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2008年2月22日 (金)

遠くへ行きたい

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:永 六輔、作曲:中村八大、唄:ジェリー藤尾

知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

《蛇足》 思春期から青春前期にかけて、僕らのなかでふくれあがっていた憧憬という情念は、いったい、いつ、どこへ消えてしまったのでしょう。それは、理想の女性や見知らぬ土地への思い、野心や希望などがないまぜになったもので、制御不可能かと思えたほどに強く、方向の定まらない不安定なエモーションでした。

 いつの間にか、僕らは「世界なんてこんなものさ」と悟りすました大人になってしまいました。
 『遠くへ行きたい』は、何ものとも知れぬものへの憧れにとまどい、もてあましていたころの自分を、ほんの少しばかり思い出させてくれます。

 この歌は、昭和37年(1962)、NHK総合テレビのバラエティ番組『夢であいましょう』の『今月の歌』として作られ、今日まで歌われ続けています。

 『夢であいましょう』は、昭和36年(1961)4月8日から同41年(1966)4月2日まで、丸5年にわたって毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に放送されました。当時はすべて生放送だったため、珍妙なハプニングがいくつもあったようです。

 ファッションデザイナーの中嶋弘子を司会者として、黒柳徹子、谷幹一、渥美清、E・H・エリック、岡田眞澄、坂本九、三木のり平、坂本スミ子、田辺靖雄、九重佑三子、デューク・エイセスなど、テレビ草創期を彩るそうそうたるメンバーが出演していました。その多くが、すでに鬼籍に入っています。

 この番組の人気コーナーの1つが『今月の歌』でした。永六輔の詞に中村八大が曲をつけ、毎月1曲ずつ発表されました。
 ジャズで培った中村八大のセンスは、演歌とはまったく違うソフィスティケイトされた曲を創り出しました。それが若者たちの心を惹きつけ、さらには家庭でも安心して歌える歌として、多くの人びとに受け入れられました。

 この「六八コンビ」が生んだヒット曲には、『遠くへ行きたい』のほか、世界的な大ヒットとなった『上を向いて歩こう』(唄:坂本九)をはじめ、『おさななじみ(唄:デューク・エイセス)、『こんにちは赤ちゃん』(唄:梓みちよ)、『ウェディングドレス』(唄:九重佑三子)など、いくつもあります。

 『遠くへ行きたい』は、日本テレビ系列で昭和45年(1970)10月14日から始まった旅番組『六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい』の主題歌として使われました。
 当初は永六輔が日本各地を旅するという設定でしたが、途中で彼がスタッフと対立して降板したため、タイトルから「六輔さすらいの旅」が外され、週ごとに旅人が替わることとなりました。
 ただし、のちには永六輔も、単発で出演しています。

 昨今の旅番組は、旅番組というより、ほとんどが食べ歩き番組で、ときどき露天風呂が付け加わるだけ。見知らぬ土地での感動や驚きといったものは、みじんも感じられません。
 ことに、ボキャブラリーが極度に少ないアイドルタレントの出る旅番組は、とうてい見る気がしません。

 初期の『遠くへ行きたい』は、知らない土地の風土・風習を見せてくれ、それなりに楽しく、収穫の多い番組でした。

(二木紘三)

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コメント

含蓄のある蛇足が楽しいです.読みながらメロディを聞くと言う。。。アダルトな楽しみかな???

投稿: sunday | 2008年2月22日 (金) 16時02分

ジェリー藤尾
とは 懐かしい 名前ですね。
 少し不良ぽく
 今なら チョイわるか?

遠くにはいけず
 うろちょろ 注意するのは
  家人のみ の ひろしでした。
いつもすみません。

投稿: 二宮 博 | 2008年2月22日 (金) 19時40分

大好きな曲です。尾崎紀世彦が素晴らしい声で歌っています。
「二木紘三のうた物語」は二木さんと私の年齢が同じであるばかりでなく、好みもぴったりです。ここにある素晴らしい曲の多くがカラオケに無いのは残念です。ともあれ、音楽好きの知り合いにこのサイトを紹介してもっともっと盛り上げていきませんか。

投稿: 山下仁平 | 2008年2月29日 (金) 18時05分

高校一年の時に流行りました。担任の先生が、永六輔というのは凄い人だ、あんな歌詞が書けるとはとおっしゃったのを思い出します。でも、ジェリー藤尾の顔が知的でないのが残念だとも言われました。なお、作曲の中村八大さんは私の母校、福岡県立明善高校(久留米市)の先輩です。修学旅行に東京へ行って、八大さんのお父さんが東京駅に挨拶に来られました。

投稿: 陽ちゃん | 2008年3月 1日 (土) 22時37分

素敵な演奏と「蛇足」の前文には感動です!いつまでも聴いていたくて、毎日鳴りっぱなしにしています。
昭和36年といえばちょうど20歳でした。何もかもが未熟で中途半端な自分に落ち着かず、早く大人の女性になりたいと思っていたことを懐かしく思い出しました。ありがとうございました。


投稿: 大原女 | 2008年3月 2日 (日) 11時21分

今日の旅人は阿藤 快さんです

投稿: じゅんや | 2008年5月27日 (火) 12時55分

 顔の骨格はアングロサクソン系とみられるジェリ-藤尾が、奥歯に物を挟んだ様な唄い方をして、 渡辺とも子とも競演、番組の終わりにジルバを組んで踊って・・・・・
 もちろんテレビは白黒(モノクロ)、のちに二人は結婚に至りましたが、やがて破局・・・・
  知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
 ここに、当時のジェリ-藤尾の声、表情が甦って来ました。

投稿: Hikoさん | 2008年8月 2日 (土) 22時16分

二木先生の詳細な解説(蛇足)は読ませて頂く度に先生のそれぞれの曲への愛情と当時の社会的背景を思い出させ深く感動させられます。
私はこの歌が40年程も前当時24~5歳の頃だったと思いますが、東京発の終電間際の中央線電車内で当時国鉄が旅行キャンペーンとして車内にこの歌詞を掲示していたのを、ガラーンとした車内で見つけたあの時を忘れられません。
私は八王子までの1時間ほど繰り返し繰り返しこの歌詞を読み続けました。周りに人がいるのに涙が溢れました。私は暗愚無能で若かったあの当時も仕事に追い詰められていました。
私はどこか遠くへ行きたかった、どこかへ一人で行ってしまいたかったのです。私はどこでもいいから本当にどこかへ一人で消えてしまいたかったのです。

投稿: 浜のボクチャン | 2009年12月28日 (月) 18時00分

 「人はパンのみでは生きられない」と言いますが、「遠くへ行きたい」も また人間だけがもつ願望なのでしょう。(犬や猫に聞いたことがありませんので、、、)

 新幹線で遠出をしてみても つまらない旅に終わることもことも 多々あります。お金を使って 遠くへ行っただけのことですね。逆に各駅停車で郊外の小旅行にでかけても 大きな喜びを感じることもあります。喜びを感じる時、それは 自分の体力、気力が充実して、冴えわたる感覚のある時で 何か 新しいものを見つけた時です。

「きてみれば 山には 山のあつさかな」ーー山路をたどってみて 平地だけが暑いんじゃないと 加賀の千代女は あらためて気づいたんでしょう。また「よくみれば なずな 花さく 垣根かな」ーー芭蕉は家の近くで なずなの花の美を発見したのであります。 

 知らない世界にふれる感動、何かを見つける喜びは、距離の 遠い、近いには関係ないでしょう。遠くに行けば行くほど なにかありそうと思うのは 若い時分の幻想であったと、年を重ねたこの頃、思います。夢のない話ではないか?そうかも知れませんが、幻想を排除することも またひとつの生き方でありますまいか、なんちゃって。 、

投稿: 越村 南 | 2012年10月16日 (火) 14時56分

この曲や『上を向いて歩こう』など、「六八コンビ」によるヒット曲が巷を席捲していたころ、中村八大作詞作曲による唯一の歌が世に出ました。世はまさに高度経済成長期の真っただ中。かれ自身も歌ったのですが、残念ながらヒットには繋がらず、その後は忘れ去られて行った歌があります。それが『太陽と土と水を』です。

「人様は力があれば幸福(しあわせ)がつかまえられると 考えた
   (中間略)
 
 人様はお金があれば幸福がつかまえられると考えた
   
   (中間略)
 
 人様は知恵があれば幸福をつかまえられると考える     
   (中間略)
 
 太陽と土と水を
 この手にもとう」

 幸福は力やお金で手に入れるものではなく、知恵を働かせることで得られるものです。人間は知恵を働かせて太陽と土と水(すなわち自然)の恵みを受ける。幸福とは自然との共存によって得られるのです、というかれのメッセージでしょうね。
 『太陽と土と水を』は、ヒット曲の連発で追い込まれ、疲れ果てたかれが、ネパールへ休養に行った際に、想を得たと言われています。
 東日本大震災と、それにつづく福島第一原発事故による国土の汚染は、自然との共生と真の幸福とは何かという課題をわたしたちに突き付けています。この歌にもう一度日の目を見させてやりたいものです。
 曲をお知りになりたい方は、YouTubeで検索してください。坂本九ちゃんも歌っています。

 
 
       
 

投稿: ひろし | 2012年10月17日 (水) 17時56分

(思春期から青春前期にかけて、僕らのなかでふくれあがっていた憧憬という情念は、いったい、いつ、どこへ消えてしまったのでしょう。それは、理想の女性や見知らぬ土地への思い、野心や希望などがないまぜになったもので、制御不可能かと思えたほどに強く、方向の定まらない不安定なエモーションでした。いつの間にか、僕らは「世界なんてこんなものさ」と悟りすました大人になってしまいました。)(二木先生の『蛇足』より引用)
全く同感です。『知らない街を歩いてみたい…。』 昔は旅行案内書と時刻表を見ながら、知らない土地への憧憬をふくらませていました。年齢を重ねてみずみずしい感性を失ったせいかも知れませんが、私は情報の洪水の影響が大きいと思っています。インターネットを中心とした情報過多の社会では、自宅に居ながらにして、世界中の観光地や絶景の場所に行く擬似体験を可能にしてしまいました。そして実際にその場所行ってみると、それ程感動しないという本末転倒の現象もあり、情報過多社会は旅行の楽しみを減じてしまったと思います。
特に過感で創造性豊かな時期の若者には『知らないでいる権利』も必要なのではないでしょうか。異性への関心は端的な例ですが、無知な時ほど恋愛に対する憧憬が強かったと思います。インターネットなどで過剰な情報を得ることのできる昨今は、ある意味で若者に気の毒な時代なのかも知れません。私は、後世になってインターネットの普及が新たな文化の創造を阻害したというようなことが言われるのではないかと危惧しています。

投稿: Yoshi | 2012年10月18日 (木) 23時12分

 上記のお二方のご意見に触発されて「遠くへ行きたい」を再び考えてみます。 
 
 旅が 単なる物見遊山ではなく、自分を豊かにしてくれるための何かをみつける機会と考えるならばの話です。
 福沢諭吉の『文明論の概略』の中に勉強の方法について書いてあります。一番良いのはその道の達人(精通者)に聞くこと。二番目は自ら現場にでかけて体験すること。三番目は本で知識を得ること。なるほど、諭吉は偉い奴だなと思いました。
 鎖国をしていた江戸時代、蘭学者たちはまずオランダ語の辞書で自ら勉強し、長崎に行き、シーボルトに会い、あるいは大坂に行き、緒方洪庵に会い、彼らの指導を直接うけました。この達人とじかに会う、直接指導をうけるというところがポイントだと思います。  

 この話が いい旅の成り立つ条件のようにも思います。海外旅行にあてはめると 1 ガイドブックで予備知識を得て 2 実際に飛行機などで移動する 3 現地の事情を知ってる人に案内してもらう ということになります。 現地の事情を知っている人というのは 単なるガイドではありません。その国の文化、習慣に精通した人です。小説家などが取材旅行をするときは100%そういう人と事前の連絡をした上で会っていますね。実りある旅になるかどうか、そこできまりますね。 
 しかし、普通の人にはそいうコネクションがないから、事情通の人をつかまえるんは無理。それゆえ、有名な史跡の前で写真を撮ったり、レストランでその土地の料理を食べたりするレベルで終わるでしょうね。  
 旅の後で 一種の空しさを感じる人は 満足したという人より、ある意味で、感受性がつよいともいえると思います。「遠くへ行きたい」の気持ちは 「旅とはこんなものじゃない、もっともっとみたされていいはずだ」と 追求しつづける心持ちでもあります。

 私は若い頃、度の過ぎた深酒をして、いやなことを忘れようとしたことが、多々ありました。あれも「遠くへ行きたい」の心情が根底にありましたね。何処へ行ったかはわかりませんが、少しの時間、今、居る場所を離れたのは確かでした。深酒は本当に度が過ぎてしまうと あの世にいっちゃいますけどね。遠くへ行き過ぎたらしゃれになりません。 

投稿: 越村 南 | 2012年10月19日 (金) 11時21分

山の彼方の空遠くではありませんが、旅に何かを求めても思いどうりの何かに出会うことはないでしょうね。淋しさのはてなむ国もありません。それでも私は一人旅に憧れています。夜汽車の窓から見える街の灯、暗い窓に映る自分の顔、母親でもなく妻でもない私本来の自分に戻れるような気がするのです。、
今までの旅で一番楽しかったのは人との出会いだったと思います。それも結婚する前のことです。ああ、ぱっと家出をして神田の古本屋街を大好きな青年と歩けたら、もう最高の旅なのに・・夢をみているうちが花なのでしょうか。何とも残念な人生です。

投稿: ハコベの花 | 2012年10月19日 (金) 20時54分

この歳になって「遠くへ行きたい」と言えば6文用意してあるかと問われ、個人病院を「美容院」と言い、大病院をホテルと会話する仲間と楽しく暮らしています。

投稿: 海道 | 2012年10月20日 (土) 19時28分

男性は家を1歩出た時から自由になれるのに、女性は1歩家を出た時から家族の心配が付きまといます。どこにいても落ち着きません。結婚前の旅が楽しかった訳がわかりました。6文を渡すまで私には自由がないようです。今度は男に生まれてきます。

投稿: ハコベの花 | 2012年10月20日 (土) 23時07分

海道 様、ハコベの花 様

 お二人の会話に 6文という言葉が こともなげに使われていることに びっくりしました。
 私は たまたま 戦国大名の真田の家紋、6文銭の由来は知っていましたから、ああ、あれか、三途の川の渡し賃かと思い出しましたけれども。死ぬ準備をするということですね。
 それにしても お二人ともおおげさですね。いやユーモアですよね。
 信州の方では 6文を渡す、6文を用意するなど ふつうに使うんですね。ほんとうに驚きました。暗号かと思いました。関西(神戸)では 聞いたことがないです。
 

投稿: 越村 南 | 2012年10月20日 (土) 23時43分

早いもので50年ぐらい前の歌ですね。
最近ではジェリー藤尾と、スリーファンキーズーの長沢純は大規模な某老人ホームに入居していて、その老人ホームの入居者募集の新聞ゃ雑誌の広告によく出ています。
今年11月の作詞者協会のプログラムにジェリー藤尾の名前がありますので多少歌の活動もしてるのかな....?

投稿: 富士三郎 | 2012年10月21日 (日) 13時47分

 旅というものは日常とは異なるもの―非日常―を求める人間の行為だと思います。柳田民俗学で言うケに対するハレ、つまり祭りに当たるものでしょう。旅の間だけ、日常の制約から少しだけ開放されて、食べきれない程のご馳走を並べたり、子供はゲームに興じる小遣いをもらえたり….。祭りが無礼講であるのに似て、旅の恥はかき捨てなどという言葉がまかり通ります。
 そんな非日常の開放感の中で、人との出会いがあります。これも旅の最中だからこそで、いくら空いていても普段は通勤電車の仕事帰りにボックス席の向かいの人間と会話を楽しんだりはしないでしょう。しかし、旅の思い出は胸に仕舞って置いた方がいい場合も多いようです。スキー場で出会い、心を惹かれた異性と、都会で会ってみて幻滅したという話を若い頃によく耳にしました。人生の伴侶や生涯の友を見つけられた方もいらっしゃるでしょうけど。

投稿: Yoshi | 2012年10月25日 (木) 22時53分

 この歌の作詞家である永六輔さんが、長年つとめたラジオ番組を降りられたというニュースを聞きました。ああ、お年なんだなと過ぎ去った歳月の茫々を思いました。
「遠くへ行きたい」。この歌には、流行をこえた不思議な魅力があります。なぜでしょうね。
人には、持ち場を逃げるわけではないけど、遠くへ行きたいというゆるやかな願望が、いつもあるように思います。まあ、皆が皆とは言いませんが。
 不本意な境遇は当然、どんなに満ち足りた境遇でも、遠くへ行きたいという思いがあるような気がします。
かっこよく言えば、新しいものを求める心でしょうか。
しかし、どこまでも満足を知ろうとしない、仏教でいう業のような気もします。
 遠くへ行きたい、その通りですが、問題は遠くへ行きたいと思う自分とは何かです。

投稿: 紅孔雀 | 2013年9月 7日 (土) 23時00分

息子二人はとっくに独立してカミさんと年金だけが頼りの二人暮らしのせいか、たまにふっと車で遠くに行きたくなる今日この頃です(ジェリー藤尾は本曲の歌唱もさることながら、全盛期の黒澤明の会心作・東宝映画「用心棒」(昭和36年)で宿場町三下ヤクザの役どころでいい味出してました)。
近頃、トラックドライバーが車窓風景やトラックキャビン内で車中飯を作る様子をYouTubeに動画投稿する“トラックユーチューバー”が激増し、面白い動画が見放題です(“ロ○デナシたも”“や○るチャンネル”“f○ctryチャンネル”“S○S KING”“長○川和輝”:一部伏字にさせて頂きました)。長距離便ドライバーは仕事柄、10トン車や14トン車で数百キロ数千キロ、家族を養うため睡眠時間を削って走行してる訳ですから、半端なことでないことは想像できます。
この手の動画を見ていると、北関東から例えば関西や中国四国九州の知らない遠くの土地を地図を頼りに走行し(カーナビないもんで)、街道筋のラーメン屋あたりで濃厚豚骨魚介ラーメンなどすすりたくなるような今日この頃です。

投稿: 焼酎百代 | 2016年11月13日 (日) 13時47分

   「大津波 全部持ってけ 馬鹿野郎」

 昨年7月7日「七夕の日」に亡くなられた永六輔さん。その永さんが、東日本大震災の被災地を訪ねた折 津波の惨状を目の当たりにして詠んだ句です。悔しさと無念さで一杯だったのでしょうね。 「何もかも持って行かれても俺達は必ず立ち直ってみせるぞ‼」と言いたかったのでしょう。
 日本のあちこちを旅する事が好きだった永六輔さん、山々や河川が、人の暮らしが尊い命が、容赦ない自然の猛威に拠って、破壊され奪われて行く此のところの惨状をどう見てらっしゃるでしょう。 犠牲者が日毎に増えて行く九州北部の豪雨現場です。     一章さん、お仕事お気を付けて下さいますよう‼

投稿: かせい | 2017年7月11日 (火) 01時27分

かせい さま
心温まるコメントをいただき恐縮です。明日からの仕事にも元気が出そうです。
ありがとうございました。
今回の北部九州豪雨災害、特に隣県に住んでおりますので、テレビ・新聞等を見るたびに、被災に合われた方々のことを思うと心が痛むばかりです。
また、災害復旧に携わっておられる多くの方には感謝の気持ちでいっぱいです。
一日も早い復興を願うばかりです。
ありがとうございました。

投稿: 一章 | 2017年7月11日 (火) 21時14分

会社に勤め始めて一年目、コンピュータ室のオペレータをしていました。3直交代制て夜の勤務も回ってきました。

ある日他の会社(東証一部上場K社)のコンピュータ室の夜の助っ人を頼まれました。他の会\社のコンピュータ室なんて仕事の段取りも知りませんし、機械の機種も違い扱い方も知りません。躊躇したのですがそれでも良いのだそうです。深夜の一人勤務は禁止されているので同伴者として私に声がかかったのだそうでした。

名前も知らない彼X君はスラリとした長身の穏やかな顔立ちの美青年でした。彼の方からしきりに声をかけてくれるので緊張もせず楽しく一晩を過ごすことができました。

彼は恋人がいない、昼の仕事がしたい、と言っていました。
そうか、もったいないなぁ、君のような良い男は昼の仕事の方が世のため、女性のためにも良いよ、と私は思いました。
彼はトランペットを吹いている、と言いました。オー!、カッコ良すぎるよ、と私は本当に羨ましく思いました。背も高く、男前で、その上トランペットが吹けるなんて・・・これ以上のこと、ありますか?
彼はこの仕事をもう二年もやっている、もう辞めたい、と言いました。私はその気持ちは分かります、この仕事をしている者が皆がそう言っています。でも僕は仕事を始めてまだ1年もたっていません。基本給は月5万円だけれど、深夜勤務手当が2万円加算され、深夜勤務の時は昼間遊べるので、まだまだ学生気分を楽しめていました、僕はまだコンピュータ室の仕事に満足していました。彼に対しては、・・・そうよ、こんな夜の穴倉の仕事、相応しいのは俺くらいのもんよ・・・と思っていました。

時折コンピュータ室の隣の部屋でカタカタと音がするのが気になり見に行きました。消灯された暗い部屋の中で音を立てていたのは電動の自動タイプライターでした。海外から英語の電文が届いていて打ち出していたのです。その時、こんな仕事、僕もやってみたいなぁ、と思いました。その後、街の店頭に飾ってあるオリベティのタイプライターをみて欲しいなぁ、と眺めていたこともあります。そのせいか、後年そのような仕事にも携わることになりました。

彼とはその一晩だけの出会いでした。見知らぬ遠い街での遭遇であったように思えます。彼、今頃どうしているだろうか・・・。可愛いお嫁さん見つけただろうか・・・。

以来、もう二度と訪れることのないK社ですが最近懐かしくなりその縁を忘れたくなく株を少し買いました。

彼のことを思い出すと、あのコンピュータ室とともにトランペットの名曲を聴きたくなります。
「夜空のトランペット/夕焼けのトランペット ニニ・ロッソ」も良いですね。

投稿: yoko | 2018年5月20日 (日) 23時21分

yokoさま
 私も一時、道すがら通り過ぎる美少年に会いました。30代のころ、子供たちの小学校へいく道で、小学校のとなりの私立の進学校の高校生です。その頃、小学校の広報部の委員をしていたので、度々出会いました。私は自転車でとおりすぎるだけでしたが、美しく若々しさが漲り、ギリシャ神話のナルシスの美しさってこういうのかなと思わせるくらいでした。すれ違うたび私が見とれていたので、数人の友と帰る彼はそのうち一緒の友達に肘で突っつかれたりして、冷やかし始められました。私と目が合った彼の恥じらいに、私はこの子は女たらしになるなかなと思ってしまいました。どこか遠い街で素敵な女性に出会って幸せに暮らしているといいのですが(まさに老婆心ですね)(笑)。
 
 ニニ・ロッツいいですね。久しく名前を聞いていませんでした。今,朝ですが「夜空のトランペット」をかけて、聴いています。いいですねえ〜久久振りです。聴きながらいつも思うのは、あの密やかに聞こえてくるつぶやきはなにを言っているのだろうと思っています。

 「東京大衆歌謡楽団」を毎日聴いて、今、「夜空のトランペット」から「さすらいのマーチン」へと聴いています。良い音楽はジャンルを問わずいいものですね。ありがとうございます。今朝は「懐かしのポピュラー・ヒット・ベスト・コレクション」を聴いていますが、どちらも前の時代の曲の数々です。いいですね。

投稿: konoha | 2018年5月21日 (月) 09時31分

昔、会社勤めの頃は男ばかりの機械設計部署だったせいか?、カミさんと所帯を持つ前の若造の頃は“殺伐とした職場環境から逃れて妙齢の美女と遠くへ旅行したい”などと大それた?妄想をしていたものでした。
yoko様が勤務されていたコンピュータ業界を始め製造業土建業金融保険サービス業流通業…様々な業界がある中で、下記の岩波映画製作「荷役はかわる」(1958年)などは敗戦後13年復興日本の活力の一端が伝わってくる映像です。
↓日本通運公式チャンネルさん提供
http://www.youtube.com/watch?v=L2_22rXiHQY

投稿: 焼酎 | 2018年5月21日 (月) 13時27分

konohaさま

”女たらし”って言葉が気になりました。
① 辞書によりますと、女性を言葉巧みにたぶらかして誘惑する(悪い男)。
② 使い方としては、女性が夢中になった男性が振り向いてくれないので悔しくてののしる言葉。(男は悪くない)
konohaさんは②で使われたのでしょうね。

男であれば、①でも②でも多少の差はあれ、潜在的な願望があるかもしれません。
あ、いえ・・・僕は違います。僕は生まれてこの方そんな経験はありません。
願望もなかったとはいえないけれど・・・

焼酎様

動画拝見いたしました。勉強になりました。ありがとうございました。戦後の復興の活力がみなぎっていますね。
初っ端から汗ばむような息詰まるような労働のオンパレードですね。
学生時代、バイトで”清掃”と言う名の仕事をしたのですが清掃とは名ばかりで実態は建設現場の後片付けでした。
「オイ、手伝え」と呼ばれてセメント袋を5~6回運んだのですが、それで、もうだめ、とつぶれてしまいました。

わが街では高層ビルが続々と建設されています。巨大なクレーンや杭打ちの機械を日々眺めながら、焼酎様はこんな機械の設計もされていたのかな、と想像しました。

投稿: yoko | 2018年5月23日 (水) 07時57分

yokoさま
 もちろん②です。大人になってあの美しさに男っぽさが加わると、女泣かせになるかもしれませんね。彼が自分の美貌に頓着しない人生を歩めば、生来の美しさに渋みが加わり、素敵な男性になるでしょうね。私がこれまで生きてきて、目を見張るような美少年にあったのは2回だけです。一人は「悲しくてやりきれない」2017.6.7 ,11時34分にコメントしましたように、山の神(女性だといわれていますが?)に魅入られてしまったのか、谷川岳で亡くなりました。持って生まれた美しさはその子にとって、どのような人生を歩めさせるのか、ちょっと怖い気がします。
 男も女もそこそこ十人並みがいいのかも知れませんね。

投稿: konoha | 2018年5月23日 (水) 10時32分

 旅行に出るとき、ある程度下調べをしていきますが、情報過多のこの時代、調べすぎになってしまう。
それが旅を面白くないものにしているように思います。先入観が発見の喜びを妨げているのです。

 ある人の<下調べのない不思議な旅>の体験談です。「遠くへ行きたい」とはこんな旅ではなかろうかと思います。
教科書なんか面白くない、地図を見るのがよっぽど楽しいという子どもがいた。青森県の下北半島に野辺地という土地を見つけ、いかにも本州の果てのようで、行ってみたいなという思いをつのらせた。やがて日本は戦争になり、終戦。復員して間もない25歳の彼は、 子どもの頃の夢を叶えるために、京都から陸奥の旅に出た。昭和21年の冬のことで、復員軍人や買出し屋でごったがえす汽車を何度も乗り継いで、3日かけて、野辺地駅に着いた。
 陸奥湾から雪交じりの強風が吹きつけるプラットホームに<のへじ>と駅名が表示されていた。子どもの頃から<のべち>と誤読してことに気づく。風雪が叩きつけるように吹く駅を降りて、その町の旅館に2泊したが、何もせずに帰ってきた。15年来の子どもの夢の地へ、昔の自分を拾いに戻ったような旅であったが、戦争から無事もどれた自分の命を確かめる証しの旅でもあった。

 ある人とは山本素石氏という随筆家で、『つりかげ』(PHP文庫)という本に出てくる話です。彼はこの酔狂な旅に出る自分を、最初は「この食うや食わずのご時世に何をのんきなことをいうておりますのや」「みちのくの一人旅やなんて、ちょっとは家族のことを考えて」と反対しながらも、結局は許してくれた奥さんを<無用の有用を知る女だった>と評している。的確な表現のような気もするが、男の身勝手な解釈のような書き方でもあり、なんとも可笑しいところです。

投稿: 越村 南 | 2018年12月 9日 (日) 18時08分

 「旅に出る」、気持ちがざわつきます。いくら旅行して帰ってきても気持ちはまたそぞろ、旅の空です。現実では荷を解き、撮った写真を整理して、地図を広げてチェックを書き入れて、日常生活に戻っていきます。

子供が成長してからは基本5泊6日の夫婦二人旅で、旅先は時間の無い夫に代わって、全て私が計画しました。当時は有楽町の交通会館ビル内にある全国のアンテナショップから、どっさりパンフレットやその県の地図をもらって、一ヶ月前から下調べをしました。そこで、すでに一ヶ月も旅の空でした。旅行に出かけ思わぬ場所に出会うことも度々ありました。交流掲示板でコメントしました三厩村もその一つでした。

日常生活が縛られている現在でも「遠くへ行きたい」が募ります。それも連れに合わせるのではなく、昔人が居たであろう、歩いたであろう、の場所を訪ね歩き感慨に耽りたいです。そんな気持ちが本の世界から飛出しそうです。

投稿: konoha | 2018年12月 9日 (日) 19時22分

旅は一人旅に限ります。
この歌のイメージも一人旅ですね。
10数年前に 当時78歳の知人に懇願されて桜の京都へお連れしました。厳しいうるさ型の女性なので旅へ発つ前に京都を3往復したほど疲れました。当時は便利なスマホも登場せず、分厚い時刻案内を購入して入念な下調べ。琵琶湖も観たいと欲張りな彼女の為に最高の演出と気張って名古屋で新幹線から長浜停車に乗り換えました。桜は見られたが花曇りの為茫洋として琵琶湖も霞んでおり親切が仇になりました。祇園白川や醍醐三宝院の桜が見ごろで面目を果たせました。
又 級友2人を3三回以上  春秋の京都へ連れて行ったが大変なストレスでした。(宿泊は娘宅)桜も紅葉も気まぐれなのでハラハラドキドキ。いつも最高の景観に出逢えたのは幸いでした。
彼女達には「ツアー旅行に私を誘わないで」と念をお押してあります。
資力の乏しい今は 知った顔に会わない他所の図書館へ行ったりカフェで新聞を読んだりしても 疑似旅人の気分になれます。

投稿: りんご | 2018年12月 9日 (日) 20時26分

追記

独り者の僻みとの誤解を招くといけないので追記させていただきます。
俳句の先輩に一人旅の達人がいました。
当事、80歳目前で 足を悪くする数年前までは一人旅が趣味であったと。一人旅ならユースホステルも、食堂も必ず入れるのが利点と。ご主人には行く先も告げず1週間以上も気分任せの旅を繰り返したそうです。現在は90歳を超えておられます。
(彼女達ご夫妻はは教員の二馬力定年退職組の為後顧の憂いなく旅を満喫出来たと忖度してます。)

投稿: りんご | 2018年12月 9日 (日) 20時48分

若い頃はこの歌の様な旅をしたいと思っていましたが、もう、面倒な事はしたくなくなってしまいました。時々私は灰田勝彦が歌った「水色のスーツケース」を聴きます。心が解放されて青春時代に戻ります。♪ああ 高原に雲は白く流れて 果てしなく汽車は走るよ♪ そうです、黒い煙を吐く汽車に乗って私は、果てしない旅に出るのです。心はいつも青春で自由です。会いたい人に逢える旅です。

投稿: ハコベの花 | 2018年12月10日 (月) 22時26分

ほんとに気持ちのいい歌ですよね。今でもしょっちゅう口ずさんでいます。
ジェリー藤尾というひと、面白い顔(失礼)をした映画俳優だと思っていましたが、これを聞いて、歌い方がうまい歌手なんだなあと思いました。
この歌のお蔭、私もあちこちほっつき歩くようになりました。いろいろなところを見、素敵な人たちと出逢い、いい思い出がたくさんできました。

八大さんと兄は友達でした。共に昭和6年生まれ、明善から早稲田と、ずっと一緒でした。兄は地方のガッコのセンセになり、あまり会うことがなくなったようですが、付き合いはずっと続いていました。兄は時々上京してきており、いつも八大さんに会っていたようです。兄は性格が朴訥で、八大さんの名声も全然気にしなかったようで、それで八大さんも気楽な気持ちになっていたようです。
ガッコのセンセはビンボーなので、いつもセンセには手の届かないようなものをごちそうしてもらっていたようです。もちろん、おごったおごられたが、あとに残るような人たちではありませんでしたが。

ずいぶん昔のお話。私も、昔のことを思い出すと涙がにじんでくる歳になってしまいました。

投稿: 田主丸 | 2018年12月16日 (日) 08時53分

この曲は20年位前に旅番組で知りました。はじめはすごく良い曲だ、と思ったのですが同時に違和感も覚えました。
途中まで一人旅の情緒や風景などにしみじみと想いを巡らせたところで、なぜ唐突に「愛する人と めぐり逢いたい」と来るのでしょう?それまでの歌詞と世界観が違うというか・・・どうにもしっくりきません。

投稿: 藤山松千代 | 2020年8月 1日 (土) 22時31分

go to travelも混迷中、そろそろ旅に出たいがちょっと後ろめたい今日この頃です。昭和37年といえばお寺や旅館の利用も含めて全国にユースホステルが展開され、オリンピック目指して日本中活気に溢れていた時代、若い女性がどんどん旅に出てきたころです。しかし一人旅というと女性は珍しく男性のものだったのではないでしょうか。若い男性がふらりと旅に出れば、その生理上思うは女性のことなのは必然。「愛する人にめぐり合いたい」のです。「琵琶湖周航の歌」でも2番と4番に「乙女子」が出てきます。永六輔さんは後の阿久悠さんと同様、時代の雰囲気を良く掴んでおられたと思います。いかがでしょうか。

投稿: しょうちゃん | 2020年8月 2日 (日) 09時34分

 「遠くへ行きたい」は、前に、男声コーラスで練習したことがあります。

このたびの、藤山松千代様のコメント(’20-8-1)を拝読し、知的好奇心をくすぐられました。
改めて、歌詞を眺めて、私なりの想像を巡らせてみました。

歌詞の後半に、♪愛する人と めぐり逢いたい♪が、2回繰り返して、出てきます。2回繰り返し=強調と理解しますと、 ”愛する人とめぐり逢いたい”は、この歌の第1のモチーフではないでしょうか。
このフレーズに続き、同じように、♪どこか遠くへ 行きたい♪が、2回繰り返して、出てきます。このことから、 ”どこか遠くへ行きたい ”は、第2のモチーフと言えるのではないでしょうか。
そして、第1のモチーフと第2のモチーフをつなぐのが、カール・ブッセの詩「山のあなた」(上田敏 訳)の”山のあなたの 空遠く 「幸」住むと 人のいふ…”ではなかろうかと思うのです。
つまり、思い浮かぶ詩情は次のようなものです。
『若い僕は、 愛する人とめぐり逢いたいと思っているが、思うようにはいかず、まだ、愛する人とめぐり逢えないでいる。そう言えば、カール・ブッセの詩に”山のあなたの 空遠く 「幸」住むと 人のいふ…”とあったなあ。どこか遠くへ行ったら、愛する人とめぐり逢うという幸運に恵まれるかも知れない。そうだ、どこか遠くの知らない街へ行ってみよう。』
如何でしょう。

投稿: yasushi | 2020年8月13日 (木) 15時52分

しょうちゃん様
yasushi様

ご回答ありがとうございました。
私も旅が大好きでバイクで休日はツーリングを楽しんでいたものです。
もちろんバイク仲間同士でも良いものでしたが、特に目的も無くフラッと出かけるソロツーリングも気儘で実に良いものでした。

旅の目的は人それぞれで、
めずらしい景色や美味しい食事、あるいは素敵な出会いを求めるのも「有り」でしょう。ただこの歌詞は自分の旅の嗜好とはちょっと違うかな、と思っています。

同じ旅の歌?ならば個人的には奥田民生の「イージューライダー」やハイロウズの「日曜日よりの使者」の方がよほど心にスッと入ってくるんですけどねぇ・・・。

投稿: 藤山松千代 | 2020年8月14日 (金) 23時16分

今日息子のTwitterを見てもしや与論島?【一人旅】季節も秋
きっと寂しさを癒しに遠くに。帰省しても主人と喧嘩間違いなし。母としてとても可哀そうでなりません。

投稿: 細川 和代 | 2022年9月29日 (木) 09時09分

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