« ラストダンスは私に | トップページ | ロマンス »

2007年9月21日 (金)

リリー・マルレーン

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:ハンス・ライプ、作曲ノルベルト・シュルツェ
唄:ラーレ・アンデルセン、日本語詞:片桐和子

1 夜霧深く立ちこめて
  灯りともる街角に
  やさしくたたずむ 恋人の姿
  (*)いとしいリリー・マルレーン
     いとしいリリー・マルレーン

2 君はぼくに背伸びして
  繰り返したくちづけを
  二人は一つの 影に融けてゆく
  (* 繰り返す)

3 雪に埋もれ 地に伏して
  いくさの道を進むとき
  心に響くは やさしい歌声
  (* 繰り返す)

      (間奏)

4 目を閉じれば見えてくる
  街灯りに君の影
  生きて帰れたら 再び会えるね
  (* 繰り返す)

           Lili Marleen

1. Vor der Kaserne
   Vor dem großen Tor
   Stand eine Laterne
   Und steht sie noch davor
   So woll'n wir uns da wieder seh'n
   Bei der Laterne wollen wir steh'n
       Wie einst Lili Marleen.(繰り返す)

2. Unsere beide Schatten
   Sah'n wie einer aus
   Daß wir so lieb uns hatten
   Daß sah man gleich daraus
   Und alle Leute soll'n es seh'n
   Wenn wir bei der Laterne steh'n
       Wie einst Lili Marleen.(繰り返す)

3. Schon rief der Posten,
   Sie blasen Zapfenstreich
   Das kann drei Tage kosten
   Kam'rad, ich komm sogleich
   Da sagten wir auf Wiedersehen
   Wie gerne wollt ich mit dir geh'n
       Mit dir Lili Marleen.(繰り返す)

4. Deine Schritte kennt sie,
   Deinen zieren Gang
   Alle Abend brennt sie,
   Doch mich vergaß sie lang
   Und sollte mir ein Leids gescheh'n
   Wer wird bei der Laterne stehen
       Mit dir Lili Marleen (繰り返す)

5. Aus dem stillen Raume,
   Aus der Erde Grund,
   Hebt mich wie im Traume,
   Dein verliebter Mund.
   Wenn sich die späten Nebel drehn
   Werd' ich bei der Laterne steh'n.
        Wie einst Lili Marleen.(繰り返す)

《蛇足》 歌詞は、第一次大戦に従軍したドイツの詩人ハンス・ライプの詩集『港の小さな手風琴』に収録されていたものです。 これに新進作曲家ノルベルト・シュルツェが曲をつけ、売れない歌手ラーレ・アンデルセン(本名はリーゼロッテ・ヘレネ・ベルタ・ブンネンベルク)の歌で、1939年8月2日に録音されました。

 この曲は数十枚しか売れず、ほとんど忘れられていました。
 ところが、第二次大戦が始まってから2年後の1941年夏、ベルリンのあるレコード店に軍の慰問放送用レコードの大量注文が来ました。店員がセットしたレコードのなかに、偶然ラーレ・アンデルセンの『リリー・マルレーン』が2枚入っていたのです。

 1941年4月、ドイツ軍はユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを占領、そこの放送局から宣伝放送を流し始めます。そのとき電波に乗った曲の1つが『リリー・マルレーン』でした。この曲は、各地で戦うドイツ兵たちの間で大人気となり、さらに敵である連合軍の兵士たちにも熱狂的に愛されるようになりました。
 兵営の近く、街灯の下における恋人との束の間の逢い引きと別れ――兵士の切ない心情を静かなメロディに乗せた歌が、兵士たちの心に染みたのでしょう。

 アンデルセンは一躍大スターになりましたが、すぐに運命が暗転しました。
 彼女は、1933年からスイスの
チューリッヒ劇場で歌うようになり、そこを拠点に各地の劇場に出稼ぎに出ていました。そのころ、彼女はスイス国籍のユダヤ人で作曲家(のちにプロデューサー)のロルフ・リーバーマン(Rolf Liebermann)と恋仲になっていました。
 1942年9月、イタリアを演奏旅行中の彼女に、ロルフ・リーバーマンから、スイスへの亡命を勧める手紙が来ました。

 その手紙は、実はゲシュタポ(ナチスの秘密警察)が仕掛けたワナで、恋人の手紙と信じて亡命しようとした彼女は逮捕されてしまったのです。罪状は、パスポート偽造、敗北主義的言動、スイスの共産主義者やユダヤ人との接触などでした。
 拷問と処刑を恐れた彼女は、自殺を図りましたが、未遂に終わりました。

 ところが、偶然にも、イギリスBBCのドイツ向け放送が彼女の命を救いました。BBCは、ドイツ軍兵士たちに向けて、「『リリー・マルレーン』を歌ったラーレ・アンデルセンは、最近収容所に入れられて、そこで死んだ」と放送したのです。

 ドイツ軍兵士たちの反発と士気低下を恐れたナチスは、この放送をデマだと否定するために、彼女の健在を国民に示さざるをえなくなりました。
 ラーレ・アンデルセンは釈放されましたが、ナチスの宣伝相ゲッペルスは、『リリー・マルレーン』を放送禁止にし、原盤を破棄させました。原盤を廃棄しても、すでに多数のレコードが売れていたので、あまり意味はなかったのですが。
 1942年、『リリー・マルレーン』は軍歌に編曲され、戦意高揚に使われました。ラーレ・アンデルセンのオリジナルよりハイテンポで、ラッパやドンドンという太鼓の音が入っているのが軍歌版です。

 ラーレ・アンデルセンは、釈放されたのち、芝居や歌でナチスのプロパガンダに利用されました。終戦直前、彼女は密かにベルリンを脱出、北海に浮かぶ東フリースラント諸島の小島、ランゲオーク島に隠れ棲みました。
 ドイツの降伏後、有名なラーレ・アンデルセンを探し求めていたカナダ軍の将校が、ランゲオーク島で彼女を発見しました。以後、彼女はまた表舞台に立ち、各国で演奏活動を行うことになります。

 『リリー・マルレーン』にはさまざまな歌詞がつけられ、連合国で歌われました。ことに大スター、マレーネ・ディートリッヒが反ナチスの思いを込めて歌った影響は大きく、連合国の国民や兵士たちを勇気づけたといわれます。
 マレーネ・ディートリッヒのカヴァー版は、彼女の名前にちなんで『リリー・マルレーヌ(Lili Marlene)』というタイトルになっていました。こちらを正題だと思っている人もいました。

 ディートリッヒは、ドイツ・ベルリン生まれの国民的映画スターでしたが、ナチスを嫌って、アメリカに亡命していました(1939年、アメリカの市民権獲得)
 晩年はパリで暮らし、1992年5月6日、90歳で亡くなりました。彼女が愛したパリの墓地に埋葬されましたが、ベルリンの壁崩壊後、その遺志に従って祖国ドイツに分骨され、家族の墓のそばに葬られました。

 彼女はけっして反独ではなく、あくまでも反ナチの立場で活動していました。しかし、反ナチイコール反独と考えるドイツのネオナチをはじめ、極右に組みする者たちは、彼女を裏切り者として貶める卑劣な策動を続けています。

 ラーレ・アンデルセンは1972年8月29日、ウィーンで没。67年の波乱の生涯でした。
 作曲者のノルベルト・シュルツェは、2002年の10月に亡くなりました。

 『リリー・マルレーン』のエスペラント訳が見つかったので、掲載します。エスペラントは、今は知る人も少なくなりましたが、19世後半から20世紀中葉まで各国に多数の使用者がいました。二葉亭四迷や宮沢賢治も学びました。

  LILI MARLEN'

           trad. Renato Corsetti
Ĉe la kazerno por la rendevu'
staris ĉi lanterno restanta sen detru'
nun revas mi pri la reven'
al rendevuoj sen ĉagren'
kun vi Lili' Marlen'
kun vi Lili' Marlen'.

Unu aspektis nia ombropar'
tuta arbo spektis ĉi amon sen kompar'
ĉar dum vespero kaj maten'
pludaŭris ĉiam sama scen'
kun vi Lili' Marlen'
kun vi Lili' Marlen'.

Sed trumpetisto ĉiam vokis min
eblis ne rezisto al fia disciplin'
kaj devis ĉesi la promen'
pro mia devo esti en
sen vi Lili' Marlen'
sen vi Lili' Marlen'

Vian lascivon bone konas ĝi
sed el via vivo min jam forstrekis ĝi
dum mi batalas sur posten'
ĉe la lanterno paŝas sen
sen mi Lili' Marlen'
sen mi Lili' Marlen'

El ĉi silento el ĉi tera grud'
levas min la tento al via am-inund'
se reaperos la seren'
mi pretos ree por promen'
kun vi Lili' Marlen'
kun vi Lili' Marlen'

追記:ララ・アンデルセンかラーレ・アンデルセンか

 ウィキペディアをはじめ、『リリー・マルレーン』の創唱歌手について述べた日本語のウェッブ記事のほとんどは、ララ・アンデルセンと表記しています。
 いっぽう、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、フィンランド語、デンマーク語等のウィキペディアでは、タイトルや本文中の表記はいずれも Lale Andersenとなったおり、ララに相当する綴りは出てきません。いったいララはどこから出てきたのか――疑問に思った私は、少しばかり調べてみました。

 多くの日本人が『リリー・マルレーン』という歴史的名曲を知ったのは、おそらく、昭和50年(1975)のベストセラー、鈴木明著『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』(文藝春秋社)からだろうと思われます。

 著者は、冷戦下の西欧各国を"Lili Marleen"と歌手Lale Andersenについて取材して回りました。そのうち西ドイツで会った人たちは、いずれもラーレでなく、ララ・アンデルセンと呼び、また「ドイツ人はみな彼女をララ・アンデルセンと呼んでいる」という話を何度も聞いたそうです。
 ララ・アンデルセンは、それほど
人口に膾炙した名前だったわけですが、著者はその出所を明らかにしないまま、最後までララという表記で記述しています。

 ララという芸名もしくは愛称は、いったいどこから出たものなのでしょう。これに関する文献をお持ちの方は、ご教示ください。

 ……と書いたところ、中井修さんから、次のような文献があるとお知らせいただきました。『リリー・マルレーン歌手ララの愛と人生(上・下)(辻優子訳、中央公論社、1981)という自伝です。
 調べたところ、原書は『Der Himmel hat viele Farben: Leben mit einem Lied(空の色はさまざま:1つの歌とともに生きて)』で、ラーレ・アンデルセンが亡くなった1972年に刊行されました。
 そのなかに、芸名をララ・アンデルセンに変えることについて述べた箇所があります。

 彼女は、1933年からスイスのチューリッヒ劇場に出演していました。そのときは本名のリーゼロッテ・ビュルケ(ビュルケは前夫の姓)を使っていました。
 ところが、1935年に金銭問題が原因でスイスから国外追放処分を受け、ドイツに戻らざるを得なくなりましたました。ミュンヘン小劇場への出演が決まっていたので、仕事については当面心配ありませんでしたが、問題は名前でした。

 チューリッヒ劇場で仕事をするようになってから、彼女は作曲家(のちにプロデューサー)のロルフ・リーバーマン(自伝ではローベルト・メンデルゾンという仮名)と恋仲になり、またチューリッヒ劇場の演劇顧問クルト・ヒルシュフェルトと親しくしていました。2人ともユダヤ人でした。
 当時、ドイツではユダヤ人迫害が激化しており、ユダヤ人と親しくしていたというだけでも逮捕・拘禁される恐れがありました。そこで、チューリッヒ時代の経歴がばれないように、3人で相談して新たに芸名をつけることにしました。その会話のうち、関連部分だけ抜粋すると、下記のようになります。

ローベルト「(彼女は)小さいときはみんなに、ララって呼ばれていたんだ……歌が大好きで、いつも心を込めてただひとりラララララと歌っていたからだ」
ヒルシュフェルト「ララなら文句ないな」(次に姓をどうするかについて相談)
ローベルト「きみのうちの分家に、アンデルセンというのがあったね」
ヒルシェフェルト「すごい! ララ・アンデルセン。寸法通りオーダー・メイドの名前だ」

 いっぽう、ドイツ語版ウィキペディアには、「ミュンヘン小劇場に出演するころには、既にLale Andersenという芸名を使っていた」とあります。
  ほぼ同じ時期にララとラーレという2つの芸名を使っていたとは思えませんから、この2つは同じものでしょう。日本語版自伝のララは、原文ではLaleと表記されていると思われます。

 しかし、昔少しばかりドイツ語をかじった私は、Laleの日本語表記はラーレとなるはずという思いがぬぐいきれず、ララと書くのはどうもすっきりしませんでした。そこへ、当サイト常連の1人、nobaraさんから有力な情報が寄せられました。
 polarbearmaniacさんのブログ”Polarbearology & conjectaneum”にララとラーレに関する記事があるというのです。

 polarbearmaniacさんは、そのハンドルネームからもわかるように、熱烈なシロクマファンで、シロクマを見るために各地の動物園を回っているそうです。また、記事内容からドイツ在住の方とお見受けしました。

 それは、2018年12月16日に北ドイツの都市ブレーマーハーフェンの臨海動物園でシロクマの赤ちゃんが生まれ、その名前を公募した結果、ララ (Lale)に決まったという記事でした。その名前は、同市出身の歌手で女優のLale Andersenにちなんだものと紹介されていました。
 polarbearmaniacさんは、 この記事を書く際、ラーレとするかララとするかについて大いに迷ったそうですが、けっきょく日本語の慣用表記に従ってララとしたそうです。
 ただし、polarbearmaniacさんは、その記事に次のような後記をつけています。 

*後記 - この赤ちゃんの名前の最終選考と発表の様子を地元のTVが取材しています。審査員は明確に「ラーレ」と発音していますが、アナウンサーは「ララ」に近い音で発音しています。実に微妙ですね。

 そこで私は、音声が聞けるいくつかの通訳・翻訳ソフト、独和・和独辞典で音を確かめてみました。下記がそれですが、私は後期高齢者で、24時間耳の奥で"セミ”が鳴いている身ですから、正確に聞き取れているかどうかはわかりません。

(1)ImTransrator(翻訳ソフト)
  Lale Andersen ラーレ・アンダーズン

(2)Google翻訳(翻訳サイト)
  Lale Andersen ラーレ・アンダーズン

(3)Google Translate(アンドロイドアプリ)
  Lale Andersen ラーラ・アンダーズン

(4)独和・和独辞典(アンドロイドアプリ)
  Lale Andersen ラーラ・アンダーズン

 フルネームの場合、名前はラーレと聞こえたり、ラーラと聞こえたりします。名前だけを聞くと、Laleの e はおおむね曖昧母音化していますが、アに近く聞こえる場合とエに近い場合、どっちともつかない場合とがあります。
 (2)と(3)は、同じプログラムがベースのはずですが、実際に聞いてみると音が微妙に違います。ハードの影響によるのかもしれません。
 ドイツ人に話してもらっても、おそらく人によってラーレ、ラーラ、ラールなど、
発音はさまざまでしょう。

 日本語のカタカナ表記では、ララとラーレとでは字面も音もまるっきり違います。そこで、私はララはどこから来たんだと疑問に思った次第です。ドイツ語では、話者の話し癖とか状況によって多少違うだけで、”揺れ”の範囲にすぎないといってよさそうです。むだな回り道をしました。

(二木紘三)

« ラストダンスは私に | トップページ | ロマンス »

コメント

ララ・アンデルセン(1939年のおそらく原盤)とマレーネ・デートリッヒ(コンサートのライブ録音か)の肉声によるリリーマルレーンがMP3で聴けるページがあります。
欧州戦線のある日の雰囲気を今に伝える貴重なページと思い紹介させて頂きました。

http://ingeb.org/garb/lmarleen.html

投稿: あいちゃん | 2007年10月19日 (金) 11時15分

デートリッヒの歌声、お蔭様でMP3で聴くことが出来ました。感激
です。彼女の、物憂げな声で歌うこの歌が大好きでした。やっとまた
お目にかかれた、と言った気持ちです。
あいちゃん、有難うございました。
nhxwsk

投稿: れいこ | 2008年1月27日 (日) 18時03分

戦後、ハリウッド製の戦争映画をよく観ました。ドイツ軍との戦いの中、この「りりー・マルレーン」を耳にし、いっぺんで気に入りました。真夜中零時にドイツ軍のベルグラード放送局が定時に流していたのです。アフリカ戦線でドイツ軍兵士がそれを聴いて、故郷を思い出し涙するシーンは今も忘れられません。
時は変わり、ドキュメンタリー作家の鈴木 明氏が「きみはリリーマルレーンを知っているか?」という本を出版し、いの一番に求めました。
私はララ・アンデルセンの「リリー・マルレーン」の方を好みます。無名のララが懸命に歌っている姿は心をうちます。映画化されララとゲシュタポとの確執やヒトラーに助けてもらったエピソードなど、現実に忠実なストーリーでしたが、あまりヒットしませんでした。

投稿: 正田 和之 | 2008年1月29日 (火) 03時39分

マレ-ネ・デ-トリッヒの魅力とともに思い出される曲ですね。リバイバルの映画で知っているだけの女優さんですがべったりしない潔さと力強さを感じさせる素晴らしい女性だと思います。日本人がこの域まで達する事が難しいだけに魅力を感じます。

投稿: sunday | 2008年7月16日 (水) 16時45分

第2次大戦世代の一人として忘れることの出来ない歌の一つです。反戦歌ブームの中でマレーネ・ディートリッヒばかりが注目される傾向がありますが、歴史のさなかで育った私としては、実際にアフリカ戦線で独・英双方の若い兵士たちに愛唱されたラーレ・アンデルセンのオリジナルのほうが心に迫ります。

投稿: 関口益照 | 2010年12月28日 (火) 11時45分

もう50年程昔になりますが、TBS系列で「コンバット」なる戦争ドラマを放映してましたね。ただのドンパチ物でなく、戦争という厳しい条件下で繰り広げられる人間ドラマでしたね。この「コンバット」のメインテーマ
が、「リリー・マルレーン」の曲をヒントに作られたということを、昔、映画雑誌で読んだ事があります。 ドラマ導入部のマーチ風なテーマ曲でなく、ドラマのエンドに近いところで、スローテンポで哀調なメロディは確かに、「ホントだ!」と納得しました。 デートリッヒは、「大阪万博」に来て素晴しい脚線美を披露してくれましたね。彼女の出演した映画では、ビリー・ワイルダー監督の『情婦』が見事でしたね。T・パワー、C・ロートンの名演技も光ってました。 A・クリスティのすごさを見せつけられました。

投稿: かせい | 2011年11月12日 (土) 00時43分

二木先生と「あいちゃん」様へ感謝申し上げます。私は1925年生まれで、戦時中は清水の商船学校に入学と同時に海軍の「予備役海軍生徒」なる位階に任命されその身分は海軍少尉の下で海軍
兵曹長の上でした。そんな訳で、私の先輩で、現役に応召したり、輸送船に乗船したりして戦死された方を幾人か存じ上げております。
所で「あいちゃん」ご教示の「リリ・マルレーン
の唄」を開き、私には聴き易い英語の歌手三人と
独語の七人のを聴き比べました。
ララ・アンデルセン1939年盤はどちらかと言うと「可愛らしく」マレーネ・ディートリッヒのは
荘重に聞こえました。ご教示有り難う御座いました。

投稿: 末廣照男 | 2011年11月14日 (月) 20時32分

ランゲオークは蘭独の陸地沿いに連なる島々の一つ。足首がつかるほどの浅瀬を沖に向い歩くと再び砂浜に出る。幼児の家族連れに相応しいそんな休暇地です。ここで敗戦まぎわから数年、心の痛みを癒すようにララ・アンデルセンはのんびり暮らしたそうです。本名をリーゼロッテ-ヘレーネ-ベルタ・ブンネンベルクと言い、ララ以外の芸名も用いています。

チューリッヒ時代の音楽の友ロルフ・リーベルマンと仕事すべく、戦後スイスに移住、1949年スイス人アルテュール・ボイルと再婚、歌手稼業に復帰。リリー・マルレーン以外のヒット曲に恵まれ、擦れるようなアルトで人気を得たと言われます。

マレーネ・ディートリッヒ名を聞き知っていても、ララ・アンデルセンを私は知らず、時々ここそこ垣間見ていました。ブレーメン→ベルリン→チューリッヒ…、ブンネンベルクと言う一女性の人生行路のおおすじは以下のような感じかも知れません。

島に近い港ブレーメルハーヴェンに1905年に生まれ、17才で地元画家パウル・ウィルケと結婚。3人目子の産後に別居、妹に子を預けベルリンに出て歌手修業。1931年離婚、33~37年チューリッヒで芝居歌手業中に生涯の友、作曲家ロルフ・リーベルマンに出会う。第三ドイツ帝国ポーランド侵攻の1939年、リリー・マルレーン吹き込み。しかしLPがどっさり売れ残った。その2枚が偶然ベオグラード独兵放送局にあって、暇な深夜定時に流されたそうです。それが同盟(枢軸)国ばかりでなく連合国側兵士たちにも大うけした。大ヒット曲リリー・マルレーンはこの戦時真っ最中1941年に誕生したと言えなくもありません。

あまりにも人気が出た故、ナチ宣伝担当相ヨーゼフ・ゲッベルスはアンデルセンの良き交友相手で作曲家リーベルマンが目障りになって仕方がない。歌はまんざらでもないが、友がユダヤ人では怪しからぬ。そこで彼女を強制収容所に入れる算段をした。自殺未遂は収容所にぶち込まれる怖れ故でしょうか? これを嗅ぎつけたBBCが、巧みなプロパガンダを展開。BBCは今もUK国家利益を最優先する組織ながら、当時は国家まるごと戦時放送機関でした。リリー・マルレーンの歌い手ララが亡くなったと言うニュースを独兵に伝えること。愛する同胞がナチ高官によって殺されたならば、独兵たち戦意は失われるでしょう。

BBC戦術がまんまと当たったのは、6人の子ぼんのう父親で女房マグダに頭の上がらぬゲッベルスの弱気だったのかも知れません。リーゼロッテは許されますが、別の歌を歌いつつ軍慰問にも尽さねばならなかったようです。44年6月6日連合軍ノルマンディー上陸後、後退を重ねるナチ独軍への慰問日程が無くなり、彼女はようやく美しいランゲオーク島に引きこもることが出来たんですね。人生半ばを乗り切る場面で、観客としてホッとなります。

投稿: minatoya | 2015年2月24日 (火) 11時36分

あいちゃん様、正田様、minatoya様、有難うございました。はるか昔子育て中の私は子供たちの昼寝中に、自分が買い求めた本をそっと読むのが、息抜きと言いますか、息子たちと穏やかに過ごすために、どうしても大切な時間でした。幸い親孝行な息子たちのお陰で鈴木朗氏の出された本も、じっくりと読んだことを思い出しました。
万博の最中は、何度も足を運んでもいつも息子たちを遊ばすのが第一で、二歳の次男は【太陽の塔」が大好きであの建物が見える場所を離れませんでしたし、夕方から出かけて夜涼しくなってから、まるで【遊園地】感覚でそれなりに楽しみましたが・・・・。「マレーネ・デートリッヒ」が来演したことは知ってはいても、無縁の世界でした。当時九州に住んでいた母がわりの叔母が、【どうしていかないの?】と電話口で【今は無理よね】と慰められました。
年の近い叔母のお陰で「ハリウッドの女優」の名前は、早くからしっていました。「あなたはテンプルちゃん」も「デアナ・ダービン」の映画も見てるのよといわれても、チンプンカンプンでした。たぶん映画館ではおとなしく眠る子だったのでしょう。グレタガルボやバーグマン、グリア・ガースンあたりは、記憶にあるのです。鈴木朗氏の本を今夜書棚から見つけましたので、当分「リリー・マルレーン」にどっぷりの日々となりそうです。ララもデートリッヒもそれぞれ心に沁みいる歌唱力だとおもいます。
この曲とは違いますが、ビートルズの「ヘイ・ジュード」を体制に反抗した東欧の女性歌手が、地下に潜って盛んにうたったという本を、おもいだしましたがあの歌手は誰だったのでしょう。あの歌手も命がけであちこちから【同志】に声を届けていたとか。勇気ある女性が晩年には平穏に暮らせたのか、それだけが気がかりですが・・・・・。

投稿: mitsuko | 2016年2月 2日 (火) 02時52分

久しぶりにリーリーマルレーンを聞きたくなりました。歌のない演奏で最も心を打たれる曲の一つと思います。鈴木氏の本でも英語、ドイツ語、スペイン語等々何か国かの人々が知らずとつい船の中で合唱してしまったという場面が書いてありました。その気持ち大変よくわかります。
またリーリーマルレーンをヒントにいくつかの小説も書かれておりますし、どなたかのご指摘にもありましたが昔のアメリカ戦争ドラマでもこの曲を使っていました。ディーリッヒの歌にもマーチ風に歌っているものもありこの「コンバット」でもそうした曲にしてありました。でもやはりララアンデルセンの歌の方が気に入っています。21時57分からベオグラードから流れるこの曲で前線に居た兵士たちがほんのひと時慰められたこの歌、様々な思いで聞いたことでしょう。

投稿: 林 滋 | 2017年11月 9日 (木) 10時12分

 掲示板で二木先生の追記連絡をみて、はじめて本体の「リリー・マルレーン」の<蛇足>を読みました。
 この歌はよく耳にしましたが、じつに不思議なこの歌の因縁に驚きました。国家の思惑、謀略が、この歌をめぐって交錯し、歌手の運命もおおいに翻弄されました。
この歌には、本来のラーレ・アンデルセンの『リリー・マルレーン』(その後放送禁止、原盤廃棄)、ナチスにより軍歌に編曲された『リリー・マルレーン』、マリーネ・ディートリッヒの『リリー・マルレーン』とおおきく3つの変遷があります。3つの歌にそれぞれ小説のような展開があり、まさにうた物語です。読んだ後、いささか興奮しました。
 ラーレ・アンデルセンがナチスの謀略から逃れて、静かな余生を送ることができて、本当によかったと思います。暗いうた物語は聞きたくないですから。
それにしてもBBCのラーレ・アンデルセンの救出策はGOOD JOBでしたね。
 救出策は「最近、彼女は収容所で死んだ」というニセのニュースを流すことでしたが、くそ真面目な日本人からは、こういう知恵は出てこないような気がします。洒落というかウイットというか、ヨーロッパ的な柔らかいセンスが潜んでいるように思います。

投稿: 越村 南 | 2019年4月27日 (土) 16時21分

(続)
 この歌を歌ったマリーネ・デートリッヒには、少し思い入れがあります。30代の半ば頃に映画『嘆きの天使』をみてデートリッヒをはじめて知りました。映画は名作中の名作でした。また「煙管を吸ったら世界一、脚を出したら世界一、流し目したら世界一」という彼女の魅力もわかりました。

 『デートリッヒ自伝』によれば、彼女は、祖国ドイツを終生愛していましたが、ナチスを嫌ってアメリカへ逃げ、やがて帰化しました。その後、アメリカ軍の慰安部隊のメンバーとして、GIに歌を聞かせるために戦場に行き『リリー・マルレーン』を歌います。ドイツ語による歌でしたが、たちまちドイツ兵から連合軍のあいだに広まり、当時最大の厭戦歌になっていきます。

 デートリッヒは「ナチは大嫌いだが、ドイツは大好き、ドイツ文学は最高』と考えていました。
しかし、世間には、この<簡単なこと>がわからない人もたくさんいます。(今も昔もそうです・・)
戦後、ドイツで歌を歌う彼女につばをはきかけたドイツ人もいた。<アメリカに帰化した連合国の犬!>ということでしょう。もちろん、それはごく一部の人々で、ベルリンでは圧倒的な人気があり、64回もカーテンコールがあったほどです。 

 帰化したはずのアメリカは、彼女の終焉の地にはならなかった。フランスで亡くなります。なぜでしょう?彼女は、アメリカは、ヨーロッパと比べて道徳心、宗教心のない国だとだんだん気づいたからです。
 不肖私が膝を打ったのは、この部分の記述です。
ここからは私見ですが、アメリカの歴史を読むと、先住民を追いつめ殺戮し、土地を奪って、その上に建国したのがアメリカ合衆国です。これは動かぬ事実だと思います。ついには原爆投下もやった神をも恐れぬ大国です。
 アメリカは道徳心を失った国だという失望は、デートリッヒが、高い知性の持ち主だったことをうかがわせます。ただの脚線美女優じゃなかった。ヘミングウェイと文人レベルの交遊をしたというのもうなずけます。

投稿: 越村 南 | 2019年4月27日 (土) 23時05分

私がこの曲を聞いたのはマレーネ・デートリッヒの曲だったようです。だからてっきりマレーネ・デートリッヒのオリジナルだとばかり思っていました。
そんな経緯があったんですね。

投稿: jurian prabhujee | 2020年2月28日 (金) 22時18分

本人はラレと発音しています 33:07
https://www.youtube.com/watch?v=eL0q2YGI-CI

リーバーマンも同様です 13:11
https://www.youtube.com/watch?v=Shr1qAmTFzs
その直前、アナウンサーはララのような発音をしています。書いておられる通りeが曖昧になっています。

投稿: masi | 2020年5月30日 (土) 02時18分

 いい歌ですね。しんみりしてきます。この歌をめぐり、様々なことがあったのですね。ドイツ軍は宣伝放送にと流した曲の中の「リリー・マルレーン」がまさか反戦歌になるとは思わなかったのですね。
 
 30年近く前に発売された「懐かしのポピュラー・ヒット・ベスト・コレクション」のCDの中の最後がマレーネ・デートリッヒが歌う「リリー・マルレーン」で、ゆったりと歌われたこの曲も好きでした。

 マレーネ・デートリッヒの映画は見たことがありませんが、昔、TVで「永遠のヒロイン」という番組を放映していて、マレーネ・デートリッヒを取り上げていました。その中で「モロッコ」の映像がありました。確かハイヒールを脱ぎ、それを手にして砂漠を行く外人部隊を追っていくシーンがありました。マレーネ・デートリッヒが妖艶で切ない映像でした。

 掲示板[1673]に続きを載せました。

投稿: konoha | 2020年5月30日 (土) 22時39分

もう50年ほど前、結婚して、初めてステレオ装置を買い、そして、初めて買った洋楽レコード全集『思い出のジュークボックス』(HIT POPS IN MEMORY)のなかに、「リリー・マルレーン」も収録されていました。
女性が割合低い声で(アルトでしょうか)、ドイツ語で歌っていて、何故か、新鮮に思えました。ドイツ語で聴く歌謡曲(唱歌でなく)が、珍しかったからかも知れません。

それまで、「リリー・マルレーン」という歌は知りませんでしたが、雑学として、女優マレーネ・ディートリッヒが歌っていて、ドイツ軍の兵士ばかりか、連合軍兵士にも愛唱された名歌、という程度の知識はありました。
ですから、これまでずっと、『思い出のジュークボックス』収録の「リリー・マルレーン」は、マレーネ・ディートリッヒの歌声であろうと信じて疑いませんでした。

ところが、今朝、投稿に先立ち、改めて、『思い出のジュークボックス』(今や、CDの時代ですが、捨てられずに保存していました)を開けて、歌い手を確認したところ、ララ・アンデルセン(Lala Andersen)とありました。ああ、何たる思い込み! 私がこれまで聴いてきた「リリー・マルレーン」は、ララ・アンデルセンの歌声でした!

そこで、早速、YouTubeで、マレーネ・ディートリッヒが歌う「リリー・マルレーン」を聴いてみました。さすが、なかなか説得力ある、魅力的な歌声と感じました。

なお、些細なことかも知れませんが、”リリー・マルレーン”の部分の歌い方は、両者でちょっと違うところがあるように思います。
マレーネ・ディートリッヒが”リリー・マルレーン”と歌っているのに対して、ララ・アンデルセンは”リリー・マルリーン”あるいは”リリー・マルリン”と歌っているように、私には聞こえます。
Wikipedia(英語版)によりますと、”Lili Marleen”(“Lili Marlen”,”Lilli Marlene”,…,とも綴る)とありますので、このあたりに由来するのだろうかと自問自答している次第です。

投稿: yasushi | 2020年6月 2日 (火) 13時17分

 昭和50年頃か、加藤登紀子の「リリー・マルレーン」をラジオで何度も聞いていて、なんだか知っているメロディに似ているなと気付きました。
 昭和39年から40年、よく見ていた米国製TVドラマ「コンバット」のテーマ曲がそれでした。マーチ調にアレンジされていたのですね。

投稿: 菅笠 | 2020年10月 2日 (金) 23時37分

「リリー マレーヌ」を歌っている歌手にはラーレ アンダーセンとマレーヌ ディートリィヒが特に有名ですが、ドイツの有名な女優でユダヤ人のLucy (Lucie) Mannheim がイギリスに亡命中、プロパガンダ用に替え歌を歌い BBCから放送された「リリーマレーヌ」が英語とドイツ語であり、YouTubeで聞けます。原文歌詞のようにセンチメンタルだけではなく、プーチン ロシアが今ウクライナで行っていることへの抵抗がそのまま当てはまります。
ドイツ語の歌詞を貼り付けておきます。

Ich muß heut' an Dich schreiben,
Mir ist das Herz so schwer.
Ich muß zu Hause bleiben
Und lieb Dich doch so sehr.
Du sagst, Du tust nur Deine Pflicht,
Doch trösten kann mich das ja nicht.
Ich wart an der Laterne —
Deine Lili Marleen —

Was ich still hier leide,
Weiß nur der Mond und ich.
Einst schien er auf uns beide,
Nun scheint er nur auf mich.
Mein Herz tut mir so bitter weh,
Wenn ich an der Laterne steh'
Mit meinem eignen Schatten —
Deine Lili Marleen —

Vielleicht fällst Du in Rußland,
Vielleicht in Afrika,
Doch irgendwo da fällst Du,
So will's Dein Führer ja.
Und wenn wir doch uns wiederseh'n,
Oh möge die Laterne steh'n
In einem ander'n Deutschland!
Deine Lili Marleen —

Der Führer ist ein Schinder,
Das seh'n wir hier genau.
Zu Waisen macht er Kinder,
Zur Witwe jede Frau.
Und wer an allem schuld ist, den
Will ich an der Laterne seh'n!
Hängt ihn an die Laterne!
Deine Lili Marleen.

投稿: 小林 昇 | 2022年3月25日 (金) 06時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ラストダンスは私に | トップページ | ロマンス »