勘太郞月夜唄
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、
唄:小畑 実・藤原亮子
1(女) 2(男) 3(男女) |
《蛇足》 太平洋戦争まっただ中の昭和18年(1943)に公開された東宝映画『伊那の勘太郞』の主題歌。
映画は幕末の動乱期を舞台に、天狗党の乱に加担し、やがて故郷の伊那に帰ってくるヤクザの物語です。
国策映画や軍国歌謡一色の世相では異色の股旅もので、情緒的なものに飢えていた世人に迎えられ、映画・歌とも大ヒットしました。
大ヒットを記念して「伊那の勘太郎顕彰碑」が建てられました(写真)。場所は伊那市の春日公園。勘太郎の事跡もれいれいしく刻まれています。ある世代以下には、勘太郎を実在の人物と思う人もいるかもしれませんね。
小畑実は朝鮮半島出身で、本名は康永喆(カン・ヨンチョル)。下宿先の大家で秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったところから、小畑実と名乗るようになりました。
戦時中に『湯島の白梅』『勘太郞月夜唄』という2つのヒットを飛ばしましたが、最も活躍したのは敗戦後の昭和20年代で、『小判鮫の唄』『薔薇を召しませ』『アメリカ通いの白い船』『長崎のザボン売り』『ロンドンの街角で』『星影の小径』『高原の駅よさようなら』など、多くの人々の記憶に残るヒットを連発しました。
(二木紘三)
コメント
信州 伊那の 谷は
行ってみたいところです
飯田 高遠
天狗党とは 思いよりませんでした
吉村昭 の 小説はまだ読んでません。
投稿: 二宮 博 | 2007年11月 7日 (水) 22時46分
二宮さんへ
敦賀に天狗等を祀っている松原神社がありますが、高校へ通うときよくこの境内を通りました。墓の中には「茂作」など、名前だけのものもあり、一行の中には武士以外のものも含まれてたことがわかります。2番の歌詞「菊は栄える葵は枯れる」から、幕末の話だとは理解していましたが、天狗等の乱に伊那の勘太郎が加担したとはねー。フィクションだとしても興味ある話ですね。懐メロの薀蓄で自慢できそうです。映画を見ていないのでわかりませんが、天狗等が高崎から和田峠を抜けるあたりで、勘太郎が合流したんでしょうね。その後どうやって天狗等を抜け出て故郷に帰ってきたのか知りたいものですね。それと、吉村さんの小説「天狗騒乱」は面白かったです。
投稿: 佐野 教信 | 2007年11月23日 (金) 10時53分
もちろん「天狗争乱」は読みました。とても面白かった!しかし「勘太郎」との関係は知りませんでした。武田耕雲齋の像も敦賀で見ました。
「影は柳か勘太郎さんか・・・・」ひょうひょうとした感じの勘太郎に会ってみたいものです。
投稿: hazuki | 2008年1月20日 (日) 10時43分
二木先生、勘太郎月夜歌のアップをお願いしてお聞き届けありがとうございます。一昨年老いたる同窓の会が伊那の谷であり彼の地でこの曲で踊りが振付けられ人気が高いようです。歌詞の
形(なり)はやくざにやつれていても
月を見てくれ心の錦
生まれ変って故郷の水に
映す今宵の晴れ姿
ここのところが大好きです。勿論戦前映画も昭和19年旧満州の地で中学1年生でしたが見ています。
投稿: 三宅 | 2008年6月 3日 (火) 16時20分
今晩は。
只今、マイアルバム(歌の)を整理中です。股旅もの 二十二曲ほどを ユーチューブから
すでにダウンロードしているので CDに焼き付けています。 当然この唄も入れています。
今頃 股旅もの なんて流行らないですよね(笑)
でも、氷川きよしや島津亜矢が活躍していますから。
古いのは 音源が ほとんどモノラルです。別の歌手がステレオで吹き込んでいる、或いは本人の再録音物がリリ-スされているのでそれをダウンロードしてます。
股旅ものでは 決まって こんな台詞が出てきます …
「お母っさん」 「丁度今から三年まえ」 「三年三月(みつき)」 「あばよ(=幼児語でさよなら)」 などなど。
股旅ものの歌の舞台は、関東、信州当たりがダントツですね。
信州ならば佐久と伊那谷が有名かな。
関東ならば、日光街道、ご存知赤城山、また利根川あたり、そして甲州街道などなど。
小学校の高学年から中学に掛けて ドサ回りの旅役者一座に 憧れました。
旅役者一座も 梅沢富美雄(字体不明)で 見直されましたね。
遥か昔、秋の刈り入れが終わる頃 すぐ近くの神社の祭りで 旅役者一座の くさい芝居(失礼)を見た覚えです。
役者は神社近くの民家に分散して 投宿します。
我が家にも 親子連れが 泊まった記憶です。
同年代の 男の子だったと思います、話してみると 自分とさして変わらない 普通の子だった。(多少はおませだったかも)
何か自分達とは 違った世界の子を期待していたかもしれません。
また、ある年には今で言うハ-フの少年(19歳ぐらいと記憶)が来ていました。
スペインと日本の混血と言っていました。今でもはっきりと記憶していますが、
その子の名を「ボ-イ・モリシマ」と名乗っていました。
本名は「セバスチャンかセルバンテスかも知れません、田舎の人たちにわかりやすく「ボ-イ」と名乗ったのでしょうね。今でも日本で住んでいるのだろうか?。
もう、70歳ぐらいのはずです ・・・
投稿: グ・グロリア | 2010年5月16日 (日) 21時50分
先般東海北陸自動車道が全線開通したのを機に、久しぶりに飛騨の高山までドライブに行ってきました。富山県西部の我家からは片道一時間あまりですが、ハンドルを握っている間ずっとこの唄が耳の底に流れていました。今回訪れたのは高山市郊外にある飛騨一ノ宮、水無(みなし)神社というところです。ここは嘗て小説『夜明け前』の主人公青山半蔵こと島崎正樹(島崎藤村の父)が、維新後失意を胸に秘めて明治7年から4年余りの間宮司を務めていた神社ですね。境内には彼の詠んだ歌碑があります。
伊那の勘太郎が加勢した(??)水戸の天狗党という名前を私が知ったのは、学生時代にこの『夜明け前』を読んだのがきっかけでした。幕末の伊那・木曽地方から美濃にかけては半蔵のような平田篤胤の信奉者が多かったこと、武田耕雲斎たちが「勘太郎の案内で」伊那から無事に木曾谷まで抜けて宿泊したのが半蔵の家(馬籠本陣)であったこと、奇しくもそこは以前天狗党など勤王党にとって目の敵であった井伊直弼も宿泊した本陣であったことなども、この小説で知りました。『夜明け前』は浦賀にやってきたペリーが、軍艦の威力を見せつけながら日本に国交を迫るあたりから始まりますが、あれから約170年たった今日の日本では、ペリーの子孫たちが普天間に佐世保に、あるいは横須賀、三沢にと縦横に活躍しています。
この勘太郎月夜唄が発表された昭和18年というのは、島崎藤村が日本の行く末を案じながら世を去った年でもありますね。偶然の一致とはいえ何かしら感慨にさそわれます。
投稿: くまさん | 2010年6月10日 (木) 21時41分
86歳の男性です。私はこの勘太郎月夜歌が大好きで、学生当時によく口ずさみ、またいつも携帯していた手帳にその歌詞を記入していました。
昭和19年学徒出陣で豊橋予備士官学校に入隊することになり、名古屋から豊橋に行く電車の窓から、ちょうど渡っていた鉄橋の上で、この手帳を投げ捨てました。パラパラとめくりあがって私の大事な手帳は、大きな川の中へ吸い込まれて行きました。
(軍隊に入れば、生還は期しがたい、さらば、世間よ、青春よ・・)という若者特有の悲壮な、また多少センチメンタルな気持ちからでした。あれは確か「矢作川・やはぎがわ」だったと思います。
軍歌ばかりの戦時中に青春を過ごした私にとって、伊那の勘太郎の歌は数少ない青春の歌でした。
紫蘭
投稿: 紫蘭 | 2010年7月19日 (月) 22時24分
横浜という土地は、幕末明治の新開地であり、それが原因かは知りませんが、いろんないわくの人の子孫が住んでいます。勘太郎は架空の人物といわれていますが、自称子孫だという人を知っております。父君は旧制木更津中学の校長で、光クラブ事件の山崎は教え子、3代続いての東大家族です。学歴で事の真偽を判断はできませんが、人格、識見ともに優れたご本人を見ると本当かなーと思ってしまいます。それにしても、有名なやくざの子孫という人を何人か知っていますが、皆とんでもない高学歴なのには驚きます。余談ですが、曲を聞きながら、
投稿: bunbun | 2013年10月10日 (木) 21時12分
bunbunさんのお話おもしろいですね。
ヤクザの親分は、みんな頭が良かったと思います。昔、官軍が江戸をめざして進んでいたとき、大久保一蔵が清水の次郎長に会いたがったそうですね。どうして大勢のならずものを統率できるのか、その要諦は?と聞きたかった。
ヤクザの親分は、キリストや釈迦と一緒で、大学出てなくても、頭はめちゃくちゃ良いです。修羅場くぐってますから。いわゆる地頭(ヂアタマ)が良いというやつです。いってみれば大学を作る側の人間、福沢、大隈みたいな存在です。
架空の人物、勘太郎の子孫というのは、格別おもしろいですね。
先の話の次郎長の答えです。ある人間を叱る時には、必ず人のいないところで叱る、1対1で叱る、でした。
自尊心の尊重ですね。今聞いても、すごい話です。
投稿: 方解石 | 2013年10月10日 (木) 23時18分
天狗党を書いた山田風太郎の『魔群の通過』という小説に、薄井督太郎という人物が登場します。その人の記事を概略してみます。
飯田の貧しい商家に生まれ、志を立てて江戸で佐久間象山に入門、また、京で頼三樹三郎の弟子になったりしてあっぱれ天下の志士となった。
筑波の義挙には最初から参加して、以来一党の参謀の一人となっていた。
一党は和田峠の戦いに勝利し下諏訪まで下りますが、ここで問題がおこります。この先の進路に伊那路をとるか木曽路にするか。
薄井は伊那路を通ることに猛反対します。故郷の飯田が焼け野原になるおそれがあるからです。しかし彼の意見はいれられず、その夜のうちに彼は姿を消しました。天狗党の幹部の脱走はこれがはじめてです。
「伊那の勘太郎」にまつわる皆さんのコメントを読んでいて勘太郎さんはこの人だと直感しました。
その後、彼はまんまと生きのびます。維新後、薄井龍之と名を改め、北海道開拓使の役人となって札幌建設にかかわり、町の一角に自分の姓の一字をとって薄野とつけた。
勘太郎さんですよね。
投稿: 颱風人 | 2014年9月15日 (月) 16時36分
この勘太郎月夜唄については特別な思い出があります。というのは私の義兄が長野県伊那市の出身で、義兄は優しくて豪放磊落、心の大きな人でした。その彼が酔うと必ず出てくるのがこの勘太郎月夜唄でした。その義兄も先週、17回忌を迎えました。先夜、わが家の仏壇の前で義兄のことを祈りながら、義兄の好きだったこの歌を歌い、生前の在りし日の義兄を偲びました。♪影か柳か 勘太郎さんか… きっとこの歌声は天国に届いたと思います。
投稿: 光男 | 2018年7月15日 (日) 14時36分
2010年、86歳の時にに投降した紫蘭です。
先日、ふと、影か柳か勘太郎さんか・・という歌詞が口をついて出てきました。学生時代に、この歌が大好きでよく歌っていました。豊橋の予備士官学校に入るとき、伊奈に近い大きな川を渡るとき、これで娑婆ともお別れだ」とこの歌を書き留めていた手帳を投げ捨てました。死を覚悟して往ったのに、98歳の今まで永らえようとは・・我ながら驚きです。
投稿: 和紙屋紫蘭 | 2022年6月 5日 (日) 18時28分
紫蘭さま
前回投稿されたとき86歳で、次が12年後の98歳の今年なんて…。頭もしっかりしていらっしゃるご様子ですし、慶賀の至りですね。ちなみに、先日私に知らない方から突然お電話があって、聞いたら93歳で、現在でも呼ばれれば紙芝居実演とハーモニカ演奏をボランティアでやっている方でした。私も長年紙芝居をやっており、新聞やネットに私の電話番号があったので掛けたんだとのことでした。90代でもお元気な方は結構いらっしゃるんですね。私はまだ傘寿ですが励みになります。
「勘太郎月夜唄」は、私が見たのはテレビの初期のころだったでしょうか、テレビで良く唄っていましたね。まん丸い顔で舌っ足らずのような口元で…。人気が陰ったころ、彼はアメリカに渡ったようですね。日本でかアメリカでか分かりませんが、蜜柑箱の上に乗って歌ったりしていたという記事を見て、「えー?あの小畑実が!?」とびっくりした記憶があります。なにしろ日本歌謡のトップ歌手でしたものね。
投稿: 吟二 | 2022年6月 8日 (水) 21時36分
吟二様
お元気そうですね。この歌は伊那の勘太郎ですよね。やっとカラオケ大会が出来るようになりましたね。気が狂いそうでした。荒川線(水森かおり)いい歌ですね。白内障で左0,6右0,7で免許更新(0,7以上)ドクターには手術にはまだまだ早いと言われ、男は度胸と勝負するしかないでしょうかね。
投稿: 海道 | 2022年6月10日 (金) 20時18分
海道さま
実は私も海道さまと左右同じくらいの視力でしたが、白内障の手術をしました。そしたら眼鏡をかけると両眼1.2になりました。でも、その後老化と共にパソコンを何時間も見ていると両眼霞んできました。眼科からの眼薬を毎日差していまして、朝になると霞まなくなっていますが、疲れると視力が弱くなってきます。年にはかないません。
投稿: 吟二 | 2022年6月12日 (日) 19時55分
伊那市出身の92歳の父が寝たきりになり、最近ベッドでこの歌をよく歌うようになりました。ネットで調べて題名が分かりました。映画も見ていない、戦後すぐ東京に出た父がどこでこの歌を覚えたのでしょう。母も、今まで歌っていたのを聞いたことがないのにと不思議がっています。伊那の人にとっては生活の一部のような歌だったのでしょうか。一緒に歌ううちに、私もすっかり覚えてしまいました。とてもいい歌ですね。
投稿: 真澄 | 2022年6月17日 (金) 14時48分
♪影か柳か勘太郎さんかーという出だしの部分だけ強烈におぼえています。昭和18年の作品dだったとは、私の生まれる前の大昔の歌ですね。伊那の勘太郎って、大変な人気者だったんですね。水戸の天狗党に参加して、途中でやめて故郷へ戻ってきたとか、うーんそのあたりのストーリーがうまくできていて、人気が出たのでしょうね。
あの天狗党の乱は最後は全員打ち首、遠島などの重罪になりますが、一橋慶喜を頼ったばっかりの武田耕雲斎ら首脳陣の判断ミスと思います。あんなおぼっちゃま大名は自分の保身しか考えてませんから。その後鳥羽伏見の初戦で幕府が破れたと聞き大坂城から江戸へひたすら逃げ帰ったような人ですのに。どうして見抜けなかったのかな。
吉村昭の「天狗騒乱」を読み返すと敦賀の来迎寺が刑場になり5日間に天狗勢の252人の首が切られたという。ああこの人たちが生きていれば、日本のためにきっと立派なことをなしとげただろうと強く思ってしまう。
水戸藩の悲劇は、守旧派があまりに強くて尊王攘夷派で藩が一つにまとまることができなかったことが、すべての原因だと思います。長州藩や薩摩藩はそうではなかったもの。でも藩論統一って、意見を統一することって、今も昔もそれはそれは大変な大仕事ですよね。
ところで私も伊那という天竜川沿いの場所へ行ってみたい人間です。飯田線に乗ると豊橋10;42発で伊那市16;45着で帰りは伊那市17;22発で豊橋22;48着ということになる。大変なところですね、それだけに行ってみたいです。
投稿: 越村 南 | 2024年8月18日 (日) 23時20分
♪影か柳か 勘太郎さんか
伊那は七谷(ななたに) 糸ひく煙り…♪
股旅ものの唄で、歌詞を眺めますと哀愁感が漂いますが、長調で明るい曲調だからでしょうか、すーっと気軽に、調子よく口を衝いて出てきます。
ついでながら、私の好きな歌で、同様に、長調で明るく、調子よく口遊んだり、聴いたりする股旅ものの唄を、他に二つ挙げて見ました。
♪夜が冷たい 心が寒い
渡り鳥かよ 俺等(おいら)の旅は …♪の、
『旅笠道中』(藤田まさと 作詞、大村能章 作曲、東海林太郎 唄 S10)
♪好いた女房に三下り半を
投げて長脇差(ながどす) 永(なが)の旅…♪の、
『妻恋道中』(藤田まさと 作詞、阿部武雄 作曲、上原敏 唄 S12)
小畑実さんの歌については、二木先生の《蛇足》に、”最も活躍したのは敗戦後の昭和20年代で、『小判鮫の唄』『薔薇を召しませ』『アメリカ通いの白い船』『長崎のザボン売り』『ロンドンの街角で』『星影の小径』『高原の駅よさようなら』など、…” とあります。どれも知っている歌ですが、殊更、『アメリカ通いの白い船』と『星影の小径』が好きで、カラオケでよく歌ったものです。
投稿: yasushi | 2024年8月26日 (月) 17時09分
忘れていたことを思い出しましたので、即、書き込みさせて戴きました…。「勘太郎月夜歌」には、小畑実単独の録音以外に、藤原亮子とのデュエット・ヴァージョンの録音があることです。只今、youtubuで聞けることを確認しましたので、ご興味あるかたはお試し下さいませ…。 ジーン拝
投稿: ジーン | 2024年10月29日 (火) 20時48分