桜井の訣別(わかれ)
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 青葉茂れる桜井の 2 正成(まさしげ)涙を打ち払い 3 父上いかにのたもうも 4 汝(いまし)をここより帰さんは 5 この一刀(ひとふり)は往(いに)し年 6 ともに見送り 見返りて |
《蛇足》 明治32年(1899)発表。
10万の大軍を率いて九州から東上してきた足利尊氏を迎え撃つため、楠木正成は必敗を覚悟して兵庫(今の神戸)に出陣しました。
湊川(みなとがわ)の戦いを前にして、正成は、桜井の駅で、11歳の愛息・正行に郷里に帰るように命じます。南北朝時代の動乱を記した『太平記』のなかの名場面の1つです。
正成は湊川で壮烈な戦死を遂げ、正行ものちに、足利の武将・高師直(こうのもろなお)と四條畷(しじょうなわて)で戦って討ち死にしました。
楠木正成は、戦前、忠君愛国のシンボルとして祭り上げられた反動で、戦後は軽視されるようになりました。しかし、志操の堅さと軍事的才能(ただし戦術的才能ですが)では、のちの真田昌幸・幸村父子とともに、わが国屈指の人物といっていいと思います。
上の絵は松岡映丘による『楠公訣別之図』。
(二木紘三)
コメント
懐かしい気分になれた。
投稿: モリ ノブミ | 2007年9月 3日 (月) 10時21分
紹介してもらった高橋さんに感謝。
投稿: mori nobumi | 2007年9月 3日 (月) 10時27分
二木先生 お久しぶりです。
コメントするのが、久しぶりということで、毎日のようにアクセスはさせていただき泣かせていただいております。先生のページほど、小生にとり刺激のあるサイトはありません。心から感謝しております。有難うございます。
今日も泣きながら書かせていただいております。周りに暗いことの多いこのごろ、この曲をきき蛇足・コメントを読めば必ずこうなるとわかっていながらーーまた同じことを繰り返しています。しかし、涙は再起・元気の源かもしれません。泣くことにより反省にもつながり、自分より不幸な事実にも思い当たりして、混乱した思考が整理され落ち着いてくるのでしょうか。今日はサーカスの唄からの涙でした。歯科医のK先生の思い出で祇園の「静」で歌ったのは、そう 青葉の笛 と大楠公だったなーーーと。
小生、神戸の生まれで須磨寺は、子供のころから祖父母につれられお大師さんの度によく行ったお寺ーーちなみに 祖父母はこの寺に分骨させていただいています。
もちろん別名 楠公さんとして親しまれている湊川神社は
何度も行きましたが、僕の思い出は神社の近くに湊川公園があり、祖父につれられ何度か、相撲の巡業にいったことです。丁度 千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦 が横綱になったか、なる少し前ぐらいの時代だったのでしょうか??
楠木氏の歴史もほんとうに残酷ですね。何世代にも亘って逆賊足利との死闘を続けた。時代といえばそれまでですが、後醍醐天皇の数多い皇子たちのほんの数人しか天寿をまっとうしていないことと同様で、いいようのない辛さが残ります。今の世が、それぞれ生をうけたものがえこひいきなく暮らせ、少しでも生に対し満足して死んでゆく世でありたいものです。
投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年3月16日 (日) 19時51分
能勢の赤ひげ 様
私は『サーカスの唄』で、失礼ながら、先生の後にコメントさせていただいた者です。
私も楠木正成は、大好きな歴史上の人物の一人です。中国では、三国時代の蜀の諸葛亮(孔明)。どちらも、忠烈無比で高潔な人物です。
中学3年の時、吉川英治の『私本太平記』を読了しました。今ではストーリーなど忘れてしまいましたが、桜井の楠木親子の訣れ、湊川での正成の壮烈な討ち死に。涙をぼろぼろ流しながら読みました。
今この『桜井の訣れ』を、やはり涙を流しながら聴いております。
今、楠木正成のような至誠の人いずこ。いえ、先生。私ら一人ひとりが、大楠公の至誠の志しの一分たりとも、持たなければならないのですね。
(私の出番ではありませんが、つい感極まり、コメントさせていただきました。)
投稿: 大場光太郎 | 2008年3月16日 (日) 23時57分
大場 光太郎様
小生の、独りよがりの練れていない書き込みにお返事いただき、感激やら恥ずかしさやらで、涙涙でインターネットに向かっております。このサイトで過ごす時間が、自分にとりとても大切な時間であることは間違いないことなのです。いや、それ以上のもの、禅のいう無の境地、スピリチャル的には瞑想でえられるのと同じ精神状態になるともいえます。もちろん、好む曲がそうさせるのかもしれないですね。(僕をよく知る人なら、何をいうか単なる逃避だろうと一笑に付されるかもしれませんが)
大場様とは、同じ年か僕のほうが一つ二つ上ということになるのでしょうか??僕で団塊の世代一期生です。ねずみの早生まれ---中三の時、受験直前の一月に虫垂炎(盲腸)で入院。その間に、吉川栄治の新平家物語を読んだことを覚えています。本の名こそ違え、すごい近しさと親しさがこみあげてきました。今後ともよろしくお願いいたします。
「私ら一人ひとりが、大楠公の至誠の志しの一分たりとも、持たなければならないのですね。」まったく同感です。何とか、個々の人々が私利私欲をすてて、もっと住みやすい万人にやさしい日本に、世界にしていきたいものですね。
大場様 ありがとうございました。
二木先生へ
私的な手紙のやりとりのようになってしまい、申し訳ございませんでした。お詫びいたします。
追記 三百六十五夜での大場様への「君」にまつわる記述、心から感心し読ませていただきました。日本語の深さ良さを改めて認識させられました。ありがとうございました。
投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年3月18日 (火) 22時37分
能勢の赤ひげ 様
(これまた私信で、皆様申し訳ございません。)
私の先のお便りは、本当に感極まって突発的に記したもので、先生のご返信など全く気にしておりませんでした。この度は本当に恐縮に存じます。
先生も「団塊の世代」でしたか。失礼ながら、今までのコメントから、私よりもだいぶ年長の方かなと、勝手に思い込んでおりましたが。ちなみに私は、昭和24年4月生まれの丑年です。ですから、先生のほうが1年余年長でいらっしゃることは間違いございませんが。
私も二木先生の『うた物語』へのとらえ方は、先生と全く同じです。「禅の無の境地」「瞑想」と同一次元の、至福、平安、安らぎ…を求めて。バブル崩壊以後ようやく、一般の方々も「スピリチュアルなもの」に関心が向き始めたことは大変喜ばしいことと、私個人としては思っております。
なお吉川英治は、私の場合、中1で『宮本武蔵』中2で『三国志』そして中3で『私本太平記』の順で読みました。『新平家物語』は中2でトライしましたが、「諸行無常」を理解できる成熟度になく、途中で止めました。
ところで、この『桜井の訣別』。皆様方にもっと聴いて、深く味わっていただきたい歌ですね。それはともかく、この歌を今後の私の「人生の応援歌」にしていきたいと思います。そう決めました。この歌は、「己れの至誠度」が、今那辺にあるのかを知る上で、鏡となってくれる格好の歌ですから。
(二木先生。あと一曲。「星落秋風五丈原」があれば、なお結構なのですが…。いえ、無理にとは申しません。)
私信のまた私信になると、他の皆様のご迷惑でしょうから、お返事は結構です。その代わり、またどれかの歌に、先生の味わい深いコメントをお寄せください。団塊の先輩の文、興味深く読ませていただきたいと存じます。その時また、お便りさしあげるかもしれません。
先生。ご自身のお体大切に。そのうえで、「仁術」にご精励下さい。先生のような、私心なきスピリチュアルな「赤ひげ」を得た、能勢の方々は本当に幸せです。
こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。それでは失礼致します。
投稿: 大場光太郎 | 2008年3月19日 (水) 01時29分
桜井の別れは、戦前小学校の学芸会(文化祭ではありません)5年生クラス上演の定番でした。正成より正行になりたかったのですが、美少女の良く勉強の出来る子が正行役、私などは楠木の台詞もない並び郎党役でした。
終わりの「共に見返り見送りて、別れを惜しむ折からに 又も降りくる五月雨の」で正成父子の正成が見ると、正行が前を、正行が振り返ると正成が後ろを見ているという名場面に涙をそそるPTAじゃない保護者会の父母たちがいました。
二木先生 思い出をありがとうございます。76歳。
投稿: 涙 | 2008年6月 3日 (火) 17時40分
1951年に学校で家にある絵本を持ってきたら、先生が、順繰りに読んでくれるとの事で、楠 正行の絵本を持って行きました。
ところが読んでもらえず、返されてしまったのです。子供ですからわけもわかりませんでした。今から思うと、GHQの指導で、忠君愛国の考えかたが、いけなかったのでしょう。この歌を聞くとそのことを思いだします。
投稿: 昔の少女 | 2008年9月26日 (金) 16時34分
わたしが国民学校3年生のとき、クラスのY君のお姉さん(5年生)が学芸会で楠木正成役に扮しました。“桜井の訣れ”の名場面では、彼女の凛々しい若武者ぶりに胸がキュンとなりました。わたしの遠い、遠い初恋の思い出です。この歌を聴くと、当時を思い起こして今でも胸がときめきます。
蛇足ですが、今でも足利尊氏を“逆賊”と思っている方がいますが、日本史を偏りなく見た場合この表現は当たらないと思います。建武の新政府(後醍醐天皇側)が歴史の歯車を逆行させようとしたのですから。
投稿: ひろし | 2008年9月28日 (日) 21時45分
昨年、桜井の別れの公園(場所)に行き、この歌の歌詞をかみしめてきました。子供の時から、講談社の絵本「楠木正成」を見て育ちましたので、特に、感慨無量でした。修身の本に出てきましたね。今も良く覚えています。七たび生まれ変わって賊を滅ぼすは、今は無き母から、幼稚園の時からよく聞きました。
投稿: 西山 利寿 | 2009年2月 6日 (金) 16時40分
昔の少女殿のコメントを見て、戦後の小学校1期生の私も思い出しました。3、4年のころ、担任の先生が授業の合間に横道にそれては、後から思えば立川文庫らしい戦記物語を熱演してくれました。
さすがに歌は教わらなかったのですが、良くしたもので、勉強は並みでも歌に詳しいサキエちゃんがいて、休み時間にこの歌を教わりました。
GHQの統制はあまり感じることなく過ごした、空襲の惨禍の残る東京下町の小学校でした。
投稿: ika-chan | 2009年8月26日 (水) 19時19分
「桜井の訣別」のタイトルから僕は好きな菊人形を思い出します。
戦後も数年間は町に、米兵がまだうろうろしていました。そんな中で、名古屋城内の菊人形会場でこの場面が展示されたことがありました。
菊の香が漂う幽玄の世界で、静的な人形の無表情な顔の中に、まだ負けていないぞといったうらみの気持ちが微妙に綾なしていたような気がします。
今思うと、あの時期、保革政党とも取り上げなかったことがむしろ不思議でなりません。
投稿: なごやん | 2009年8月29日 (土) 01時09分
この歌の歌詞の中に
「兵庫に」と「兵庫へ」の2通りあるようですがどちらが正しいのでしょうか教えてほしいのですが??
投稿: 宮本さん | 2009年10月25日 (日) 00時26分
本当ですね。
ネット検索すると歌詞は「へ」と「に」がありますね。
手元の歌は♪兵庫に・・です。安西愛子 三橋美智也
ネットの ダーク・ダックス 宍倉正信 山本健二
投稿: なち | 2009年10月25日 (日) 19時47分
昔の歌は古文の勉強にとても役立ちますね。汝(なんじ)を「いまし」と読ませたり、「一刀(ひとふり)は往(いに)し年」とか、上(うえ)を「え」と読ませたり、第一、正成を「まさしげ」と読ませるのはまあいいとしても、正行を「まさつら」と読めるんだということは、この歌で知りました、
昔は難しい漢字も振り仮名が振ってあったので、子どもでも知らず知らず覚えることができましたね。現在はそういう習慣が廃れたので、今の子どもは昔の子どものようにたくさんの漢字を読めなくなり、可哀想と同時に、日本伝統の美学が失われて行くようで残念です。昔の美習であるルビ入りの本が復活することは、日本の教養に資すると思いますが、皆さんのご意見はいかがでしょうか。
投稿: icchann | 2010年1月24日 (日) 21時57分
真田昌幸・幸村父子とともに、わが国屈指の人物といってもいいと思います。このように書かれた文章に目を留められました。(真田ファンとして)昨年の天地人での
昌幸には幻滅でした。
投稿: 海道 | 2010年1月28日 (木) 16時40分
子供のころ遠足観心寺に行った時に見た『建掛塔』とその話を親に聴いたことで、子供心に哀しい話だなと感じたことを今でも覚えています。大義という一線の上に、人(この場合、後醍醐天皇)が重なることで、自分の運命と家族の運命を決定しなくてはいけない状況の理不尽さを子供心に感じたからでしょうね。上に立つ者の理性や道徳が如何に大切かが問われています。後醍醐商会の楠正成という上級管理職の悲哀は現代にも通じます。大義と大義らしきものを見定められる目を持てるように子供たちを育てなければならないですね。有難うございました。
投稿: springwood | 2010年9月 3日 (金) 17時11分
昔日本で育った二世です.その頃はビンタの他にこの歌、
桜井の決別をならいましたが、歌詩は知っても誰とも無く
”青葉しげチャン昨日はいろいろお世話になりました”
今に国民学校、新制中学校の時代が思い出されます.
ボランテイヤーで高齢者、敬老ハウスでハーモニカを吹いていますが、年寄りの皆様一緒に歌い出し少し興奮、嬉しく思ってます.又二木先生にコメントのコロムがあり
自分一人でなく皆様と若き頃のツヤツヤした顔の皆様と
一時を共にしたいです。 ロスにて、タカハシ
投稿: 高橋 仁こm | 2011年9月 5日 (月) 12時16分
非常に懐かしい曲でした。1954年ころ親戚の武庫川へ行き、湊川神社にも連れられて参拝しました。その後3年ぐらいして小学校でこの歌を習い記憶の奥にとどまっていました。二木様の解説付きで聞かせていただきました。ありがとうございました
投稿: ぜんぱす | 2011年9月18日 (日) 05時08分
昨日、息子と酒を酌み交わしつつ 「桜井の別れ」について話したことを 書きとめておきます。
私 「この歌について お前はどのように思った」
大治郎 「はい、『夕まぐれ』『木の下蔭』など 後世に伝えたい 美しい日本語がありますね。それから 父と息子の情愛をうたった詩や歌は ほんとうに 数少ないですね。母と子の情愛は 圧倒的に多く、父と娘も少しあると思いますが」
私 「そうじゃ。母と子の情愛は 言ってみれば 私的な心の交流だが、父と息子の場合は規範を教える、 義を教える という側面が強いと思う。煩悩丸出しの母親は 絵になっても 煩悩丸出しの父親は 絵にならんということかな」
大治郎 「なるほど、親父に尊敬できるものがないと息子は 親父についていけないということですね」
私 「それから この歌は 戦後、つまり昭和20年以後、タブーになった感じがあるな」
大治郎 「それは どういうことですか?」
私 「戦前は 足利尊氏は 後醍醐天皇にそむいた逆臣、楠木正成は 天皇に尽くした忠臣という構図だったが、戦後は 尊氏は武家政権こそ時代の要請にかなうものと見抜いた 先覚者と評価され、正成は悪しき天皇制の護持者になってしまった。つまり、戦後は楠木正成を讃えれば、場合によっては あんたは右翼か、今どき皇国史観の賛成者か と非難されかねないのだ。わしはカラオケで この歌を歌った時、そんな経験をしたぞ。きちんと説得してやったがな」
大治郎 「やっかいな問題ですね。でもイデオロギーぬきで 単に親子の情愛の物語としてみれば、この歌はすばらしいですよね」
私 「そのとおり、わしは、そういうトラブルもみすえた上でこの歌を 『大楠公』とはせず 『桜井の別れ」として このブログに取り上げた 二木先生にはおおいに敬意を表するものだ。と同時に 本当に歌がお好きなんだと拝察する」
大治郎 「最後に お父さんは足利尊氏についてどういうふうに思いますか」
私 「明智光秀は裏切りを1度やって信長を倒したが、尊氏は2度やった。1度目は鎌倉幕府を裏切って、味方の六波羅探題(京都の出先機関)を滅ぼした。2度目は 後醍醐天皇の政治が武士の支持を失っていくのをみて、天皇を裏切った。さすがに2度目の裏切りは 精神的にも苦しかったようで 夢窓国師に相談して後醍醐の霊を慰めるために 京都に天竜寺を造っている。政治家としては苦労の多かった人だったと思う。大政治家といえる」
大次郎 「よかった。お父さん、右翼でも皇国史観でもなかったんだ」
投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年10月14日 (日) 17時25分
私の伯父の名は正成でしたが、「早く生い立ち国民に」とすれば良いのでしょうね。天照大神の弟須左之男命を祭神としている神社の世話人代表を務めた関係で神の世界に詳しくなりました。
投稿: 海道 | 2012年10月17日 (水) 19時33分
青葉茂れる桜井の、そこは都の夕間暮れ
私、今度の日曜日、東京の女学校へまいります
みなさんよくよくお勉強
なされてください、頼みます
明治43年生まれのお袋がこんな替え歌を良く歌っていました。若くして義理の両親、夫を亡くし、家族が食うだけの米のとれる田んぼを守り、6人の子を育て、紅に縁無き生を90歳で終えました。夫の姉妹が女学校を出ていた事もあり女学校へのあこがれがあったのかも知れません。
投稿: mr.kanagoe | 2013年4月 7日 (日) 22時38分
この歌「桜井のわかれ」を、戦後育ちの私たちは学校で習ったという記憶がありませんので、たぶんこの歌をはじめて聴いたのは、昔アメリカに住んでいたとき、日本の童謡・唱歌のはいったLPレコード集「この道」を親戚から送ってもらった時だと思います。このレコード集の中ではボニージャックスがこの歌を美しく歌い上げています。本当にいい歌ですね。この歌を聴くといつも涙がでます。アメリカ生まれの私たちの子供は日本の歌はこのレコード集を聴いて育ちました。二木先生は真田昌幸・幸村親子に触れられていますが、楠正成・正行の「この桜井の別れ」は、大阪夏の陣での真田幸村・幸昌(大助)親子の別れと似ていないでしょうか?父と一緒に戦いたいという大助を幸村は秀頼の出馬を促すため大阪城にいる秀頼のもとに使わす話です。司馬遼太郎の「城塞」や池上正太郎の「真田太平記」に出てきます。
投稿: KeiichiKoda | 2013年4月 8日 (月) 13時32分
上のコメントへの追記です。週末に真田一族のゆかりの上田城(資料館、上田市立博物館等)、松代城跡(真田宝物館、真田邸等)、池波正太郎真田太平記館をまわってきました。真田幸村と長男の大助は大坂夏の陣で討ち死にしますが、幸村の二男大八(守信)は豊臣滅亡後、仙台藩の片倉重長のもとで庇護されて生き延び、伊達家の家臣として、仙台真田家の初代となります(真田姓を名乗るのは2代目の辰信から)。幸村の子孫である仙台真田家は現在13代目を数えるようです。
投稿: KeiichiKoda | 2013年4月21日 (日) 08時20分
私は趣味で作詞していますが 一番古い神社を書く予定で 子供の頃のこの歌 青葉茂れる桜井のーーーつい涙が出てきます 若い頃は楠公神社に云った事が有ります 曲はプラメロにはめ込み最近は殆ど テレビからの 題材ですーーー此れを歌い動画に貼り付けてくれる人がいるのですーーーーとても良い勉強になりましたーーー涙が止まりませんーーー
投稿: 岩本かおる | 2014年8月 4日 (月) 14時02分
「桜井の別れ」・・ここの神社があるのですか。今ホームにお世話になっている母がときどきこの歌を口ずさんでいました。私もなんとか歌えますが、「しのぶ鎧の」のところで「違う」と訂正を入れました。
このサイトで聞いています。正行に語るところは秀逸ですね。
投稿: 今でも青春 | 2014年8月 4日 (月) 19時06分
子には子の思いがあり、親には親の思いがある。
それが戦場だけに心に響くものがあります。
正行「父を見捨ててどうして一人で故郷に帰ることができましょう。お供させてください」
正成「それは私情である。この国の将来を考えなさい。それが人の道だ」
この論理の衝突、情愛の交錯に、静かな緊張感を感じます。
そして「親思う心にまさる親心」とも思います。
今日、映画『晩春』(小津安二郎)を久しぶりに見ました。父と子の情愛ある会話、しかし緊迫した言葉のやりとりに、ある意味、『桜井の別れ』に通じる<私情の克服>を感じました。
映画の中の、婚期の遅れた紀子(原節子)と男やもめの父(笠智衆)とのやりとりは、次のようなものです。
紀子「結婚なんかしたくない。このままお父さんといっしょにいたい。
第一、私がお嫁に行ったら、お父さんが困るのは目に見えてます。洗濯、片付け・・」
父「お母さんが亡くなった後、お前を重宝に使ってほんとうに悪かった。すまんと思っている。
しかし、それではお前はいつまでたっても結婚できん」
紀子「お父さん、このままでいいの。どうか、このまま、いさせて。お父さんのそばにいるのが一番幸せ。
他家へ嫁いで、今のこの幸せがあるとは、とうてい思えないの」
父「そんなものじゃない。お前はこれからの人生だ。お前たちが新しい人生を作り上げていくんだ。
結婚したらすぐ幸せになれるという考えは、間違っていると思う。幸せになるのに5年、10年かかるかもしてない。とにかく二人で努力して作っていくものだ。
お父さんに対してもっていたお前のやさしい気持ちを、これからは佐竹君に尽くしなさい。お前ならできる、きっと幸せになれるよ」
掌中の珠を奪われる気持ちをおさえて、娘に人の道、人の歴史を諄々と説く笠智衆の父の姿が立派でした。
他家に嫁ぐ娘、若武者正行、それぞれに道を説く父の姿、寸分の違いも無いように思いました。
投稿: 紅孔雀 | 2014年8月 4日 (月) 23時35分
今日の大河ドラマ「真田丸」では、戦国の世に関東を支配した北条氏の滅亡が描かれました。髻(もとどり)をほどいた北条氏政を前に、家康、上杉景勝、真田昌幸が揃い、秀吉の全国統一の先を占うシーンでは画面にくぎ付けになりました。この後、氏政は自害して果て、子の氏直は高野山に。北条氏父子の別れのドラマは描かれませんでした。
一方、二木先生が書かれるように、真田昌幸・幸村(信繁)父子とこの楠正成・正行父子は、その志操の堅さと軍事(戦術)的才能によって、父子として今に名を残しています。わが国屈指の人物たる条件に父子を貫く生き方があることに心を打たれます。「桜井の訣別」が伝えるものを後世に残したいとつくづく思います。
投稿: omuraisu | 2016年6月19日 (日) 22時42分
胸迫る訣別の歌につまらぬ詮索ですが、正成が「行けよ正行故郷へ老いたる母の待ちまさん」と言うのが気になっています。正行はまだ子供のようだが、そのお母さんはお年寄りなのかしら。もっとも、正行は数え年11歳と『太平記』にはあるが、扁額に自書した官位から逆算して、櫻井の訣別の時20歳ぐらいにはなっていたはずとの学説が有力という。その母親であり、連れ合いの正成は享年42歳、同じくらいの年頃なら人生五十年当時の感覚では老女とされるのでもありましょうか。それとも、老いたる母とは単に「慈母」の一表現か。……余計な詮索でした。
投稿: dorule | 2017年12月13日 (水) 22時32分
またまた
勝手な投稿をお許しください
今日は 何気なく 芦屋の楠公園のことを思っていました 正成は 神戸の子たちにとっては どこかで英雄のように思える 雲の上の方でした
私 を捨て 公に消えた
その 公園に 大楠公戦跡碑 というのがあります
正成が打出の浜で 尊氏に勝利し九州に追いやったのを記憶に残すべく 富豪斎藤幾太氏がつくられたもので 碑の前には鳥居もあり 公園 (五十坪ほどの小さいものですが) 全体が モニュメントといえ 一度はその場にたたずみ 歴史を感じてみたいという気が流れているようなところでした
ところが 最近 その公園が作り直され 大楠公戦跡碑はあることはあるのですが 一般の児童公園風となり 碑は隅においやられ 殺生なことをするものだと 嘆いているしだいです
鎌倉幕府が亡び 後醍醐天皇を頭にいただく建武の中興が成立したのも束の間 再びの武士の台頭に 逆らった 楠一族 激動の流れには 犠牲にならざるをえなかった方々 ーーー 思うことは多いです
打出の浜の勝利は 二月 その三ヶ月後には湊川の戦いで 正成は露と消えます
鎌倉幕府滅亡の際の 前北条氏 の面々の最期
六波羅探題から 東へ落ち延びる途上で 近江国番場宿での北条仲時の自害 部下の者たちも後を追うように自害して果て その数は432名を数えたといいます
鎌倉では 北条高時を筆頭に一族郎党、東勝寺で自刃して果てます 歴史は 残酷です
護良親王 (大塔の宮)の惨殺された土牢は 唱歌 鎌倉 に歌われています 鎌倉宮にあります
権力闘争 資力の奪い合い どの時代をみても 凄まじいものです 人間の本質ですね
ここ二三日で まさしく 富を持つべきでないものが 身分不相応な財を得 悪しき変化をした例に遭遇しました 人の弱さかな?? そういってしまうと簡単すぎますね 財をもつと ちやほやされ えらくなったように錯覚するのです 人はほどほど 足るを知る そうあるべきです
自分自身にも 肝に銘じなければいけないことですね
反面教師 他人の振り見てわが振り直せ
ということです
僕の遭遇した事象は 世の中では ごく小さいことでしょうね しかし そういう事実が今後 どんどん増えていくような気配です 格差はひろがり 非正規従業員があたりまえの社会がつくられようとしています
上に立てば 何をしても罪にとわれない
うそ をついておれば 税務のトップにもなりあがれる
おかしいですよね 皆が地味に働き 汗して 平等に生きれる そういう社会にしないといけないです
税金で ジャーナリスト だけでなく 宣伝してくれそうな芸能人と 毎夜のように食事をくりかえす A
いい加減にしてほしいですね
投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年1月24日 (水) 21時05分
小学生だった頃、楠木正成、由井正雪、丸橋忠弥、真田十勇士等々を夢中で読みました。登場人物たちに魅了されました。そして子供向きの日本史年表みたいな出来事を時系列に並べた事典を持っていました。兄は1月3日、妹は12月14日で赤穂浪士の討ち入りの日で、私は自分の生まれた日は何の日か、父親に尋ねました。すると父に「ねずみがしょんべんした日」だと言われショックを受け、絶対なんかあると思い、持っていた事典を調べました。
ありました。「桜井の訣別」の正成、正行の親子の別れの日でした。早速報告したところ「よかったね」の一言、この曲を聴くと南北朝時代より、小学生だった自分を思い出します。
投稿: konoha | 2018年1月24日 (水) 22時48分
能勢の赤ひげ 様
学生時代にノンセクトラジカルの立場で、青春のエネルギーをぶっつけてこられたであろう 能勢の赤ひげ様の変わらぬ若さと血潮に、団塊世代のたくましさを感じます。
それに比べれば、当時の私などは、なんと軟弱な生き方をしていたものよ!と、恥ずかしくなります。
歴史好きの能勢の赤ひげ様が、大楠公 楠木正成に心をお寄せになる訳は、よく分かります。
鎌倉幕府や室町幕府の謀反に同調することなく、どこまでも天皇側を守り抜かんとした忠臣として、小学校の教科書でも習いました。
京都 時代祭(10月22日)の楠公上洛列での楠一族郎党を引き連れての堂々たる姿は、見応えがあります。
千早赤坂村の楠公誕生地や赤坂城跡やその下に広がる棚田にも何度も行きました。棚田の横の坂道を上り、小学校の校舎の横を通りぬけて、城址から棚田を眺めたあと、金剛山へ走り、凄い深い谷底を眺めながらスリル満点のケーブルで大阪一高い金剛山頂からの眺めも素晴らしいものでした。
帰り道、川沿いのマス釣り場で食べたマスの刺身の味が忘られません。
投稿: あこがれ | 2018年1月24日 (水) 23時26分
konoha さま
こんばんは
konoha さまの 時系列にならべて 歴史をながめる
その習慣 使えるよう努力させていただきます 有り難うございました
桜井の訣別 の日が誕生日ーー うん なかなかいいですね
あこがれさま
こんばんは
検定も終わられ 次のステップを目指し 力を蓄えておられるところでしょうか??
あこがれさまの 千早赤阪紀行 楽しく読ませていただきました 有り難うございます
僕は 藤井寺 河内長野 八尾の勤務が長く いつでもいけると思っていて 千早赤坂は行かずじまいとなっています 観心寺にはいったのですがーー
藤井寺のときには 一人二人 地方の歴史好きの方の自費作成の楠公記をいただきました
さがせば どこか本棚からでてくるでしょう
地域 地域で 歴史を研究調査されている方がたとお会いする機会もありましたが 深く話せる関係までにはいたりませんでした いろいろ お尋ねしたいと思っているうちに 先になくなられました
能勢でも源氏の系図をみさせていただくこともあるのですが 質問に答えていただく方は別のかた という具合でなかなか その場がもちえません 町の職員の方で 考古学 歴史を専門にしておられる方もおられますが いまだ 実現せずです
ゆっくり 歴史に浸りたいです 能勢は最適のところですのにね あまり 多方面には手を出せないですし
焦点をしぼって 勉強したいですね
あこがれさま またいろいろ教えてください
よろしくお願いいたします
投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年1月25日 (木) 00時26分
「桜井の訣別」このメロディと歌詞の出だし、青葉茂れる桜井の~に微かな覚えがあったので、興味が深くなり、歴史に長けた皆様の数寄せられたコメントを拝読している中で、2013年4月7日に投稿されましたmr,kanagoe様のご投稿文面に記してある、替え歌をを拝見した時、そこで目が留まりました!
青葉茂れる桜井の、そこは都の夕間暮れ
私、今度の日曜日、東京の女学校へまいります
皆さんよくよくお勉強、なされて下さい頼みます
明治にお生まれのmr,kawagoe様のお母様が歌っておられたという、この上記の替え歌を見た時、60年前の幼い頃の私の記憶が、甦ってきました。
そういえば、母と長姉と次姉たちが、お手玉をしている時に、この替え歌の歌詩そのままで、メロディテンポを少し早くし、口ずさみながら楽しくお手玉で遊んでいました。
姉たちは、片手握りや三つ握りなど、とても上手で、母にいたっては五つ握りを、巧みにこなしていました。
いつもスゴイな~と思いながら、幼い私は、羨ましく見ていました。そんな日が何度もあったので、私もこの替え歌をいつしか覚え、そして、お手玉の二つ握りなら、できるようになっていました。
投稿: 芳勝 | 2018年1月25日 (木) 20時01分
当初は「湊川」の第一編「桜井訣別」として発表されたものが今の唱歌集では「青葉茂れる桜井の」になっているのですね。其れはさておき、この歌は小生にとって亡母の思い出につながるものであります。
明治生まれで尋常小学校しか出ていない母は、例えば牛乳を「ぎうにう」としか表記できず、高等小学校卒の父に馬鹿にされていたと聞いたことがありますが、子にとっては優しい母でありました。
ケガの通院で4キロの道を背負って往復してくれたりと、自己犠牲で子を育ててくれた感謝は、海馬の奥に住み続けています。
そんな母が良く口ずさんでいたこの歌は、社会人になってから題名を知る由ではありましたが、近年このサイトやYOUTUBEで聞くたびに、涙腺が緩んでかないません。
マザコンと言われようが、思い出にひたるのも古希を迎えた人生の楽しみでもあります。
今日も妻に涙を見られぬよう、ヘッドフォンで聞いています。
投稿: 山ちゃん | 2018年2月10日 (土) 20時49分
七五調・6句・1連、文語体の歌詞に日本語の美しさを感じます。
『楠公の歌』は15番までありますが、『孝女白菊の歌』など、国文学者とはいえ、落合直文はすごいですね。 『桜井の訣別』の章は、父子の情愛を感じさせ本当に心に沁み入ります。
小津安二郎の、1958年彼にとって初のカラー作品になる『彼岸花』という映画があります。 この映画で『桜井の訣別』が使われています。
同窓会の宴席で、主人公(佐分利信)が皆と一緒に『桜井の訣別』を
唄います。 この時に彼は、恋人の転勤のために結婚を急いだ娘(有馬稲子)に頑固な態度をとってしまった自分に反省をし、心から娘夫婦のことを認めたのだと、私はこのシーンをとてもだいじな場面だと捉えています。 この映画のクライマックスシーンであると勝手に決めつけています。 観るたびに、この『桜井の訣別』の斉唱場面で涙してしまいます。
映画のラストで、娘夫婦の住む広島へ向かう列車の中で、♪あおばしげれるさくらいの〜♪と主人公が小さく口ずさみ、列車を後押しするかのように『桜井の訣別』のメロディがかぶさります。
映画が公開されて60年経ちました。 有馬稲子、山本富士子、久我美子、まだ16歳で初々しかった桑野みゆきの4人の他の俳優たちは皆冥界にお住まいです。 小津監督 名作ありがとうございました。
投稿: かせい | 2018年9月21日 (金) 14時49分
早いもので、あと1ケ月もすれば京都の紅葉の最盛期です。ここ10年あまり毎年のように訪れていますが、見るところはほぼ毎回同じです。その一つが、嵯峨野にある宝筐院で、小生の好きな紅葉名所のベスト3に入ります。
敷地の一番奥に石塔があるのは知っておりましたが、ある時に近寄って見てびっくりしました。それは楠木正行の首塚でした。また、50年も前に東京駅から皇居に向かう途中に戦国武将の銅像があったので、そばに行ってみたら楠木正成の像で、高村光雲の手になるものでした。
「桜井の訣別」は詩といい、メロディといい、涙を誘うような作品で、大好きです。
投稿: ジーン | 2018年9月22日 (土) 14時44分
かせい様のおっしゃられた、映画『彼岸花』で笠智衆が桜井の別れを吟じる場面は、私も覚えています。詩吟の内容は、漢詩で聞き取りにくいですが、最後は、同窓生全員で「青葉茂れる~」の合唱になります。
小津監督は同窓会のシーンが好きで『秋刀魚の味』でもみられます。高齢の男性が人生を振り返っていろいろ喋りますが、滋味のある台詞が出てきます。同窓会に出席した佐分利信は「父親は誰でも、どんな婿でも気に入らないよ、せっかく育てた娘を取られてしまうんだから」と同窓生に言われます。彼は自分の薦める結婚話に乗らないで恋愛結婚を目指す娘・有馬稲子に不満を持っています。また娘から「自分の幸せを自分で探すことが、そんなにいけないんでしょうか」とやんわりと、しかしぐうの音も出ないようなことを言われます。佐分利は、頑固親父がぴったりの役者です。
娘への不満の本質は、娘の成長に気づかなかった自分のうかつさ、掌中の珠を奪われる寂しさだったと、佐分利は同窓生との交流でしみじみ感じたのだと思います。
また桜井の別れをしんみりと聴いて、親の歩むべき道と子の歩むべき道は、同じものを目指してはいても、しかし同じものではないと悟ったのではないでしょうか。
投稿: 越村 南 | 2018年9月23日 (日) 05時19分
ジーン様のコメントに触発されて、私もコメントします。
嵯峨野の紅葉名所といえば、常寂光寺・二尊院、それにジーン様の言われる宝筐院がトップ3だと思います。
嵯峨釈迦堂 清涼寺の西隣にあり、通常は殆ど拝観禁止で、どうかすると ついスルーしてしまいそうな場所にありますが、紅葉の見事さには目を奪われます。
室町二代将軍 足利義詮が楠木正行の人柄を褒め称え、今は二人の菩提寺として知られていますが、かたや天皇に反旗を翻した逆臣(後に従服しますが・・)、かたや天皇を守り通した忠臣が並んでの塚というのも、なんだか妙な感じです。
因みに、京都の人々の間では、室町時代の将軍は、つい最近まで天皇に刃向かった逆賊として、時代祭りにも登場しませんでした。(今は、やっと登場するようになりましたけど・・)
投稿: あこがれ | 2018年9月23日 (日) 09時16分
あと何回見ることが出来るのか分からないが、今年も
青葉の季節が巡ってきた。
青葉(詩集 季節より 井上靖)
この世にまだ神があった時代、一人の忠臣が木の下
蔭に馬を留めて,己が子に後事を託して別れて行く
話は、誰が作ったか知らぬが、・・・・・・・・・
・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・、今はこの世から神は姿を消し
てしまったが、その空間だけは私たちのものだ。私
は愛犬の小屋を木の下蔭に置き、幼い孫娘の小さい
机を木の下蔭に置く。私の幸福もまた別離とは無縁
ではないのだ。
敦盛、忠度を歌った青葉の笛や、森の青葉の蔭で亡き母を恋うる純情二重奏など、青葉という生命の真盛りと死を予感させる別離を対峙させて心にひびく。
明治、大正、昭和の初め頃の若者の写真と現代の若者の伸びやか顔を較べて見ると、これが同じ日本人だろうかと驚く。現在の方が住みやすいのは違いないだろうが、寿命が延びて死を意識することが少なくなり、死ぬ時も大体施設のお世話になって死は遠ざけられることが多い。昔がよいとは言えないが、もう少し死に接し、死について考える機会があってもいいのではと思う。
ちょっとぶっきらぼうで男っぽい(?)この歌が私は昔
から好きです。
投稿: 太郎 | 2019年5月14日 (火) 15時21分
新型コロナで連日大騒ぎの中、今日久しぶりに古い歌の本を引っ張り出して、この歌を歌ってみようと思いました。題名は何だっかなと思い「青葉茂れる」「大楠公」と引きましたがありません。古い順にページをめくっていたらありました。「桜井の訣別(わかれ)」でした。ああそうだったなと思いだしました。声を出して歌ったら、涙があふれてきて音程はめちゃくちゃに乱れるし、声はひっくり返って泣き声になってしまいました。「自分を捨てて義のために生きる」「自分を犠牲にしても社会のために生きる」ことを美学とする日本精神が共感するのだと思います。3・11の時、私は「原発へ行こう老人特攻隊」という川柳を作りましたが、本気半分でした。足手まといになっても、先々がんになって老人なら怖くないと思いました。どうせ先は短いのですから。若い人をやらせるわけにはいかないと思いました。でも結局行かなかったのだから思わなかったと同じでした。私は78.5歳です。
投稿: 吟二 | 2020年5月 8日 (金) 14時09分
楠木正成と正行(まさつら)の最後の別れですね。落合直文氏の格調高い字句で一種の緊張感の下、感慨深く曲を味わいました。
この別れは1336年(建武3)でしたが、1348年(正平3・貞和4)に息子正行は四条畷の戦いで戦死しました。500人ほどの兵力で1万近い足利軍に戦いを挑み、敗れます。桜井の別れから12年後に父の言葉を守って立派に行動しました。いやあ、心うたれますね。
私の気持ちを正直に言えば、子どもって親の思い通りにならないですから・・親孝行って難しいです。家をついで店をやってる人や父の職業を受け継いで僧侶や漁業などをやっている人はすごいと思っています。
今度日本に行ったら、東大阪の四条畷神社に行って、ついでに河内飯盛山に登って正行像にも合掌してこようと計画しています。
毎日、コロナ禍で家の中に引きこもりですが、朝の散歩だけは5時から7時半くらいまで、ゆっくりやっています。日本へ行く飛行機が8月になるかな、しかし接種が終わってないと乗れないかな、すると今年の終わりくらいかな・・いろいろ考えています。みなさん、がんばってくださいね。
投稿: 越村 南 | 2021年6月 4日 (金) 23時46分
you tubeに「彼岸花」の一場面で笠智衆さんの詩吟があり、そのあと、中村伸郎さんが歌い出す「桜井の別れ」があります。
僧籍の笠さんの詩吟も素晴らしいものです。
https://www.youtube.com/watch?v=F0ikQUQKos4
投稿: 江尻陽一 | 2022年12月26日 (月) 23時38分
詩吟はこうだとコメントにありました。
楠帶刀の歌 <元田永孚>
乃父の訓は 骨に銘じ
先皇の詔は 耳猶熱す
十年蘊結す 熱血の腸
今日直ちに 賊鋒に向かって裂く
想う至尊に辞して 重ねて茲に來り
再拜俯伏して 血涙垂る
心を同じゅうするもの 百四十三人
志を表わす 三十一字の詞
鏃を以て筆に代え 涙に和して揮う
鋩は板面に迸って 光陸離たり
北のかた四條を望めば 妖氛黑し
賊將は誰ぞや 高師直
渠が頭を獲ずんば 臣が頭を授けん
皇天后土 臣が臆を鑒みよ
成敗は天なり 言う可からず
一氣磅礴して 萬古に存す
君見ずや芳野廟板 舊鑿の痕
今に至るまで生活す 忠烈の魂
公益社団法人関西詩吟文化協会より
投稿: 江尻陽一 | 2022年12月26日 (月) 23時42分
蛇足にもある様に、正成は戦術に長けていたと言われます。しかし、戦略では足利尊氏の方が勝っていたということでしょうか。
幕末に適塾に学び、戦術Tactiekと戦略Strategie(共にオランダ語)を区別するように教えたのは、後の村田蔵六(大村益次郎)でした。
投稿: Yoshi | 2022年12月30日 (金) 18時57分