上海帰りのリル
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作詞:北村雄三、作曲:大久保徳二郎、唄:ディック・ミネ
1 涙ぐんでる上海の 2 甘く悲しいブルースに |
《蛇足》 昭和14年(1939)リリース。
戦前の上海には、英米仏や日本の租界があり、アジア随一の国際都市でした。租界は、中国の弱体化につけ込んで各国が強制的に借り上げた居留地で、中国の統治権が及ばない独立地域でした。
上海には、各国から夢を追い求める野心家や食い詰め者、犯罪者、スパイなどが集まり、「魔都」と呼ばれました。そこでは、数多くの犯罪や陰謀、そして恋がありました。
ほかの都市にはない独特の魅力があったわけですが、それは、中国の屈辱の歴史に咲いたあだ花だったということを忘れてはなりません。
ちなみに、どこかの国の租界の入り口には、「中国人と犬入るべからず」という立て看板があったといいます。
これについては、そのような看板はなかったという説とあったという説とがありますが、少なくとも租界の行政組織が掲げた看板でなかったことは明らかです。租界内の外国人居住者たちの間で、中国人に対する差別意識ないし蔑視感がいかに強かったとしても、行政組織が発行・掲示する文書や看板に中国人と犬を同列視するような私的な感情のこもった文言を入れると、それはもはや公的なものではなくなってしまうからです。
おそらく中国人を蔑視する誰かが勝手に作った嫌がらせか、現代のヘイトスピーチのようなものだったのでしょう。
四馬路は、蘇州河の南側にあった歓楽街で、福州路の別名。ディック・ミネのもう1つの上海もの『夜霧のブルース』や、戦後はやった『上海帰りのリル』にも出てきます。写真は戦前の四馬路。
蘇州河の北側には、虹口(ホンキュ)という街があり、そのあたり一帯に日本人が多く住んでいました。虹口と四馬路を結ぶのがガーデンブリッジ(中国名は外白渡橋)です。
2番の碼頭は、中国語でマートーと読み、船着き場のことです。
作詞の北村雄三は島田磬也(きんや)の別名。
(二木紘三)
コメント
「上海ブルース」 ほんとうに懐かしい歌ですね
私は戦前は大連市で生まれ育ち、早稲田大学
を卒業しましたが、家族は引き揚げ者です。
当時(旧制中学)にいたころ口ずさんでいたのが
この曲と李香蘭の「蘇州夜曲」でした
このような素晴らしいWEBサイトを提供頂いて
二木先生に感謝しています。
投稿: 田原 | 2007年9月22日 (土) 20時04分
私の母は6年前に85才でこの世を去りました。死後遺品を整理していたら数枚の写真と古い日記がありました。そこには当時の母の許婚が支那事変に動員されたため一目逢うために家族の反対を押し切り電鉄会社の皇軍慰問嬢に応募して合格し、上海、漢口と各地を渡り、再会して外出できた許婚と二人で上海のゴールゼンブリッジを渡り、当時橋の袂にあった、極東ホールというクラブでダンスを踊ったことが書いてありました。
その許婚の方はその後戦死されたそうです。
母は戦後私の父と結婚しましたが、一言もそんなことは私にも父にも話したことはありませんでした。その母が大事にそんな思い出を持っていたとは・・読みながら泣きました。
この歌の歌詞のような夜が母の人生にあったのかと思うと母の人生は幸せだったのだと思います。
投稿: baron | 2008年3月 7日 (金) 16時13分
いつも楽しませて頂いています、有難うございます。
上海ブルース・上海帰りのリルときたら「上海だより」が欲しいです。
あれは軍歌になるのですか?
『母さんご無沙汰しましたが、僕も益々元気です
上陸いらい今日までの鉄の兜の弾のあと自慢じゃー
ないが見せたいな』
と云うのです、もし軍歌がダメでなかったら載せてください。
(82歳のなつかしがりや)
投稿: 樫山祝子 | 2008年3月23日 (日) 09時45分
私は1937年、日中戦争が勃発した年に朝鮮半島で生まれました。
上海事変はそれより5年も前のことです。
二木先生も仰言っているように、当時の上海は中国の屈辱の歴史に咲いたあだ花であったことを忘れてはならないのでしょう。
とはいえ、われわれ庶民の中にはbaronさんの母上様のような痛切な思い出をもたれている方がいらっしゃることも事実で、たとえ軍歌であっても忘れることができないという複雑な心境になるのです。
投稿: 周坊 | 2008年3月23日 (日) 11時59分
昔の歌。私などの世代では、知らない歌がけっこうあります。
ご年配の方々のコメントで、『あヽこんないい歌があったんだ』と、改めて見直すことしばしばです。
『上海ブルース』。「夢の四馬路の街の灯」…「月もエトランゼ」…。いいですねえ。遠い昔の、上海浪漫ですね。曲がしっとりしていて、これまたいいですよね。
投稿: 大場光太郎 | 2008年3月23日 (日) 19時15分
軍歌をご希望のみなさまへ
当サイトでは軍歌・戦意高揚歌は扱いません。最初からその方針でやってまいりましたし、今後もそのつもりです。「歩兵の本領」を載せているではないかとおっしゃる方もいるでしょうが、それは、寮歌が軍歌になり、さらに革命歌になったという歌の運命がおもしろかったから扱っただけです。
軍歌・戦意高揚歌をお聴きになりたい方は、ほかにりっぱなサイトがいくつもありますので、そちらをご利用ください。(二木紘三)
思い出の軍歌=http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/
軍歌、戦時歌謡アルバム=http://www.geocities.jp/abm168/GUNKA/gunka.html
軍楽隊=http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/index.html
投稿: 管理人 | 2008年3月24日 (月) 18時23分
ディックミネのちょと鼻にかかった、低いけれど甘い歌声は男性的な中に色気を感じさせました。
数年前の夏、私は上海に1ヶ月ほど滞在しました。毎日のように上海の街をあちこち歩きました。夕暮れの外滩(わいたん)に佇んで風に吹かれていると、どこからかディックミネのこの上海ブルースが聞こえてくるような錯覚に陥りましたました。
上海に佇つ耳奥にディックミネ
投稿: こぎつね | 2011年1月18日 (火) 22時35分
二木先生 尊敬の至り、よくぞ此処までやりましたね。
時間のあるときは朝から晩迄聞きっぱなし。
ネタがすり減って無くなるかもしれませんよ
失礼しました。
北海道北見市留辺蘂町宮下町の北の果てより。
ネットで地図を開いて下さい。
熊と鹿の増殖地、網走から旭川へ行く石北峠の麓の人口約8.000人の町です。
有名な作家の中山正男の馬喰一代の故郷です。
投稿: 畠山利一 | 2011年1月20日 (木) 20時35分
この歌が「夜霧のブルース」と違和感なく相互乗り入れするのを存じですか。作曲者が同じせいでしょうか、不思議です。そういえば、両方に「四馬路」「リラの花」「何にも言わず(言わぬ)」「エトランゼ」と同じものが出てきますね。
乗り入れは、どちらの歌を歌っていてもできますが、「何にも」は同じで、「いわ」の所です。「い」が強いと夜霧になってしまいます。「わ」が強いと上海になります。
何十年も前にふと気がついたのです。ここは気をつけていないと別の線路へ入ってしますのです。
こんなことを言うのは異端かしら。
投稿: 遠藤雅夫 | 2011年2月16日 (水) 08時28分
前段投稿の遠藤さんおっしゃる通りですね。この歌は戦後の「夜霧のブル-ス」の兄貴分です。「スマロ」(四馬路)、「ホンキュう」などの意味不明にまま歌っていました。
昭和一ケタ生まれの先輩の愛唱歌でした。「昔の歌は詩がいい、曲もいい」と、ミネさんの歌う格好を真似して、片手をズボンのポケットに突っ込み気分よく歌っていました。いい歌ですね!
この歌と「夜霧のブルース」と8年もの隔世があるとは思われません!
不思議です。作詞家も詩人も戦中の圧力を怖れたのではないでしょうかか?
投稿: 鈴木 英行 | 2015年5月 4日 (月) 20時25分