« ブランデーグラス | トップページ | 夢のお馬車 »

2007年12月21日 (金)

津軽海峡・冬景色

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:阿久 悠、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり

1 上野発の夜行列車
  おりた時から
  青森駅は 雪の中
  北へ帰る人の群れは 誰も無口で
  海鳴りだけを きいている
  私もひとり 連絡船に乗り
  こごえそうな鴎見つめ
  泣いていました
  ああ 津軽海峡・冬景色

2 ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき)
  北のはずれと
  見知らぬ人が 指をさす
  息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
  はるかにかすみ 見えるだけ
  さよならあなた 私は帰ります
  風の音が胸をゆする
  泣けとばかりに
  ああ 津軽海峡・冬景色

  さよならあなた 私は帰ります
  風の音が胸をゆする
  泣けとばかりに
  ああ 津軽海峡・冬景色

《蛇足》 昭和52年(1977)に発表された大ヒットかつロングヒット曲で、『天城越え』と並んで、石川さゆりの代表曲。

 先ごろ、中学だか高校だかの音楽教科書の1つに掲載されたというので、話題になりました。時代の変化を実感させます。かつては歌謡曲が音楽の教科書に載るなど、思いもよらぬことでした。

 石川さゆりはこの曲で、同年の日本レコード大賞歌唱賞などを受賞するとともに、NHK紅白歌合戦への初出場も果たして、演歌の代表歌手と目されるようになります。

 青森・函館間を結ぶ青函連絡船が運航していたころの歌です。青函連絡船は、青函トンネルが完成し、鉄道路線が開通した昭和63年(1988)3月をもって廃止されましたが、旧青函連絡船八甲田丸前および竜飛岬と、歌詞ゆかりの地に歌碑が建てられました。

 なお、竜飛岬の本来の地名は竜飛崎(たっぴざき、またはたっぴさき)です。阿久悠が音数を合わせるために竜飛岬としたわけですが、この歌の大ヒットにより、竜飛岬と呼ぶ人が多くなりました。

(二木紘三)

« ブランデーグラス | トップページ | 夢のお馬車 »

コメント

何年か前、妻と札幌・函館などを旅行しましたが、函館港にはたしか「摩周丸」という青函連絡船が残っていたので、その中を見学しました。
その時、一番印象的だったのが「洞爺丸」沈没事故の詳しい展示でした。1954年(昭和29年)9月、死者1155人を出したという未曾有の海難事故は、当時、中学生だった私もよく覚えています。今の気象観測技術からすれば、台風の影響力などは立ち所に分かったはずなのに、“天気図”のあだ名を持つ当時の「洞爺丸」船長でさえ操船に失敗したということです。まことに隔世の感があります。
この歌を聴く時、つい「洞爺丸」事故を思い出してしまいますが、解説にもあるように、この海難事故を切っ掛けに青函トンネルが誕生し、連絡船は姿を消していきました。いま「さよなら あなた」という歌詞を聴くと、それは亡き“連絡船”への挽歌のように聞こえてしょうがありません。連絡船は永遠に消えたのですね。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年7月 8日 (火) 21時06分

こんばんは

昨年、生まれ故郷八戸に帰郷した際、青函トンネルで函館に一人旅をしてきましたが、やはり海を渡るには船のほうがよろしいですね。便利で早いので忙しい方には喜ばれると思いますが。。。

矢嶋様の書かれた(洞爺丸沈没)事件はほんとうに日本中を揺るがす大事件でした。私などはいまだに連絡船というと洞爺丸のことを思います。今は連絡船という言葉も聞くことがなくなりさびしい限りです。

青森生まれなのに 津軽海峡冬景色 を見た事がありません^^ゞ


投稿: おキヨ | 2008年7月 9日 (水) 00時09分

流石「阿久悠」素晴らしい詞です。石川さゆりも見事に歌いあげた。企画、詞、歌手がそろうと良い歌ができるのですね。

投稿: M.U | 2008年7月22日 (火) 14時34分

「天城越え」とこの歌、どちらかを取れと言われれば、この
歌を取ります。詞がどぎつくないからです。

投稿: M.U | 2008年8月11日 (月) 15時51分

1979年(昭和54年)結婚して雪のない横浜からアメリカの雪国ミシガンへ渡りました。それ以来この歌は私の気持をつづる曲となっています。「さよならあなた」は私にとって日本と家族。里帰りしてアメリカへ帰る度にこの歌が胸に溢れます。

投稿: Meg | 2008年8月19日 (火) 06時17分

詞、曲、歌唱。この三者が見事に解け合った戦後歌謡曲中の名曲だと思います。あの大学紛争(大学闘争)時代を過ごした(闘った)学生が、挫折と苦悩を抱えて社会に出て行った時代。彼等の解きがたかった思いの残る心情にぴったりの歌で、教師として彼等とある部分心情を共有し、ある部分反撥した者として、この歌はまさしく自分の人生の一コマに重なります。

投稿: HI | 2008年9月26日 (金) 10時33分

この11月上旬に岩手・青森・秋田と関東からのツアーに参加しました。
青森の大間と竜飛崎のそれぞれの最北端を駆け足でまわりましたが、竜飛崎の風の強さ(1年中とのことですが)を感じながらこの唄の歌碑の前で、多くの犠牲者を生んだ世紀の大工事のことを思い起こしながら、テープから流れるこの曲を聞いておりました。(歌詞は2番の文字が大きく表示されています)
連絡船が通っていたときの時間が、今となってはたいした時間ではないのではないかと思うような気持ちにさせていただいたひと時でした。
時間の短縮だけではないかも知れませんが、反面大間では医療機関にはフェリーで函館に行くことの方が早いとのこと。人々の住環境の違いをみせられたツアーでした。

投稿: 修さん | 2008年11月24日 (月) 21時53分

コメント欄がクラッシック畑になっていますので、この曲を取り上げました。「三木たかし」さんのご冥福をお祈りいたします。

投稿: 海道 | 2009年5月12日 (火) 06時09分

「青森」と聞けば、寂しい街だったなーと思い出します。15年ほど前の記憶ですが駅頭に立った時の人の少ないあの侘しい印象は忘れられません。
駅員に聞いて旧連絡船を桟橋に訪ねましたが、この歌の歌碑を船の傍らに見たときは感動しました。そして歌碑建立賛同者の方々に地元の方でなく仕事で青森に来た転勤族らしき方々が多かったのは何か分かるような気がしました。
この曲の哀れさ侘しさは、そして遥々来た本州最果ての地の寂しさはある意味流され放逐されて来たよそ者の感情にこそ強く訴えたんだろう....と。
桟橋から夕暮れの陸奥湾越しに遠く浅虫温泉らしき灯を見たのも忘れられません。
それとこれこそ蛇足ですが、仕事で何度か参りました、その度に思いましたのは県内どこに行っても大変顔立ちの良い美しい女性達の多い県だという事です。
鹿児島、高知両県でもそう思いましたが本来の日本人の原型が各地に色濃く残ったのでしょうか....。

投稿: 浜のぼくちゃん | 2010年5月 2日 (日) 18時31分

北海道生まれの私にとっては
思い出深い曲です。

1989年 中国西安郊外の
秦始皇帝秦俑博物館の兵馬俑を見に行った帰り
近くの田舎町の臨潼県で食事をすることになり
町中を歩いていると
どこかで聞いた曲が流れてきました。
歌詞は中国語でしたが、やがてそれは
この津軽海峡・冬景色だということに気がつきました。

投稿: みやもと | 2010年5月19日 (水) 22時09分

昭和63年3月をもって廃止された翌年だったか、青函連絡船のお別れ航海が催されると知り青森の連絡船桟橋に見物にでかけました。函館からの最終便が港に姿をみせたときタグボートの福島丸が連絡船に近づき接岸を助けていました。その日の青森から函館に向かう便が後にも先にも最終航路です。数時間後、自力で桟橋をはなれ北に向かって進みだした大きな連絡船に寄り添うようにタグボートの福島丸が後を追っています。私はてっきりタグボートも函館に向かうのかと眺めていると何回かボーと汽笛を鳴らしました。すかさず連絡船からもヴォーと汽笛が返ってきました。陸奥湾の外海にでるまで連絡船と福島丸との汽笛の交換が何度となくつづきました。海に生きた人たちの心のぬくもりを肝に銘じさせてくれた光景でした。この歌をテレビ、ラジオから聞くたびにそのときの福島丸の惜別の汽笛が耳をかすめていきます。連絡船は八甲田丸だったか摩周丸だったかは定かには覚えていません。

投稿: 亜浪沙(山口) | 2012年10月28日 (日) 13時36分

 冬ではないですが、私が津軽海峡を渡ったのはいつも夏でしたので書かせていただきます。
 我が国の歌謡曲の定番では、北へ向かうというのは、夢が破れたというか、失恋したというような、悲しげな雰囲気の設定になっています。この場合の北とは、東北か北陸、つまり上野から鉄道で向かう地方と思われます。『津軽海峡冬景色』の主人公は、北海道の人で、おそらく内地での恋に破れて青函連絡船で北海道へ帰って行くという設定になっています。一方で北海道は憧れの地という歌もあります。(たとえば橋幸夫『すずらん娘』)
 10代の最後に初めて東北一周の旅をしました。この時の東北の印象は概して暗く、殊に青森は最果てというイメージが残りました。青森では出航する青函連絡船を眺めて、いずれは北海道へもと思いながら南へ向かいました。翌年、念願の北海道一周をすべく再び青森に向かいましたが、台風の影響で函館本線が不通になって青函連絡船も欠航になっていました。幸いにも室蘭に向けて臨時の便が運航され、深夜に連絡船に乗り込んだ私は長旅の疲れで、客室に雑魚寝をして寝込んでしまいました。朝方目覚めた私は、噴火湾から眺める北海道の景色の明るさに目を奪われ、ブラキストン線の南北ではこれ程景色が違うものかと思いました。この時の私のイメージは、青森は北の最果て、北海道は別世界というものでした。
 青森へはその後、弘前大学の友人を訪ねて旅行する機会があり、金木町の斜陽館などにも訪れ、津軽地方の美しさも印象に残りました。この時は更に函館へも足を延ばしています。2度目の訪問では旅の印象も変わって来るもので、函館の史跡を訪ね歩くうち、江戸時代に既に藩が置かれていた道南地方は津軽地方とそれ程の違いがないと感じるようになりました。しかし今でも道南以外の北海道は別世界というイメージは残っています。これは我が国における開拓のフロンティアという北海道の歴史に拠るものかも知れません。そういう意味で北海道は米国における西海岸と同じような位置づけになるでしょう。
 今は青函連絡船も廃止されて、現在多くの観光客は飛行機で北海道を訪れるのだと思います。しかし、あの青函連絡船の旅も情緒があって良かったと思います。

投稿: Yoshi | 2016年8月 4日 (木) 13時03分

若い頃仕事で函館から木古内や江差に行くことがありました。洞爺丸の浜に干してある烏賊が記憶にあります。この歌は三木たかしさんがまず曲を作り阿久さんが歌詞をつけたことは有名ですが、冒頭の3連符の連続にまあ見事な詞と感嘆します。Yoshiさんの言われるように主人公は失恋で悲し気に見えますが、阿久さんの描く女性像は明大の吉田教授も言われる、辛くても自立した女だと思います。(ジョニーへの伝言など)歌詞の「さよならあなた私は帰ります」のリフレインはきっぱりと女性の方から別れを宣言しているように聞こえます。

投稿: しょうちゃん | 2016年8月 4日 (木) 14時52分

わたしが初めて青函連絡船に乗ったのは、1964(昭和39)年6月17日のことです。どうしてこの日を正確に記憶しているかというと、その前日に新潟下越沖を震源とする「新潟地震」が起こったからです。わたしの故郷で起きた大地震でしたが、家族は既に埼玉の方に越して来ていましたので、身内の安否を心配する必要はありません。故郷の親戚、友人・知人の安否は気がかりですが、折角休暇をとっての北海道旅行です。後事を家族に託して出発したものの、初めての寝台急行ということもあり、ほとんど眠れないまゝ、翌朝青森駅に着いたのでした。幸いなことに、寝台急行は常磐線回りでしたから、線路点検が比較的早く終わり、定刻を1時間くらいの遅れで出発できたように思います。
 しかし、折角楽しみにしていた青函連絡船の旅は、半世紀も前のこともあり、ほとんど記憶にありません。睡眠不足の上、新潟地震のことが脳裡から離れなかったこともあったのでしょう。ただ、記憶にあるのは、修学旅行の女子高生の一団が、嬌声を上げながら見送りの人に「紙テープ」を投げていたことくらいです。わたしは見送る人もない一人旅でしたから、余計印象に残っていたのかもしれません。後から聞きましたが、この「見送りテープ」の習慣は、後日転落事故があったとかで廃止されたとのことですが、本当でしょうか。
 北海道旅行中、常に頭から離れなかった新潟地震は、その後石油コンビナート火災として燃え広がり、わたしが3泊4日の旅行から帰っても燃え続け、完全消火まで12日間を要しました。この地震による死者数26名は、マグニチュード7.5の規模では奇跡的だそうです。
 

投稿: ひろし | 2016年8月 7日 (日) 14時47分

 青函連絡船と言えば、我が国最大の海難事故、洞爺丸事故が想起されます。この事故が発生したのは1954年(昭和29年)です。
 夏になると寄席などで怪談が演じられますが、巷の怪談に良くある話として、乗せたはずのタクシーの客が目的地に着いたら消えており、雨の日でもないのにその客の座っていたシートがぐっしょりと濡れていた….という類の話があります。実は我が国でこの手の怪談が語られるようになったのは洞爺丸事故の後からだそうです。当時いかにこの海難事故が衝撃的であったかを計り知ることができます。因みに水上勉の『飢餓海峡』は洞爺丸事故を題材にして書かれています。

投稿: Yoshi | 2016年8月 9日 (火) 20時43分

 洞爺丸の遭難事故は小学校6年ぐらいでした。九州の南端にいましたが、新聞で知りました。これまで2回ほど北海道に行きましたが、飛行機です。
 そう言えば最近紙テープを見かけなくなりました。ま、そういう場面に行かない事もあるのでしょうが。
 また、「水上勉」の「飢餓海峡」は洞爺丸事故を題材にしているのですか。そうですか。読んでみたくなりました。

投稿: 今でも青春 | 2016年8月10日 (水) 09時18分

この曲は、三木たかしが まず曲を創り、それに阿久悠が後で歌詞をつけた いわゆる曲先で有名な曲だと、しょうちゃん様のコメントにもありますが、
5月6日 BS朝日放送の『昭和偉人伝』
「ジャンルを越えたヒットメーカー 三木たかし」 から、そのあたりのエピソードが聞けましたので、少し補足させてください。

三木たかし の曲作りのシチュエーションは、のっけから あの怒濤渦巻く津軽海峡であって、ダダダ ダーン という
激しいイントロは、ベートーベンの運命をモチーフに、これから運命の扉を開けるのだと、インパクト・衝撃を表わしたかったのだと語っています。
そして彼が、阿久悠に望んだことは 最後は” ♪津軽海峡冬景色~”で、終わって欲しいということでした。

歌詞を依頼する前に、彼の中では既にイメージが出来あがっていたのでしょうね。

それにしても意外なことに、彼 三木たかしは 本当は演歌が嫌いで、なんとかして演歌の世界から逃れたいと 思い続けていたそうです。
そのことについて、星野哲朗は、 ”あらたまって洋服を着て、すまして洋食を食べてる時でも、どんなに逃れようとしても後ろからついてくるものがあり、それが日本人であるという意識、それが演歌なのだ” と、言ってます。

作詞家の荒木とよひさ とコンビを組んで、実妹の黛じゅんだけでなく多くの歌手達に、いろんな曲を提供していますが、演歌に縛られず拘らず 数々のヒット曲を生み出しています。

演歌を嫌いな筈なのに、演歌を聞くと 知らず知らずの内に涙が溢れてくる・・・三木たかしの積年の葛藤の中から作り出された名曲が、彼をして「ジャンルを越えたヒットメーカー」と言わしめたのでしょう。

平成21年5月11日 下咽頭がんの為 64才の若さで逝去

投稿: あこがれ | 2018年5月 6日 (日) 14時59分

昭和48年に、石川さゆりがデビュー曲の「かくれんぼ」を歌っているテレビ歌番組を見て、彼女の声と歌唱力を気に入った私は、迷うことなく、早速レコードを買いに行った覚えがあります!
私の期待とはうらはらに、彼女はその後しばらくヒット曲には恵まれなかったのですが、石川さゆりのファンになった私は、応援したいという気持ちも込めて、彼女のシングル曲や、LPレコードを3年ほど買い続けましたが、なかなか芽が出ず、少しばかり残念に思っていた時期がありました。

そんな彼女が、昭和52年に出した「津軽海峡冬景色」で、大ヒットを飛ばし、次曲の能登半島・暖流・砂になりたい・火の国へと立て続けにヒット連発し、スターになって行く姿に、私はファンとしての喜びを感じてきました。
私は、それまで石川さゆりの歌は、数多く集めたレコードやカセットで聴いていたのですが、ちょうどタイミングよく、1992年に20周年記念で発売された、石川さゆり全集「道」が、私が初めて買ったCDとしての、彼女のオリジナルアルバムでした。
また、紅白に、これまで40回もの出場をはたし、ここ10年間は「天城越え」と「津軽海峡冬景色」を交互で歌っていますが、それでも年末になると、私は紅白での、彼女の出場を願うのと同時に、この2曲のいづれかを必ず聴きたくなります。昨年の紅白のトリで「津軽海峡冬景色」を歌う、彼女の堂々とした姿には貫禄さえ感じました。
石川さゆりの歌い手としての実力は、誰もが認めるところだと思いますが、彼女が若い頃に数作品のテレビドラマに出演している作品も、私はこれまで見てきましたが、役者さんとしてのその演技力も、確かなものがあると思っています。

最近では、主に彼女の歌はネット動画を視聴して楽しんでいますが、改めて思うのは、石川さゆりは、童謡から都都逸までを熟すことの出来る、真の実力を備えたビックアーチストだと、私は感じています。
昭和が全盛と思われる歌謡界の中で、しかも演歌歌手が生き残りにくい時代に於いて、15才でデビューし、還暦になった現在も、第一人者として活躍し続けている石川さゆりは、立派で素晴らしく、その揺るぎない彼女の存在は、私にとって嬉しい限りです。


投稿: 芳勝 | 2018年5月 6日 (日) 21時05分

この曲もとても好きな唄で、自分の声量の中にハマるかどうかが心配でしたが、歌ってみるとぴったりとはまったので、自分の持ち歌にしました。
なるべく原曲のまま再現して歌うように心がけています。
本当にいい曲です。

投稿: jurian prabhujee | 2020年2月28日 (金) 23時11分

先日、中国とロシアの艦隊が津軽海峡を通過した時、この歌を思い出しました。
不勉強でしたが、津軽海峡は“公海”だったのですね。私は日本の領海だと思い込んでいたので、自分の不明に気が付いたしだいです。
すると、昭和の時代に、この海峡をいつも行き来していた青函連絡船を懐かしく思い出しました。あの連絡船をもう一度見たいと思っても、もう見ることはできません。
せめて『津軽海峡・冬景色』を聴きながら、連絡船が通った往時を偲びたいと思います。

投稿: 矢嶋武弘 | 2021年10月31日 (日) 11時40分

それでふと疑問がわいたのですが、
公海の下ですから、当然日本の領土ではないんですね。?
その地下を掘って青函トンネルが造られたのですが
青函トンネルの内部は日本の領土なのでしょうか?
うたに関係のない質問ですが・・・

投稿: yoko | 2021年11月 3日 (水) 07時38分

すみません。
netで調べたら出てました。
日本の領土だそうです。
固定資産税も支払われているそうです。

投稿: yoko | 2021年11月 3日 (水) 18時45分

yokoさん、ありがとう。だいぶ分かりました。

投稿: 矢嶋武弘 | 2021年11月 5日 (金) 11時39分

40年前にこの歌について友人と論争しました。「はるかにかすみ見えるだけ」を私は「主人公には霞が見えただけで、竜飛岬は見えなかった」と理解しました。友人は「主人公に、竜飛岬は霞んで見えた」と理解しました。40年経ってある女性にこの話をしたら、私に賛成してくれました。主人公は失意の底にあり、竜飛岬を見つける努力をする気力も無く涙で見えない、その辛さが「さよならあなた」の言葉に続くのだと。ところがその人は後でその意見に自信がなくなったとのこと。友人は今どこにいるのかわからず再び議論をできません。皆様はどう思われますか。

投稿: kazu | 2022年8月11日 (木) 22時41分

 まず設定として津軽海峡の冬の空はどんよりと灰色模様の空です。
 指さす見知らぬ人はきっと何回か連絡船に乗っていて、冷たくて決して青くない海と重く垂れ下がった冬の空の間のある突き出した竜飛岬がわかるのでしょう。でも何年も帰っていない傷心の主人公はそう言われて分かるはずなのに見えない。息を吹きかけた窓ガラスはすぐ曇るし、傷ついた本州での生活を後にしてしまう諸々の思いから涙で霞んで見えない。つまり鉛色の海と鉛色の空があるだけ。と言うことから両方の解釈ができるのではと、私は思うのですが・・・

投稿: konoha | 2022年8月12日 (金) 10時46分

大好きな歌です。
私はkazuさんと同じ意見で、見えなかったと思います。kazuさんのおっしゃるように、涙で見えず、またそのような気持ちにはなれなかった、というのに加えて、竜飛岬が見えなかったため本州との別れ(=男性との別れ)を改めて決意して「さよならあなた」につながるように感じられます。また、霞んでいても竜飛岬が見えたら、わざわざ歌にしなくてもよいような気もします。人には見えるけれど、私には見えない!そのくらい辛いのだ、という感じです。勝手な解釈ですみません。

投稿: yuki | 2022年8月13日 (土) 10時30分

konoha 様 yuki 様  私の疑問に素敵な回答をくださりありがとうございます。

阿久悠さんの数多くの名作の中でも、自然(「海鳴り」「竜飛岬」「かすみ」)と人事(「無口」「指を差す」「ふいてみた」)が溶け合い、ことに格調の高い名作と思います。青函連絡船には一度乗りました。乗船名簿に記入し、乗船時間も長く、独特の旅の雰囲気がありました。同じく廃止されましたが、本州と四国を結ぶ宇高連絡船に帰省のため何度も乗りました。(愚作)ふるさとへ瀬戸の潮路を行きしかな そのふるさとに父母ありし日に。甲板の売店で讃岐うどんをいつもおいしくいただきました。連絡船には旅情があります。

投稿: kazu | 2022年8月17日 (水) 19時26分

青森へは、夏のねぶた祭を見にいっただけで、冬の津軽海峡は見ていませんが、この歌を聴く度に冬の海を思い浮かべます。
ブログハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。
ありがとうございました。

投稿: ゆるりと | 2023年2月14日 (火) 11時54分

青函連絡船は廃止されましたが、今は津軽海峡フェリーがあります。私は去る3月28日昼の12時20分に函館を発ってこのフェリーで青森まで行きました。「津軽海峡・冬景色」の歌詞と違って逆コースであり、季節も冬景色ではなく、遠山に残雪の残る早春の景色で、とても印象的なものでした。  
私は73歳ですが、松尾芭蕉の「おくのほそ道」を読んでいた時、旅に出た46歳の芭蕉は5年後に死んでいますから、崇拝する西行の500回忌や、何よりも自分の体力の限界などを考えあわせて、旅を決めたのだと思います。その大いなる決意なしに、徒歩で約150日間、2400キロメートルも歩けませんもの。それにあやかって、私も最後の一人旅として北海道を1週間かけてまわりました。ハノイを出て大阪へ、さらに福井県敦賀から苫小牧へは船旅で、1週間の北海道の汽車旅の最後は函館でした。フェリーの上からおだやかな津軽海峡をながめていると、最後の旅をやり遂げた達成感が無事旅を終えた安堵感とともにひろがりました。老人ならではの思いですね。

投稿: 越村 南 | 2023年4月12日 (水) 11時40分

去年の3月28日に津軽海峡フェリーで函館から青森まで船旅をしました。3時間40分ほどの気分の良い旅でした。その後ベトナムに帰ってから下北半島の大間(おおま)にも函館からフエリーが出ていることを知り、ようし今年もそのルートで津軽海峡を渡ってみようと計画を立てました。2024年4月2日朝9時30分函館港を出発して大間港11時到着。さらに13時40分大間港を出発して15時10分函館港到着となる。1時間半の短時間で津軽海峡を渡ることができました。しかも往復便です。大間はマグロ漁で知られた町ですが、歩いてみるとそんな活気などあまり感じられない、さびしい町でした。
この歌の歌い手石川さゆりが若い歌手に「この歌はあまりこぶしをきかさなくてもいい。歌詞が海峡の雰囲気をよく伝えてくれるから」とアドバイスするのをyoutubeで見たことがある。この歌はまさに津軽海峡をみごとに歌った阿久悠の傑作だと思います。
函館港に着いた後16時40分発の特急で札幌に向かった。明日は朝から釧路にむかうから。結局五稜郭は見ずじまい。馬鹿といえば馬鹿ですが、まあ納得の一人旅でした。

投稿: 越村 南 | 2024年4月23日 (火) 11時51分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ブランデーグラス | トップページ | 夢のお馬車 »