ハバロフスク小唄
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
唄:近江俊郎/伊藤久男
1 ハバロフスク ラララ ハバロフスク 2 母の顔 ラララ 母の顔 3 元気でね ラララ 元気でね |
《蛇足》 ハバロフスクは、アムール川とウスリー川合流点のすぐ下流にある極東シベリアの中心都市です。写真は現在のハバロフスク。旧ソ連時代、この近辺には強制収容所がいくつかあり、敗戦後、多くの日本軍将兵や民間人が抑留され、強制労働に従事させられていました。
作曲家・米山正夫もその一人でした。彼は収容所で覚えたある歌を多くの人にも歌ってほしいと思い、帰国後、記憶を頼りに楽譜に起こし、作詞家・野村俊夫に歌詞を補作してもらって、1つの作品に仕上げました。それが『ハバロフスク小唄』です。
この歌は、近江俊郎が吹き込んで、コロムビアレコードから昭和24年(1949)4月に発売され、一躍多くの人たちの口の端にのぼりました。
ところが、その後、この歌は昭和15年(1940)に林伊佐緒が吹き込んだ『東京パレード』(作詞:中川啓児、作曲:島田逸平)の替え歌だったとわかりました。コロムビアはあわてて発売を中止しましたが、そのときにはすでに相当数を売り尽くしていました。
元歌の発売元・キングレコードは歌詞を作り直して、昭和35年(1960)に発売しましたが、あまり売れませんでした。この時期にはもう、敗戦前後のさまざまな」記憶が鮮烈さを失いつつあったからでしょう。
吉田正作曲の『異国の丘』とともに、シベリア抑留者の悲哀を今に伝える歴史的な1曲です。
なお、曲名や歌詞は「ハバロフスク」ですが、たいていの人が「ハバロスク」と歌っていました。
(二木紘三)
コメント
昭和24年の「ハバロフスク小唄」は売れたが、昭和35年の改定版は売れなかった。戦争の記憶をいまわしいと思う、忘れたいと思う傾向がでてくる。人間とは忘れやすい動物なのかとすこし考えました。
「異国の丘」は知名度も高く、このサイトのコメントも多い。きっと日本人好みなのだろう。悲痛さの純度100%の歌です。
しかしこの「ハバロフスク小唄」は小唄というとおり手拍子もOKの、すこしふざけた調子の歌だ。抑留者には死亡率の高さが語っているとおり、過酷な強制労働の日々があった。「可愛いあの子の枕元」といったくだけた歌詞でもないとやってられなかったのでしょう。苦しいからこそ、から元気を出してでも乗り切らねばならなかったと思います。わかるような気がします。「可愛いあの子の枕元}のところは女性から総スカンをくらいそうな感じ、それもわかります。
大阪市大正区に「クラスノ」という居酒屋があります。昭和24年にできた老舗酒場です。ここの主人がかつてシベリアのクラスノヤルスクの収容所に抑留されていたことからつけられた店名です。95歳の主人は出し巻きがとくに上手いそうです。私は一度訪問したが定休日でした。
投稿: 七色仮面 | 2012年11月 8日 (木) 02時11分
追記
居酒屋「クラスノ」の壁にかけてある言葉
クラスノヤルスク、ソ連の中央に当たる街です
抑留中の苦労をしのび
いかなる難関にもたえ
今をくいなく
我が身をやしない
世の為人の為
投稿: 七色仮面 | 2012年11月 8日 (木) 02時42分
うろ覚えで知っていたハバロフスク小唄。お陰様で歌詞もメロディーも、この[うた物語]ではっきり知ることが出来ました。七色仮面様も、有難う御座います(だいぶ時間がたっておりますが)。私にも悲しく苦痛を噛み締めた歌そのものに聞こえます。可愛いあの娘の枕元の件もまさに抑留者の悲痛な思いでしょう。総スカンする女性があればそれはその人達の勝手で私はこの歌詞に純な男の心情をおぼえます。私の親族にシベリヤ抑留者がいました。多くは話してくれませんでしたが毎日鉄道の重労働のほかに素焼きレンガもつくらされていたようでした。夜中に寒さを堪えて下水を掬い芋の皮など食べ物の滓を集めて飢えを凌いだ。足首を楽に持てたなどの話をしてくれました。一緒に歌手の青木光一さんがいたそうで生前毎年年賀状をもらっていたそうです。
大阪のクラスノを訪れたいですが残念にも私の住まいは関東です。せめて私のカラオケの持ち歌に加えて苦痛に耐えまたは耐え切れなく逝かれた方たちを偲んで歌いたいです。でも多分カラオケの歌リストにはないでしょうが。
投稿: 林 滋 | 2017年7月27日 (木) 17時48分
昭和20年代の中頃、我が家に突然若い女性が同居することになりました。母親の妹で、とても優しく、小学校低学年の私は「姉ちゃん」と呼んでいました。その叔母と銭湯によく一緒に行きましたが、叔母はその道すがら「ハバロフスク小唄」を良く口ずさんでいました。当時はそれが何という歌かは知らず、分かったのは私が20代になってからのことでした。
叔母は我が家で2年ほど同居しましたが、ある日、突然姿を消し、母が必死になって心当たりを探しましたが見つかりませんでした。しばらくして、自ら人生を閉じたことが判明しました。これも後から分かったことですが、叔母は「死にたい、死にたいと…」と言っていたそうです。母を含めた4人姉妹は幼くして父母を失い、あの戦争の前後は随分と辛いことがあったのでしょう。
ここ数年、BS7で昔の動画を使ったナツメロ番組が少なからず放送され、何度か近江俊郎が歌う「ハバロフスク…」を見ましたが、その度に薄幸だった叔母の顔が目に浮かび涙を禁じえません。この曲は私にとって忘すれられないものです。
投稿: ジーン | 2018年6月19日 (火) 20時51分
旧・満洲からの引揚げなどで、戦争の悲惨さを体験した私(昭和12年生まれ)には、ジーン様の「ハバロフスク小唄」に込められたコメントは身につまされます。”姉ちゃん”の心のうちをお察しするとき、同情の念を禁じえません。
私の父は、運よく、ソ連への抑留は免れましたが、抑留された方々は大変な苦労をされたことだろうと想像致します。
投稿: yasushi | 2018年6月20日 (水) 14時29分
七色仮面, 林 滋様
こんばんは。大阪の「クラスノ」という老舗居酒屋の話
厳粛に受け止めます。私の父ももう半世紀以上も昔「クラスノヤルスク」という収容所にいたと聞きました。そこで絶命したそうです。満鉄にいてそこからシベリアに行ったと聞きました。当県の図書館で東北の方が作られた「シベリア」の収容所で亡くなった方の名簿があり、その本で父の名前をさがすことができました。
投稿: 今でも青春 | 2018年6月20日 (水) 19時58分
私は今,流行っている歌や、ラジオからテレビになってからの歌を殆ど知りません。でも、ハバロフスク小唄はちゃんと知っています。戦争をわずかにでも知っている最後の世代だと思っています。空襲警報、防空壕、疎開、焼け跡、食糧難、衣類や傘などの日常品がない生活、戦死、外地から帰ってきた引揚者の生活苦、皆、頭に焼き付いています。人間を人間扱いしない戦時中の生き残り教師の顔、嫌でしたねぇ。いつか仕返ししようと思っていました。
男が兵隊になって沢山戦死したので、結婚できない女性の事を「いかず後家」と言っていましたね。もう2度と戦争を経験したくありません。犠牲になるのは庶民です。兵器産業に参加して金儲けをしている企業が増えています。人間は欲深で残忍な生き物なのでしょうか。悲しい事です。
投稿: ハコベの花 | 2018年6月20日 (水) 21時11分