アラビヤの唄
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
唄:二村定一・天野喜久代
砂漠に陽が落ちて 夜となるころ (間奏) あのさびしい調べに 今日も涙流そう |
《蛇足》 原曲はアメリカのポピュラーソングで、作曲者はフレッド・フィッシャー。
フィッシャーはドイツ・ケルンの出身で、1900年に家族とともにアメリカに移民しました。最初のヒット曲"If the Man in the Moon were a Coon" のあと、"Come Josephine in my Flying Machine"、"Dardanella"、 "Chicago" など数多くのヒット曲を世に送り出しました。そのうちのいくつかは、今も演奏されています。
ところが、『アラビヤの唄』(原題は"Sing me a Song of Araby")は、アメリカではほとんど顧みられず、日本でだけ、昭和初期に大ヒットしました。
日本人に受けた一因は、ヘ長調が途中でニ短調に変わる部分にあるのではないかと思います。短調の哀調が日本人の心情にアピールしたようです。
NHKの依頼によって堀内敬三が日本語詞をつけ、昭和3年(1928)、NHK東京放送局(JOAK)から放送されました。
歌ったのは浅草オペラの二村定一(ふたむら・ていいち)。これが大評判になり、同年、日蓄、コロムビア、ビクターでレコード化されました。
日蓄がニッポノホンのレーベルで出した『アラビヤの唄』(唄:二村定一・天野喜久代)は、日本最初のジャズレコードでした。A面は『あお空 (My Blue Heaven)』で、『アラビヤの唄』はB面でした(ビクター版では『アラビアの唄』)。
翌昭和4年(1929)には、マキノプロダクションが同タイトルで映画化しました。
(二木紘三)
コメント
この歌を聴くとエノケンを思い出すのですが
上記の映画だったのでしょうか?
錯覚だったのかなあ・・。
投稿: konimo | 2007年10月16日 (火) 02時24分
「砂漠に陽が落ちて…」は私が物心ついて最初に記憶に残る歌です。昭和初年(たぶん4年頃)満4歳位の私が父につれられて東京の下町の銭湯に行って、耳から聞いて口ずさんだのだと思います。両親の話では幼児の私は下腹がまん丸に出ていて、銭湯で座ると自分の「おちんちん」が「あった。」と喜び、立ち上がる「ない。」ときょろきょろと探したそうですが、そんな幼児の記憶にはいり込む程多くの人が歌っていたのでしょうか。兎に角このメロディはとても懐かしい気分にさせてくれます。来歴が判って大変うれしいです。
投稿: 末廣照男 | 2008年6月13日 (金) 02時56分
この曲で驚いたのは、前奏部分の転調の複雑さです。
こちらでは前半部分をカットなさっていますが、
厳密にエノケンのレコードでフルヴァージョンで
見ていくと、イ長調→イ短調→ニ長調→ニ短調→
イ短調→ヘ長調→ヘ短調→ハ長調→ヘ長調
(→イ長調→ヘ長調)と変化します。
前奏としてはかなり長い部類ですが、それでも
恐らく多くて50小節程度?(正式の楽譜がないので、
当てずっぽうで申し訳ありません)の部分で、
9回(ないし11回)の転調というのは
相当ではないでしょうか。
現代のプロ歌手(と称する方々)に、試しに
前奏のみを一度だけ聴かせて、
すぐに暗譜で音程をたどらせてみれば、
案外面白い結果が出るかも知れませんね。
投稿: 若輩 | 2008年6月13日 (金) 03時11分
キネマ旬報社の検索サイト「KINENOTE」では出演者を「マキノ輝子/津村博/荒木忍」としていて、榎本健一が出演していればその人気からクレジットされていたでしょうから、彼は出ていなかったのではないでしょうか。
投稿: あんけら僧 | 2019年5月24日 (金) 23時05分
60年以上前に自宅にあった手動蓄音機でレコードを掛けて遊んでいました。5歳のころです。筒棒型のレコードと再生機もありました。子供ながらに不思議な旋律だなあと感じていました。歌詞も不思議でした。「砂漠に日が落ちて・・・恋人よアラビアの歌を歌おう」どこか魅力的です。50歳を超えたころ「春の野の花と輝く」の曲を知りました。歌詞が素晴らしく、二期会の知人にことあるごとに歌ってもらっておりました。訳詞は堀内敬三。「わが心は変わることなく御身をは慕いて」なんて素敵な日本語でしょう。
投稿: 石山智男 | 2019年9月 2日 (月) 12時14分
榎本健一(エノケン)のレコードです。
懐かしいですね。
https://www.youtube.com/watch?v=6b2ZQej_Lyc
YouTubeにアクセスして「榎本健一アラビアの歌」
で検索すれば見ること聞くことができます。
投稿: ヒガシシズオ | 2020年9月23日 (水) 17時14分