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2008年1月30日 (水)

春よ来い

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:相馬御風、作曲:弘田龍太郎

1 春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
  おんもへ出たいと 待っている

2 春よ来い 早く来い
  おうちのまえの 桃の木の
  蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで
  はよ咲きたいと 待っている

《蛇足》 児童誌『金の鳥』の大正12年(1923)3月号に発表されました。
 童謡とはいうものの、歌詞は幼い子のすこやかな成長を願う親の気持ちがテーマになっています。

 みいちゃんは、相馬御風の長女・文子がモデルだといわれています。曲が作られたのは大正12年1月20日という記録が残っていますから、作詞はその前、おそらく1月初めか前年の末でしょう。

 文子が生まれたのは大正10年(1921)2月20日なので、詞が書かれたのはたぶん1歳数か月、歩き始めて間もないころです。よちよち歩きの愛らしい姿が作詞のヒントになったのでしょう。
 文子は、御風の生地・新潟県糸魚川で生まれました。雪国では、春を待つ人びとの気持ちはとりわけ強く、それが詞にも表れています。

 「じょじょ」は草履、「おんも」は外・表の幼児語です。

 相馬御風は、早大校歌『都の西北』や島村抱月との合作『カチューシャの唄』の作詞者として知られています。野口雨情・三木露風らと「早稲田詩社」を設立し、口語自由詩運動を進めたのち、大正5年(1916)、33歳のとき帰郷し、良寛の研究や詩・童話の創作に携わりました。

 弘田龍太郎については多言を要しません。高知県安芸市の出身で、『鯉のぼり』『』『浜千鳥』『叱られて』『靴が鳴る』『雀の学校』など数多くの童謡を作曲しました。

(二木紘三)

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コメント

一瞬 ユーミンの
 曲かと
 錯覚しました
 春 よ 来い の
 間の 違いでしょうか?

投稿: 二宮 博 | 2008年1月31日 (木) 00時21分

 わけもなくただ懐かしいという歌があるものです。『春よ来い』などはその一曲です。ちょっと聴いただけで、幼少の頃が思い出されてきますね。
 当地は本日、暖かすぎるくらいの大晴天でした。
 「Spring has come 」― 春は来ました !

投稿: 春風 | 2009年3月17日 (火) 19時41分

「春よ来い 早く来い・・・」
夢と期待と、さあやるぞという決意のある若い日の自分がよみがえる歌詞です。

「あるきはじめた みいちゃんが・・・」
生まれて初めてのヨチヨチ歩きから始まって、入学・進学・就職・結婚・子育て・退職・介護・・・
長くて短いような人生ストーリーの歌のようです。

「はよ咲きたいと 待っている」
何を咲かせたいのか分からずじまいの自分が、そこにいるような気がします。

そんな理屈をこねずに、はあるよこい~はあやくこい
と春待ちの歌を歌ってっている正月三日です。

投稿: かんこどり | 2010年1月 3日 (日) 11時10分

寒い日が続いていますね。この歌がふっと口から出てきます。今の子にじょじょと言ってもわかりませんが、可愛い幼児語が昔はありましたね。人間が優しかった気がします。靴下のことを私はついタータと言ってしまいます。戦後すぐ、靴下も靴もなかったので、母が帯をほどいて足袋底にし、7文半の足袋を作ってくれました。幼児語でタータと言っていました。下駄しかなくてタータにカッコ(下駄)をはいて、オンモで遊んでいたのです。靴下が出回っても靴下もタータとよんでいました。今でもたまにタータと言って笑われています。霜焼けがひどくて、崩れ、足袋に張り付き脱げなくなり、お風呂にそのまま入り、少しずつ剥がして脱いだものです。栄養過多の現在では考えられないことですね。♪はーるよ こいはーやく こい♪

投稿: ハコベの花 | 2011年1月25日 (火) 22時25分

雪国の人には待ち焦がれる春でしょうね。ここしばらくは浜松も本当に寒かったのですが、畳1畳分の私用の花壇に、チューリップの芽が出ています。どうした訳か昨秋から紅色の撫子が咲き続けています。忘れな草も寒さに耐えて空色の花をつけています。今年は春が早いかも。
優しい歌が少なくなった現在、お母さんが幼い子に歌ってやってほしい歌ですね。戦時中,疎開先の認知症になったおばあちゃんが、私に赤い鼻緒の藁草履を作ってくれたのを思い出しました。このおばあちゃん普段は、溜め込んだ布ボロと一緒に階段下の小さな押し入れに閉じこもっていました。私は赤い鼻緒がとても嬉しかったですね。

投稿: ハコベの花 | 2017年1月22日 (日) 11時37分

私もこの歌が大好きで寒い冬の日にはしばしば口ずさんで子供たちが幼かった頃を思い出す喜寿の男です。自分も子供のころは霜焼けに毎年悩まされていました。
昨年家の前に3才と2才の姉、弟のいる若い家族が越してきて、毎朝我が家の前を通り保育園に出かける2人を高い高いして喜んでもらっています。
この頃子供の声が騒いと騒ぐ大人たちがいるようで残念でなりません。自分もその騒音の発生人だったことを考えろといいたい。
幼子のためにも春よ来い、早く来い。

投稿: 栗さん | 2017年1月22日 (日) 15時49分

こどもの頃、この歌の作詞家 相馬御風(そうまぎょふう)と小川未明(童話作家)は、わたしの郷土(新潟上越地方)が生んだ文学者として有名でした。御風は《蛇足》にあるように、早稲田の校歌を作詞して世に広く知られたこともあって、新潟県下のみならず多くの学校で、かれの作詞による校歌が歌われています。かれは先日大火に見舞われた糸魚川市の生まれで、良寛の研究でも有名です。かれの生家(昭和3年再建のもの)は、今度の火災では幸い類焼を免れたとのことです。かれの筆名の「御風」も、たびたびの火災に悩まされた糸魚川らしく、「風を御す」という意味があるとも言われています。
 この歌は、長女 文子(あやこ)が生まれて1歳半くらいのときに作られたようです。したがって、最初の歌詞は「あるきはじめた あやちゃんが」になっていたものを、作曲家の弘田龍太郎が「あやちゃん」では唄いにくいので「みいちゃん」に変えたようです(「なっとく童謡・唱歌」より)。
 あの格調の高い、早稲田の建学精神を高らかに謳い上げた御仁と、この歌を作った家庭人の御風が同一人物とはとても思えませんが、男児2人の後に生まれた女児の文子がやはり可愛いかったのでしょうね。しかし、文子の述懐によると、躾けはかなり厳しかったとのことです。昔の父親は「厳父」と言われたように、内心はいざ知らず、その言動はどの家庭でも厳しかったものです。昔だったら、今の「軟(やわ)」なわたしは、父親失格ですね。

投稿: ひろし | 2017年1月23日 (月) 14時47分

作詞者・相馬御風の長女の文子(あやこ)さんは、大正十年二月二十日生まれのようです。
http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyostudy09.htm
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C7%CF%CA%B8%BB%D2

母が教えてくれた好きな歌に「うちの燕」があります。
野良仕事に出かける時は燕の為に玄関を少し開けていましたから、大好きになり歌詞もメロディーも覚えていました。
何十年も経ってからネット検索で相馬御風の「うちの燕」と分かりました。

投稿: なち | 2017年1月23日 (月) 15時57分

冬にはいり春が待ち遠しくなる時期に よちよち歩きの愛らしい姿をみつけると この歌を口ずさんでいました。
遠いふるさとの景色や幼友達も思い出します。
管理人さんのわかり易い解説 有難うございます。

投稿: けん | 2017年1月24日 (火) 17時27分

『春よ来い』の歌を聴いたり口ずさんだりするたびに、私は決まって思い出す俳句があります。 小林一茶の
  雪とけて 村いっぱいの こどもかな
という句です。
 北国、雪国の“春待つ心”が伝わってきますね。
雪の降らないところで生まれ育った私ですが、冬の寒さの厳しさ辛さは身に沁みています。 昭和30年代の頃、近所のどの家でも暖房器具といえば火鉢ぐらいでした。 冬の朝は、起きたら火鉢を抱きかかえることがルーティンでした。 通った小学校は男児は半ズボンが原則でした。
風邪をひいてる子は、モモヒキに半ズボンという恰好でした。
 教室は冷たいすきま風が吹き込むし、手はかじかんで鉛筆が思うように握れません。 北国のダルマストーブのことを羨ましく思いました。
「あかぎれ」や「しもやけ」も、しっかりこさえました。 防寒着も防寒具も充実している子供達は幸せです。 でも冬の日に外遊びをしない子が増えていると聞くと、ちと複雑な気持ちにもなります。
 現在では朝礼時に「乾布摩擦」をする小学校なんて皆無でしょうね–。
 三月弥生もすぐそこまで‥‥。「春よ来い 早く来い!」ですね。

投稿: かせい | 2018年2月22日 (木) 23時38分

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