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2007年12月27日 (木)

夜霧の第二国道

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:宮川哲夫、作曲:吉田 正、唄:フランク永井

1 つらい恋なら ネオンの海へ
  捨てて来たのに 忘れてきたに
  バック・ミラーに あの娘(こ)の顔が
  浮かぶ夜霧の ああ 第二国道

2 花の唇 泪(なみだ)の瞳
  想い出さすな 帰らぬ夢を
  ヘッド・ライトの 光の中に
  つづくはてない ああ 第二国道

3 闇を見つめて ハンドル切れば
  サイン・ボードの 灯りも暗い
  泣かぬつもりの 男の胸を
  濡らす夜霧の ああ 第二国道

《蛇足》 昭和32年(1957)9月にレコード発売。
 フランク永井の低音を生かしたスローバラードでした。このmp3はオリジナルよりややテンポを上げてあります。

 ここで歌われている第二国道は、国土交通省の管理番号でいうと、国道1号線のことで、国道2号線のことではありません。
 国道1号線は東京都中央区から大阪市までの一般国道、国道2号線は大阪市から北九州市へ至る一般国道です。

 国道1号線のうち、起点から五反田までは桜田通り、五反田から横浜までは第二京浜道路という通称で呼ばれています。この歌の第二国道は第二京浜道路を指しています。
 彼女の面影を振り捨てて、横浜に向かって夜霧の第二京浜道路を走っているわけですね。

 第二京浜道路は当初、第一京浜道路=旧国道1号線のバイパスとして建設されたのですが、その後第二京浜道路が国道1号線に、第一京浜道路が国道15号線と変わったために、このような混乱が起こったわけです。

 歌がヒットしたため、翌年、日活が映画化しました(舛田利雄監督)。日活お得意のギャング映画で、主演は小林旭、岡田眞澄や香月美奈子などが脇を固めました。
 フランク永井も、フランク永山という名前のクラブ歌手
(実は保険調査員)として出演しています。

(二木紘三)

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コメント

つい先頃は「君恋し」、そしてこの度「夜霧の第二国道」。小生が二木先生の名演奏(といっていいのでしょうか?)で是非聴いてみたいと日頃思っておりました名曲を提供していただき、繰り返し拝聴しております。
 これはまことにぶしつけなリクエストであり、先生の今後のご計画もおありでしょうが、いつの日か、「燦めく星座」「星の流れに」「別れの磯千鳥」「落葉しぐれ」「下町の太陽」などのいずれかをお取り上げいただければ幸甚です。
 なお、先生のサイト、2年程前からいつも利用させていただいたおります。社会全体も、個人的にも日々難題の多いこの時代。本当に良い曲、名曲にはすごい「癒しの力」があると思います。
 末尾ながら、二木先生の益々のご健勝、ご活躍をお祈り申し上げます。
 

投稿: 大場 光太郎 | 2007年12月28日 (金) 23時23分

この曲の発売から10何年も後に、大田区下丸子に勤めることになりました。
車で首都高速を降りると、第二京浜です。大好きな歌を口ずさみながらの通勤を昨日の事のように思い出されます。昭和46年の入社から15年間第二京浜は自分の庭のように、何処に何が・・記憶していました。新幹線の下を過ぎまもなく、東洋ボール。その後のオイルショックから高度成長期。最近何十年ぶりの下丸子、環状8号線の完成に伴い、あまりの様変わりに戸惑うばかり。20年もの時間は・・・・・おかげでこのサイトの二木先生にも出会いました。私の中ではあの時のままの、第二京浜国道です。ありがとうございました。

投稿: do_ぱぱ | 2008年1月 8日 (火) 16時30分

子供のころ、耳で覚えた‘夜霧の第二国道’、てっきり、同じ低音ボイスの三船浩の歌だとばっかり思っていました!フランク永井の歌声だったのですね!ちなみに、わたくし、昭和23年生まれです・・・。むかしの歌は良かったな・・・。

投稿: しずっぺ | 2008年8月29日 (金) 19時56分

フランク永井様 謹んでご冥福を申し上げます。高度経済成長を引っ張ってこられた歌手の一人だと思います。貴方の唄が無かったら、もっと殺伐とした人間関係となっていたと思われてしかたが有りません。
氏の歌い方は心を癒してくれる名曲ばかりです。またそうゆう歌詞であり、唄い方でした。

投稿: 海道 | 2008年11月 3日 (月) 13時05分

フランク永井の歌う「夜霧の第二国道」を何十年ぶりかに聴き、涙で何も見えなくなりました。
 当時、私は、ませた中学生でした。いまから5年前に死んだ父の仕事の失敗で、東京に出てきた一家が、追われるように下町を小さな車で移動しているあいだじゅう、僕が一人でくちずさんでいた歌です。それまでは、田舎の町で、何の不足もなく遊んでいました。あっという間の一家の急転でした(昭和34年)。
 ヘッドライト、サインボードの闇のなかを疾駆する小さなトラックの後部荷台に載って、風に吹かれていた思春期の僕に、恋の歌の意味などは分かりませんでしたが、むしろ、ある喪失感、下降する人世の、辛い、甘美な肌合いだけは、いまも鮮明に僕の心に残っています。
 フランク永井の歌がいいとかよくないとかという問題ではなく、あのように人を酔わせる歌が存在した奇蹟に驚嘆するばかりです。
 大きな不幸のとき、僕はこの歌を聴き、いままた年を取って、その声と響きの甘さ切なさと、詩の暗さにただ感動します。生きていて良かった64年でした。しみじみそう思わずにはいられません。ありがとうございました!
 フランク永井の歌が、僕の人世をひとつの記憶の中に凝集させてくれたひとときでした。

投稿: 森 秀樹 | 2009年8月 3日 (月) 15時46分

吉田正がフランク永井の運転する車で第二京浜を走って横浜のナイトクラブまでドライブし、ひとしきり飲んだ後、また第二京浜を戻って来る際に『夜霧の第二国道』を着想したと言われている。
20年位前、北関東から車を飛ばして第二京浜を通り川崎市内の知り合いの通夜に行ったことがあったが、その際、この第二京浜があの『夜霧の第二国道』かと感慨深いものがあった。

投稿: 焼酎百代 | 2014年9月13日 (土) 22時21分

古希の初老(と言わせてね)の男も上京以来はや幾年月、
指折り数えれば52年になりました。
時折 思いだしてはこの二木紘三先生のコーナーを開いて、昔懐かしの歌のメロディーに耳を傾けては思い出にふけりながら、はるかな来し方を振り返りつつ楽しませて頂いております。はなたれ小僧の小学生の頃より、歌謡曲にはずいぶん親しんで参りました。最初に聞いたのは多分ひばりさんの歌でしょうね。
「私は町の子」、「越後獅子の歌」、「悲しき口笛」
少し後には港町13番地」などです。

数えあげればきりがありません。
先ほどはフランク永井さんの「夜霧の第二国道」のメロディー聞かせていただきました。メロディーをきいただけであのフランク永井の哀愁を帯びた歌唱が耳の奥に響いて
来ます。素晴らしい歌です。
この歌の作曲者の吉田正さんは知る人ぞ知る存在ですが
作詞の宮川哲夫さんの経歴を調べてみました。
伊豆大島の網元の家の出身で、良く知られた多くの歌謡曲のヒット曲を残していますね。
今後とも二木先生のこのコーナーで歌を楽しませていただきたいと思います。

投稿: 岩野 直弘 | 2015年4月25日 (土) 18時50分

戦後歌謡曲では断トツで、茨城が生んだ大作曲家・吉田正の曲(『夜霧のエアーターミナル』『殺陣師一代』『残侠小唄』…)が好みですが、その中でも『夜霧の第二国道』は下手くそなりにカラオケがまだ8トラの頃からの愛唱歌です。
二木先生解説に「フランク永井の低音を生かしたスローバラード…オリジナルよりややテンポを上げ」とありますが、“元曲”はスロー過ぎるため、二木先生演奏の方が宮川哲夫の詞にマッチしていると思う今日この頃です。
吉田正とビクターのスタッフが銀座のクラブで飲んだ後、フランクが運転する中古外車で第二京浜をドライブし、ハマのナイトクラブ“ブルースカイ”でひと踊りし、帰路も第二京浜を走り、この歌の誕生と相成ったそうです(ユーキャン「ムード歌謡ベストコレクション」曲目解説(長田暁二氏)から抜粋)。この曲の誕生秘話一つとっても、今日ビのパッとしない低調な歌謡界が逆立ちしても敵わないほど、昭和30年代は“大人の時代”でした。

投稿: 焼酎百代 | 2016年7月 4日 (月) 20時10分

低音の魅力といえば、まず、フランク永井さんを思い浮かべます。
  数あるフランク永井さんの歌のなかで、特に好きなものを二つ挙げるなら、この「夜霧の第二国道」と「霧子のタンゴ」で、カラオケでも時々歌います。
  「夜霧の第二国道」の歌詞、メロディ、歌声が絶妙に組み合わさって、男ごころを十分惹きつける魅力を持っていることは言うまでもありませんが、加えて、私の心を掴まえているのは、歌詞の中のカタカナ語の使い方です。
  つまり、第1番の”バック・ミラー”、第2番の”ヘッド・ライト ”、第3番の”サイン・ボード”で、これらのカタカナ語がアクセントになって、この歌を一層盛り上げているのではなかろうかと思うのです。

投稿: yasushi | 2018年1月 6日 (土) 15時37分

名曲の名演奏に酔いしれます。
フランク永井の胸に響くソフトな低音が甦ります。
亡夫の18番が「霧子のタンゴ」でした。
yasushiさまご指摘のようにカタカナ語が雰囲気を盛り上げていますね
。国民的歌手であった彼にふりかかった災難は返す返すも無念です。正にハニートラップ~フランク永井は件の女性を「ハニーちゃん」と呼んでいたそうですね。

投稿: リンゴ | 2018年1月 7日 (日) 17時37分

粗忽のりんごより
皆様にお詫び申し上げます。
名曲の名演奏に酔いしれていつしか迷走
霧子のタンゴを愛した亡夫の事が甦り
ややおかしなコメントとなりました。
勿論  夜霧の第二国道は私の愛する歌です。
「俺は淋しいんだ」も大好きでした。

投稿: りんご | 2018年1月 7日 (日) 17時54分

りんご様

新年の静かな夜に懐かしく憧れのメロディに酔いしれました。
中学3年の頃 フランク永井の唄を低音で真似る同級生がいました。背が高くメガネをかけハンサムで高校の先生の息子でした。フランク永井の歌い方は都会に憧れていた私には憧れの人で、同級生女子にもてたF君も私にとって羨ましい人でした。
霧子のタンゴを18番とされたりんごさんのご主人様も優しく素敵な方だろうと想像しています。
また お二人はいつも「東京ナイトクラブ」のデュエットされていたように想像しました。

投稿: けん | 2018年1月 7日 (日) 22時15分

フランク永井は、私の声質とぴったりで大好きな歌手でした。少なくとも最近までは・・・。
でも、今は大好きなだけでさっぱり歌えません・・・悔しいけれど・・・。
1~2年前までは、私が“つらい~恋な~ら~”と、囁くように?歌い始めると、黙ってうっとり?と、
聞いてくれていた筈の女房殿も、最近では、“ちょっと!あっちにいってやって!” まるで騒音発生器
並みのあつかいです。こっそりカラオケハウスにでも、夜逃げしようかな~。

投稿: あこがれ | 2018年1月 7日 (日) 23時40分

草笛のけん様
その後のF君の人生やいかに・・。
今ではけん様の草笛を待ちわびておられる数多の元乙女
の姿が想像されます。
今がモテキとの自信を深め草笛に精進ください。
追記
残念ながら  音痴の私は大好きな「東京ナイトクラブ」
も聞くのみでした。カラオケは諦めて、朗読と紙芝居に活路を求め  学校読み聞かせ  老人ホームでの紙芝居をライフワークとしております。
余談ですが
「今月今夜のこの月~」有名な「金色夜叉」に続編があり先日上演して喜ばれました。金満家の夫、富山が疎ましくなり昔捨てた 間寛一への未練に突き動かされ復縁を迫るが「今の僕には何もない。裕福な銀行家夫人の地位を棄てられるならこの部屋で待とう」しかし  寛一は宮が現れないであろうことを確信という筋立て。
あこがれさま
何と何と奥様は宝の持ち腐れ?もったいないことですね。
「東京午前3時」なども大好き田舎な乙女でいた。

投稿: りんご | 2018年1月 8日 (月) 09時29分

フランク永井は同じ出身県ですが(永井の出生地・大崎市松山町は鎌倉公方足利満兼から派遣された奉行遠藤盛継が築城した松山城に由来:Wikipedia)、芸能界入りする前に進駐軍キャンプで運転手をしていた話は有名です。
昔、北関東から川崎の知り合いの通夜に行くため第二京浜を通ったことがあったですが、今は第二京浜を通ることは全くないです。車に乗れる間に今一度、𠮷田正(註:ヨシダのヨシは通常の「吉」ではなく「𠮷」)のヒット曲で随一でないかと個人的に思っている本曲を聴きながら夜霧の第二国道(第二京浜)を走ってみたいと思う今日この頃です。

投稿: 焼酎 | 2018年1月 8日 (月) 14時50分

中古の車を買いドライブの楽しさを知ったのは26歳の時です。金曜日の夜、明日は会社は休みです。時々、今夜は眠れそうにないな、という予感に襲われました。

そんなとき、夜9時、10時にドライブに出かけました。いざ、ヘッドライトの光の中、ネオンの海の中へ、です。ドライブした道は正確には思い出せないのですが、横浜新道を経由し第三京浜道路で都内に入り引き返しました。

テールランプの赤い光が絶え間なく入れ替わり、果てしなく続いているのが印象的でした。道路の起伏やカーブに応じてテールランプの波も暗闇の中、一糸乱れることなく蛇行してゆくのが不思議な空間にいるかのように感じられました。

これって宮沢賢治の銀河鉄道の夜と同じだなぁと感じていました。おそらくそのとき私も陶酔してこの曲を歌っていたと思います。

投稿: yoko | 2018年1月 8日 (月) 23時13分

〽つらい恋ならネオンの海へ 〽バック・ミラーにあの娘の顔が 〽つづくはてないああ第二国道・・・宮川哲夫の名調子に乗せて𠮷田正の都会派歌謡が盛り上げるという、戦後歌謡曲の傑作ではないかと独断する今日この頃です。
ところで、北関東から南東北(福島)にかけて戦前戦後の歌謡界に名曲を送り出してきた一流作曲家を多数輩出しており、𠮷田正(茨城県日立市:落葉しぐれ、夜霧の第二国道…)、船村徹(栃木県塩谷町:王将、風雪ながれ旅…)、古関裕而(福島県福島市:暁に祈る、栄冠は君に輝く…)、市川昭介(福島県郡山市:皆の衆、アンコ椿は恋の花…)、猪俣公章(福島県:君こそわが命、港町ブルース…)、佐々木俊一(福島県浪江町:野球小僧、新雪…)・・・まさに日本を代表する作曲家が目白押しといったところです(特に福島県が多いようです)。

投稿: 焼酎 | 2018年2月16日 (金) 22時33分

同じ曲の連投失礼します。
「夜霧の第二国道」ヒットの頃は第一京浜や第二京浜を含め国道が幹線でしたが、今や全国津々浦々に高速が行き渡り、東名と新東名、名神と新名神・・・ダブルで高速敷設?のご時勢です(人口減少高齢化で高速道路“不良債権化”?)。
一章様は毎日何十キロも走行されお疲れ様です。JR以外鉄道が無い北関東在住のため車が足替わりです。車利用者は交差点(↓)など事故多発箇所に注意しながら「達者でナ」が合言葉です。
(warusonekoさん提供)http://www.youtube.com/watch?v=03grzROLGYU

投稿: 焼酎 | 2018年9月11日 (火) 21時38分

昭和歌謡界の中に於いて低音の魅力ある歌手と言えば、誰もが一番最初ににフランク永井の名前を揚げるかと思います!
文字通りこの「夜霧の第二国道」はその代表曲と言えるかと思います。
私は5才の時に「夜霧に消えたチャコ」8才の時に「霧子のタンゴ」を、幼少の頃のまだ全くおぼつかない感性でこれらの曲に魅力を感じ、それ以来フアンであり続けた一番好きな歌手でした!
フランク永井の歌をこれまで永年にわたり聴いてきた中で私が感じてきたのは、彼は高音の魅力も持ち合わせていることに気がつかされたことです。

言い換えれば音域がとても広い歌い手だと言えると思います。最初に偶然それを感じたのは、LPアルバムの中にある一曲、昭和37年6月に発売されている「初恋の詩」を聴いていた時でした。この歌は彼の持ち味の低音の歌い出しから始まるのですが、サビの部分からかなりの高音で歌い上げていきます。また他の歌い手と異なる点は高音の部分になってもファルセットにはならず、彼本来の声で高音になっていきます。この低音と高音の声を合わせ持つ数少ない魅力ある稀な真の実力ある存在が、昭和歌謡界の中でこれほどの人気を博しまたそれが定着し、今なお愛される要因と言えるかと思います。

1991年に発売になった「フランク永井大全集」CDアルバム6枚組を購入できたその時の喜びは今も忘れられません。
彼の晩年を思うと寂しい限りですが、フランク永井の唄は永遠に私に心の中に残っていくと思います!

焼酎様が「有楽町で逢いましょう」でUPして下さった「そごう百貨店」と「日通」との「引っ越し巨大プロジェクト」の動画は圧巻でした。神武景気・岩戸景気と言われた、まさに日本が著しい経済成長を遂げて行く頃の、その片鱗が感じられました。

投稿: 芳勝 | 2018年9月13日 (木) 15時14分

昔、某漫談師が「フランク永井は低音の魅力、某漫談師は低〇の魅力」とネタにしていたですが、芳勝様が指摘された通り、まさに昭和歌謡界で低音の魅力ある歌手でした。「フランク永井の唄は永遠に芳勝様に心の中に残っていく」と懐古されるフランク永井は歌手冥利に尽きるところです。
フランク永井のヒット曲とともに老舗運輸企業による老舗新聞社の引っ越し巨大プロジェクトは、まさに高度経済成長期の片鱗でした。

投稿: 焼酎 | 2018年9月13日 (木) 17時08分

宮川哲夫 𠮷田正 フランク永井 の作品には
『公園の手品師』もあります。

投稿: hurry | 2021年8月28日 (土) 15時13分

私は、『夜霧の第二国道』が大ヒットした8年後、
九州の片田舎から就職で横浜に出てきて、京浜第
二国道(つまり国道1号線)沿いにある寮住まい
になりました。相部屋になった地元の某君が、窓
の下にある広い道路を指して「これがフランク永
井の第二国道」と教えてくれてからというもの、
私は夜になるとヘッドランプとテールランプが洪
水のように流れる風景を飽かず眺め、いつか自分
も颯爽とハンドルを操ってあの中を走ってやるぞ、
と“ひそかな灯”を燃やしたものです。
後年、作曲者の吉田正さんがテレビだったかで
「アップテンポのメロディも考えたけど、実際に
第二国道を車で走ってみたら、意外にスローバラ
ードがフィットした」という意味のことを語って
いました。私も、自分で運転する“身分”になっ
たとき、下手くそな歌をがなりたててみると、な
んとこれが吉田さんの言う通りであることを知り、
唸ったものです。
ただし、残念なことに、その後都会では霧の発生
が激減しています。車には必ずフォグランプが装
備されていますが、まず使うチャンスはありませ
ん。半世紀前に夢見た「夜霧」のバックグラウン
ドの中、バックミラーに「あの娘の顔」を映して
「男の胸を濡らす」といった、ドリーミングなシ
ーンはいまだに実現していないのです。

投稿: 待宵 | 2022年2月11日 (金) 20時41分

ありがとうございます。
 私は昭和24年生まれで、くだんの国道が新幹線と交叉する馬込に住んでおりました。「蛇足」でご解説のように、当時は地元でも「第2京浜」と呼ばれる比較的新しい道で、国道1号線の名が広まったのは後年のことです。時たまその広い幅を横断することがありましたが、小学生でも信号以外のところを難なく渡れるような交通量でした。
 この歌詞を良く知ったのはずっと後年ですが、昭和32年の曲とのことですので、まだ当時の交通量に近くおそらく沿線も闇の多い国道を、夜中に淡々と走り続ける情景ではないかと思いました。現在の国道1号線に置き換えてしまうとかなり騒々しいことでしょう。( このたび Wikipedia を見ましたら、国道1号線という名は昭和27年には定められていたとのことです。すぐには広まらなかったのですね。 )

投稿: しのあ | 2022年8月 1日 (月) 04時35分

BSの番組で若い歌手がこの歌をカバーしていました。歌い継がれるのは嬉しいのですが、あの低音の魅力を知っているものとしては今一の感です。第2国道と言えば私には鶴見のめがね橋です。昭和40年代半ば鶴見の三ッ池公園の傍に住んでいました。国鉄の鶴見からバスで寺尾へ、途中めがね橋で国道を渡ります。帰りの頃は夜遅くでバスから見る第2京浜は薄暗く詞のイメージ通りでした。勤め先の日本橋小舟町からダイハツの軽で帰ることもありましたが、川崎を過ぎると両サイドの灯りも薄く、サインボードの記憶はありませんが「つづくはてない」感は残っています。この歌の舞台はこのめがね橋(響橋)だと今も確信しています。

投稿: しょうちゃん | 2022年8月 1日 (月) 09時07分

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