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2007年11月17日 (土)

仲よし小道

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:三苫やすし、作曲:河村光陽

1 仲よし小道は どこの道
  いつも学校へ みよちゃんと
  ランドセル背負(しょ)って 元気よく
  お歌をうたって 通う道

2 仲よし小道は うれしいな
  いつもとなりの みよちゃんが
  にこにこあそびに かけてくる
  なんなんなの花 匂(にお)う道

3 仲よし小道の 小川には
  とんとん板橋 かけてある
  仲よくならんで 腰かけて
  お話するのよ たのしいな

4 仲よし小道の 日ぐれには
  母さまお家(うち)で お呼びです
  さよならさよなら また明日(あした)
  お手手をふりふり さようなら

《蛇足》 昭和14年(1939)に童謡集『ズブヌレ雀』に掲載された三苫(みとま)やすしの詩に、河村光陽が曲をつけてキング・レコードへ持ち込んだ歌。河村の長女・順子の歌でレコーディングされました。

 河村光陽は明治30年(1897)8月23日、福岡県田川郡上野村(現福智町)に生まれました。日本支配下にあった朝鮮で音楽教師をしたのち、上京して東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)に学び、やがて童謡の作曲に携わるようになります。
 『かもめの水兵さん』『うれしいひなまつり』『グッドバイ』『赤い帽子白い帽子』『リンゴのひとりごと』など1000余曲を作曲し、日本の童謡史に一時代を築きました。
 昭和21年
(1946)12月24日、胃潰瘍のため、49歳の若さで亡くなりました。

 曲が47抜き(よなぬき)短音階で作られているためか、日本人的な心情にすんなりなじむような気がします。
 子どもたちがなんの心配もなく通学し、外で遊んでいられたころの情景です。こんな時代もあったのです。

(二木紘三)

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コメント

想い出の歌です。

投稿: 西山 利寿 | 2008年2月14日 (木) 22時22分

 私が三歳の頃、二歳上の姉が幼稚園の学芸会でこの曲に合わせてダンスをしていました。何気ない日常のひとコマですが、私には絶対に忘れられない強い印象があります。当時自営をしていた父が心臓病を患いその後急に元気をなくし、床に伏せることが多くなり病弱な私と療養することが屡でした。
 私が八歳の冬に父は母と私たち姉弟を遺し三十九歳でこの世を去りました。母の懸命の働きで大学を出してもらい何の不満もありませんが、ともすればこの世を悲観的に感じてしまう習性があります。
 父が元気なとき前途に何の不安もないという意味で家族は幸せの絶頂にありました。無邪気に踊る姉の姿と楽しい毎日と優しかった父の思い出としてこの歌を耳にする度に目頭が熱くなります。
 当時は国も復興の真っ只中、幸せは今日より明日、明日より明後日とドンドン暮らし振りが良くなる風潮がありました。どんなにお金を手に入れてもあのときほどの幸せな気持ちになれません。

投稿: 仲よし小道 | 2008年8月22日 (金) 23時04分

「外で遊んでいられた頃の情景」とおっしゃいますが、ここで友達との付き合い方を学んだ。今の子供達はメールで遊ぶ
この先どうなるのでしょうか。

投稿: M.U | 2008年8月28日 (木) 14時15分

小学校へ入って、新しい友達とこの「仲良し小道」を踊りました。
また、「先生の家に行こう」と言う人がいて、何人かが固まって家迄遊びに行ったことがありました。
クラスの友達とは終戦により離れ離れに。いま、懐かしく思い出しています。

当時はどこのご家庭も子供が多く、外に出れば遊び相手がいたものです。缶けり、輪回し、毬つきなど日が暮れるまで遊んでいたものです。

日が暮れたら暮れたで、「人さらいごっこ」が始まります。「お日様が山に隠れる頃には家に帰る」と決められてはいるものの、叱られるのを覚悟で遊び呆けていました。
いつの時代の子供が幸せなのでしょうね。

投稿: 高木ひろ子 | 2008年8月28日 (木) 16時59分

この歌を聞くといつも思い起こす情景があります。

私の生家は山間の小さな村で農業を営んでおりました。まわりは田や畑ばかりで、家の前を小川が流れており、ちょうどこの歌のように小さな板橋が架けてありました。

一番近い隣家は子供の足で4,5分のところにあり、そこに私より歳が一つ下の加代ちゃん(仮名)という女の子がいました。

近所には加代ちゃんしか子供はいませんでしたので当然のごとくいつも彼女と一緒に遊んでいました。

彼女が小学校に通うようになると毎朝私を迎えに来て、手をつないで登校しました。
小学校は町にあり、どうしても40分ぐらいかかってしまうので、彼女の両親に一緒に行って欲しいと頼まれたのです。

通学も、学校から帰ってきた後もいつも一緒で、夕暮れになり双方の親が心配して探しにくるまで二人で遊んでいました。

しかし小学校も高学年になると、私は彼女との事がだんだんうとましくなってきました。
町から来ている同級生達からいつも二人一緒にいることをからかわれるようになったからです。
加代ちゃんは子供ながら飛び抜けて可愛くきれいだったから、皆んなは余計からかったのかも知れません。

私を待っている彼女をおいて一人で帰ったり、家に遊びにきても色々理由をつけて断ったりするようになりました。その度に見せる彼女の悲しそうな顔を今でも思い起こします。

私が中学2年の夏のことです。彼女の一家が引っ越すことになりました。親戚が都会で小さな事業をしていて、彼女の両親がそこで働くと言うようなことでした。
今から考えると寒村での農業に見切りをつけたのでしょう。

引っ越しの当日彼女が別れの挨拶に来ましたが、私は会いませんでした。母の「加代ちゃんがさよならを言いにきてるよ」と言う言葉を無視して部屋に閉じこもったままでした。
母が彼女に「ごめんなさいね」と謝っている声が聞こえていました。それきり私は加代ちゃんとは会っていません。

それから20年以上経ち、30代も半ばを過ぎた頃のことです。家内と子供達を連れて帰省をしていた時のことです。
母が「この前ね、以前隣に住んでいた加代ちゃんが、近くに来たからと言って訪ねてくれたよ」と言うのです。

母によると驚くほどきれいな娘さんになっていて4,5歳ぐらいの女の子を連れていたとか。
母が「加代ちゃんはね、小さい頃はお前のお嫁さんになりたいと思っていたし、なるものと思っていたんだって」と笑いながら言っていました。

それからまた20年ほどの歳月が経ちました。
加代ちゃんは元気で幸せでしょうか。

この歌を聞くと、何も考えず無邪気に遊んでいた頃のことを思い出します。少し大きくなって、彼女につれなくした男らしくない自分の振る舞いに対する後悔と恥じる気持ちと共に。

投稿: Y.Y | 2008年9月 4日 (木) 12時35分

小さな小さな私の故郷の村にも川が流れておりました。ここに架かる橋(小さな板橋)の上で、蛍の出る季節には、菜種を取ったあとの葉のついた茎を竹ざおにつけて蛍を捕まえに行きました。秋には、虫が飛んでくるので、橋の上で竹のさおを刀にして、よく切り落としました。私には、可愛いみよちゃんは居りませんでしたが、幼い思い出の一つで今は離れた故郷を想い出しております。

投稿: 西山 利寿 | 2009年2月 6日 (金) 16時51分

35年ほど前の学生時代に熊本の山奥の友人の家に遊びに行きました。その家の周りには魚が泳いでいる小川が流れ、土手には柿の木が実を一杯付けて誰でも取り放題でした。畦道の両側のおいしいみかんもいくらでも食べてよいとのことでした。満ち足りた日を過ごしました。あれほど幸福感を感じたことはその後ありません。そのときの光景がこの歌のイメージにぴったりでした。目の前に可愛いみよちゃんが走って来そうな気分でした。仲よし小道は幸せを考えさせてくれる歌だと思います。

投稿: 仲よし小道 | 2009年4月 7日 (火) 19時23分

「6歳まではみな神の子」、こんな言葉が確かあったような気がしますが、そんなことを思い出させてくれる可愛いらしい、子供らしい歌ですね。そして、昔の歌は「母(かあ)さま」のようにご両親に「さま」をつける美風がたくさん残っています。

戦前までは日本でも儒教が色濃く残っていて、親に孝を尽くすことが子のつとめと教えられました。親は子の為に、子は親のために命も投げ出しても惜しくない。この「孝経」のみならず、いわゆる儒教の「四書五経」の教えが日本の「道徳」でした。でも、このうちの孝経は、天子さま(天皇)には命を投げ出すべきという毒も内蔵しており、これが軍部の宣伝に利用されました。

敗戦によって、儒教の負の部分(「儒教の毒」)だけが取り上げられ、日教組の先生方によって儒教は「悪」「タブー」と」なり、現在の日本の道徳的腐敗が蔓延したと私は思っています。

儒教の良いところと悪いところを峻別し、もう一度日本人の麗しく、奥ゆかしい美風を取り戻したいと思っています。

投稿: 吟二 | 2009年7月20日 (月) 21時24分

こういう歌を聞くと懐かしいのですが何故か悲しく成ります。
 どうしてでしょう?
 旋律のせい? それとも帰らぬ郷愁や人への思い?

投稿: ミカミ | 2011年8月25日 (木) 12時45分

【愛唱される理由Ⅰ】 できた詩は、起承転結になっています。 ある春の日の一日の「ぼく」のことを歌っています。女の子の名前は「みよちゃん」でかわいらしい響きです。しかし、みよちゃんの家の隣に住んでいる男の子の名前がありません。みよちゃんと学校へ行くのが毎日とても楽しみです。歌を歌うのは、嬉しい心の表れです。あわい初恋は、菜の花の匂いのようです。この歌は、かわいい「みよちゃん」とお話したいという、作者や改作者の願望だったのかもしれません。さらに、歌う人にもその同じ思いが伝わるので、いつまでも愛唱されているのでしょう。
【愛唱される理由Ⅱ】 また、「みよちゃん」と仲の好い女の子の日常とも考えられます。春の明るい光の中、子供の楽しい平凡な一日です。教訓的な内容でない所が共感を呼ぶのかもしれません。小川の板橋に腰かけて話が弾みます。
            (池田小百合―なっとく童謡・唱歌より)

投稿: 海道 | 2012年6月 4日 (月) 18時22分

ミカミ様

こういう歌(たぶん懐かしい童謡)を聴くともの悲しくなるのは旋律よりも
「帰らぬ郷愁や人への思い」でしょう。
この曲に振付されたダンスを幼子が踊るのをみるのは、心ウキウキするような楽しい気持ちになります。
でもふと自分の子どものころを思うと周りに当時とつながる人がほとんどおらずどうしようもないくらいさみしい気分ちになってしまいます。それはこの曲がすぎた昔を時間を越えて瞬時に思い出させてくれるからだと思います。
その時の家族、友だち、先生、ご近所の人たち・・・みな一様に懐かしくそして悲しい思い出です。今の現実につながらないからだと思います。

投稿: 仲良し小道 | 2013年4月10日 (水) 23時49分

私は童謡で嫌いな歌はありません。何故なのか理屈はわかりません。旋律も歌詞も聴いていて不快にならず優しい気持ちになるからです。私の知らない童謡も沢山あると思いますが、あの嫌われもののカラスでさえ可愛いカラスになってしまうのですから童謡は不思議な力を持っているのだと思います。「ほんとにやさしいおかあさま」と歌われるとちょっと困ってしまうのですが、「とんとん板橋かけてある」と歌われるとああ、子供に戻ってみよちゃんとお話したいと涙ぐんでしまいます。最近の子供の歌には面白い歌はあっても優しい気持ちになる歌がないと思っています。人間に情緒が無くなってきているのでしょうか。

投稿: ハコベの花 | 2013年4月11日 (木) 23時50分

 昔、学芸会で女の子がよくダンス?をしていたようですがこの曲ではなかったでしょうか。何もしゃべらなくていいなと思って見ていました。
 その頃の子どもももうお年を召したと思います。とんだり跳ねたりだったのでしょう。なんとなくこの曲は耳に残っています。

投稿: 今でも青春 | 2014年7月 4日 (金) 16時39分

この曲を聴く度に過ぎ去った日々を想い出します。
私は、事情があり幼稚園には通っていません。
童謡唱歌については、改めて習ったこともないし、子どもの頃あまり歌った記憶もないようです。
この歌との出会いは、社会人となり、勤務先の「登山部」の呼びかけで、ハイキングに行った折の「会員制のバスの中」で、ガイドさんが唄われたのがこの曲でした。
もちろん聴くのは初めて、でも、曲の柔らかさと幼な心を
表現した歌詞に感動しました。
それに、ガイドさんの唄が素敵だったこと、今思えば「ガイドさん」一目ぼれしたようです。

投稿: オレンジ街道 | 2015年8月11日 (火) 21時09分

この歌の作曲者・河村光陽さんは、私の生れ育った土地(北九州市小倉北区冨野)から、福智山という千m近い山の反対側の麓の出身の方と言う事を知りました。今私は、遠く離れた関東・茨城県に住んでいます。
 小学校の3年生まで、よく一緒に遊んだ女の子がいました。私が内気な性格だったので、お袋が一緒に遊んでくれる様に頼んだのだと思います。3年生の途中、近くに新しい小学校が出来、彼女はそちらに行きました。中学でまた、一緒になったのですが、最早、お話する事もありませんでした。旧姓YYさん、どこかでお元気でしょうか?

投稿: 竹永尚義 | 2019年1月29日 (火) 16時46分

本当にいい歌だと思います。「とんとん板橋」の言葉一つで小さな子どもたちの様子や、周りの情景が浮かんでくるように感じられます。しかしどうしても分からないこと、作詩者のことが分からないでいます。福岡県のお生まれであるということぐらいで、そのほかのことを知らないでいます。福岡市東区に三苫という地名がありますので、そこの出身であるのかなと、ただ想像しているほどでしかありません。ごぞんじのかたがいらっしゃることであれば、お教えいただければ嬉しいです。

投稿: 親ちゃん | 2019年1月31日 (木) 08時44分

三苫やすし 1910年(明治43年)- 1949年(昭和24年))
 ふるさと 福岡県田川郡上野村(現福智町)

子供の頃から唄っていた「仲よし小道」作詞者は知らなかったので、
JASRAで調べたら作品は数曲でした。
♪海沼實「つばめの旅」http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-tsubamenotabi.html
♪河村光陽 「春のお使い」 https://www.youtube.com/watch?v=p52k7XW_spQ

河村光陽 三苫やすし 何方も福岡県出身で音楽教師、短命ですね。

投稿: なち | 2019年1月31日 (木) 14時02分

私には、小学生の頃、一緒に通学する仲よしの女の子(友達)はいませんでしたが、この歌を聴くと、元気よく、歌いながら、通学する小学生たちの情景が浮かびあがります。

なち様のコメントをもとに、YouTubeで、「春のお使い」(三苫やすし 作詞、河村光陽 作曲、河村順子 唄 S14)を聴いてみました。
長い間、全く耳にすることがなかった、♪春のお使い そよ風さん そっとお庭に やってきて 小枝をゆすって 言いました…♪という童謡が、懐かしく甦りました。
なち様、有難うございました。

投稿: yasushi | 2019年1月31日 (木) 15時18分

「仲よし小道」この唄の詩にある「ランドセル」には、私の忘れられない大切な想い出がつまっています!
昭和36年のことですが、私が4月から小学へ入学を控えていた我が家は、事情があり貧乏のどん底でした。食べることもままならない生活で、とてもランドセルを買える状態ではなく、私も欲しいとは言えず、おさな心にもあきらめていました。
すると3月も終わりかけたある日、近所に住む母の知り合いのお母さんが、お兄ちゃんが卒業するから、もしお古で良ければこのランドセルを使って欲しいと我が家へもってこられました。
私は嬉しくて、そのランドセルばかりをいつも触っていた憶えがあります。全体に傷も少なくベロの錠前も錆び一つなく、6年間使用していたにも関わらずまだしっかりした状態でした。
ところが、私がランドセルのかぶせを開けた時、その裏面にはその子の名前と家の住所が、黒いマジックで一面に大きく書かれてあり、消せるような状態ではなかったので、とてもショックだったことも憶えています。結局そのランドセルは小学を卒業するまで使用しました。
後年私は結婚し3人の子を儲けましたが、それぞれ子供たちの小学入学時には、最上級のランドセルを買ってあげました。子供たちもそれぞれ大喜びでした、
私が入学を控えた当時にランドセルを買えなかったことは、妻も子供たち3人も誰一人知りません。私だけの大切な想い出として今も胸に残っています。
三苫やすしの、私が幼いころ育った田舎を思い出させる素朴な詩に、河村光陽の琴線を震わすこのメロディの「仲よし小道」この唄には聴く度に郷愁を誘うものがあります。

投稿: 芳勝 | 2019年1月31日 (木) 16時36分

なち様、情報をお寄せくださり有難うございました。ただ、なち様に作曲者河村光陽との混同がおありでないかというようにも考えています。
三苫やすしの出身地が分からずにいて、河村とコンビの三苫であるから、河村の出身地である福智町の方ではつかんでおられるのではないかと思い、一昨年教育委員会に問い合わせたことがありました。ずいぶんと丁寧にお調べくださいました(福岡教育大学にも問い合わせてくださったようでした)。しかし、分からないということでありましたし、他の調べる術べを持ちえないという次第でおります。
このように素晴らしい童謡の作詩者のことが全く分からないというのはどうしてなのだろうか、何かわけありなのだろうかなどとも思うことでした。
先日、芳野星司氏ブログ「エッセイ2016年10月10日 好きな童謡」に次のように書いてあるのを知りました。
  「仲よし小道」は、三苫やすしが、ガリ版刷の同人誌
  「ズブヌレ雀」に、昭和14年(1939年)1月に発表した
  童謡詩である。キングレコ-ドの専属作曲家になってい
  た河村光陽が、これを偶然見つけて曲を付け、キングの
  ディレクタ-に持ち込み、光陽の娘の順子と、金子のぶ
  子、山本淳子の三人の歌で2月にはレコ-ド化した。す
  ごいスピ-ドである。この時、作詞の三苫には無断で勝
  手に三番、四番の歌詞を変更したという。そういう時代
  だったのだ。
  三苫やすしは明治43年(1910年)に福岡に生まれた。福
  岡師範学校を出て(ウィキペディアでは小倉師範学校と
  書いてあります-親ちゃん)教職に就き、川崎の小学校
  生田の中学校に勤務するかたわら、詩作を続けた。
当方、南島原市に住まいしております65歳の男性です。童謡唱歌が好きなほうだと思っていますが、そのゆかりの地を訪ねて行くことができればなと思っています。特にこの歌は同じ途次で訪ねたく思っています。
なち様、ありがとうございました。三苫作詞のもの、河村作曲のものをさがして、聴いて行きたく思います。また何か情報などございましたらば教えてください。有難うございました。

投稿: 親ちゃん | 2019年1月31日 (木) 17時26分

三苫やすし 本名 三苫虎太 出身地は福岡県久留米市のようです。
http://music.geocities.jp/hanatori1119/recordartist.html

書いていたのは河村光陽の住所ですね。

投稿: なち | 2019年1月31日 (木) 19時06分

昭和21年4月1日、小学校の入学式でした。一面の焼け野原の道を母に手を引かれて、校舎のない運動場へ行きました。覚えているのは明日から画板を持ってくるようにと、画板の説明があったことです。八幡神社で授業が始まるといわれました。私は1年1組でした。カバンを掛けている子は見ませんでした。皆んな20年の6月の空襲で焼け出された子ばかりでした。生きているのが不思議だったのかもしれません。私は疎開していて助かったのですが、洋服は母が探してきたガラ防の手作りの服を着ていました。校舎が出来たのは4年生の時でした。教室が足りないので午前と午後の2部授業でした。思い出してもランドセルを掛けていた子はいなかったと思います。男の子は布の肩掛けカバン、女の子は家で作った古布の手提げカバンでした。国語の教科書は戦争中の『アカイ アカイ アサヒ アサヒ』『ハト コイ コイ  コマイヌサン ア ウン』でした。雨が降ればお休みの青空教室でした。傘が無くて雨降りは通えないのです。校舎もないのですから仕方ありません。戦火で焼け死ななかっただけでも幸せでした。今時のランドセルの高額なのに驚いています。皆楽しく通学できると良いですね。

投稿: ハコベの花 | 2019年1月31日 (木) 21時13分

なち様、貴重なお知らせありがとうございました。三苫が久留米の出身であるということ、これをまた一つの手がかりとして、少しずつでしかありませんが、三苫やすしのこと追い求めて行きたく思います。

投稿: 親ちゃん | 2019年1月31日 (木) 21時17分

ほぼ同世代と思われるご投稿の皆様
 私も卒業した北九州・小倉市の小学校の思い出を・・・。
木造2階建ての校舎でした。入学式の様子は覚えていませんが、校庭に、米軍の1トン爆弾の落ちた穴がありました。いつの間にか無くなりました。古いプールがありましたが、使えない状態のまま。
 低学年時は、「2部授業」と言うのがありました。教室が足りなかったのでしょう。近くに新しい小学校が出来た事は、先に投稿させて頂いた通りです。
 卒業して50数年たった時に、母校を訪ねました(終活旅行)が、敷地は同じ場所でしたが、校舎等はまったく変わっていました。当時の児童数2千余名が、今は、200余名と、校長先生に伺いました。校歌、山川のみは昔のままでした。   嗚呼!

投稿: 竹永尚義 | 2019年2月 2日 (土) 15時56分

「仲よし小道」は昭和23年、小学校に入学して、3番目くらいに習った歌です。
最初の歌は、教科書の一番初めの見開きのページの、中央に大きな花輪?があり、まわりを子供たちが囲んでいる絵です。
そこに、次の言葉がとびとびに配置されていました。

おはなをかざる みんないいこ
きれいなことば みんないいこ
なかよしこよし みんないいこ
これを、先生が弾くオルガンに合わせて歌いました。

2番目に習った歌は「お山のおさる」。これは、あまり好きにはなれませんでした。猿は今でも可愛いとは思えませんが、先生が見せてくれたおサルの絵も綺麗な絵ではありませんでした。

3番目が「仲よし小道」です。
家から県道を歩き、姫川の橋を渡り、大糸線南小谷駅を左に見乍ら、大糸線に迫る山裾の道を上っていくと、やっと小学校の門柱が見えてきます。小学校1年生で早生まれの私には結構しんどい往還だったと思います。
なので、この歌のような牧歌的な風景に囲まれて登下校したわけではありませんが、それでもこの歌には明治以来の児童たちの原初的な風景が捉えられていると、私には感じられます。そのために、この歌から人それぞれの懐かしい学童時代が浮かんでくるのではないでしょうか。

投稿: ナカガワヒデオ | 2021年6月21日 (月) 14時20分

仲良し小道の主人公たちは、小学校1~3年生でしょうね。この歌のようなな牧歌的な昔があったような気がしますが、朧になりました。それなのになぜか私の原風景のような気がします。多分皆さんもそう感じられるのではないでしょうか。

信州生まれの私の子供のころは「インディアンごっこ」という遊びが流行っていて、鎮守様の大きな木の下に「いけにえ」の子が(しばられて?)いて、その周りをインディアンの子たちが「ホー、ホホッホ、ホー」などと言いながら踊りまわるような遊びだった気がします。後年、時々その光景がフラッシュバックして来ました。でも、「おにごっこ」と混同して、これも朧になりました。
 「もういいよ振り向いてみたあかね雲」(吟二)

この歌は誰をも優しいほっこりした気持ちにさせてくれますね。だから童謡は我々の心から消えないのでしょうね。それから、私は「あめふり」の歌詞の中で、傘が無くて泣いている子に男の子が「かあさん、僕のをかしましょか。きみきみこの傘さしたまえ」と言って自分の傘を貸してあげる男の子のやさしさは、日本人が本来持っている美徳だと思います。でも、泣いていた子は、男の子でしょうか、女の子でしょうか。

投稿: 吟二 | 2022年7月28日 (木) 09時04分

鹿児島の某高校に奉職していたときの同僚が「仲吉さん」という女性で「母は私に小道と言う名前を付けようかと考えていたらしい」と告白されたことがあります。ところで、作詞の三苫さんが私の故郷の久留米らしいこと。また、久留米の某私立高校で非常勤講師をしていたときに、同僚の先生と上野焼(あがのやき)の窯元巡りをしたときに、河村光陽さんの「鴎の水兵さん」の碑を見かけました。子供のころの久留米の湯の尻川の板橋とともにこの唄への縁を感じています。

投稿: 江尻陽一 | 2025年1月18日 (土) 00時24分

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