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2007年10月 2日 (火)

異国の丘

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:増田幸治、補作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田正、唄:竹山逸郎/中村耕造

1 今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よ辛かろ 切なかろ
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る 春が来る

2 今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る

3 今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで

《蛇足》 第二次大戦の最末期、日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に日本軍は降伏しました。武装解除された日本軍将兵は、在満の民間人や当時日本国籍だった朝鮮人とともに、ソ連領内の収容所に送り込まれました。一般にこれを「シベリア抑留」と呼んでいます。

 シベリア抑留というものの、収容先はシベリアだけでなく、モンゴルや北朝鮮、中央アジア、ヨーロッパロシアの各地に及んでいました。
 収容者数は、約65万人というのがいちおうの定説になっていますが、実際には約107万人だったと見られています。

 収容された日本人たちは、劣悪な居住環境と粗悪な食事のもと、過酷な強制労働に従事させられました。
 作業は建築や土木建設、木材伐採などでしたが、ノルマが課せられ、ノルマが達成できないと、減食されたり、欠食とされたりしました。
 また、定期的に共産主義教育が行われ、反・非共産主義的と見なされると、共産主義に感化された同胞からつるし上げや人民裁判、ときにはリンチを受けました。

 連日の過酷な作業のため、収容期間中の死者は、収容人数の1割近い約6万人に達したとされています。
 ただし、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモの調査では、実際の死者は約34万人とされており、また約37万5000人とする調査結果もあります。収容者数を約107万人とすると、犠牲者はその3分の1以上にも達したことになります。

 収容者の帰還は昭和22年(1947)から、ソ連との国交が回復する昭和31年(1956)にかけて逐次行われました。共産主義教育に反抗的だった者ほど、帰還を遅らされたと伝えられます。

 抑留からの帰還者によって日本にもたらされたものがいくつもあります。前述したノルマという言葉や歌声運動などがその例ですが、『異国の丘』もその1つです。

 昭和23年(1948)8月1日(8日説あり)、NHKの人気番組「のど自慢素人演芸会」に1人の復員兵が出演、みごとに鐘を打ち鳴らしました。シベリアから復員した中村耕造という人物で、歌ったのは作詞・作曲者不明の『昨日も今日も』という歌でした。

 望郷の思いを切々と歌い上げるその歌にビクターが着目、佐伯孝夫の補作詞と清水保男の編曲を施したうえで、中村耕造と当時の人気歌手・竹山逸郎に歌わせてレコード化しました。
 同年9月、『異国の丘』と改題されたそのレコードが発売されるや、たちまち全国に大流行、大人から子どもまで口ずさみ、NHKや各地ののど自慢大会でこれを歌う者が続出しました。

 はじめはだれが作った歌か不明でしたが、やがて吉田正が名乗り出て、作詞は増田幸治、作曲は吉田正と判明しました。
 吉田は昭和23年8月にはシベリアから帰還していましたが、大流行している歌が自分の歌だという実感が湧かなかったので、名乗り出るのが遅れたそうです。
 昭和25年
(1950)4月には増田幸治も帰還して、歌のできた経緯がさらに明らかになりました。

 吉田正と増田幸治は、シベリア・ウラジオストク郊外アルチョム収容所にいっしょに収容されていました。中村耕造も同じ収容所にいたはずですが、2人の名前は記憶していなかったのでしょう。
 あるとき、吉田が戦時中に作った『大興安嶺突破演習の歌』という軍歌を紹介したところ、増田がそれに『俘虜
(ふりょ)の歌える』という歌詞をつけ、副題を『異国の丘』としました。
 後年、増田はそれを発表したときのようすを、次のように語っています。

 「初めて異国の丘を発表したのは収容所の演芸会だった。合唱していると胸が詰まり、歌いながらみんな泣いた。これ以降、作業の行き帰りや夕方の人員点呼時に、皆が口ずさんだ。お互いをいたわり、励まし合うようになり、自分さえよければといった殺伐とした雰囲気は次第に薄れていった。シベリア最初の冬がようやく終わる昭和21年(1946)の3月ごろだった」

 歌が単なる娯楽以上の力をもちうるという顕著な証拠がここにあります。

 吉田はビクターから専属作曲家として迎えられ、以後数々のヒット曲を連発したことはよく知られているとおりです。

(上の写真は抑留者による冬季野外作業のようす)。

(二木紘三)

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コメント

私の父はシベリア抑留者です。幸い、昭和24年無事に復員することが出来ました。しかし、4年間の抑留生活については多くを語ろうとはしませんでした。約60万の日本軍捕虜が酷寒のシベリアで強制労働をさせられ、その内約6万人が亡くなっています。父は28年前に亡くなりましたが、生前TVでこの「異国の丘」が流れると泣いていました。

シベリア抑留者の血を吐くような望郷の思いを謳った「異国の丘」は、私たちの心にいつまでも残る絶唱でしょう・・・

投稿: エスペロ | 2007年10月 2日 (火) 19時10分

「異国の丘」をお願いしようと思っていたら、正にそれが実現しました。(これはテレパシーなのか!!) ありがとうございます。
私の大先輩にも、シベリアやモンゴルで「強制労働」に従事させられた人がいます。しかし、こうした悲劇もやがて風化していくのでしょう。
二木さんからは古いパソコンを使っていた時、M3のことなどでご教示をいただきましたが(結局、上手く行きませんでした)、今や最新式の素晴らしいパソコンを購入し(ウインドウズVISTAとか)万全の態勢を整えました。
よって、これからも末永くこのサイトで楽しむことが出来そうです。この場を借りて、二木さんのご健闘をお祈り致します。

投稿: 矢嶋武弘 | 2007年10月 2日 (火) 21時45分

二木先生 ありがとうございます。
 苦労知らずの 団塊世代 も ようよう
 年を経て 人の苦労が すこしはわかる
 齢になっているのかもしれません。
 敗戦前の 多くの民衆の 労苦を
 思えば 情の薄い わたしでも 目頭に
 すこし 水分が出てきます。

投稿: 二宮 博 | 2007年10月 3日 (水) 23時07分

NHK 深夜便 3:05は
 異国の丘 を 歌ってました。

投稿: 二宮 博 | 2007年10月 4日 (木) 03時19分

私の父も、シベリア抑留者でした。エスペロさんの御尊父と同様、昭和24に舞鶴港を経て帰還したと話しておりました。その父親が、生前、時々口ずさんでいたのが、この歌です。父親は、平成16年(2004年)11月に亡くなりましたが、材木伐採作業の辛さや、朝になったら隣のベッドの同僚が亡くなっていたなどの話をよく聞かされました。私にとっても父を思い出し、涙する歌です。

投稿: mamekichi | 2007年10月12日 (金) 20時20分

 私の父もシベリア抑留者です。84歳の現在も健在です。でも何故かこの歌は父の軍歌レパートリーにはありません。(最近は酔って歌うこともありませんが)昭和20年初頭から25年末の復員まで,極北の収容所であたら大切な青春を過酷な労働に費やし,学問のために大学に戻ることも出来なかった父の無念を想うとき,この歌が頭を過ぎり,自然に涙がこぼれます。父も収容所で亡くなった多くの戦友や失われた青春を想うとき,この歌を歌うのは辛すぎるのではと想像しています。父の苦労は復員してからも続き炭鉱労働者として身を粉にして,母とともに私たち子供を育ててくれたことに大変感謝し尊敬しています。おかげで兄弟学究の道に進み,父の夢を私たちの世代で叶えることができました。孫たちも父が抑留された歳になりました。
「異国の丘」の歌とともに,父には収容所で無念の死を遂げた戦友の方々の分まで,もっともっと長生きしてもらいたい・・・ですね。

投稿: 瀬戸口達志 | 2007年10月28日 (日) 20時47分

昭和22年生まれの私です。
なぜかしらこの曲は、心にしみるのです。
親の膝枕のもと、ラジオからながれる曲を聞いていた感じがするのです。
また私の同姓同名のかたが、シベリヤでなくなってるようです。


投稿: 益子良夫 | 2007年10月29日 (月) 20時49分

私達友情の青春時代の思い出の唄です。
二木先生の解説によりますと、昭和23年9月「異国の丘」としてレコードが発売されるや、NHKや各地の「のど自慢大会」で盛んに歌われた・・・と記されています。

昭和23年頃と云えば青春真っ只中でした。
当時、職場の友人が「のど自慢大会」に出場して歌う・・・ということで、昼休みを利用して職場をあげて同僚達と応援に劇場に行きました。

その時歌ったのが「異国の丘」でした。
その時代、何も娯楽の無い地方では唯一華やかな出来事でした。
以後、「異国の丘」の唄はこの友人を思い出す歌になりました。

今年の年賀の喪中挨拶が息子さんから届き、8月に御逝去されたことを知りました。
此の友人夫婦も私達夫婦も職場結婚で青春時代を語りあえる友人でした。

その時代の数人の友人も主人も次々と旅立ってしまい残されて思い出を語れるのは二人だけになり、そして、とうとう私だけになりました。

ここで友人を偲び「異国の丘」を唄を歌って御冥福を祈らせて頂きました

有難うございました。

投稿: 香西 千鶴 | 2007年11月 8日 (木) 19時52分

 ソ連時代の強制収容所の廃墟を、6年ほど前に仕事で行った北極圏に近いシベリアで訪れたことがありました。そこは真冬はマイナス60度にもなるそうで、最初は日本人を収容する案もあったそうですが、日本人にはあまりにも寒いだろう、と却下されたそうです。別に人道的な見地からではなく、「生産効率が下がるから」という理由だったでしょう。そこはウランやスズの鉱物資源を採掘する鉱山でしたから。
 結局、収容されたのは自国の政治犯(と政府<KGB>が勝手に認めた人たち)が主だったそうです。収容所は1960年代には廃止されたそうですが、山の急斜面には朽ちた居住棟が、まだ沢山残っていました。破れたガラス窓から中をのぞくと、カイコ棚のようにギッシリつまった粗末な板ベッドが沢山ホコリをかむっていました。まったくの粗末な木造バラックで、マイナス60度の酷寒はほとんど防げなかったのではないかと思いました。
 この場所は旧ソ連の人なら誰でも知っている悪名高い場所だそうで、酷寒と重労働の中で何十万人も死んでいったそうです。しかし、その正確な数字はわからず、今でも周りの土の中からは白骨が沢山出てくるそうです。

投稿: snowman | 2007年11月14日 (水) 16時06分

父もおじも抑留経験者でした。
私たちはその経験談は聞かずに。。。父は鬼籍に入りました。
母の話では戦地から帰った人達のそれまでの優しい性格が変わってしまったと言う話をよく聞いたそうです。
環境が思いを変えると言うことでしょうか?
父は非常に厳しい性格だったような気がします。

投稿: sunday | 2008年4月25日 (金) 06時17分

 抑留経験者がどうかは、定かではありませんが…。
 (昭和31年春病気で亡くなった)私の父も、先の戦争では徴兵されて、北満(北満州)に行かされたそうです。そしてかの地で、厳寒の真冬の夜に歩哨に立たせられ、それですっかり体をこわしてしまった…。
 母からその話を聞いたのは、私が30歳を過ぎた頃のことだったと思います。父に関しては、私が小学校に入学した年の4月に亡くなったもので、ほんの数えるほどしか記憶がなくて。それまでの私は、10代、20代をとおして、『オヤジめ。おふくろとオレたちを残して早く死んじまって。、オヤジさえ生きていてくれたらたらなあ』というふうに思うことしばしばでした。
 しかし、母からその話を聞いて、かの「異国の丘」に親父も立ったんだ。『そうだったのか』。にわかに、父を見直し、誇りに思えるようになりました。
 それにしても、今にして思うと。sunday様ではないですが、私も母が元気なうちに、父のこと、我が家系に関わるさまざまなこと…しっかり聞いておけばよかった。そう思います。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月25日 (金) 18時45分

父母と姉と兄が、戦後満州から引き上げて命からがら戻ってきた日本で私は生まれました。昭和23年生まれの60歳です。

母から満州の生活や、ひきあげの道中の事など色々聞いて育ちました。「異国の丘」を聞くと満州でも、日本に戻ってからも苦労の連続だった今は亡き父母の事が思い出されます。そして「泣けてきます。

二木様いつも素晴らしい解説と歌をありがとうございます。

投稿: setuko | 2008年7月 2日 (水) 23時19分

 二度と繰り返してはいけない戦争、戦勝国にも多大な犠牲者が出るのです。
 私の近くに航空自衛隊の教育隊があります、戦後生まれの親達は「うちの息子は、娘は・・」なんて自慢なのかも知れませんが入隊式の時はたくさんの親御さんたちが日本全国から来てるようです、又3ヵ月後の前期教育終了時にも又来ております、代々木公園で雨の中の学徒出陣などをテレビで見たりしてうちの息子はなんて誉れに思っているのではないでしょうか、企業で言えば単に入社式であり親が行きますか?
 ホテルや交通関係は潤うております、また、弾が飛んで来る所には自衛隊は行かさないのが前提だそうです、海外派兵はしなかったものが小泉総理の時代からはイラクなど海外へ派兵も辞さないことになっております。
 万一の時には必要なことは理解できます、しかしあなたの息子さんが撃たれて死んだと言うことになれば仕方がないで済みますか?
 私も陸上自衛隊の経験者です、とにかく戦争はいけません、祖国の防衛だけに専従してほしいのです。

投稿: トクラテス | 2008年8月12日 (火) 19時19分

終戦後、満州、シベリア、中国などからの帰国時の悲劇や惨状は、書物などで、知ることができました。私は、終戦時はまだ少年でしたが、その状況の中に、身を置く方々の無念や絶望感を少し感じることができました。昭和17年ごろ、ルビのふってあった新聞には連日連戦、連勝、敵戦艦撃沈、轟沈、爆沈の文字が、躍っていました。のちに、それが全て、でたらめだったと知り、国家たるものが、いざとなると平気で嘘を言うんだ。憤慨しました。いまでも、その体質は残っているようですが。

投稿: 羽田光利 | 2008年12月 6日 (土) 01時33分

昭和25年頃神戸の新開地劇場に竹山逸郎平野愛子夫妻が公演に来られ当時高校生だった私は入場料を捻出して聴きに参りました。竹山さんはアカペラで此の歌を唄われその声量に度肝を抜かれたことを未だ憶えていますが、夭折されたのは残念でした。
反対に平野さんの退廃的で物憂げな歌い方はこの方の雰囲気なのでしょうが対照的に感じたものです。あれから50有余年が過ぎ去り”戦友”14連を唄える方々も少なくなりました(;;)

投稿: y.okamoto | 2009年6月20日 (土) 14時19分

 
 「終戦日わだつみのこえ音読す」

 悲しい護国の鬼たちよ
 すさまじい夜の春雷の中に
 君達はまた銃剣をとり
 遠ざかる俺たちを呼んでいるのだろうか
 ある者は脳髄を射ち割られ
 ある者は胸部を射ち抜かれて
 よろめき叫ぶ君達の声は
 どろどろと俺の胸を打ち
 びたびたと冷たいものを額に通わせる。
 黒い夜の貨物船上に
 かなしい歴史は空から降る。
   夜の春雷より
  田辺利宏 (16年8月華中にて戦死、26歳」
 

投稿: ハコベの花 | 2009年8月15日 (土) 12時47分

私は戦争の悲惨さを見て、聞いて、読んで、それなりにわかっているつもりです。ですが、あえて私の年長の友に聞いた話をします。

彼は、シベリヤ抑留者です。私が「大変だったでしょう」と聞いたら、「うん、でも、そうでもないよ」と言って、やってるふりしてみんなで手抜きをするやり方とか、遠くまで物を調達にやらされた時にこっそり楽しんできた話とか、懐かしそうにしてくれました。人間は苦しいときでも結構したたかなんだなと思いました。

もちろん、悲惨な目にあって本当に極限で死んで行かれた方々もいらっしゃるとは思いますが、そういう証言者もいたということを私自身驚きをもってお伝えします。

投稿: 吟二 | 2009年8月16日 (日) 23時06分

この歌は幼い頃、よく歌っていたものです。高校の英語の先生がシベリア抑留の経験者でした。果たして、もともとどんな性格だったのかわかりませんが、かなり皮肉屋で、辛らつな叱り方をする人でした・・・・・・。

投稿: Bianca | 2009年8月18日 (火) 20時05分

僕は昭和50年生まれ、シベリア抑留の事は自分で調べてようやく知ったような世代ですが、なぜだかこの曲が大好きです。

しかし、この曲を聞いても自分でも歌っても涙が止まりません。

古いおじさんたちの集まるスナックで歌ったら、おじさんたちが泣いていました。

もはや言葉でなど表せない情緒、生身の人の思い、それが感じられて言葉がありません。

投稿: にゃんこ | 2010年6月26日 (土) 22時11分

ワタシはS32生まれの52歳。幼少からの懐メロ好きで、素人ですが40年以上人前で下手な落語を口演しております。以前に伺った特別養護老人ホームで落語が通じず、カラオケに切り替えましたところ、入所以来3年半まったく口をきかなかったオジイサンがこの曲をかけたら涙滂沱し、「シベリアに3年居た、寒かったンだ」と喋り出した稀有な体験がございます。「唄」は時に人の記憶の引き出しの引き手であります。このサイトを知ったのは偶然でありますが、楽しみにして拝読させて戴きます。主催者様に感謝申し上げつつ、初めてのコメントを送らせて戴きました。

投稿: 世間亭東志郎 | 2010年8月16日 (月) 19時03分

昭和23年生まれの62歳です。
数年前からときどきこのページをのぞかせていただいております。
4年前父が86歳で亡くなりました。
今夏、話題となった浅田次郎著「終わらざる夏」の北千島・占守(シュムシュ)島でロシア軍と戦った戦士でした。
その後2年間のシベリア抑留を経て帰国。
最近その場所がウラジオストック近郊のアルチョム(炭鉱)と知りました。
なんと吉田正さんと同じだったのですね。
そういえば私が幼いころ、よくこの「異国の丘」を歌っておりました。
にぎやかなことが好きな父でした。
きっと今頃は天国で二人で合唱していることでしょう。
あまり孝行できなかった不肖の息子でしたが、これからはせめて供養に努めたいと思っています。 
詳しい内容をお知らせいただいた二木様には感謝の気持ちでいっぱいです。
 合掌

投稿: k-nishi | 2010年9月24日 (金) 22時25分

8月にシベリア巡礼の旅に行ってきました。私の父はバイカル湖とチタの間にあるノボパブロフカで1945年11月より赤松の伐採作業に従事、翌46年5月に収容所で亡くなりました。17年前に機会があって調べ始め、死ぬまでの足取り、死んだ場所も、さらには丁寧にも荼毘に付してくださった方も判明しました。今回、ウラン・ウデの小高い丘の上でノボパブロフカに向かって追悼式を行いましたが、「異国の丘」の歌詞を思い出させる風景で思わず涙がこぼれました。父の死を無駄にしないためには戦争を2度と起こさないようにすることしです。戦争放棄の憲法が危うくなっている事をとても憂慮しています。

投稿: M-ENDOH | 2010年10月11日 (月) 22時55分

この度 老人ホームの慰問で「異国の歌」を合唱することになりました。大勢の歌手がこの歌を歌ってきましたが、私はこの歌を亡きお父さんに捧げるつもりで歌おうと思います。抑留先で父が歌ったかどうかは判りません。おそらく部隊が違うのでしょう。腸チフスに感染した父は日本に返されることになりました。凍りつく毛布まとって担架で貨物列車に乗せられ横たわりました。この列車は何処に向かっているのでだろうか。妻子の元にこれで辿り着けるのだろうか。激しい下痢が続き意識が薄れる。北朝鮮の感興南道の駅で父は下ろされました。その先どうなったはわかりません。昭和21年1月1日死亡の通知と白木の位牌が妻と子の元に届きました。「異国の丘」は小太鼓を入れた行進曲風には歌えません。お父さんと僕の鎮魂歌です。父の名前を記させて下さい。大野達之助と申します。

投稿: 大野輝雄 | 2011年7月 2日 (土) 04時11分

夏になると敗戦の年を思い出します。疎開先から帰ってきた街は一面の焼野原、小さなバラックが2,3軒見えるのみ。
復員してくる兵隊さんが、リュックを背負い庭いにいる私の母に自分の家がどの辺りか尋ね、家族が無事かどうかをきくのです。分かる限りは教えていたようですが、復員された方々は浦島太郎のような気持ちだったと思います。帰ってこられても、家族が戦災で亡くなってしまった方も居られたと思います。何のために国民がこんな不幸を味わうことになってしまったのでしょうか。焼け野原に帰ってきた人は、南瓜や大豆の他に、花を植えました。鳳仙花やダリア、彼岸花まで植えていたのを思い出します。花は平和の象徴だったのでしょう。

投稿: ハコベの花 | 2011年7月 2日 (土) 11時48分

8月に入り、66年前の終戦前後のことをいろいろと考えさせられる季節になりました。先日、井上ひさしの最後の長編小説「一週間」(新潮社、2010)を読む機会があり、シベリア抑留のことを重く考えさせられました。(この作家独特の笑いとユーモアが各所にちりばめてありますが・・・)

この本によれば、抑留の件は、停戦会談時に日本(関東軍)側から、食料の不足や本土へ送還させる輸送船が用意できないため、60万人の将兵の受け入れ態勢が整うまで満州やソ連極東地方に残留させて欲しい、とソ連側に申し出たもの、とのこと。 そして、抑留中の犠牲者の98%は兵卒で、その死因は、旧日本軍の身分制度をそのまま抑留生活に持ち込んだ旧軍将校・下士官による兵卒への食料ピンハネ、重労働の押し付け、リンチなどの要素が大きかった、とのこと。そして、ソ連側はそれを見てみぬフリをしていた、とのこと。

さらに、関東軍最高幹部には、捕虜待遇についての国際法の知識がほとんどゼロで、その点、同じくソ連に抑留されたが、戦時国際法に準じた待遇を要求し続けたドイツやイタリアの場合に比べ、抑留中の生活レベルがまったく異なっていた、とのこと。(この点も、ソ連側は日本側の知識レベルに合わせた待遇しかしなかった)。

この本は井上ひさし作品らしく波乱万丈で「面白い」のですが、主人公の結末も含め、「重い」ものでもありました。

投稿: Snowman | 2011年8月 4日 (木) 21時55分

 NHKにて、唄われたとき、鐘を鳴らす方も、思わず固唾を飲んで、鐘を打ち鳴らす手がしばし止まった・・・・という逸話をお聞きしたことがあります。

 戦時下は、「華々しく・・・」、などという戦意高揚を意識した歌や文化が潮流になっていたように聞いています。

ですが、戦争が終わって、生きて帰ることを歌える(謳える)ようになり、仲間とともに祖国の地を踏むことを願い夢見る、そんな思いが強く伝わってくる名曲ですね。

投稿: 若冲 | 2011年8月16日 (火) 01時32分

 「異国の丘」はシベリア抑留者の辛苦を伝える歌です。今は、直接に体験を伝える人も少なくなりました。このコメント欄に父は多くは語ろうとしなかったというという声がありましたが、「いいたくない」それこそが戦争の実相だと思います。私も父から戦争体験を聞きましたが、つらつら考えてみると本当に辛い部分、醜い部分については告白しないのが人間だと思っています。つまり父も話したくないところはさけて話したということです。
 
 解説文にある通り「共産主義教育に反抗的だった者ほど帰還を遅らされた」という報告は有名です。そこでは 誰が反抗的かを日本人どおし相互監視するシステムがあったのです。仲間を密告して帰国を早くしてもらうというものです。
 戦争という大状況の中でそれぞれ小さな状況があります。その中で人としての誇りや節度を守った人はえらいとおもいます。

投稿: 七色仮面 | 2012年11月 8日 (木) 22時53分

この歌を歌う度に、言い知れぬ怒りを覚えます。それは戦時国際法を知っていながら、捕虜の日本兵を収容所に送って強制労働に従事させたソ連に対してであり、もう一つは戦時国際法も知らずして、ソ連と取引をした関東軍(満州にいた日本軍のこと)上層部に対してです(もし知っていて取引をしたなら、関係者は本当に人非人であり、売国奴です)。
 ソ連による、所謂シベリア抑留の不当性については、すでに言い尽くされていますが、もう一つの関東軍上層部による処置については、あまり知られていません。この件については、このブログでSnowman様が既にコメントされていますので重複を避けますが、関東軍の将兵65万人を、自己の都合でソ連に売ったと言っていいでしょう。
 このことを、わたしもSnowman様と同じく、井上ひさし氏の小説『一週間』で知ったのですが、当初信じられませんでした。しかし、何より証拠を重視する井上氏のことですから、その事実はあり得たと、今では確信しています。
 その後、冷戦下に入りアメリカ陣営にくみした日本は真相を隠し、ソ連を敵視する格好の材料として、悲劇のシベリア抑留を宣伝したものと、わたしは推測しています。

投稿: ひろし | 2012年11月 9日 (金) 16時33分

 いつの時代でも腐っているのは上層部です。私は国際法について当時の関東軍幹部は知っていたと思います。第一次世界大戦の時、日英同盟を口実に山東省青島のドイツを攻撃して、その捕虜を久留米、鳴門の収容所に入れます。後に捕虜の待遇が模範的とほめられた日本です。世界からどう見られるかをつねに気にしている国が国際法を研究していないはずがない。自軍の将兵を売った可能性はきわめて高い。国民の怒りを恐れてウソを言っているととらえるべきでしょう。
 また昭和19年ごろから特攻隊で出撃する若い兵士にわずかな酒で別れの杯をやりますが、幹部将校は毎日たらふく肉も食っていたという証言もあります。(『1億人の証言』:毎日新聞社)上層部の連中は一兵卒の命などなんとも思ってないんです。頭の中はおのれの保身だけです。今の官僚の姿をみれば想像は容易ですよね。
 敵は本能寺にありと言いますが、人民の敵は外国ではなく国内にありです。ひろし様に触発されてすこし過激なコメントになってしまいました。

投稿: 七色仮面 | 2012年11月 9日 (金) 17時19分

 訂正します。『1億人の証言』ではなく『1億人の昭和史』です。すみません。ついでにお話します。
 当時、作家も従軍記事を書かねばならず、特攻基地によく来たそうです。鹿屋か知覧かは忘れましたが、その時、山岡荘八は隊員の中に入り、話をよく聞き、後日彼らを顕彰する文章を書いたくれ、うれしかった。しかし川端康成は将校たちとたらふく飲み食いするばかりであったという もと整備兵の怒りの証言が印象的でした。(『1億人の昭和史:特別攻撃隊』の中にあります。)


投稿: 七色仮面 | 2012年11月 9日 (金) 22時44分

平和に関心を持つお前が、カラオケ大会で、軍歌ばかりを唄うのが、理解できないと、仲間は言う。昭和の庶民史を語る会として、軍歌も、気になる重要な、テーマである。勇ましいと思われる軍歌のなかに、反戦の心を秘めているように、思われる部分を感じることがある。敬遠されても、歴史として唄いたい昭和の庶民史を語る会、13・09・17

台風18号で、大阪、堺境界の大和川の増水危機で、避難している人がいるのに、敬老会のカラオケ大会もないだろうとの声もあったが、出かける。10年間ほど、大勢が集まるカラオケ大会では、軍歌、戦時歌謡専門である。今回は、初めて『暁に祈る』を唄うが、老人会の人たちの本音を、聞きたいもの??昭和の庶民史を語る会、13・09・17

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2013年9月17日 (火) 13時04分

僕は昭和六年生まれの台湾人です。国民学校六年卒業後に敗戦を迎え徴兵された兄さんも武装解除で帰宅し、今後の行き先は、、、茫然に至り!
異国の丘は228事件数年間後に台湾で流行したが間もないうちに蒋介石政権により禁止されました。私この歌を亡き兄の歌声を思いながら合わせて歌います、悲しいです

投稿: 宋貴順 | 2014年7月11日 (金) 21時59分

宋貴順 様

昭和6年生まれとのことですから、私より16年人生の先輩ですね。私は昭和22年12月九州・小倉市生まれの日本人です。
「二木紘三のうた物語」を訪問頂き、有難うございます。
「天ハ、人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」が世界の基本だと思います。日本と言う国は、あの当時、台湾(今の中華民国)を植民地にしていました。善政もしましたが、悪政もしました。
政府は、私欲のために自国民も犠牲にします。福島の原発事故でそれを痛感しました。アメリカは自国民に80km圏外への避難を勧告しましたが、日本政府は3kmから小出しに広げ、国民を被ばくさせました。
「異国の丘」の作曲者・吉田 正さんは、私が今住んでいる茨城県日立市の出身です。私も現役の頃、中華民国へ出張の機会があり、現地台北の特約店で高齢の役員の方にお会いしました。綺麗な日本語をお話でした。自分の日本語が恥ずかしいくらいでした。日本語がお分かりの様ですから、良い日本をお楽しみ下さい。お元気で。

投稿: 竹永尚義 | 2014年7月12日 (土) 17時12分

宋 貴順さま
 2,28事件とは1947年の台湾人と国民党政府(大陸人=外省人)との衝突、対立、虐殺事件ですね。
それはきっかけに過ぎず、その後、台湾人にとって、蒋介石=国民党政府によって徹底的に弾圧された悲惨な歴史があります。その上に、かつての日本の統治時代に徴兵された人々の歴史がありますから、複雑にして、屈折した思いがあるでしょう。
 私たちは、「ノー天気な団塊世代」といわれますが、正直その通りです。
ノー天気とは、結局は、かたよった勉強、井の中の蛙、独りよがり、ということでしょうか。
 その証拠に、団塊世代の人で、2,28事件を知らなかった人は、多いのではないでしょうか。
もう一度、台湾と日本の歴史を勉強してみます。

投稿: 七色仮面 | 2014年7月13日 (日) 01時44分

七色仮面 様
 台湾で発生した二・二八事件(1947年)の真相が、ほよんど知られなかった理由は、当事者である国民党政府(台湾政府)の徹底した言論封殺(戒厳令が40年間布かれた)と、冷戦下の国際環境によるものと思われます。事件発生のニュースは、当時も新聞・ラジオなどで簡単に報じられましたが、国民党政府(当時は、蒋介石政府)による大規模な「白色テロ」(支配階級による恐怖政治のこと)の真相が判明した後も、冷戦体制下で社会主義陣営を利するという理由で報道管制が敷かれたようです。漸く一般に知られるようになるのは、1988年に成立した李登輝政権(国民党)以後のことです。この政権以後、民主化が進み言論の自由が認められたからです。
 わたしが、この事件の詳細を知ったのは、映画「悲情城市」(1989年、ヴェネティア映画祭金賞作品 侯孝賢監督)を見たときです。知識人や反政府的な学生リーダー、親日家などが狙われ、多数拷問や処刑にされたことを知りました。あなた様は、この事件を知らないのは、「ノー天気な団塊世代」のせいではないか、と自虐的にコメントされていますが、そのようなことはありません。なお、この事件関係者を身近に知る黄敬熙様が、本サイトの『幌馬車の唄』に貴重なコメントを寄せられていますので、ご覧ください。

投稿: ひろし | 2014年7月14日 (月) 12時12分

ニ・ニ八事件と白色テロについて
まずは事実関係から
ニ・ニ八事件の発生1947年2月28日
1947年3月5日基隆港と高雄港に南京から鎮圧部隊到着
「1947年4月22日、南京の国民党政権は陳儀行政長官を罷免、長官公署を廃止し、「台湾省政府」を設置
1947年5月17日には米国に受けの良い魏道明が台湾省政府主席に就任した。
就任翌日、戒厳令を解除し、「二・二八事件」関係者逮捕の中止を声明した。(しかし、実際は事件関係者の逮捕と処刑は暫く続く事になる。魏道明主席は台湾人懐柔策として台湾省政府委員や省政府高官の半数に台湾人を起用したが、結局は彼らの部下である
外省人が実権を掌握していた。)」
MASAKI'S PLACE台湾の歴史-虐殺と粛清
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-
Gaien/6613/Taiwan/History/history10.html
1949年5月20日大陸での劣勢を背景に戒厳令発令(1987年7月15日解除)
1949年10月1日中華人民共和国誕生
「ある50年代の政治受難者によれば『1950年になると、国民党は台湾をすら守りきれなくなった。看守でさえ、我々政治犯に対し遠慮
がちで、毎日我々を外に出し運動させた。いくつかの地方の風見鶏政治家にいたっては政治犯に熱心に取り入り、留守宅に現金や物を
届けた。このことからも台湾は間もなく開放されると誰もが当時考えていたことが判るだろう』藍博州『幌馬車の歌』新版222ページ
1950年6月25日朝鮮戦争勃発 アメリカの反共戦略により国民党は息を吹き返した。
1950年10月14日映画『非情都市』の呉継(実際は鍾浩東)とその同志銃殺
1952年12月28日鹿窟事件発生『非情都市』の社会主義の青年たちが山中で捕殺されたシーンの裏付け事実
『ニ・ニ八は思想的な裏付けのない民衆の素朴な感情の爆発でした』・・・・・・「ニ・ニ八が組織的な暴動で、軍隊による鎮圧もやむをえなかったとする政府の見解を擁護してしまうことになると、台湾の人々は神経をとがらせる』田村志津枝『非常都市の人々』170ページ
もっとも『非情都市』の原作を書いた藍博州は『幌馬車の歌』新版202ページで「制作当時の政治的制約のため侯監督はそれを1949年の国民党台湾撤退までに圧縮してしまった。」と説明しています。
本サイトの『幌馬車の唄』のコメントについていえば、蔡焜燦『台湾人と日本精神』28~30ページの文章が紹介されているものです。

投稿: 昭和19年生 | 2014年7月14日 (月) 21時52分

 ひろし 様
 さっそく『幌馬車の唄』の黄敬煕様のコメントを読み、『非情城市』も中国版ですが、ウィキぺディアのあらすじを援用しながら見ました。本来なら日本語訳の映画を見て、昭和19年生様の紹介された文献も読んだ上で、返事を書くべきかとも、思いましたが、歳月は移ろいやすく、それがうそになってしまうのを恐れて、ただ今思うことを述べます。
 
 蒋介石の独裁政権が40年ほど続き、2,28事件やその後の弾圧は隠蔽されたということですね。たしかに政権にとっては、聞こえが悪い、恥部ともいえる出来事です。
 今の中国政府にとっての天安門事件と同様です。私はそういう隠蔽については、右も左も、白色も赤色もない、すべての権力は、そういうことを、いつもやるものだと思います。権力の隠蔽したがる事件を、ある意味命がけで報じていくのは、ジャーナリストの役目です。しかし、今の日本は、餌をもらうヒナ鳥のように横一列に並んで「記者クラブ」を通じて、権力から情報をもらい垂れ流している。彼らに、ジャーナリスト魂などは期待できない。彼らの新聞を長期間読んで、ノー天気にさせられた世代だという思いがあって、前回使いました。(笑)
 
 私の故郷は、九州の南の島で、沖縄に近いところです。江戸時代に大名・島津の侵略と支配をうけ、徹底的な収奪を受けたところです。ゆえに大陸の人間が、島に押しと寄せ、島の人間を徹底支配していくという様子がイメージでき、台湾の歴史が他人事と思えないのです。
 明治維新を成し遂げた薩摩藩の財力のもとは、「密貿易」と「サトウキビの専売」であったといわれています。専売とはサトウキビを1本残らず、管理下に置き、安く買いたたき、江戸・大阪に高く売り、利益を独占するというものです。時代や政治情勢は、もちろんちがいますが、郷土の歴史と台湾の歴史は重なるところがあります。

 最後に、このブログの親切な、そして真剣な読者のご意見に感謝いたします。昭和19年生様の文献の紹介、とくにうれしいです。二木先生、『異国の丘』から遠ざかった話になりましたが、先のコメントからの関連ということでお許しください。

投稿: 七色仮面 | 2014年7月16日 (水) 13時09分

七色仮面 様
 小生宛コメント拝読しました。抑圧された民衆の側に暖かな視線を注がれる、あなた様のご持論に共感を覚えました。あなた様の故郷は、鹿児島県の奄美大島と拝察しますが、奄美も琉球(沖縄)も、17世紀初めに薩摩藩の侵攻を受け支配された歴史がありますね。
 「ノー天気な団塊世代」かどうか、の世代論は置いて、あなた様が問題視されている「記者クラブ」についても同感です。が、これを廃止するのは相当困難でしょう。しかし、今はさいわいインターネットがあります。これも権力側が管理できるとはいえ、情報を完全にシャットアウトすることはできません。情報社会に生きるわたしたちには、常にアンテナを高く張る努力と、何が公正で、真実の情報なのかを判断する能力が求められているように思います。少なくとも、日頃接しているマスコミの情報を、鵜呑みにしない賢明さが必要なのではないでしょうか。

 本題と離れてしまいました。削除されても致し方ないとは思いますが、管理者のご判断にお任せします。 

投稿: ひろし | 2014年7月17日 (木) 11時31分

私は昭和46年生まれですが、父は海軍の戦争経験者でした。その父から経験談を聞くうちに、自分から歴史や戦争について調べるようになり、そして引き上げの事を知るようになりました。戦後、引上港として機能した舞鶴港(京都府舞鶴市)には、舞鶴引揚記念館という博物館があって見学もしました・・・。想像を絶するような状況のもと祖国への思いを持っておられた方々の事を考えると、自分の中で“祖国とは一体何か”再考するいい機会となりました。なお、舞鶴引揚記念館の「引き上げ」資料が、ユネスコの世界記憶遺産登録の日本国内候補に決定している事を記しておきます。

投稿: kura761 | 2015年9月19日 (土) 00時42分

Kura761 様

 私は昭和27年生まれの戦後世代です。亡くなりました父(大正14年生)は最後の初年兵として満州送りとなり、すぐにソビエトの侵攻をうけ捕囚となり、シベリア抑留経験者でした。
 生前も戦争体験、抑留体験についてはほとんど話しませんでしたが、たまに口にする出来事は戦争体験のない私にもその過酷さは想像がつきました。
 大学時代に舞鶴出身だった同級生の家に遊びに行き、父が復員してきた舞鶴港を見てきました。赤レンガ倉庫群が記憶に残っていますが、舞鶴港には海上自衛隊の艦船、アメリカ軍の艦船、シベリアからの木材の輸送船が入り乱れ
「ここは国際港だな」と感じたのを覚えています。

 二木先生のこのサイトでもシベリア抑留=『異国の丘』についてたくさんのコメントが寄せられていますが、私が
子供の頃から聞いています下手くそな父の爪弾くギターの
曲の中には「異国の丘」はありませんでした。
ソビエトの捕虜収容所はシベリアから蒙古まで広範囲に点在していたそうですから『異国の丘』が伝わっていなかった収容所もあったのでしょう。私がよく耳にしたのは、田端義男の『帰り船』でした。

 あなたは昭和46年生まれと書かれております。あなたのように戦後生まれの若い世代が先の大戦に関心を持たれることはとても大切なことだと思います。
 私も中途半端な劇画作家として第2次大戦を研究しています。
 朝刊1面に大きく『安保法成立』と書かれた今日の日に、肉親に「シベリア抑留者」を持つ者として、おたがいに先の大戦について研究を続けましょう。

投稿: 高原 勉 | 2015年9月19日 (土) 19時00分

シベリア抑留の記録が世界記憶遺産として国際的に認められた。ロシアはそれの取り消しを求めている。ソ連軍は日本の敗戦が決まってから、旧満州の国境を越えて日本婦女に暴虐の限りを尽くし、日本男性をシベリアに送り、千島列島を武力で強奪した。日本人は忘れてはならない。今まで日本はずっと国際的なアピールを行わずに無言であった。北方領土を決して返さぬ以上、遠慮なく糾弾すればよい。

投稿: 正義の人 | 2015年10月16日 (金) 23時55分


 この『異国の丘』は、私には、竹山逸郎ではなく三浦洸一の持ち歌として強く記憶に残っています。 昭和36年(1961年)シングルカバー、テレビやラジオで三浦洸一の歌唱で流れていました。 ちょうどTVドラマ『青年の樹』が放映されていた頃で、その主題歌を三浦洸一が唄っていました。♪く〜もがながれる おかのう〜え〜♪(作詞 石原慎太郎・作曲 山本直純)
 竹山逸郎が既に一線を退いていたので、吉田正としても新たに『異国の丘』を唄ってくれる歌手を望んでいたのでしょうね。 背筋を伸ばして真摯に、張りのある声で唄う三浦洸一は吉田正の願ったりの門下生だったわけです。後年、懐メロ番組で『異国の丘』を唄う本家の竹山逸郎の映像を視聴しましたが、お酒で身体を壊したらしく、往年の声量ある歌声ではありませんでした。かなりの酒豪だったらしいですね。
 三浦洸一翁も今年の元旦で91歳になりました。
 そういえば、横綱柏戸が三浦洸一にソックリだなんて言われてたこと
がありましたっけ…。『青年の樹』に出てた寺島達夫という俳優が長嶋
選手に似てるとも…。 もう57年も昔の話ですが。

投稿: かせい | 2019年3月 5日 (火) 18時48分

三浦洸一さんの端正な歌唱法は昭和の思い出です。
柏戸は我が県出身、確かに似てますね。
柏戸華やかなりし頃が思い出されます。
柏戸の前は彼の姓「富樫」を名乗ってました。
中学2年生(昭和36年)当時の国語担当は青年教師で女子に人気がありました。党員教師に目を掛けられる一方で文学的な彼にも多少の気があったのか
富樫というその教師に「富樫では縁起が悪いから柏戸にしたんだ」と憎まれ口を聞いたことが不意に甦りました。何とも少女ながらに悪ガキだった私。二木先生のブログには埋もれていた思い出を喚起させる力があります。
二木先生とかせい様に感謝です。

投稿: りんご | 2019年3月 5日 (火) 20時40分

 私は昭和18年生まれの75歳です。父がシベリヤ抑留で亡くなりました。母も4年ほど前に97歳で没しました。この歌の3番に「倒れちゃならない祖国の土にたどりつくまでその日まで」とありますが、「ああモンテルパの夜は更けて」の3番とよく似ています。もう一度戦後のことを勉強しようと思います。

投稿: 今でも青春 | 2019年8月28日 (水) 21時51分

私の父も平壌でソビエト軍に武装解除され、3年半の抑留生活を送りました。亡くなって13年になりますが、定年退職した1977年頃に抑留生活を「捕虜日記」として一冊にまとめ、残しました。「異国の丘」を聴くと、私も3番の「倒れちゃならない 祖国の土にたどりつくまでその日まで」が心に沁みます。飢えや寒さ、辛い労働を「祖国へ帰るんだ!」という思いで乗り越えて来たのだろうと思うのです。

投稿: 菊理媛 | 2020年4月19日 (日) 18時36分

私の父親は満州で現地召集され、8月にソ満国境で行軍死。37歳でした。母親は身重で幼い二人の子供を連れてやっと帰国し、年末に私が生まれました。現在74歳。妻の父親はシベリア抑留で昭和25年に帰国して今の妻が出生。最近,西木暉氏の「異国の丘へ」という本を読み、増田幸治 軍曹の原詩を知りました。本間喜市氏の「タブリチャンカの記録」を元に書き起こされた小説と紹介されています。戦争という加害・被害の歴史の中でも、辛くも生き残った人たちの深い絶望と、それでも消し難い生き抜きたいという必死さを痛感します。

投稿: 三浦克弥 | 2020年6月20日 (土) 12時31分

「異国の丘」戦後に生まれて実際には戦争の何たるかも知り得ないこの私でさえ、この唄を聴く度にどうしても胸が熱くなるものを感じます!

明解に詳細が述べられている『蛇足』の解説を始め、また図書館にある資料でも以前から興味深かったシベリア抑留については自分なりに色々と調べたりしましたが、そういう中で私が漠然と実感させられたのはただ一点で、戦争は人を狂わせるということでした。

この唄のページに皆さまから数多く寄せられた貴重なコメントの数々を拝読いたしましたが、その中の一文
>「戦争という大状況の中でそれぞれ小さな状況があります。その中で人としての誇りや節度を守った人はえらいとおもいます。」
ここ数年SNSの普及によりネット上では、何の根拠も確証もない無責任な誹謗中傷コメント投稿が異常に横行しており、現在のその風潮は「遺憾」なのではという思いが私の心の中のどこかに潜んでいたので、そんな私にはより新鮮に感じてしまうのかも知れませんが、2012年11月8日ご投稿七色仮面様の上記の簡素なお言葉には素直に頷けるものがありました。

倒れちゃならない 祖国の土に

たどりつくまで その日まで・・・

あのフィリピンでの日本兵士の惨状を歌った「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌詞にもあるように、「異国の丘」3聯の上記の歌詞にも、やはり揺るぎない日本人の強い愛国心を感じさせるものがあり、長年を経た現在に於いても日本人としての誇りと自尊心をけして失いたくはないと、この唄は改めて思わせてくれます。

戦後において数えきれないほどの流行歌を世に排出した大作曲家𠮷田正の作品の中でも、「異国の丘」この作品だけには特別な思いを私は抱いてしまいます。

投稿: 芳勝 | 2020年6月21日 (日) 14時50分

 2007年10月、二木先生にこの歌を掲載していただき感謝します。戦中生れの私は「異国の丘」をのど自慢大会やラジオで聞いてるうちに覚えました。昭和30年(1955年)頃シベリヤ抑留から故郷に帰ってこられた兵隊さんを村人達は小学校校庭で出迎えました。シベリヤでお父さんや親戚が犠牲になったことを同級生は話してくれました。
 8月15日を過ぎてソ連軍は 敗戦国の日本人の人材狩りをします。優秀な日本人男性を騙したり、強制的にシベリヤ送りをしたと聞きました。犠牲になられた方々のお名前が戦後70年経過した令和の今でも新聞に掲載されます。

 二木先生の蛇足に下記のように説明されています。
*第二次大戦の最末期、日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に日本軍は降伏しました。 

 ソ連軍は「8月9日午前零時、満洲全面に一斉に侵攻」しました。
8月9日、日本本土の長崎には米軍による原爆が投下されました。終戦は1週間後の8月15日です。その後シベリヤ送りが始まります。
 私は当時2歳半、父の勤務するハルピンに引越して10日余りでした。ソ連軍侵攻で満洲が大混乱の中、当時31歳の父は8月13日現地召集され 約200㌔南下した長春(新京)防衛のため派遣されます。26歳の母、生後6ヶ月の妹と私を集め、父は母に「決して早まるな」と「青酸カリと砂糖」を渡しました。父は17日午後新京で現地解散になると深夜に弾丸列車を編成しソ連軍占領下を北上、奇跡的に18日朝ハルピンに戻った。半日かけてハルピンを捜索、同日夕方馬家溝に避難潜んでいた私たちを見つけ神仏のご加護と感謝していました。
 ソ連軍占領下で父は名前を変え別人になってシベリヤ送りを免れたそうです。もし父がシベリヤに送られていたら今の私は存在していません。通信手段途絶の中、若い母が父との再会の希望を失ったら今の私はありません。暑い夏が近づくと、強い運に恵まれ両親に守られてきた自分の人生をいつも思い起こします。

 3番の歌詞に
「重い雪空 日が薄い」とあります。「日が薄い」でなく「陽が薄い」と書かれた歌詞を見ました。

投稿: けん | 2020年6月21日 (日) 16時08分

けんさま
 
 「26歳の母、生後6ヶ月の妹と私を集め、父は母に「決して早まるな」と「青酸カリと砂糖」を渡しました。父は17日午後新京で現地解散になると深夜に弾丸列車を編成しソ連軍占領下を北上、奇跡的に18日朝ハルピンに戻った。半日かけてハルピンを捜索、同日夕方馬家溝に避難潜んでいた私たちを見つけ神仏のご加護と感謝していました。」

 けんさまのこのコメントに胸が熱くなってしまいました。自分の26歳と重ねあわせてしまいました。青酸カリを渡す、渡されたご両親の決死のお気持ちに、今更ながらその時の状況に思いを馳せてしまいました。

 昔、新田次郎の妻、藤原てい『流れる星は生きている』を読みました。やはり子供を連れての逃避行でした。また大昔に見た映画の一コマが忘れられません。女性たちの逃避行の映画で、タイトルの記憶はありません。その場面は必死の思いでたどり着いたどこまでも真っ直ぐに伸びた線路でした。子供を抱えた女性たちが鉄道の線路の先の日本に思いを寄る映像でした。

投稿: konoha | 2020年6月22日 (月) 09時50分

私の家族は昭和21年6月22日(つまり今日)、朝鮮からの引揚げ船で博多港にたどり着いた。

終戦時、私の家族は現在の南北朝鮮の軍事境界線(38度線)から数10kmほど北にあった安岳という小さな町に住んでいた。終戦後何日かしてソ連軍が進駐してきて、100世帯足らずの日本人は、或る日本人が経営していた旅館に強制収容させられた。私は8歳の子供であったから詳しいことは覚えていないが、やがて日本人は1軒、また1軒と南朝鮮を目指して脱走していった。残りが60世帯になったときに皆で集団脱走したということである。
夜中に出発して徒歩だったり、トラックだったり、無蓋の列車だったり、ソ連兵の目を盗んで少しずつ進んだ。買収した現地農民の納屋や馬小屋などに寝たことを覚えている。3日三晩程して明朝は南に行けるという晩は土砂降りの雨であった。漆黒の闇の中夜通し歩いて、明け方ケソンについた(当時は「開城」カイジョウと言っていた)。アメリカ兵はソ連兵に比べて優しくてスマートだった。やがて仁川から貨物船に乗って6月22日に博多港に到着した。最初の60世帯は、他所から脱走して来た日本人が合流して徐々に膨れ上がり船に乗ったときは数千人になっていたようである。

投稿: 周坊 | 2020年6月22日 (月) 12時31分

先月、ここにコメントが続きました。 以前からこの曲が耳に入ると、そのまま厳粛な気持ちになってしまいます。
地獄のような環境の中、死という極限の運命に直面しながらも一抹の希望を抱いて生き抜いていく、この曲はその切ない思いを見事に表現しているように感じます。 この歌詞もこのメロディーも、その絶望の世界の中なればこそ生まれ得たものなのでしょう。 まさに人の心をゆさぶる名曲です。

今次大戦に従軍された方々に対し、年端いかぬがゆえに参加できなかった者として、ひたすら申し訳なく、ただただ首をたれるばかりです。

このシベリア抑留事件については、戦後長い間詳細が明らかにされませんでした。 敗戦国家として、戦勝国を責めることになるような言動ははばかられましたし、日本独立後でも、どうも満洲で日本人将兵をソ連に売り渡した旧帝国軍人高官や、シベリアで共産主義教育に身を売った輩、いわゆるソ連派というのが、政界、マスコミ界に相当の力を及ぼしていて、この非人道事件を明らかにする動きを抑えていたらしいのです。 抑留者60万、死者6万という偽りの数字が流布され、定着してしまったのも、この輩の、為にする数字です。 また、「暁に祈る」事件もいまだにはっきりしません。

私の叔父は満洲帝国の官僚でした。 上海同文書院出身のエリートでしたから、若くしてかなりの高位にあったようです。 終戦時、満洲でも南の方にいたお蔭で無事に脱出できたようです。 この叔父が、私の学生時代のあるとき、機会があって、このシベリア抑留についてとっくりと解説してくれたのでした。 その国際法違反であるのみならず、その非道さ、残酷さ。 のみならず、ソ連という国家の、一見労働者の天国のごとき体制が、その実、凄まじい帝国主義国家であること、労働者を始め一般市民はただひたすら党高位の権力者に搾取されていること。
国家や個々人の表面的な言行には、まずは疑ってかからねばならないことを学びました。 また、当時全盛だった左翼的活動からも距離を置くことができました。 
このサイト、あまり政治的な言葉は慎まねばなりませんが、今少し。

このシベリア抑留の件、ソ連崩壊の後次第に明らかにされつつあるようですが、日本人として知っておくべきこと、多々未解明です。 今後の調査がまたれます。

巷間に流布されている数字、60万人、6万人は、さきに述べた通りソ連派のつくり事です。 (二木先生はさすがに別の数字を挙げておられますが)

アルハンゲリスキーというロシアのジャーナリストの最近の調査では、

俘虜総数            2,723,492
1945年だけでの死者     272,349 (10%)
45 -49年までの死者      374,041

この数字が事実に近いようです。 日本人として決して忘れてはならないと思います。
シベリアの大地に、無念の裡に倒れ伏した方々へ、改めて衷心より哀悼の意を表します。


投稿: 田主丸 | 2020年7月 4日 (土) 01時34分

作曲の吉田正は、鶴田浩二から誘われて「大衆の哀歓を知るには酒ぐらい飲まなきゃだめ」と誘われて酒場に行くようになったようです。二人ともいわば戦友ですね。

私は18歳のころ仲代達也主演の「人間の条件」を観て「絶対に戦争は二度としてはいけない」と誓い、当時主流だった平和憲法を死守すべきだと思いました。「岸を殺せ!」というデモに国会が取り囲まれていたころです。

しかし、高齢になって考えが変わりました。”平和とは方法論ですあかね雲”という川柳を作りました。平和はだれしも求めるものですが、それにはどうしたらよいのでしょう。ウクライナ紛争がそれを暗示させます。

投稿: 吟二 | 2022年6月12日 (日) 20時20分

 戦後、帰国船の中で人々は辛い逃避行のことなどは、溢れるように沢山話したでしょうが、人に言えない辛い過去は多くの人々にあって、それらは口をつぐんでいたと思われます。その証拠に「帰還した父はその当時のことはほとんど話さなかった」という証言者は沢山います。「シベリア抑留」という一種の拉致被害者たちは、奴隷にされても誇りを失わなかったと言われます。 
 そのような日本人の基本的精神ですが、明治の偉人たちは徳川時代の教育に依っており、大東亜戦争前までは明治・大正人の教育に依っており、戦後はアメリカGHQの方針に依っていると思います。そしてここ40年くらいはこの戦後思想の洗脳により、従来の日本精神はむしばまれ溶解してきているように思われます。東日本大震災に見たように、幸いまだいざという時の「団結力」や「性善説」「思い遣り」「恩」などの美風は残っています。しかし、性善説は残念ながら今では対外的には通用しません。対外的には性悪説、国内的には性善説と使い分けなければいけない嫌な世の中になりましたね。でも、世界中にも無い「日本文明」という美風は残したいと思っています。

投稿: 吟二 | 2023年10月 8日 (日) 23時06分

ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻が、この歌の悲劇を、未だ続いていることを物語っています。
日ソ不可侵条約の一方的な破棄と終戦後の侵攻・・スタリーンと重なる、プーチン、イスラエル首相・・悲劇、惨劇の連鎖は、確実に、続いています。
戦争の悲劇は、残念ながら、決して、決して無くなりません。憲法とか条約、交渉なんて、余り、効力がないことを私たちは、自覚しないと、戦没、抑留者の無念さは、真に理解できないでしょう。
極悪のヒットラーでさえ、スターリンを嫌い、恐れる余り、戦争を仕掛けたくらいですから。
そして、当時のルーズベルトやチャーチルは、北方領土などの割譲を餌に陣営に引き込んだことも決して、忘れてはなりません。
この歌の背景は、ロシア、中国、北朝鮮に隣接する日本の宿命の歌でもあります。
つまり、昔の歌ではなく、現代未来を警告暗示する歌と思えるのです。

投稿: 築地武士 | 2024年5月18日 (土) 17時49分

大地の子を思い出しました。満州司令長官だった主人の叔父さんが大きなボストンバッグを主人の実家宛てに送られて来た事をいつも主人から聞きます。陸軍大学校からドイツに留学し将校となって満州で軍務に従事しました。でも大変な思いもあったのでしょう。ご自分の親宛では無くて機密事項も有ったのか主人の母つまり従妹に預けたのですから。上川隆也さんも中国のお父さん役の人も暖かくて忘れません。

投稿: kazuyo | 2024年7月24日 (水) 06時58分

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