夢のお馬車
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作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実
1 金のおくらに 銀の鈴 2 るりやしんじゅの かざり窓 3 金のかんむり 銀のくつ 4 白いお馬の 二頭立て |
《蛇足》 NHKの注文で作られ、昭和22年(1947)1月に放送されました。
聴取者からの要望で繰り返し放送され、多くの子どもたちに愛唱されたことから、コロムビアがレコード化して発売しました。
街にはまだ浮浪児と呼ばれたストリート・チルドレンや、親を失って施設に収容された子どもたちがあふれていました。川田正子と音羽ゆりかご会が澄んだ声で歌うこの明るく活発なメロディは、そういう子どもたちに夢と希望を与えたと伝えられています。
(二木紘三)
コメント
戦争にかかわる童謡を聴くときはいつもこみ上げてくるものがあります。
私は昭和22年3月に満州から引き揚げてきました。
私にとってイメージは違うのですが、浮浪児とストリートチルドレンはそう、同じですね。
いま、フィリピンのそのチルドレンに送るノートなどを入れる
巾着袋を縫っています。
投稿: 高木ひろ子 | 2008年3月 9日 (日) 09時41分
私の家族も昭和22年3月に大連から引き揚げてきました。私は日本で生まれましたが,この歌を母がよく歌ってくれたのを幼心に覚えています。ちんから峠,歌を忘れたカナリヤという歌とともに,懐かしい歌です。その母ももう77になりました。引き揚げてきて何も娯楽がなかった田舎でラジオは,きっと家族に希望を与えてくれたんでしょうね。
投稿: Hideki | 2008年5月 1日 (木) 23時20分
この歌、歌詞の言葉の用い方が「月の砂漠」とよく似てますよネ・・
ま、要らざることを言うのは、ヨシ子さん
投稿: 伊藤 | 2008年5月 2日 (金) 08時05分
高木ひろ子さんHidekiさんのご家族は、昭和22年3月引き上げですね。
私は、21年6月です。私は比較的南朝鮮に近い北朝鮮だったので9ヶ月早く帰れたのでしょう。
あのころは、子どものための歌を子どもの歌手が歌って、それを親たちも歌っていました。貧しくとも親と子の心が通い合っていました。いつもお腹をすかして、つぎはぎの着物を着て、よく怒られたけど楽しかった・・・。
投稿: 周坊 | 2008年5月 3日 (土) 12時34分
こんにちは。
小学校の学芸会で歌った覚えがあります。
何度もお辞儀の練習をさせられて。。。
ピアノのお辞儀の音まで聞こえてきそうです。
私の子供達の時には学芸会という言葉が死語に
なって音楽会になっていました。
劇などはモンスタ-ペアレントの所為で
行えなくなっているのが現状のようです。
幼稚園の先生をしていた友人が言っていましたが
劇の中で「ごめんね」と謝るシ-ンがあると
親御さんが「何で俺とこの子供がアイツに謝らなあかんねん」
とねじ込んでくると言う事で。。。。
どうなるんでしょうね???これから。。。。
投稿: sunday | 2008年8月12日 (火) 16時38分
【「夢のお馬車」の歌い方について】 少女歌手の川田正子は、一番は「ムチをふりふり かけてくる」と歌い、二・三番は「どこへゆく」「てゆく」と歌いました。これは、海沼實が口移し(ワンフレーズずつ歌って教える)で教えたとおりに歌ったためです。海沼實自筆の楽譜で確認できます。この楽譜は『童謡詩人 斎藤信夫のあしあと』(成東町教育委員会発行)6ページで見ることができます。 しかし、大人になった川田正子は、斎藤信夫が書いた詩のように一番から三番まで「いく」と歌いました。四番の「お馬」は、少女時代も大人になってからも「おんま」と歌っています。この歌い方について「当時の子供たちは、馬が通ると『おんまだ、おんまが通るよ』と指さして言ったものです」と川田正子さんから教えていただきました。【「童謡はおやつ」海沼實の言葉】 川田正子によると、当時の子供たちが童謡 に飛びついたのは、学校で習う堅苦しい唱歌とは違う楽しさがあったからでし た。海沼先生は「唱歌が主食だとしたら、童謡はおやつだね」と語っていまし た。
池田小百合―なっとく童謡・唱歌より
投稿: 海道 | 2012年5月31日 (木) 16時42分
終戦直後はまだトラックもなく、輸送は荷馬車でした。小さい子供は「おんまさん」と呼んでいましたね。この当時は悲しく淋しい童謡が多かったのですが、「夢のお馬車」は珍しく軽やかで楽しい歌でした。馬をうたった歌は優しい愛情があふれるものが多いですね。人間との関わり合いが深かったからでしょうか。おやつは食事よりも美味しくて子供には嬉しいものです。いい歌がいっぱいあって年を経ても楽しめるのは童謡作家のおかげですね。
投稿: ハコベの花 | 2012年6月 3日 (日) 23時31分
昭和50年代初めの頃の思い出です。
バスを改造した農協の「ひまわり号」という移動販売車が来ると、この歌を流していました。
婆ちゃん子だった俺は移動販売車が来る日はこの歌が流れるのを楽しみにしていました。
そして、婆ちゃんと移動販売車に行き、お菓子をねだっていました。
詩はおぼろげに覚えていましたが、曲名は知らず、最近、ふと気になっていました。
特別に思い出深い童謡です。
投稿: 古狐 | 2017年4月18日 (火) 23時01分
「夢のお馬車」を聴くと、小学校低学年のころが強烈に思い出されます。
そのころ、 私(昭和12年生まれ)は、昭和21年秋に旧・満州から引き揚げて、父の実家のある集落から地元の学校に通っていました。当時、まさに戦後混乱期の真っただ中で、食料、衣料を中心に、すべての面で困窮する生活を強いられていました。勿論、我が家にラジオがあるはずもなく、「夢のお馬車」は学校で聴き、覚えました(1番の歌詞だけでしたが)。女子生徒が歌っていたのしか思い出せませんが、”なんと明るい歌だろう”と、我が身に照らして、屈託なく歌っている地元(ネイティブ)の生徒さんたちに羨望の念すら抱いたことを思い起こします。
同じ作曲者による名歌、「里の秋」(S20)や「みかんの花咲く丘」(S21)を私が愛唱するようになったのは、その後、もう少し高学年になってからだったと記憶します。
投稿: yasushi | 2017年4月19日 (水) 14時49分
二木さんの歌物語 ホームページがある事はじめて知りました ふと夢のお馬車の欄を見てました 歌ってらした童謡歌手川田孝子さん先日亡くなられましたね 改めて歌声を聴きましたけど、お上手ですね
現在もテレビで童謡歌うといいですのにね いい名曲たくさんありますのに 残念です 私は童謡世代ですので童謡歌手がいっぱいいました川田さんのご冥福お祈りします。
投稿: 箏 | 2022年1月13日 (木) 16時10分
「夢のお馬車」私がこの童謡を知ったのは、41歳の時に購入したCDアルバム『蘇える童謡歌手大全集』の中に収録されていた、川田正子の歌声(原盤)を聴いた時でした!
明るくて溌剌としたこのメロディを初めて耳にした時、私はこの唄が一瞬で好きになりました。
1 夢のお馬車が シャンシャンと
2 赤いたづなで シャンシャンと
3 二人並んで シャンシャンと
4 虹のかけ橋 シャンシャンと
そして、現在では滅多に表現されなくなったこの『シャンシャン』という言葉の響きが、素朴で長閑な時代のかおりを私に感じさせてくれます。
<蛇足>『街にはまだ浮浪児と呼ばれたストリート・チルドレンや、親を失って施設に収容された子どもたちがあふれていました。川田正子と音羽ゆりかご会が澄んだ声で歌うこの明るく活発なメロディは、そういう子どもたちに夢と希望を与えたといいます。』
「夢のお馬車」悲惨な戦争体験そして戦後間もないあの状況(苦境)の中を生きぬいておられた当時の人たちにとって、ラジオから流れてくるこの明るく溌剌とした海沼メロディにのって歌う川田正子の愛らしいその歌声は、きっと計り知れないほどの励ましになったであろうと、私は想像を膨らませると同時に、そしてまた、そんな童謡が持つその偉大さを今改めて実感する次第です。
投稿: 芳勝 | 2023年7月17日 (月) 10時03分