東京ラプソディ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎
1 花咲き 花散る宵も 2 現(うつつ)に夢見る君の 3 明けても暮れても歌う 4 夜更けにひととき寄せて 5 花咲く都に住んで |
《蛇足》 昭和11年(1936)のヒット曲。
このころ、東京の重心は今よりかなり東にあり、銀座や浅草、神田が繁華街の代表格で、新宿が新興の盛り場として活況を呈し始めたところでした。
渋谷や池袋は、まだほとんど郊外といった感じで、流行歌の対象にならず、ようやく歌に歌われるようになったのは、昭和30年代に入ってからです(『東京の人』など)。
上の絵は昭和12、3年ごろの銀座を描いた絵葉書。柳並木がまだありました。
(二木紘三)
コメント
出勤途上、車の中でマンドリンによる古賀メロディをききます。ちょっと憂鬱な朝はこの曲を聴くと心が晴れ元気になる自分です。
投稿: 越野利栄 | 2007年9月14日 (金) 19時43分
蛇足には時代背景が昭和11年にヒット、あるいは昭和30年代に入ってからよく唄われる様になったと有りますが・・・
私が聞き覚えたのは戦後間もなくの事でした。
父が作った当時の自作電蓄、ピックアップは今のもの(最近はもうこれも見ることがなくなった)の様な細い物じゃなく、ヘッドは現在のデジカメ位の大きさで、重さはデジカメより重いくらいの物でした。
短い鉄の針を一曲ごとに差し替えて使用する物です。
その重いピックアップを、歌を刻んだ盤に乗せ、早いスピ-ドで回し、曲を聴きます。
その、今では考えられないような、たいそうな装置からこの歌が聞こえて来ていたのを思い出します。
今、この曲を聴いていても、なんだか、その昔の装置から音が出てるような錯覚さえ覚えるから不思議です。
投稿: Hikoさん | 2008年8月 2日 (土) 21時51分
今でも流行りそうな気がします。
この歌大好きです!
投稿: たか | 2009年1月18日 (日) 01時55分
長野県の岡谷マンドリンクラブの定期演奏会で、東京ラプソディ
と殆ど同じ曲のスペイン民謡が演奏されました、司会者も言っていましたが、これの盗作かも知れませんが、古賀政男が歌謡曲に取り入れた感性はさすがです、大ヒットでした。
投稿: 月の輪熊 | 2010年8月19日 (木) 12時54分
描写音楽に「森の水車」「しゃぼん玉」・・等がありますが、
「のぞかれた花嫁」は、古賀政雄 作曲になっていますし、
「韓国歌謡全集」のサイトは似ている曲が沢山あります。
投稿: なち | 2010年8月19日 (木) 16時32分
初めまして。
昭和40年生まれです。
高校生の頃から
「藤山一郎先生」のファンでした。
投稿: お園 | 2011年5月17日 (火) 21時36分
東京浅草界隈の路上で懐かしい昭和歌謡を歌い演奏している「東京大衆歌謡楽団」は、東海林太郎風の歌い手と、アコーデオン・ウッドベースなどで良い雰囲気をだしています。
東京スカイツリー観光のついでに浅草あたりを散策する時間がありましたら、隅田川に架かる吾妻橋(水上バス乗り場がある赤色の橋)のたもとに行くと、運が良ければ「東京ラプソデー」とか「誰か故郷を想わざる」などの古き良き昭和歌謡が聴けます。
投稿: かんこどり | 2012年4月26日 (木) 18時24分
花咲き 花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
戦前の銀座のティールーム、二人の飲み物は、何だったのでしょう?
戦前の明るい雰囲気って、、、この後の暗い数年間とその後の復興。。
物心ついた頃のお年寄りは、皆さん痩せておられた。その印象が強くて、うまく想像できません。
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
なんと素敵な時代があったのでしょう。東京が、夢のパラダイスだったとは。。
投稿: taka-shiz | 2014年9月 4日 (木) 10時43分
かんこどり様
2012年4月26日、今から6年前「東京大衆歌謡楽団」を
ご紹介されていたのですね。ぼ~つとして気がつかずに失礼しました。コメントをじっくり読ませて頂きました。
>東京浅草界隈の路上で懐かしい昭和歌謡を歌い演奏している「東京大衆歌謡楽団」は、東海林太郎風の歌い手と、アコーデオン・ウッドベースなどで良い雰囲気をだしています。
3年ぐらい前、吾妻橋のたもとで東海林太郎風の姿勢よくキチッとした身なりで歌われている長身の男性を見かけたことがありました。その方が高島孝太郎さんだったんですね。
先週「お富さん」で一章さん、焼酎さん、konohaさんが「東京大衆歌謡楽団」を応援されていることを知りました。
2018年5月18日に「お江戸日本橋亭」に入り「高島4兄弟」の演奏・唄を楽しみました。100人弱の会場は「かんこどり様」の頃からのファンと思われる方で満席でした。
高島四兄弟は「東京ラプソディ」を懐かしく軽快なリズムと唄で 十分満足させてくれました。感謝しています。
6月2日(土)「大阪狭山市文化会館」、3日(日)「京都テルサホール」、7日(木)「東海道かわさき宿交流館」、など6回演奏が予定されているようです。
投稿: けん | 2018年5月21日 (月) 09時03分
「東京ラプソディ」は、私が生まれた頃(1年前)世に出たこともあり、親近感のある愛唱歌です。各番の歌詞の末尾が、♪夢のパラダイスよ 花の東京♪とあることから、短調ではあるものの、明るく、楽しく、元気よく歌える、”東京”讃歌と言えましょう。
このたび、「東京ラプソディ」のブログを閲覧しているうちに、歌詞が5番まであることに気づきました。これまで、5番の歌詞で歌われるのを聴いた記憶がなく、改めて、藤山一郎さんが歌う「東京ラプソディ」をCDで聴いてみると、やはり、4番まででした。念のため、手許の歌謡曲の本「昭和の歌謡曲1」(新興楽譜出版社 S46)を調べたところ、こちらも、このブログと同じく、歌詞は5番まで載っていました。背景には、何らかの理由・経緯があるのでしょう。
それはさておき、、歌詞5番を眺めていましたら、そのなかに、”東京の屋根の下”という言葉があることにに気づき、はっとしました。
私の大好きな愛唱歌「東京の屋根の下」(佐伯孝夫 作詞、服部良一 作曲、灰田勝彦 唄 S23)と同じ文言です。「東京の屋根の下」も、各歌詞の末尾が♪二人の夢の 東京♪、あるいは、♪楽しい夢の 東京♪とあることから、長調の、明るく、楽しく、元気よく歌える、”東京”讃歌と言えましょう。
このように、「東京ラプソディ」と「東京の屋根の下」は、時を隔てて、曲想は大分異なるものの、”東京の屋根の下”という言葉で繋がっている、”東京”讃歌であると思うと、新たな発見をしたようで、嬉しい気分になります。
ついでながら、”東京の屋根の下”という言葉には慣れ親しんでいて、何の違和感もありませんが、”大阪の屋根の下”や”京都の屋根の下”という言葉は聴いたことがないようで、何やら興味深く感じる次第です。
投稿: yasushi | 2018年6月 1日 (金) 16時21分
”大阪の屋根の下”や”京都の屋根の下”には、思わず笑っちゃいましたが、悔しいけれど 確かに「東京の屋根の下」
は、スマートでシックな感じがしますが、件の、”大阪のー”となると、聞き慣れてないこともありますが、どことなく、ばたくさい感じがしますね。
この曲は、いわば「東京行進曲」のオマージュだとも言われていますが・・・さすがに古賀政男! もしかすると、それを越えているかも知れませんね。
作曲家 古賀政男の脳中は、昭和4年に出た中山晋平の「東京行進曲」がいつも浮かんでいて、いつかそれ以上の曲をというファイトに燃えていたのです。ここで東京をテーマにしたした都会風な洗練された、軽快なメロデイーを作ろうと思い立ち、神宮外苑を廻りながら想を練ったのでした。 そのころの外苑は一番スマートな地域だったのです。
そうして出来上がった曲を、門田ゆたか に詩をつけさせさせたのです。出来た歌は、「東京ラプソデイー」と名付けられ 題名からしてモダンでスマートなものでした。・・・
(日本コロンビア 懐かしの歌声 魅力のすべて=第2集より)
投稿: あこがれ | 2018年6月 2日 (土) 08時42分
私は京都(1年)、大阪(7年)、横浜(12年)に住み、今は東京(20年)に住んでいます。
そうですね、〇〇の屋根の下と言えるのは東京だけですね。
逆に〇〇人、と呼ばれてしっくりくるのは京都人、大阪人、横浜人ですね。私はどう見ても自分を東京人とは思えません。
東京は大きすぎるからでしょうか。いまだに”東京の屋根の下”は、仮の雨宿り、って意識があります。
子供の頃から東京にあこがれていました。そのことを
「丘にのぼりて」でコメントしました。
念願かなって退職は東京駅を見下ろせるビルのオフィスでした。
「男の純情」でコメントしました。
小学校時代、セルロイドの下敷きに東京タワー、羽田空港、上野動物園のモノレールなどがプリントされていたことが思い出されます。そんなことも東京への憧れをそそりました。
小学校6年生のときだったかと思うのですが・・・・
テストで”電気で動くものを書け”と言うテストがありました。私はその一つとして”モノレール”を挙げました。
返された採点はXでした。
先生に、なぜ?、と問うたところ、
先生は「モノレール」って何だ、と聞きました。
私はモノレールについて説明したところ、
先生は、「そんな物ない」と言いました。
*注;懸垂式モノレールは昭和32年、私が小学校3年の時上野動物園で開業しました。
私「上野動物園にある」
先生「自分で見たのか」
私「本に書いてある」
先生「自分で見たこともないのに知った風に言うな!」
と先生は私を叱りました。
私は、悔しくて、早く大人になって東京に行きたい、と思ったものです。
投稿: yoko | 2018年6月 2日 (土) 11時20分
あこがれ様、yoko様の”〇○の屋根の下”論などを楽しく読ませて頂きました。
あこがれ様の「東京ラプソディ」誕生秘話、勉強になりました。yoko様の小学生時代の思い出を話で、小学生高学年のときに、休み時間に廊下で、「青春のパラダイス」を口遊んでいて、先生から”流行歌を歌うとは怪しからん”とお叱りを受けたことを思い出しました。
「東京ラプソディ」は、古き良き時代の代表的歌謡曲の一つですね。
投稿: yasushi | 2018年6月 2日 (土) 13時56分
皆様こんにちは。当時の先生方は「あれするな。これするな。」は大方でした。
6年生当時、学校近くの店での買い食いが問題になり、「休み時間に出てはいけない。」と禁止されました。
投稿: 今でも青春 | 2018年6月 2日 (土) 14時43分
yoko様の小学6年時の苦い思い出、同情を禁じ得ません。
京都人、大阪人、横浜人など、使い方は人様々なのでしょう。私は「横浜人」の代わりに「浜っ子」が使いやすいです。本貫の地は東京と答えると、それじゃ江戸っ子ですねと言われますが、今では東京に江戸子など一人もいないでしょう、居たら150歳を超えていますから、江戸っ子じゃありません、東京っ子ですと答えることにしています。
投稿: 槃特の呟き | 2018年6月 2日 (土) 23時59分
北関東在住ですが、都内の道路(日光街道、首都高、第二京浜・・・)は、うた物語「夜霧の第二国道」に投稿した通り急用(知り合いの通夜など)で利用する程度で東京は近い割に遠い?所です。
yoko様のコメント>しっくりくるのは京都人、大阪人、横浜人・・・に関連??した話ですが、都道府県民性はあるようです(参考:矢野新一著「県民性」(河出書房新社)、樋口清之「出身県別日本人の性格と行動パターン」(講談社))。
投稿: 焼酎 | 2018年6月 3日 (日) 08時54分
二木オケの力強い演奏と共に、皆様の素敵なコメントを拝読しながらいくつかのことが頭に浮かんでまいりました。
先月の東京大衆歌謡楽団の佐賀公演で、アンコールの一曲として歌われたのがこの曲「東京ラプソディ」でした。
会場を巻き込んだ長男・孝太郎の力のこもった声量に圧倒されたところでした。
また、この曲を聴く度に懐かしく想い出されるのが、生まれが東京(当時の荻窪・現在、三鷹市)で、昭和20年の東京大空襲の後、両親の故郷である佐賀に移り住みましたが、やはり都会的な町並み雰囲気には憧れます。
この曲を作曲された古賀政男の生誕地は、隣県の福岡県大川市で時折、「古賀政男記念館」に出向いています。
それにしても、二木先生の演奏の見事なアレンジと共に、リズムセクションでの、ドラム・シンバルの響きにはぐいぐいと引き付けられます。
ありがとうございます。
今後とも素敵な演奏をお待ちいたしております。
投稿: 一章 | 2018年6月 3日 (日) 10時54分
長崎のsitaruです。「東京ラプソディ」は、子供の頃から、時々ラジオで流れていて、何となく知っていましたが、大人になって、戦前の歌だと知り、戦後生まれの私は、戦前の歌は軍歌中心とばかり思い込んでいましたので、こんなに明るく楽しい歌があったんだと感動したことを覚えています。また、後には、思った以上に外来語が使われているなと思いました。
地方の田舎の人間は、東京のことをどう思っていたのか、興味をお持ちの方もいらっしゃるかも知れません。成長するにつれ、憧れが強くなるのが一般的かも知れませんが、私の場合は少し違っていました。それに関して、今も覚えているエピソードがあります。小学6年生の時、夏休みに学校の運動場で遊んでいたら、既に中学校を卒業したらしい何人かの男子が集まって、東京の話をしているのを耳にしたのです。その時、3月に中学校を卒業して、集団就職で東京に行ったという子が「ぼくがさあ」と言うのを確かに聞いたのです。私は、とたんにある種の違和感を覚えました。長崎でも、東京弁の「~さあ」に近い「~さ」を使いますが、用法がかなり違います(沖縄方言にも「~さ」があることは、NHKの朝ドラなどの影響で、よく知られるようになっているようです)。「~さ」はその時、あまり気にならなかったのですが、「ぼく」には違和感がありました。長崎を含め、九州の特に西北部では、「ぼく」に相当することばは、「おい」(「俺」の変化)で、「ぼく」は、先生と面と向かって話す時や、作文を書く時にしか使わない、よそ行きのことばで、日常会話では「おい」しか使いません。その時、わずか5か月程度で、東京弁に染まってしまうものか、あるいはわざと東京弁を使って長崎の人間を見下すふりをしているんじゃないかと思いました。
高校の修学旅行は、前にも書いたように関西でしたし、東京近辺にも親類はいなかったので、とうとう成人するまで、東京へは行かずじまいでした。初めて東京へ行ったのは24歳の時でした。その時、私はまだ学生でしたが、日本育英会の奨学金を受けることが出来、私立高校の非常勤もさせてもらっていましたので、少し生活の余裕が出来、念願のステレオコンポを買ったり、書籍代に月5万円くらい使える状態になっていました。その頃も、東京への憧れはあまり持っておらず、指導教官の先生がお二人とも京都大学のご出身でしたので、なんとなく京都に憧れていたのです。初めて東京に行ってみたいと思ったのは、二つの目的が出来たからです。その一つは、以前から好きだった若尾文子さん主演の舞台劇「婦系図」(泉鏡花原作、江守徹さん共演)を見に行こうと思い立ったこと、もう一つは、その頃東京からは、新潟行きの夜行列車が出ていることを知って、川端康成の『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」の世界を実体験しようと思ったのです。幸い若尾さんの舞台と新潟の積雪が重なった1979年2月に実行に移すことが出来ました。周囲の人には、国会図書館で調べものをして来るという尤もらしい理由を言っておきました。行きは夜行列車だったと思います。東京に朝早く着き、若尾さんの公演は夕方からだったので、暇つぶしに、東京見物をすることにしました。まず東京タワーに上り、皇居にも行って二重橋近くから旧江戸城の一部を見ました。地方からの典型的なお上りさんの見物パターンだなと自分でも思いました。浅草にも行きたかったのですが、時間の都合で割愛し、国会議事堂へ行って、正面入り口の幅広い門扉の傍に立っていた守衛さんに、「国会図書館はどっちの方向ですか」と聞きました。実は下調べで分かっていたのですが、日本一の守衛さんは、丁寧に「そこなら、すぐ右隣りですよ」と教えてくれました。一応、国会図書館の中にも入ったのですが、特に見たい本を決めては来なかったので、巨大な内部を眺めただけで出て来ました。夕方近く、いよいよ若尾さんの姿を拝めると思い、有楽町近くの帝国劇場へ向かいました。当日券で、一階の一番後ろの最も安い席のチケットを購入し、肉眼では良く見えないだろうと思い、小さなオペラグラスも買って入場しました。若尾さんばかりオペラグラスで追っていましたので、劇の内容や他の出演者のことはほとんど覚えていません。若尾さんもテレビで見るようなクローズアップの顔はよく見えなかったのですが、白塗りの厚い化粧のようでした。ただ、そのお声だけは、テレビで見る時と全く同じで、それだけでも来た甲斐があったと思いました。終わって、上野駅まで電車で向かい、新潟行きの夜行列車に乗りました。途中は景色も見えず、退屈だったのですが、前橋を過ぎる頃から、だんだん緊張して来ました。県境の清水トンネル(新清水トンネル?)は、さすがに長いなと感じました。トンネルを出たのは、朝6時台だったでしょうか、まだ薄暗かったのですが、目の前に広がったのは一面の銀世界で、まさに「雪国」の描写そのままでした。トンネルに入る前は、全く雪は積もっていなかったので、この時は、さすがに感動しました。新潟駅に着くと、すぐ折り返しの列車に乗り、東京へ戻りました。帰りの列車までにはまだ時間があったので、神田の古本屋街に行ってみました。これ以後、何度も訪ねることになる街でしたが、初めて見た時は、圧倒されて、ただ何軒かの店に入っただけで、何も買えませんでした。こうして、私の初めての東京体験は終わりました。
投稿: sitaru | 2020年11月26日 (木) 12時46分
私は、近くの公民館で月に1回開かれるアコーディオンによる懐かしの童謡や抒情歌などを歌う会に何年も行っています。
女性が圧倒的に多い中で、ほとんど毎回来る高齢の男性がいます。彼がいると、誰かが毎回東京ラプソディをリクエストします。するとアコーディオンの先生が彼の名を呼んで歌ってくれと言います。彼の歌は上手くありませんが大きな声で楽しそうに歌います。するとみんなは大拍手します。彼は現在米寿になりましたが、みんな彼が来ないと心配します。
投稿: 吟二 | 2023年4月14日 (金) 21時26分
今の流行歌は1年、せいぜい長くても2年くらいで過去の歌になりますが、昔の流行歌は寿命が長かったですね。私は大東亜戦争が勃発した年の生まれですが、戦前の歌はかなり知っています。それを歌うのは10歳くらいからだと思いますが、その当時でもまだまだ流行している戦前の歌は多かったです。東京ラプソディもそうですね。同じ藤山一郎の東京行進曲のほかに、花言葉の唄、東海林太郎の野崎小唄、赤城の子守歌、高田浩吉の大江戸出世小唄、明治一代女、並木の雨、東京音頭、島の娘、影を慕いて、酒は涙か溜め息か、波浮の港、籠の鳥、船頭小唄、琵琶湖周航の歌等々、挙げればきりがなく戦前の名曲は戦後10年以上たっていても流行っていたのです。大正時代の金色夜叉やカチューシャの唄だってまだ現役でした。私は小学校の時から家人が留守だと流行歌を歌っていました。歌はその当時のことを思い出させるよすがになりますね。だから二木先生のこのサイトは大好きです。
投稿: 吟二 | 2023年11月19日 (日) 23時25分