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2007年9月 9日 (日)

東京行進曲

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:西條八十、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子

1 昔恋しい 銀座の柳
  仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃ ダンサーの涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文(ふみ)書く 人もある
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの娘(こ)の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

《蛇足》 昭和4年(1929)制作の日活映画『東京行進曲』の主題歌。わが国の映画主題歌第一号とされています。
 映画は菊池寛の小説が原作で、若き日の溝口健二が監督し、夏川静江・小杉勇が主演しました。

 1番は日本一の繁華街・銀座、2番はビジネスの中心地・丸の内、3番は大衆娯楽のセンター・浅草、4番は新開地の新宿が舞台で、昭和初期の東京のようすがよくわかる構成になっています。

 江戸時代、丸の内には譜代大名の上屋敷や南北町奉行所、勘定奉行所などがありましたが、明治になって官有地化され、裁判所や警視庁、陸軍用地などが設けられました。
 このうち陸軍用地は、明治23年
(1890)に三菱に払い下げられ、三菱はそこに21棟に及ぶ赤煉瓦のビジネスビルを建てました。以来、今日に至るまで、この一帯はわが国ビジネス界の中心地であり続けています。

 大正12年(1923)、東京駅の前、皇居に至る行幸通りの左側に「丸の内ビルヂング」、通称・丸ビルが落成しました。これが2番の「恋の丸ビル」です。ビルの角が丸かったので丸ビルだ、と思っていた人が多かったといいます。

 建物が老朽化し、手狭になったので、平成14年(2002)に高層ビルに建て替えられました。丸ビルが新しくなったので、新丸ビルと呼ばれていましたが、5年後の平成19年(2007)、行幸通りの右側にあった「新丸の内ビルディング」、通称・新丸ビルが高層ビルに建て直されました。
 そのため、左側の丸ビルは、元通り、ただ丸ビルと呼ばれるようになりました。

 「銀座の柳」については、『夢淡き東京』 に記述があります。

 小田原急行鉄道・小田急線が開通したのは、この歌が発表される2年前、すなわち昭和2年(1927)4月1日のことです。また、この歌の発表と同じ昭和4年(1929)の4月1日には、小田原線の大野と片瀬江ノ島とを結ぶ江ノ島線が開通しました。

 写真は昭和7年(1932)の丸ビルを撮した絵葉書の一部。

(二木紘三)

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コメント

ほんの小さな子供の頃にラジオで聞いのでしょう、身に覚えはないのにこの歌を知っていました。いつも女の人が高い声で歌っていたことがぼんやり浮かびます。吉川潮『流行歌(はやりうた)西條八十物語』で西條八十を知り、歌っていたのが佐藤千夜子という山形天童出身の人であることをMIDI歌声喫茶で知りました。天童は高速を使えば3時間程度。まだ佐藤八千代さんの生家がありました。歌の背景を知ってこの歌がとても好きになりました。当時としてはハイカラな歌詞だったのでしょうし、今聞いても面白い歌詞だと思います。小田急で駆け落ちなんて、子供の時に聞いても分かるわけがないですよね。

投稿: 男塊乗せ台 | 2007年9月18日 (火) 22時43分

私事で申し訳ありません。私は日本生まれでアメリカに昔移住しました。子供の頃私の母から東京行進曲の話をよく聞かされました。その時いつも三菱重工の話が出て、母は三菱重工社長の岡野保次郎様の事を引用して、彼はいつも、オレは心臓に毛が生えていると言うよりも、むしろ心臓なんか無いと言った方がいいだろう、と言っていたと語り、八郎も米国の荒波にもまれてくれば、彼みたく強い人間になれるだろう、と私に言い聞かせていました。茨城県の私の親戚が岡野家に嫁いだそうです。子供心にどうして東京行進曲と三菱がいつも一緒なのだろうと不思議に思っていました。その母も今は100歳近くなり東京の郊外の保谷市と云う所にいます。その母も今は相当もうろくしており、私によく言っていた事はすっかり忘れております。その為、子供の頃の謎を解こうと思い切って東京行進曲を検索しましたら本欄がありました。曲の2番の説明から母が言っていた東京行進曲と三菱の関係が今解りました。これからは私の親戚が嫁いだ岡野家のお方が解れば物凄く嬉しいのですが、岡野家のどなた様かがこのメールをご覧にならない限りそれは不可能な事と残念にも思います。米国ラスベガスの自宅より。

投稿: 櫻井ピーター八郎 | 2008年5月25日 (日) 09時06分

 昭和初期の、レトロな東京の街並み紹介のような軽快な歌です。(その後帝都はおろか日本全体が、あらぬ方向に「行進」しようなど、その頃は誰も知る由もなかったのでしょう。)
                       *
   ジャズで踊って リキュルで更けて
   明けりゃ ダンサーの涙雨
 こんなシャレた西條八十の歌詞に、今の東京の繁華街のどこかでも繰り広げられていそうな、ハイカラな情趣が感じられて。かと思うと、
   ラッシュアワーに 拾った薔薇を
   せめてあの娘の 思い出に
などという、思わずグッとくるようなフレーズもあったりして。
   シネマ見ましょか お茶のみましょか
   いっそ小田急で 逃げましょうか
 おやおや。まるでハチャメチャ、破天荒ですね。小田急で、どこまで逃げるおつもりですか?小田原?箱根?湯河原?いえその前に、タイムスリップして今の本厚木駅で降りてください。この私めがお二人さんを、七沢温泉か飯山温泉にご案内致しましょう。
(以上、リキュルで酔っ払ったようなコメントで申し訳ございません。)

投稿: 大場光太郎 | 2008年8月 1日 (金) 18時56分

管理人様
 「天国に結ぶ恋」への小生のコメントに態々お答え有り難うございます。折を見てブログを覗かせって戴こうかと思います。
 以下は旧聞です。「いっそ小田急で逃げましょか」を大場光太郎様は「ハチャメチャ、破天荒」と評されましたが、当時、小田急電鉄は製作者に抗議して「当社はそんなふしだらな鉄道ではない」と拳を振り上げてみたものの、この歌のお蔭で利用客がぐんと増えて、振り上げた拳の恰好が付かなかったそうです。
 この辺の事情は、小田急線鶴巻温泉駅前に以前あった旅館「光鶴園」(小田急線と同時期に開業)のひょうきんなご亭主(愛知県の田県神社や大県神社のご神体に類するものの収集家)に伺って置けばよかったと、今にして思う次第です。

投稿: 槃特の呟き | 2008年8月 9日 (土) 23時41分

私は60年来、この歌を聞くたび、「今もあんまり変わらないなあ」と思います。歌の中に出てくる銀座、丸ビル、浅草、新宿は、今でも繁華街です。ジャズ(軽快な洋曲と置き換えれば)やリキュル(酒)は廃れません。ラッシュアワー、地下鉄、バスは今でも皆通勤に使っています。今でも恋人達のデートのとき、シネマ(映画)、お茶のみ(コーヒーショップ)は定番です。

これが昭和4年に作られたなんて、昔も今も、人間のやることは基本的にはあまり変わらないんですね。

投稿: 吟二 | 2009年1月30日 (金) 21時29分

 歌詞の中の「いっそ小田急で・・・」という文句ですが別の説もあるようです。

 私が知っていることは、小田急は設立当初の名称が「小田原急行鉄道株式会社」でしたが、この歌の歌詞の構成上、作詞者の西条八十が「小田急」と書いたところ、大ヒット。

 会社はでたらめな短縮された名称は困ると抗議したそうですが、歌の大流行で小田急、小田急と普通に呼ばれるようになり、正式名を呼ぶ人が居なくなったので会社側も黙っているしかなかったようです。

 その後、1941年3月に、親会社の鬼怒川水力電気株式会社に合併され、それと同時に水力電気の名称を、人口に膾炙した「小田急電鉄株式会社」に改めたということです。

投稿: 高橋 | 2009年11月25日 (水) 16時17分

お芝居で、佐藤千夜子さんの生涯を描いた「あゝ東京行進曲」という作品をやります。
楽しいコメント見れてよかったです。

投稿: みなみ | 2011年2月25日 (金) 18時29分

銀座の柳について調べていたら≪東京行進曲≫に行き当たりました。その結果
「この曲がヒットしたので、関東大震災で焼失した銀座の柳の二代目を植樹したそうです。
 さらに空襲で焼失した二代目に代わり戦後三代目を植樹、その三代目も昭和43年衰弱のため撤去され、平成に入り銀座の柳復活プロジェクトが行われた。」
 今銀座の柳はどうなっているのですか?それと昭和43年ににヒットしたのが≪たそがれの銀座≫
ですが、ヤナギの撤去とどちらが先なのですかね?

投稿: 宇治のヒカルゲンジ | 2012年6月 5日 (火) 18時17分

櫻井ピーター八郎様へ/岡野保次郎の孫である岡野公彦より

初めてお便りいたします。
貴君さまの2008年5月25日のブログを読ませていただきました。岡野保次郎を探しておられる方がいらっしゃるので、連絡を取ってみては如何と、1週間ほど前に、小生の友人が知らせてくれました。

岡野保次郎は茨城県の赤塚の出身ですが、本家の方(岡野保次郎の甥)も亡くなられましたので、孫の私も、茨城の本家とは、まったく、行き来がなくなりました。それゆえ、どなたが御親類の方かわかりませんが、岡野保次郎は次男でしたので、たぶん、御親類の方は、岡野保次郎の兄にとつがれたのではないかと思います。
岡野保次郎は豪放磊落な人でした。生前は、赤塚の若い人たちが、何人も自宅にたむろして、ずっと、その人たちの面倒を見ておりました。また、三菱電機の会長をされた高杉晋一さまとは、土浦の旧制高校の同期で、柔道部で同じ釜の飯を食った仲間でしたが、生涯、無二の親友でおりました。二人とも、勲一等瑞宝章を叙勲しております。
同じクラスから、二人も勲一等瑞宝章を叙勲するのは、すごいことと思います。
なにかお問い合わせありましたら、調べて、御連絡するように致します。
敬具。

投稿: 岡野 公彦 | 2013年11月 1日 (金) 21時34分

岡野公彦様 土浦の旧制高校の同期とありますが 水戸の間違いではありませんか

投稿: 夢見る男 | 2013年11月 3日 (日) 16時20分

半藤一利の「昭和史」を読んでいたところ、この歌が作られた時のことが出ていました。
雑誌「キング」に連載されていた菊池寛の小説が大変に評判となり、日活が映画化しました。 日活では映画主題歌第一号をもくろみ、作詞を詩人として知られていた、早稲田大学仏文科教授西條八十に依頼、西條八十は快く引き受け、これまた著名な作曲家中山晋平が曲を付け、かくして天下の名曲が出来上がったのだそうです。

この第4連の歌詞は、当初
  「長い髪して マルクスボーイ
   今日も抱える赤い恋、、、」

だったのだそうですが、レコード会社のヴィクターが官権を恐れ、「マルクスボーイ」や「赤い恋」は困りますとして変更を依頼、西條八十は大いに不満でしたが、やむなく現在のものになったのだそうです。

昭和初期は大変な不況が続いたころ、「大学は出たけれど」の時代で、マルクス主義に傾倒する人が増大し、マルクスボーイが続出していた社会世相を表すお話ですね。
(私の父もその頃、かなり赤っぽい文学青年だったよし)

それはそれとして、この歌ほんとに楽しい曲ですね。 上京してから何とか東京人になろうとしてた頃よく唄ったものでした。

投稿: 田主丸 | 2025年2月18日 (火) 21時30分

上述のコメントに少し加筆します。

元の歌詞の、「赤い恋」というのは、当時翻訳されたソ連のコロンタイ女史の書物で、髪の長い、青白い深刻な顔のマルクスボーイ達がいつも大事に胸に抱えていたのだそうです。

投稿: 田主丸 | 2025年2月18日 (火) 21時49分

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