南国土佐を後にして
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 南国土佐を 後にして 2 月の浜辺で 焚火を囲み 3 国の父さん 室戸の沖で |
《蛇足》 昭和34年(1959)の大ヒット曲。
この歌のヒットには、テレビ普及の歴史が密接に絡んでいます。
日本でテレビの本放送が始まったのは昭和28年(1953)2月1日ですが、この年の受像機台数は3600台ほどにすぎませんでした。それがようやく100万台に達したのが5年後の昭和33年(1958)5月。
ところが、そのわずか1年後の昭和34年4月には、一挙に倍増して200万台に達しました。その主因は皇太子の結婚。結婚パレードを見ようと、高額を顧みず、多くの人びとが受像機を買い求めたのでした。
それ以前から、テレビの普及を見越して、NHKや民放の地方テレビ局の開局が相次いでいました。
昭和33年暮れ、NHK高知放送局のテレビ放送開始を記念して、高橋圭三司会の歌番組『歌の広場』が放送されました。そのなかでジャズ歌手・ペギー葉山が歌った『南国土佐を後にして』が大反響を呼び、受像機の大普及に乗って空前のヒットとなったのです。
実はその3年ほど前、鈴木三重子の民謡調のレコードが出ているのですが、そのときはほとんど話題になりませんでした。
テレビの急速な普及にも表れているように、このころから高度経済成長が始まり、多くの人びとが先行きに明るい見通しをもつようになりました。おそらく、そうした世相に、ペギー葉山のカラッとした歌唱がアピールしたのでしょう。
ところで、この歌には元歌があります。高知民謡『よさこい節』を読み込んで戦前から地元で歌われていた歌で、『南国節』とか『よさこいと兵隊』など、いくつかのヴァリエーションがありました。
日中戦争中、四国混成部隊(通称「鯨部隊」)に組み入れられた高知県の兵士たちが他県出身者に教えたことから、戦後、四国一円に広まりました。
酒の席でこれを聞いて、心惹かれたのが作曲家の武政英策でした。空襲で大阪の自宅を焼かれ、先妻の縁で南国市に疎開していた武政は、戦後も大阪に帰らず、高知で楽団の指揮をするなど音楽活動を続けていました。
この歌をなんとか世に出したいと思ったものの、歌詞もメロディも歌う人によって少しずつ違い、そのままでは作品になりません。
そこで彼は、新たに歌詞を書き、採譜したメロディを一部生かして、自分の曲として仕上げました。
完成したのが昭和27年(1952)。それが鈴木三重子の歌を経て、ペギー葉山の歌でめざましく開花したわけです。
(二木紘三)
コメント
非常に個人的 一説
この歌は 高知の鯨部隊 の
関田常吉? さんが作ったというはなしをきいたことがあります
日比谷高校の英語?の 先生でしたが
召集され 戦死
克明な 中国戦線の メモを
残していたそうです。
出版されたとき
すっかり 骨抜きになっていたそうです。
宮田アナが 関田家を訪ねたそうですが
弟=藤吉さんは あまり 関わりたくなかったようです。
高知の飲み屋で ペギーは山さんに
2年ほど前 サインを もらうのを忘れてました
というより 度胸無し
投稿: 二宮 博 | 2007年12月25日 (火) 00時01分
この歌が、テレビの普及と密接に絡んでいたことを初めて知りました。
二木さんの解説でよく分かりましたが、とにかくこの歌が好きです。ペギー葉山さんの歌唱力も素晴らしかったのでしょうね。
仕事の縁でずいぶん高知県に行きましたが、酒の席ではよくこの曲を歌いました。もちろん、カラオケでも歌いますが。
高知(土佐)は秋田と並んで酒好きのようです。銘酒も沢山ありますね。飲めば飲むほど、この歌を歌いたくなります。そして歌えば歌うほど大らかになって、まるで坂本龍馬になったような気分になります。
ほんとうに明るくて屈託のない、高知県にふさわしい名曲だと思います。
投稿: 矢嶋武弘 | 2008年2月25日 (月) 22時06分
昭和35年、高校一年生のときの夏休み、男子女子それぞれ4人のグループ交際をしていた仲間で、街中を流れる川の上流に向けてサイクリングに行きました。そこでは、川で泳ぐやらトランプなどのゲームに興じるやらライスカレーを作って食べるやら実に楽しいひとときを過ごしたのです。
あまりに楽し過ぎて時間のたつのに気づかず、そこを発って街中に着いたのが午後9時前。丁度、近くの小学校のグラウンドで盆踊りをやっていて、聞こえてきたのが「南国土佐を後にして」の曲だったのです。この曲を聞くたびに、青春時代のひとこまが走馬燈を見るように懐かしく思い出されるのです。
第一、グループ交際だなんて、今の若者とは随分違っていて純情そのものだった私たちの時代でした。今から半世紀近く前のことです。
投稿: mijinko93 | 2008年4月 2日 (水) 13時42分
テレビを見ていたら,「みませ みせましょ」の
みませが「御畳瀬」と漢字になっておりました。
地名だったのですね。
まさか、「御畳瀬をお見せしましょう」ではなく、掛詞
でしょうね。
「言うたちいかんちや・・」。今日まで何の意やらわかりませんでした。「言うたら あかんよ」ですね。
投稿: 時代オクレ | 2008年7月 1日 (火) 06時52分
この歌に思い出があります。
中学の教員をしていた父がこの
歌詞を誰かから聞き及んで母に
見せていた事がありました。
その頃にはあまり仲の良くなかった
両親だったので、父のニコニコ顔が
意外に思ったのか記憶に残っています。
投稿: sunday | 2008年8月14日 (木) 09時03分
ペギー葉山が歌い始めたときから大好きな歌です。この歌には自分を築くため国を出た若者が時には故郷を思いながら、懸命に頑張っている前向きな姿があり好きですね。私もいつかは高知県に行こうと思いながら50年近く経ってしまいましたが、昨年四国88ヶ所お遍路の巡拝をしてきました。
室戸岬、視界は180度、青い海と空ばかりの広大で美しいところでした。岩打つ波は激しく壮観でした。弘法大師が空海の御名を付けられた意味も良く解りました。四国の皆さんから親切にしていただきお世話になりました。
室戸の浜で漁師の人からいただいた4個のハマユウの種は 今、横浜の我が家で大きな葉を繁らせております。この木を見るたび、高知を思い出します。この歌と共に。
投稿: 連太郎 | 2008年12月 6日 (土) 23時26分
二木様
いつもお世話になっています。念のため小生の拙ブログ『南国土佐を後にして』の記事の中で、上記解説の一部を引用させて頂きました。むろん、お名前を明示した上での引用です。また、リンクもさせてもらいました。
以上、ご報告いたします。矢嶋武弘
投稿: 矢嶋武弘 | 2009年6月 2日 (火) 13時54分
思いがけなく、このサイトにたどりつきました。二木先生のメロディを聞きながら、旧制高知高校出身の先生が、酒の席で、よく歌われていた「よさこい節」を思い出しました。
どちらかというと、もっと男っぽい歌い方をされていましたが、二木先生の解説に、元歌は高知出身の兵士たちが戦地で歌っていたというのを読ませていただき、納得の思いです。もちろんペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」も大好きです。
先日、テレビで拝見しましたが、若々しく、声に張りがあって、輝くように歌ってられましたが、人知れず相当な努力をされているんでしょうね。いつまでも歌声を聴かせてほしいものです。
若い時に、桂浜や足摺岬に行き、雄大な太平洋の黒潮を眼前にしたときの記憶は、いまも鮮明です。早朝に、漁船が一斉に沖に出漁する様子など、この歌を聴くと蘇ってくるようです。
二木先生のブログ、好きな曲や知らない曲が一杯で私の宝箱になりそうです。楽しみが増えました。ありがとうございます。
投稿: 大枝山 昇 | 2012年9月12日 (水) 14時45分
昭和34年、経済的な理由で群馬の山奥から、川崎の中学校へ転校したころでした。故郷の訛をからかわれて孤立していました。唯ただ、群馬へ帰りたかった、それだけが強く心に残っています。多感な14才の春でした。今でも酔うと泣きながら歌います。私には悲しい歌です。
投稿: 赤城山 | 2013年5月13日 (月) 10時27分
18歳の3月末、南国市の後免駅から家族に見送られて土佐を後にしました。一人、車窓から田植えの始まった平野を眺めながら、この時期のこの景色ともお別れか・・・と感傷的になったのを覚えています。
若さは故郷を忘れさせてくれましたが、年を重ねるにつれてなぜか懐かしさがつのるようになりました。一杯やりながらこの歌を聴くと目頭が熱くなるときさえあります。
二木さんのこのページがきっかけで思い立ち、定年退職を迎えた昨年、田植え時期の高知に40数年ぶりに帰ってきました。桂浜・室戸・龍河洞・子供の頃に遊んだ海辺や小川・・・今では珍しくなった「レンゲの花」が一面に咲いている田んぼもあったりして子供の頃を偲ぶには十分でした。
ありがとうございます。
【蛇足】「時代オクレ」さんの指摘通り、御畳瀬も地名ですが、それに続く浦戸(裏戸でない)も地名です。「いうたちいかんちや」は、あなたが言っていることより自分の方がスゴイヨ・・・ってニュアンスがあります。
投稿: いごっそう | 2014年1月16日 (木) 22時48分
昭和34年高三年の秋の運動会でこの曲で仮装行列をおこないました。多数の組が参加し1位になりました。小生坊主役で、神奈川県大和市在住の仲間が地元の盆踊りをヒントに役立てました。あれから50余年当時の仲間が年1度のクラス会で天下国家の話を交え頑張っています。
投稿: 河嶋 忠雄 | 2014年6月12日 (木) 15時53分
曲が大ヒットした後、小林旭主演・浅丘ルリ子共演で同名の日活映画が製作され、これまた大ヒットしたが、日活無国籍アクションの原点と言われた。この映画の後、渡り鳥シリーズが始まった。
当時、ド派手な映画看板を載せた宣伝カーが大音量でこの曲を流しながら街中を走っていたものだった。映画では、ペギー葉山がこの曲を歌っているキャバレーステージの階上の部屋で小林旭が金子信雄の前でサイを振るというシーンがひとつの山場だった。
投稿: 焼酎百代 | 2014年9月11日 (木) 21時12分
現在95歳の母が、昔私の中学生頃「南国土佐」の歌があると言って一生懸命覚えようとしていたことを思い出します。まだ、当地にはテレビが普及していなかったと思いますが、紙に書いていたようです。
尤も母は今記憶がぼんやりしていて、私もわからない様子ですが。
投稿: 今でも青春 | 2014年12月24日 (水) 19時34分
『悲しき雨音』とは真逆の歌謡曲投稿で失礼します。
南国土佐の“いごっそう”や肥後“もっこす”は頑固一徹快男児といったところですが、カミサンに隠れて昼間っから安酒飲んでるジジイ(自分のことです)とは真逆と考えると分かり易いと思います。今晩民放TVで「高知カツオ一本釣り漁師」の激闘を放送してましたが、何カ月も家を留守にするカツオ漁船の船頭と家族の触れ合いにはジーンときたものです。
(なお蛇足ながら、映画「南国土佐を後にして」では、いいなずけ(浅丘ルリ子)がいる小林旭に中原早苗が横恋慕するという筋立てでしたが、今日ビ流行?の不倫に比べれば横恋慕ははるかに?マシではないかと…)
投稿: 焼酎百代 | 2016年2月14日 (日) 22時45分
本サイトの諸氏諸嬢の抒情性・詩情性・物語性豊かな投稿を読むにつけ、駄文投稿に二の足を踏む今日この頃ですが、性懲りもなくまた投稿したような次第です。
本曲の日活映画版『南国土佐を後にして』は昭和34年封切りで観た後、貸ビデオでも何回観たか数え切れないですが、日活無国籍アクションの原点と言われる本作品(川内康範原作脚本)は、武政英策作曲の主題歌に乗せて、芸達者な俳優(小林旭、浅丘ルリ子、内田良平、二本柳寛、西村晃、金子信雄、中原早苗…)と斎藤武市監督の演出と相俟って、邦画全盛期の第一級娯楽作品です。
(参考)http://www.youtube.com/watch?v=Pc6NzABEr2g
投稿: 焼酎百代 | 2017年4月 3日 (月) 22時18分
この曲がよく流れていたのは私が小学生の頃だったと思います。1964年、東京オリンピックの年、高1のわがクラスではバス遠足がありました。帰途のバスで皆疲れ、私もうとうとしているとき一人の女性がマイクをもって「学生時代」を歌い始められました。自然と皆の大合唱になりました。大学を卒業する間際、大阪、梅田の地下広場でペギー葉山さんが歌っていらっしゃるのに遭遇しました。私も通りすがりの観衆の一人として立ち止まりました。その時、ペギー葉山さんももうおばさんなんだな、という印象を持ちました。あれから45年、現在もご健在なんですね。嬉しいことです。焼酎百代様のご紹介された動画で往年の若きスター達を拝見いたしました。世紀の我等がスター、万歳、ですね。桜の花びらのようにちらりほらりと他界されてゆかれるのは寂しいのですが最近は長寿百歳も普通のことになってきているようです。フアンの皆様も健康で長生きしてください。
投稿: yoko | 2017年4月 6日 (木) 07時44分
同じ曲での連続投稿、大変失礼します。
yoko様のコメント「ペギー葉山さん…現在もご健在なんですね。嬉しいことです。…世紀の我等がスター、万歳」…まさにおっしゃる通りです。
元々ジャズ歌手だったペギー葉山女史は本曲をあてがわれた際に最初は嫌がったというエピソードが、昔読んだ週刊誌に載っていました。それが空前の大ヒット(100万枚)となったわけですから、人生わからないものです。
投稿: 焼酎百代 | 2017年4月 6日 (木) 10時06分
ペギー葉山さんは本日2017年4月12日午前11時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去しました。83歳。
投稿: araichi | 2017年4月12日 (水) 15時48分
淋しいです。
心の底から淋しさが込み上げてきます。
この歌が流れていたころがただ懐かしい。
ペギーさんの「学生時代」も好きでした。
大好きなご主人「根上淳さん」の元へ旅だれたのですね。
こうしている間も涙が込み上げてきます。
ペギーさん 安らかに 合唱
焼酎百代様
いつも人間味あふれるコメントにクスッとしております。
般若さまともどもお元気でお過ごしください。
コメント どんどん発してください。
投稿: りんご | 2017年4月12日 (水) 17時13分
初めまして。先日yoko様のご健在とのことだったのに。残念です。寂しいですね。
この歌は高校3年のときの体育祭で、各学年6クラスの全校生徒が校庭いっぱいにひろがり踊りました。盆踊りのようなものだったのか、別のものだったのか覚えていませんが踊った事だけは覚えています。歌は好きですが踊りはからっきしダメですな私ですが、恥ずかしくも懐かしい思い出です。
ペギー葉山さんといえば「ドレミの歌」をすぐに思い浮かびます。日本語に訳すときの苦労話を知ったときなぜか親しみをおぼえました。最近オカリナを始めたのですが(といってももう5年)2部に分けてよく吹くのですが、吹けば必ず気持ちが明るくなるねと仲間と話しています。今後は「南国土佐をあとにして」もレパートリーにしていきたいです。
投稿: 森田光信 | 2017年4月12日 (水) 22時40分
昨日、歌手のペギー葉山さんが亡くなりました。
「南国土佐を後にして」「学生時代」「ドレミの歌」「ラ・ノビア」「爪」など、おなじみの歌をたくさん残されました。
元々はジャズ歌手としてデビューされたのですが、NHK高知放送テレビ開始の記念番組として「歌の広場」に登場し歌ったこのご当地ソングが意外にも200万枚を超える大ヒット曲になり全国的に広く知られるようになりました、1974年には「高知県名誉県人」の称号を贈られています。
小生はハーモニカを少々嗜みます、この曲はハーモニカの音色にマッチした大好きな曲でよく吹いています、青山学院高等部の出身で同窓の平岡精二さん作曲の「学生時代」「爪」も大好きな曲です。
大好きな歌をたくさん歌ってくれたペギーさんに感謝し、謹んで哀悼の意を表したいと思います。(合掌)
投稿: nonnta | 2017年4月13日 (木) 12時59分
昨年のお元気な動画がありました。『徹子の部屋2016年11月11日 ペギー葉山と菅原洋一がゲストで登場!』です。
https://www.youtube.com/watch?v=SrZiDNCzr50&feature=youtu.be
投稿: yoko | 2017年4月14日 (金) 01時19分
ペーギー葉山さんは当初「南国土佐・・」歌うのを嫌がった。
棺の胸に抱かれていたのは「南国土佐ー」の譜面だったという。
検索していたら新聞に載っていたのがありました。
http://www.sankei.com/life/news/170726/lif1707260015-n2.html
投稿: なち | 2017年8月 1日 (火) 07時26分
「南国土佐を後にして」この唄をペギー葉山が歌って大ヒットした昭和34年は、第41回・夏の甲子園大会で愛媛県代表で出場した「西条高校」が優勝し、また第30回・社会人都市対抗野球大会では愛媛県松山市「丸善石油」の優勝、そして第8回・ミスユニバース世界大会に於いては、四国代表の児島明子さんが、アジア人として初めてのグランプリに輝くなど、何かと「四国」が脚光を浴びた年だったそうです。「精選盤昭和の流行歌・保田武宏解説」
私は30年ほど前に道後温泉一泊旅行に行った時、ツワーバスで高知市街を通行中、間もなくよさこい節に歌われている「播磨屋橋」を渡りますとガイドさんの案内があり、私は目を凝らして見ていたのですが、(情緒のある橋を想像していました)ごく普通の橋だったという記憶があります。
幼いころから耳に馴染んできた「南国土佐を後にして」この唄が200万枚というセールスの大ヒットに結びついたのは、特に後半に入る「よさこい節」と相まって、この歌の何とも言えない独特の情緒を醸すその郷愁が、日本中の人たちに愛され親しまれたのではないかと私は思っています。
投稿: 芳勝 | 2018年9月 6日 (木) 23時22分
芳勝さまのコメントはいつも遠ーい遠ーい昔の風景を蘇らせてくれます。芳勝さまの「播磨屋橋」は私にとって「数寄屋橋」です。「君の名は」の真知子と春樹の出会いの橋ですが、数寄屋橋を渡ったとき、芳勝さまと全く同じ感想を持ちました。もっとロマン溢れる橋かと思いましたが、小さな古びたコンクリートの橋でした。これだったら日本橋がいいのにと思いました。
映画「哀愁」の霧に包まれた橋の物語性は日本橋にもある気がします。
前の東京オリンピック開催時に高速道路の下になってしまい、とてもがっかりした思い出がありますが、今回高速道路を日本橋川の下にもってくるとの事。生きているうちにまたあの美しい日本橋が見られるといいですね。
投稿: konoha | 2018年9月 7日 (金) 11時46分
konoha様
8月29日に投稿された「野風増」のコメントを拝読しまして、お兄様を偲ばれるkonoha様の心情を思うと心配になり、少しでも早くお元気になられるようにと、陰ながら心より祈っておりました!
この度のコメントを拝読することができ、少しはお元気になられているご様子が伺えて、ほんの少しだけ安堵しております。
実は昭和34年当時、父が友人からトランジスタラジオを頂いてきたのですが、そのトランジスタラジオの前に家族が集まり、初めてスイッチを入れた時に流れてきたのが、この「南国土佐を後にして」の唄でした。私が5才の時ですが、その光景は鮮明に憶えています。
先にコメントした「播磨屋橋」にも、その当時によさこい節を聴いて幼な心に想像していた「橋」とのギャップをkonoha様と同じように感じたのでした。
konoha様のコメントにあります「数寄屋橋」ですが、2007年の映画、「続編・三丁目の夕日」の中で、薬師丸ひろ子と上川隆也が演じる再開のシーンにこの橋が出てきますが、明らかに「君の名は」の中で、佐田啓二と岸恵子が演じた再開のシーンを意識させてくれますね!
一日でも早くお元気になられ、これからもいつもの颯爽としたkonoha様のコメントが拝読できますよう、私はいつも楽しみにしています。くれぐれもお身体にはご自愛下さい。
投稿: 芳勝 | 2018年9月 7日 (金) 17時54分
芳勝さま
ありがとうございます。ご心配をおかけしてしまいました。あの猛暑の中、何度か兄を訪ねていましたので、ちょっと疲れがでたのかもしれません。気持ちも日常に戻りつつあります。
まだ見ぬ名所への期待感が大きいと肩透かしに遭うこともままあります。反対に思わぬ景色に驚きの声をあげたりします。旅はその楽しみがありますね。
芳勝さまのコメントをいつも楽しみにしております。これからもよろしくお願いします。
投稿: konoha | 2018年9月 7日 (金) 21時20分
芳勝さま
コメントを読み返し、貴方のお気持ちの優しさに私のコメントの素っ気ないことごめんなさいね。すごくうれしかったのに簡単過ぎてしまい、気になって再び投稿しています。本当にありがとうございました。
芳勝さまと十も歳が離れているとは思えないくらい歳の近さを感じられます。戦後、程度の差こそあれみんなが貧しいの中、我が家も同じでした。でも貧しいにもかかわらず、貧しさを感じることがありませんでした。きっとハチャメチャに外で素っ飛んでいたからでしょうね。これからも懐かしいコメントもお願い致します。
投稿: konoha | 2018年9月 7日 (金) 21時47分
最大震度7以上の北海道地震の恐怖にさらされていらっしゃる方 心からお見舞い申し上げます。また余震・疲労・雨の中、被災者でありながら災害派遣で出動中の自衛隊はじめ消防、警察、地元自治体、ボランティアの皆さまに感謝申し上げます。安否不明の方々が無事に早く見つかって欲しいです。
芳勝さんのお父様が友人からいただいたトランジストラジオをご家族みんなで取り囲み、ラジオから流れてくる「南国土佐を後にして」が最初の出会い・・のコメント素適ですね。温かいご家族の様子が伝わってまいります。いいお話 有難うございました。
この歌を通じkonohaさんもお元気になられ良かったですね。「歌の力」ってすごいですね。
森田光信さんはオカリナでこの曲を吹かれ、「吹けば必ず気持ちがよくなるね」と名言を残されています。ハーモニカを嗜まれるnonntaさんは、「この曲はハーモニカの音色にマッチする」と述べられています。草笛に挑戦中の私には励みの言葉に聞えます。有難うございます。
二木先生のうた物語で知った「落ち葉しぐれ」や「涙の渡り鳥」を敬老会で草笛演奏しようと公園で練習しています。草笛の音色がこれらの曲にマッチするのでしょうか。色々な方から手を振られたり、「いい音色ですね」と言われるようになりました。みなさんのコメントに触発されましたので、これから「南国土佐を後にして」の草笛演奏を始めたいと思います。(一章様のように・・)
投稿: けん | 2018年9月 8日 (土) 07時19分
「南国土佐を後にして」のYouTube動画は多数ありますが、音符も読めない音痴者の感想ですが特に下記の歌唱は最高でないかと思っています。特に〽都へ~のくだりはペギー葉山思い入れたっぷりな歌唱で素晴らしいです。
↓kenji yamakawaさん提供
http://www.youtube.com/watch?v=fpd7DzxGKkc
投稿: 焼酎 | 2018年9月 8日 (土) 09時40分
焼酎様がUPして下さった「南国土佐を後にして」の動画、思わず繰り返しては何度も観てしまいました!
流れれてくる唄をバックに、次から次に出てくる懐かしいスチール写真の数々に、私は目が釘付けなりました。
刑務所に慰問したステージで、ペギー葉山がドレス姿で歌うシーンは何とも言えないですね。
ここに映し出される二十歳の頃の美しい浅丘ルリ子はやはり絵になります。
後に深作欣二監督の奥様になられた、当時の若くてフレッシュな中原早苗や南田洋子のしとやかな着物姿も本当に素敵です。
浅丘ルリ子の「自叙伝」によると、小林旭との共演をきっかけに交際をしていた時、浅丘のお父さんに小林が結婚を申し込んだが、父が断っていたので(浅丘本人は後に知る)お互いに好きだったが、その後はいろいろあって進展がなかったとの記述があります。
けん様の心温かいコメントを拝読しておりますと、トランジスタラジオを囲み、スイッチを父が入れ、流れてきた「南国土佐を後にして」を、家族みんなで聴いていた5才当時の私、そして父や母、姉や兄弟、その一人一人の顔も浮かんできます。
投稿: 芳勝 | 2018年9月 8日 (土) 15時56分
私がまだ幼少の頃、母が家事をしながら、よく歌を口遊んでいたのに対して、父が歌を口遊んでいたのを聞いた記憶は殆どありません。やっと思い出すのは、お風呂で口遊んでいた、♪…ハリマヤ橋で 坊さんかんざし 買うをみた♪(「よさこい節」)くらいです。
土佐民謡の「よさこい節」は、ご存知のとおり、「南国土佐を後にして」の後半部に歌い込まれています。
先年の夏、家族で四国ドライブをした折、たまたま、”よさこい祭り”の日で、高知の街中でよさこい踊りを間近に鑑賞することができ、踊り手のパワーとエネルギーを感じました。
近年、”よさこい祭り”熱はますます高まっているようで、去る8/31にNHK BS3で放映された”土佐の夏2018 よさこい祭り”では、国内各地のチームによるパフォーマンスのほか、外国人で構成されたチーム によるパフォーマンスの紹介もあり、まさに、”海を越えて世界へ”広がって行く様に、感動を覚えました。
投稿: yasushi | 2018年9月12日 (水) 13時18分
「国の父さん、室戸の沖で・・」とありますが、昔の人は故郷を国と言ってましたね。「国へ帰ってきます」というふうに。
また高知(県)、鹿児島(県)ではなく、土佐(国)、薩摩(国)という旧国名による呼び方は、なかなか味があります。旧国名の「土佐」を歌の題や歌詞の中に取り入れたことも、この歌の大ヒットにつながった要因のひとつかもしれません。
北島三郎も『薩摩の女』『加賀の女』と旧国名でヒットさせています。『鹿児島の女』『石川の女』ではインパクトがなさすぎます。
独身の時、高知に旅行しました。土讃線の山また山の車窓の風景に飽きてきた頃、ぱっと視界が開けて高知平野に入りました。「さあ土佐の国に来たぞ、とりあえず桂浜とはりまや橋を見なくては」と心がはずみました。おそらく『南国土佐を後にして』の歌詞の影響だったと思います。桂浜の龍馬の銅像を見て達成感を感じたのは、観光案内書の刷り込みにもとづく軽薄な観光行動でした。
はりまや橋も見ましたが、当時は、道路の上に橋の欄干が目印のように立っているだけで、橋の下に川が流れているわけじゃなかった。(その後、あまりの悪評に改修工事が施されたと聞きました)
「何、これがはりまや橋~、そんなあほな・・なんか詐欺にあったみたい」という感想でした。
後で知ったことですが、日本3大がっかり観光名所といって、<はりまや橋、札幌市の時計台、長崎のオランダ坂>があがっています。それぞれの名所は、有名な歌謡曲に歌われていますから、歌に影響されてイメージをふくらませすぎて、がっかりした人も多いでしょう。
投稿: 越村 南 | 2019年6月 3日 (月) 15時58分
60年安保が収まりかけたころでしょうか、わたしはまだ学生でした。大学の特別講義の講師がこの武政英策氏でした。当時氏はNHKの名古屋放送局に勤めてみえたように記憶しています。赤っぽい洒落たスーツを召しておられたような印象があります。
講義の内容は日本語にまつわる色々な話題が中心だったように思います。その話の中で、余談のように語られたのが、この『南国土佐を後にして』の歌についてのものでした。この歌の作者が氏であることを初めて知ったのもこの時でした。
その話の中で、
「私が作った歌詞は・・『歌うぞ土佐のよさこい節を』だったが、彼女(ペギー葉山)は女性の身だったので『歌うぞ・・』とは歌いにくく『歌うよ・・』と歌ったようだ。それで、この一文字の違いで作詞者としての権利というかそういうものがなくなってしまった。」
と冗談半分のように笑って話されたのが記憶に残っています。あれから60年ほども経っているので、この記憶も定かではありませんが、なぜか『武政英策』氏の名前を目にすると、思い出すのです。
投稿: 高橋通郎 | 2020年5月 5日 (火) 06時00分
あまりにも有名な♪土佐の~高知の播磨屋橋で♪現在の播磨や橋は日本3大がっかりの名所の1つで(札幌の時計台と長崎のオランダ坂)です。文政2年(1819年)武士の子とお馬の禁断の恋に陥ります。でも本当はかんざしを買ったのは修行僧でした。お馬と純信の仲を裂こうとして噓の申し出をしたのです。国外追放になり川之江の寺子屋で教えていたそうです。現在碑が有ります。純信とお馬の恋物語で詳しく記載されています。
投稿: 細川 和代 | 2023年5月 4日 (木) 07時33分