース』(藤浦恍 作詞、万城目正 作曲、高峰三枝子 唄 S23)を連想します。
『湖畔の宿』の歌詞1番は、
  ♪昨日の夢と焚き捨てる
    古い手紙のうすけむり ♪
で終わり、一方、
『懐かしのブルース』の歌詞1番は、
  ♪古い日記のページには
    涙のあともそのままに…♪
で始まります。
『湖畔の宿』 の”古い手紙の…”部分と、 『懐かしのブルース』の”古い日記の…”部分の曲想が少し似ていて、『湖畔の宿』 から 『懐かしのブルース』へと、すっと移行しやすいのです。

投稿: yasushi | 2022年12月21日 (水) 14時16分

昭和15年の古い歌とは思えない。メロディーがおちついた調子であり、歌詞も静かに考えさせられる内容ですから。「蛇足」に「歌手の戦地慰問でリクエストの一番多かった曲」とありましたが、なるほどという気がします。湖というのは静かに日常の自分を見つめさせる力があるように思えます。   
小学校4年か5年の頃、国語の教科書に「十和田のひめます」という話があった。和井内貞行がカルデラ湖ゆえに魚一匹住まない十和田湖に養殖事業をはじめました。貧しいこの地域の人々に新しい仕事を作り出そうという気持ちが根底にありました。はじめは鯉の稚魚,さらにサクラマス、ビワマスなどの卵を孵化して放流しましたが失敗、どんどん借金が増えてしまい、最後に北海道支笏湖のヒメマスの卵で成功しました。 
地域の人からは狂人扱いされ、養殖事業を始めて21年後に成功したのです。教科書には見晴らし台に毎日登ってヒメマスの回帰を待っていた貞行に湖にさざ波が立って成魚たちがもどってきた場面が感動的に描かれていました。自分のことを狂人あつかいする人々も含めて幸せにしようとする和井内貞行、こういう人が尊敬する人というべきなんだなあと私は思いました。

投稿: 越村 南 | 2023年5月30日 (火) 02時15分

大変に懐かしい歌ですね。
終戦後あふれ出てきた流行歌群のなかでも、「リンゴの歌」や「かえり船」などとともに、これもよく歌ったのでしょうか、随分たって思い出したときにも歌詞は全然忘れていなかった。 小さい時でも「胸の痛みに、、、」という意味は分かったし、森に囲まれた静かな湖のほとりで心を癒す雰囲気がずいぶんロマンチックに感じられた。 (筑後の辺り湖というのが無いから想像していただけだけど)
静かな雰囲気のメロディーがいいですね。 それを情感たっぷりに歌う高峰三枝子がすばらしかった。 尤もこの歌を唄っている姿というのは知らなかったけれど。 映画の中でよく見た高峰三枝子という人、美しいというだけではなく、何とも言いようのない高貴な雰囲気が素敵だった。
尤もあの頃の女優さんたちは皆品格がありました。 高峰三枝子、高峰秀子、原節子を始め、山根壽子、轟夕起子、小暮実千代、水戸光子、相馬千恵子、宮城千賀子、、、ああ、忘れちゃいけない、入江たか子、折原啓子、「おらあ三太だ」の先生井川邦子、、、みなさま、美貌の中のエレガントな雰囲気、思春期の少年を誘きつけたものでした。

いえ、ここは歌のページでした。 
高峰三枝子の歌は、もう一つ「懐かしのブルース」というのも好きで、よく歌っていた記憶があります。 他に「思い出のボレロ」とか「別れのタンゴ」とかいうのがあったと思いますが、これはメロディーが難しくてあまり口にしなかった。 今思い出したけど「牧場の花嫁さん」という楽しい歌もありました。
ほんとに高峰三枝子さん、素晴らしい方でした。

実は、この歌には奇天烈な替え歌がありました。

 きのう生まれたブタの子が
 ハチにさされて名誉の戦死
 ブタの遺骨はいつ還る
 四月八日の朝還る
 ブタのおっかさんは悲しかろ
   (漢字は私の想定)

何ともバカバカしいというか、笑ってしまう歌ですが、この「湖畔の宿」を思いだす度に必ずこれもくっついてくるので、私自身も何度も歌っていたんでしょうか。 いつも一体どんな人が作ったんだろうか、私のまわりだけのものなのか、もっと広い地域に知られていたのだろうか、どうやって私の耳に入ってきたのだろうかと思ってしまう。 バカバカしいながら、子供が作ったんではないですね。 詩文の筋が通っているし、花祭りの日を持って来るなんて大人が作ったんだろうとは思う。

もう一つ、替え歌があったらしい、

 ランプ引き寄せ シラミとり

これはさすがに品がなさすぎたのか、この一節だけが頭に残っているだけ。 私の想像では、旧兵隊さんが戦地で作ったんではないかと思う。

それにしても、替え歌が出来るくらい、「湖畔の宿」の歌が多くの人々に親しまれていたのでしょうね。
ほんとにいい歌です。

最後の方の品に欠けるお話し、榛名湖のほとりでロマンチックな気分になっている方々、ごめんなさいね。

投稿: 田主丸 | 2023年8月13日 (日) 23時58分

恋の歌には名曲が多いですね。その殆どは失恋の歌ですが、何故でしょう。 
恋が成就して(あなたの島などで)結婚に至る、それは目出度いことでしょうが、結婚したら二人は只の生活者になって、新しい家族・係累のしがらみが生じ、家計に注力し子育てに気を遣う。互いに優しい思いやりがあっても、もはや二人の間の恋の心は失われてしまう。
それに対して失恋は、実は恋が失われるのではない(論理矛盾の言葉です)。あの人を想い、熱い心を注ぎながら、あの人の方では私を果たして思ってくれているのか、その不安や疑心暗鬼。それが交々私の心を乱します。その葛藤で勉強も疎かになり仕事もはかどらなくなる。あの人の一瞥にどんな意味があったのか気になって仕方がない。それが恋。(これは今のSNSなど安易な通信が万能の時勢には成立しません。あなたと同じ後期高齢者のオハナシです。そこにだけ恋が存在し得たのです)。
あの人が何らかの事情で私から遠ざかる(恋の歌のとおり)と、悲しみは深く絶望で暗い気持ちが長く続きます。が、あの人を恨んだり憎んだりはしない(むしろその美点が私の中で徐々に拡大されて理想化が進みさえする)。その失われた恋の傷みを抱きながら、どこかであの人が幸せに生き続けていることを願いつつ、私の胸にはその心が消えないで一生残り続ける。恋は失われた失恋ではなく、逆に恋は続いている。我が心の豊かさとして、まだ恋が命脈を保っている。失恋と言う言葉が矛盾なのです。皆さんの好きな恋の歌はその続いている恋心、心の琴線に触れるうたごころを含んでいるからではありませんか。
結婚は恋愛の墓場なりの格言を受け継ぎ、失恋は恋の継続である、とのフレーズを付け加えます。
 何と、失恋推奨の文章になってしまいました。負け惜しみに聞こえるでしょうが、恋の成就を単純に祝うのは考えものです。
 いやこれはいささか暴論に過ぎましたかな、この欄愛好の皆さま。

投稿: 北団地 | 2023年8月15日 (火) 11時58分

『人間は死を覚悟したらこの様な曲を聴きたくなるのでしょうか。心を癒してくれ、まるで母親が歌ってくれているように思えたのでしょうか』という投稿がございました。私もそのように思います。

一人娘の母は40歳前後で両親を相次いで亡くしました。
その後、2人の息子を立派に育てあげ、趣味の手芸もプロ級の腕前に。努力家でいつも優しく、学友にも慕われ、何でも相談できる母は私の心の支えでした。

数年前からは脚が悪くなっても懸命に生活していました。昨年の暮れにこの曲の詩を何度も、何度も様々なメモに残していたのを最近見つけ、哭泣致しました。繰り返しこの詩を書き続けることで辛い気持ちが少しでも和らいだのかもしれません。兄が同居してはいましたが、私は遠方で家庭を持っていたことを悔やみました。何かもっとそばにいる方法を考えるべきでした。

今年の4月に90歳のお誕生日会で音楽に合わせて両脚でリズムをとって嬉しそうに歌っていた母。

電話で会話する度、なお息子の健康を気遣っていた優しい母。

6月の心地よい夕刻、自室でひとり、そっと旅立ちました。

この曲を聴くたびに涙が、あふれ、止まりません。

投稿: 佐藤(旧姓:松村)珠美の息子 | 2023年9月 8日 (金) 18時48分

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