夜汽車
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 いつもいつも とおる夜汽車 2 やみの中に つづくあかり Wenn ich ein Vöglein wär' 1. Wenn ich ein Vöglein wär' 2. Bin ich gleich weit von dir, 3. Es vergeht kein' Stund' in der Nacht, |
《蛇足》 昭和22年(1947)発行の文部省編纂『四年生の音楽』に発表されました。
この歌が何年まで掲載されていたかはわかりませんが、昭和20年代に小学生だった人は、たいてい習っているはずです。
子どものころ、夜床に入ったあと、ふだんは聞こえない電車の音が聞こえてくることがありました。それは、家から4、5キロ離れたところを走っている大糸線というローカル線の音でした。当時は大糸南線という名称でしたが。
どうしてあんな遠くの音が聞こえるのだろうと不思議に思ったり、その電車が向かう見知らぬ町のことを考えたりしているうちに、いつの間にか寝入ってしまったものでした。
同じような記憶を、汽車についてもっている人も多いでしょう。なんとも郷愁を誘う懐かしい歌です。
私は長らく、これは日本の歌だと思っていましたが、実はドイツ民謡で、しかも、日本語詞とはがらりと違う恋の歌でした。
1番=翼があればきみのところに飛んでいくのに、そうできないから、ずっとここにいる、2番=君から遠く離れていても、夢のなかで君と話している、でも目覚めると一人きり、3番=夜の時間は過ぎ去らず、ぼくは目覚めない、君が何千回も心を贈ってくるから――といった素朴なラブソング。
原詞は、ドイツの詩人で哲学者のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが1778年にまとめた『民謡(Volkslieder)』という歌集に載っていたものです。ただし、古い歌の常で、ヴァリアントがいくつもあるようです。
また、メロディは同時代の作曲家ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトの作曲とされていますが、オリジナルではなく、古い民謡を採譜・編曲したものだったと推測されます。
上の絵は2010年の年賀状用にAdobe Illustratorで描いたものです。
(二木紘三)
コメント
懐かしい歌で大好きな歌でした。こういう曲を小中学生に歌って頂きたい。いつもそう思っています。
投稿: sunday | 2008年3月15日 (土) 07時17分
この歌を小学校で習った記憶はありませんが、近所の子供が歌っていたので自然に覚えました。昭和23年のころです。
ドイツの歌とは知りませんでした。
当時私は長崎県の島原に住んでいましたが、私鉄の島原鉄道が家のすぐ傍を走っていました。今と違ってお客さんがいっぱい乗っていましたし、長い貨物列車も走っていました。もちろん蒸気機関車が引っ張っていました。家が町のはずれでしたので、汽車が見えなくなるまで遮るものは何もありませんでした。
現在は、ディーゼルの列車が走っていますが、列車がどこを走っているのかも分からないほど家が建て込んでいます。そしてお客はほとんど乗っていません。
こんなにいい歌も、子供たちが実感をもって歌える環境がなくなってきているのでしょう。淋しいことです。
投稿: 周坊 | 2008年3月19日 (水) 21時00分
また失礼します。
私は 高知市の街中に住んでましたが
たしかに家から 昔 離れた夜汽車の音を 聞けたことがありましたことを思い出しました。
しかし ドイツ語の原詩はまったく違いますね。
なぜ こんな詩に なるのでしょう。?
しかし
二木先生の1.2.3の詩の解説で
すこし ドイツ語の勉強が出来ました。
(ひとつの副産物)
ありがとうございます。
投稿: 二宮 博 | 2008年3月28日 (金) 01時49分
夜汽車。本当に懐かしいひびきです。
私にとって夜汽車とは、『故郷を離るる歌』の思い出のように、夜通し走る列車ということですが。今は全国的に新幹線網が整備され、日中かなり遠方まで移動できますから、わざわざ夜行列車を走らせることもないのでしょう。(気になって、問い合わせてみました。その結果、JR東日本の場合今でも、上野駅から札幌また金沢。東京駅から大分・熊本また高松など、数本は出ているとのことです。しかし、やはり昔に比べて、本数はずっと少なくなったとのことです。)
二木先生が解説でおっしゃっているような体験を、私も郷里で致しております。
当時の私の住まいは、駅からも線路からも何キロも離れておりました。普段ならまず聞こえないはずの夜汽車の音が、ある寝静まった夜更けに、なぜか聞こえてくることがあるのです。
シュッシュッ。ボォー。……。ボォー。ボォー。……。シャッシュッ。ボォー。……。
近づいて、大きくなって、やがて遠ざかっていく…。
それが不思議で、私はそれを題材にした下手くそな詩を書いたことがあります。
高校1年の時でした。たまたま隣の席だった、米沢から通っていた少しニヒルな感じの級友に、その詩を見せました。私は1、2年の時は坊主頭、彼はカッコウいい長髪でした。一読するなり斜に構えたその級友は、例のニヒルなうすら笑いを浮かべながら、「変な詩だなあ」と一言言ったきりで、突っ返してきました。(その詩は、とうの昔に捨てました。)そんな彼とは、妙に気が合うところもあって、ある日曜日、他の仲間と共に彼の家に遊びに行ったこともありました。
夜汽車とは直接関係ありませんが、私の高校に関する話を、さらに一つ紹介させていただきます。
私が高校時代、汽車通学で利用しておりました「山形交通フラワー長井線」(私の頃はただの「長井線」でした)が、2年ほど前NHKの「小さな旅」という、30分番組で紹介されました。夕方たまたま途中から見たもので、全部を見ることはできませんでしたが。
その中で、私もかつて3年間乗り降りした、懐かしい無人駅の「南長井駅」のプラットホームなどを、私の高校(山形県立長井高等学校)の後輩たちが、ボランティアで掃除している姿が映っておりました。私の頃は、ただ乗降しっぱなしでしたのに。だいぶ年長の先輩である私も、少し誇らしい気分になりました。
なお運転手も、30代くらいの後輩が勤めておりました。
夜汽車そして蒸気機関車…。「ユックリズム」。懐かしいですね。
投稿: 大場光太郎 | 2008年3月29日 (土) 19時13分
「夜汽車」なつかしい旋律です。お話をきいていると何となく外国でつくられたもの---という気にはなりますが、やはり歌詞の感じは--なじみのものが正解--という気にもなりますね。やはり日本人なんでしょう。
みなさんの夜汽車の思い出はきれいなロマンチィックなものが多いですね。さて、小生のは---
昭和48・49年ごろだったでしょうか? 山形の酒田出身の先輩がおられて、その頃郷里 酒田へ帰って開業されたのでした。医局の方は、その先生を全面的に応援しようということになったようで、手術があるごとに(月に1・2回、手術を集めておいて)若い医局員を派遣するわけです。夜汽車で西宮を発ち、朝6か7時に酒田着 朝一から3・4例の手術を手伝い、豪華な夕食をいただき、再び夜汽車で酒田を去る---という具合の仕事でした。
丁度、インベーダーゲームの流行っているときでした。
少し時間があったものですから、食事をかねて喫茶店へ--ゲームを置いてある店だったので、ゲームをやりながら時間をつぶしていたのです。20時発を、よくある早とちりで午後10時と思い込み、インベーダーゲームに夢中--連絡用紙を見直すこともなく、駅についたのは9時半ごろ。駅員さんにこの夜汽車は何番線ですかときいてはじめて、大きなミスに気づいた次第。
恥ずかしい恥ずかしい思い出です。クレマスターリフレックスもおころうかというほどあわてて、駅員さんに計画のたて直しをしてもらい、新潟かどこかでの乗り換えはありましたが、1時間遅れほどでの到着で済み、何とか手術にすべりこめた。懐かしい思い出!! 余談ですが、酒田では、必ず 蕎麦雑炊がいただけたのです。あの味は今でも忘れられません。後味の悪い
失敗談と、すばらしくめずらしい美味な雑炊の味---涙がでてくるような、いろんな要素のつまった思い出です。
大場様、少し心配していましたが---コメント いつものようで安心しました。田舎で生まれ育ったようにお聞きしましたが、ほんとうに羨ましく思っています。僕が今開業している能勢も、大阪の一番の未開発地です。のんびりゆっくりしたいのですが、自分の身りまわりの諸問題の解決に日々苦しんでいるこの頃です。
投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年3月29日 (土) 22時42分
能勢の赤ひげ 様
お便りありがとうございます。
そうでした。「能勢」は「大阪府豊能郡能勢町」ですね。いつぞやは、先生の現住所を「神戸市」にしてしまいました。大変失礼致しました。
能勢の赤ひげ様、そして皆様には、ご心配おかけ致しました。私は、このようなコメントを折りにふれて出させていただきます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
なお、この『うた物語』は、二木先生のものであると共に、日々ご利用されている、皆様お一人お一人のものでもあると思います。とうぞ皆様も、「思い入れのある歌」についての、思い出など。どしどしコメントお寄せ下さい。
そうでないと、同じようなメンバーばかりがコメントを独占するような形になり、申し訳ございませんので。「百花繚乱」でまいりましょう。
それでは失礼致します。
投稿: 大場光太郎 | 2008年3月29日 (土) 23時29分
清明節で3日半の休み(ここは中国内モンゴル自治区)。インターネットをいじっているうちにここへ着きました。
“夜汽車”なつかしい・・・。 学校で習って以来初めての出合いです。歌詞を見なくても歌えます。子どもの頃覚えた歌はそうですね。
こちらの子ども達は歌が大好き。モンゴルの歌は私も大好きですがモンゴル語の発音は難しい。
子ども達は“ふるさと”をすぐに覚えました。大人になっても覚えていてくれるでしょう。
投稿: etuko mori | 2008年4月 5日 (土) 16時56分
昭和20年生まれの私は、小学校4年生か5年生の時に習いました。今もとても好きな歌です。なぜかこの歌と、記憶の中でひと組になっている歌があります。「遠い山の向こうの 知らない町よ。いつか馬車に乗って 行きたい町よ。」子供の頃、夜眠る前に、遠くの町に思いを馳せて歌っていたものでした。
投稿: nobara | 2008年8月 6日 (水) 20時39分
先日、CSで、救出されたユダヤ人の子供たちのドキュメントが放映され、
この歌(原語)が幼女の声でバックに流れました。
「小鳥ならば」という題名で、門馬直衛の訳詞があります。
ことり ならば きみが もとに とばんを
されど すべも なく ひとり とどまる
ゆめに ならば きみと ともに かたるを
されど さめて ひとり おれば さびしむ
投稿: 若輩 | 2008年10月 2日 (木) 01時59分
nobara 様。もう一つの歌、遠くの町は2番の「飾り窓の店 あるという町、ポプラの並木の あるという町」も好きでした。たしかに夜汽車と一脈通じる歌ですねえ。
小林純一作詞と思ってましたら、彼は訳詞で作詞者不詳らしい。二木先生、ご考証の上ラインナップに加えていただけませんか。
投稿: 大坂一義 | 2009年7月27日 (月) 19時25分
大坂一義さま
「夜汽車」「遠くの町」を初めて歌った頃から、とうに半世紀が過ぎ、私はそのころは知らなかった町に住んでいます。
そして今はるかに想うのは、ふるさとのポプラ並木のある町…夜汽車に乗って帰りたい遠くの町のことです。
投稿: nobara | 2009年7月28日 (火) 10時19分
私はこの歌を習っていませんが、信州生まれの妻がよく口ずさんでいるので知っています。
夜間、地表が冷えて地上の気温よりも上空の気温のほうが高い「気温の逆転」は、風の弱い盆地でよく起こります。これは大気汚染が起こりやすい状態です。
二木さんの説明では境界面で音が反射されるからとありますが、音の伝わる速度が低温よりも高温のほうが大きいため湾曲して、下の方へ屈折するからと習いました。
投稿: みやこびと | 2009年7月28日 (火) 15時18分
毎年、新年には二木先生が年賀状のためにお描きになったという童謡をテーマにした絵が掲載されるので、今年はどんな絵かと楽しみにしていました。しかし、童謡の欄を見ても、新しい絵がありません。何か事情があって、今年はお描きにならなかったのだろうと思いつつも少しがっかりしました。
ところが、外国民謡の欄を見たら、あるじゃありませんか、夜汽車の絵が。郷愁をそそられるいい絵ですね。この絵とは地形が違いますが、私のふるさとでも、遠くの丘の麓を列車が走っていました。
投稿: コマツ | 2010年1月 3日 (日) 12時22分
明けましておめでとうございます
この「夜汽車」欄に二木様は絵年賀を忍ばせていらした
んですね。新年のお宝探しのようで愉快愉快♪
田んぼを縫って山の彼方に向かって走る夜汽車。
やがて夜が明け”希望”が満ちてくる、そんなイメージ
がふくらんでくる絵ですね~。
二木様 皆様
今年も健康で一層充実した一年でありますように。
投稿: やまゆり | 2010年1月 8日 (金) 23時16分
遅ばせながら今年初めて絵年賀を拝見させて頂きました。
素朴でほのぼのとメルヘンのようでもあり遠い日の故郷のようでもあり懐かしく、心から雑念がスーーと消え時も忘れて何時までも見ていたい!
2010年という区切りのいい新年早々に、そんな“絵”との出会いはとてもHappyなひと時ではなく一年間は続くはずだと、そして平和な一年でもあれと嬉しくなりました。
二木先生、この絵はパソコンで描かれたのですか?
思えば1950年頃、雪も風も無い雀の声もせずまだ夜が明けきらないシーンとしたしじまの中を、ふた山越えた直線距離約8kmの三江線「石見川本駅」を通過した汽車の汽笛がボワー・・・と微かに聞いたことを思い出しました。
先日実家の姉に電話で汽笛が聞こえるかと聞いたところ、“今はジーゼルカーだけえ汽笛は鳴りゃあせんで” とのこと・・・
ボケていないので安心しました。
投稿: 尾谷 光紀 | 2010年1月15日 (金) 23時28分
幼時から二十数年を過ごした市のほぼ中心に、標高531メートルの山が在りました。
その土地を遠く離れ長い年月が過ぎても、穏やかな山の姿は鮮やかに深く心に刻まれたままです。
すぐそこに在った慕わしく恋しい ふるさとの山。
ライラックもアカシヤもポプラ並木も降り積もる粉雪も…セピア色の写真の中に淡く霞むかのよう。
ただ、忘れえぬ山は今も、窓を開けさえすれば見えるような気がするのです。
けれど…窓の外には乾いた街並みがどこまでも広がっているばかり…。
二木先生のすてきな絵を拝見して、故郷の山に会いたくなりました。
はるばると、夜汽車に乗って…。
投稿: nobara | 2010年1月23日 (土) 10時36分
「夜汽車」は数ある思い出の曲のひとつですが、小品ながら私にとって愛しい大曲ともいえます。これを日本語で、時には下手な発音のドイツ語で口ずさむとき、高齢のわが身をいつか我が青春時代にプレイバックしてくれ味わい深い名曲です。
今から50年ほど前の苦学生だった頃、小生はアルバイト家庭教師として帰国子女(当時はなかった用語)の小学4年男児(確か川崎オリオ君だったかな)のヘルパーをしていました。彼は中近東でドイツ人経営の学校で学んで東京に帰ってきたばかり。そのとき彼が歌ってくれたのが、なんとこの”ヴェン イッヒ アイン フェーグライン ヴェア・・・”だったのです。
大学のドイツ語の講義で耳にしていた曲でしたが、さすが現地仕込みすが発音は、大学の教授よりも魅力的でした。まさに懐かしさがこみ上げてきます。
懐旧談はさておき、現在高齢者のサロンで素人の私が毎月2回、歌の音頭とりの真似事をしていますが、つい最近この歌にドイツ民謡原詩風の拙い訳詞を付けて合唱してみました。こんな風に…
とりのように はねがあったら
とんでいくのに
あなたのもとへ
あなたのもとへ
とんでいくのに
いい曲ですねぇ。初めて投稿させていただきました。
(平成22年2月26日)
投稿: 川合末男 | 2010年2月26日 (金) 11時53分
参考ですが、昭和34年生まれの私は学校で(小学校か中学校か記憶が定かではありません)ドイツの民謡と教わったきおくがあります。
投稿: 渡辺 一弘 | 2010年7月15日 (木) 21時59分
メルヘンチックな夜汽車の絵を時々拝見してしばらくはうっとりとしておりますが、ふっと60年以上前に母かおばあちゃんかどちらかに教えてもらったとしか思えない歌を思い出しました。
赤いポストに 今朝入れた
お姉さまへの お便りは
今頃どこを 通るでしょ
長い鉄道 橋の上
きっと楽しい(or 嬉しい)汽車の旅
メロディは微かに覚えておりますが、図書館に行っても分からず題名・作詞者・作曲者・歌手等もしご存知の方は教えて下さい。
そしてこの歌が本当に有ったかどうかも・・・・・。
投稿: 尾谷 光紀 | 2010年9月14日 (火) 22時59分
「手紙」作詞 勝承夫 :作曲 平井保喜
http://bunbun.boo.jp/
「おけらの唱歌」→右の
部省編纂教科書(戦後)/3年生の音楽 22曲(昭22年)
解らなければ上の窓で検索してください。
「かどのポスト」(おけら全体)
投稿: なち | 2010年9月15日 (水) 08時08分
開きませんね。http://bunbun.boo.jp/
「うたごえサークルおけら」か
「かどのポストに 今朝入れた」で検索してくまださい。
投稿: なち | 2010年9月15日 (水) 08時16分
なち様
二度にわたる貴重なご教示ありがとうございました。
曲名「手紙」作詞「勝承夫」作曲「平井保喜」、赤いポストを「かどのポスト」ということも。
そして名前で検索しましたところ、昭和22年5月15日東京書籍発行の文部省音楽教科書収録曲№20に載っていたことや、名曲の“平城山”を作曲した平井康三郎は本名平井保喜であることも知りました。
9月5日薬師寺での<奈良平城遷都1300年祭>関連では、無我の境地で心豊かに“平城山”を奉納演奏をすることが出来ました。
このプログで更に生涯学習等を高めたいと思っています。
投稿: 尾谷 光紀 | 2010年9月17日 (金) 09時45分
この歌を聴くと、私は昭和30年代に過ごした自分の部屋に心が戻っていきます。一人夜更けに机に向かっていると、夜汽車の汽笛が聞こえてきます。ガタンゴトンという轍の響きに、遠くの大学の寮にいる人を思い、手紙を書きます。万葉集の相聞歌を番号で添えます。巻八の千五百番」などなど・・折り返し達筆なインクの文字の彼から返事がきます。今思い返せば、なんと幸せな時代だったことでしょう。もう、今は彼もいない。夜汽車の汽笛も聞こえない。ただ、彼の手紙の文字と愛の言葉だけが忘れずに私の心の中にあります。夢のような日々でした。夢に会いに夜汽車に乗ってみたいです。
投稿: ハコベの花 | 2010年10月 2日 (土) 22時08分
なち様
再三のご教示をいただき全て分かりました。
手 紙 作詞 勝 承夫 作曲 平井保喜
1. かどのポストに今朝入れた おねえさまへのお手紙は
今頃どこを行くのだろう 長い鉄橋青い海 きっとうれしい汽車の旅
2. 黒いかばんに入れられて 明日はまだ見ぬなつかしい
南の町をとおるだろ 届いたならばおねえさま きっとニコニコお読みでしょう
そしてメロデイも分かりましたので、島根に帰郷した際にはお墓の前で姉達とこの歌を歌います。
二人姉妹で17~8歳で山深い田舎に嫁いだ母は、共通するこの歌に魅せられたのではと・・・。
なちさん! そして個人的な思いを載せて下さいました二木先生、本当にありがとうございました。
投稿: 尾谷 光紀 | 2010年10月14日 (木) 22時30分
皆さん!この歌を今日初めて原語で聴きました!
NHK衛星2で13:00から1956年に制作された『菩提樹Die Trapp Familie』という映画で、主役の修道女が7人の子持ちの元海軍宅へ家庭教師に行き初めて歌ったのは「夜汽車」でした。他に「キラキラ星(フランス民謡)」「蝶々(スペイン民謡)」『菩提樹(シューベルト)」「ブラームスの子守歌(ブラームス)」等をすべてドイツ語で。
そして驚いたのは、テレビ大阪の放映で18:30から1965年に制作された『サウンド・オブ・ミュージック』、過去に数回観ておりますが『菩提樹』とストーリーが全く同じで後半から何故か観るのを止めました。
『サウンド~』は『菩提樹』のオリジナル版なのですか?
それにしても日本語での『夜汽車』はいいですね・・・。
投稿: 尾谷 光紀 | 2011年1月 4日 (火) 22時44分
私はこの曲は、小学校の3年生の時に習ったかと思います。
盲学校は、ほとんど全寮制みたいな所でした。
春、夏、冬の休みには、壱岐の実家に返っていました。
修行式が終わり、夜の遅くまで、寮にいた後、長崎駅から、23時3分の各駅停車の門司港行きの鈍行列車に乗り、5時24分頃、博多駅に降りていました。
寮にいた頃は、夜、遅くに、その列車が通る音を聞きながら、古里、壱岐を良く思いだしていました。
ポーっと言う、汽笛の音、線路を走る、客車の音。
今でも脳裏に浮かんで来ます。
その列車も今はもう無くなってしまいました。
いよいよ、長崎にも、新幹線がやって来ます。
時代は、流れる物なんですね。
投稿: 殿川 | 2012年10月11日 (木) 14時55分
殿川 様
子どもの頃の記憶、とりわけ父母の待つ田舎へ帰りたい思いは強いんですね。夜汽車の時刻を 今でも正確におぼえているほどに。感動しました。
私の家の近くにも盲学校があり(神戸市垂水区)、全県一校、つまり兵庫県に一校しかないので 通学は 遠距離ゆえ 不可能で やはり 全寮制でした。知り合いの盲学校の先生が 親に会えない生徒のストレスや悩みなどを 話してくれたのを思い出しました。
殿川様は故郷に帰り 悠々の生活を切り開かれたのですね。(私が言うのも僭越ですが)たいしたものです。私は壱岐については 1 邪馬台国の時代、一支国があった 2 元寇の時 多大な被害を被った 3 現在、うまい焼酎がある ぐらいしか知りませんが 今度福岡へいくことがあれば 時間を作って、壱岐の「マッサージ湯元」に行ってみたいです。そして殿川様と話をしたいです。
投稿: 越村 南 | 2012年10月12日 (金) 00時27分
80年代の音楽の教科書にも載ってましたね。
(90年代もあったりして)
自分が出会ったのは小四のそれでした。
音楽の授業で教科書なんてまず使いません。
この『夜汽車』も授業では扱わず、頭の中で再生したのみでした。
そういった「授業でやらず」にの中にかえって印象に残る楽曲があったものです。
『夜汽車』も、そんな曲のひとつです。
投稿: takama | 2013年5月 7日 (火) 02時15分
昭和40年代初め、小学校の5年か6年の頃に習った「夜汽車」、とっても懐かしいです。
でも、この歌がドイツ民謡だったなんて夢にも思いませんでした。
さっそくYouTubeでドイツ語の’Wenn ich ein Voglein war' で検索して歌を聴いてみました。
ドイツ語の歌も味合いがあって素晴らしいですね!
ところで'Munchner Frauenchor: Wenn ich ein Voglein war 2002' という聖歌隊が歌う動画に、作曲:Johann Friedrich Reichardt(1752-1814) と書いてありました。ドイツ民謡ではないのかしら?
投稿: あんこ | 2013年7月10日 (水) 17時52分
投稿: taka-shiz | 2014年9月 3日 (水) 22時44分
「夜汽車」、とても懐かしい歌です。 小学生だった頃、 この歌を歌いながら近くの小高い丘に上って、薄暮の中 夜汽車が通って行くのをよく眺めたものでした。 一人で眺めたものでした。 今考えるとちょっと寂しい気持ちの時だったのかもしれません。
遠い遠い昔のことです。
投稿: あきぽん | 2015年6月16日 (火) 20時21分
30年前、ありました、四年生の音楽の教科書に。
どの出版社のものか忘れましたけど。
昭和58年度~60年度のバージョン(57年版?)です。
載ってただけでなく、授業でやりました。
実はそれ、珍しいことです。
音楽の授業というのは教科書はほとんど使わず、
独自のプリントやらで習ってましたから。
で、教科書には楽譜も歌詞も掲載されておらず、
「レコードを音楽室で聴いた」というものです。
その際ひどく印象に残った曲で、授業内容を30年経っても覚えてるワケです。
投稿: ホスセリ | 2015年11月15日 (日) 01時21分
60年くらい前辺鄙な海辺に住んでいましたから、夜汽車は近くにありませんでしたが、その歌を唱いながらロマンチックな風景を空想していて、今でもその空想がくっきりと脳裏に浮かんできます。灯がいっぱいの現代ではそういう風景がなくなって、子供たちはこの歌を聞いてもそういう空想はできないだろう、歌も消えていくのだろう、と思うと寂しいです。
投稿: 松岡かおる | 2016年6月20日 (月) 09時11分
「夜汽車」の歌を聞いてビックリしました。
ドドド ミレド ミミミ ソファミ ソファミレ ♪
ミィドシ ドレミ ファミレ ミファソ ソファミレド ♪
だけ覚えていました。
(ドレミ・・の間違いがあるかもしれません・・)
小学生の頃教わったこの曲の「題名も歌詞」を忘れていました。
最近 草笛を覚え「老人ホーム」などでボランティア演奏をしています。二木先生のお陰でドイツ民謡「夜汽車」を知りましたので、心を込めて草笛演奏できそうです。
有難うございました。
投稿: けん | 2016年6月21日 (火) 10時38分
1950年代の後半、日本列島の南端にあった中学で。東京からの転校生が、下ってくる車中で、深夜一人目覚めて「ああ、このまま自分は東京を離れていくんだなあ」と考えていたとしみじみ述懐していたことを思い出します。大阪東京へは20時間、30時間とかかりました。1960年代は寝台車の切符は何時間も並ばねば買えず、その寝台車は揺れて寝苦しく、酔ったりもし、それならいっそと座っていく急行を利用しましたが、大阪駅は始発から酒とタバコのにおいが立ち込め、うら若い乙女にはうとましい空気でした。暗い窓辺に寄ってたまに現れる孤灯を眺めていると、人生の闇が自分の前途に待っているような気がしたものです。故郷のうちにいて夜汽車の汽笛聞く時代は二度と帰らぬ幸せな時代でした。
投稿: Bianca | 2016年6月22日 (水) 11時51分
こどもの頃や若い時代には、どうして遠い町や見知らぬ土地への憧れが強いのでしょう。これは、きっと原始時代のホモ・サピエンスが狩猟や採集で移動していた頃に培われた、遺伝子のしわざでしょうね。それにしても、作詞家 勝承夫(かつよしお)は原詩「恋の歌」から、まったく縁のない「夜汽車」という、こどもの憧れや夢の詩を紡ぎだしたのですから、たいしたものです。
こどもの頃、わたしの家は、海岸線を走る信越線のすぐ脇にある、小高い丘の上にありました。丘の下にはトンネルがあって、上りの列車がトンネルに入るときには「ボー」という軽い汽笛が聞こえました。当時、信越線はまだ電化も、複線化もされていませんでしたし、上り列車の場合、勾配がトンネルに向かって下っていましたから、SLの軽い汽笛だったのです。とくに、夜、寝静まった頃に通過する上り夜行列車の汽笛と「カタカタ」という通過音は、こどもごころに「旅」への欲求と遠い町への憧れをかきたててくれました。「上野行」や「大阪行」の名板を付けた列車も走っていましたから、見知らぬ大都会への憧れは募るばかりでした。実際に憧れた大都会に住んでみれば、「憧れ」と「現実」との落差は大きく、幻滅を感じることが多かったのですが。
投稿: ひろし | 2016年6月23日 (木) 13時58分
夜の10時過ぎ、京都駅の山陰線のホームに立っていました。正月休みでふるさとの我が家に帰るのです。
夜の闇の中、ホームの明かりに照らされて蒸気機関車が鎮座していました。車体の下部からシューシューと白い蒸気を吹き出し、時折ボーと汽笛を鳴らして「準備万端、もう出発するぞ」と言わんばかりです。寒さに安物のコートの襟を締め、これからの14時間で、我が家に帰るんだ、と身震いしていました。ホームには丸い時計がぶら下がっていました。やがて針が出発の時刻をさすと、ベルがけたたましく鳴り響きました。
もし私のそばに見送りの女性でも立っていたらきっと映画のワンシーンにでも成り得たでしょう。
実は私は田舎へ帰りたくはなかったのです。予備校の成績も振るわなかったし、希望の大学に受かりそうにもありません。気持ちがこんなに不安な状態で田舎の家族に逢いたくはなかったのです。しかし、正月は食堂も休みだし、下宿のおばさんも「yokoさん、お正月には帰るんでしょっ!」とせかされて、半ば追い出されてしまったのです。
列車が出発すると、私の隣に座っていた男性が「ネェ、ネェ、向こうの席に移りませんか?」と話しかけてきました。彼が指す方向を見ると若い女性が二人座っていてその前の席が空いています。もちろん私に異存はありません。彼は一人で割り込む勇気はないが私と一緒だと彼女たちの警戒心も解けるだろうと思ったのでしょう。私の取り柄といえば、唯一悪人顔してないという位のものですから・・・。
彼は「京都大学の二年生です」と自己紹介しました。彼女たちは名のりませんでした。私も自分の不安定な状況に自信もなく予備校生であるなどとは名乗りませんでした。
彼は話のリード役でした。趣味、スポーツ、芸能、文学なんでもござれで、時折示す細かい知識に驚かされました。趣味もなくスポーツもダメで、高校時代から読む本と言ったら受験の参考書程度でしかない私には皆の話題に付いて行けません。ですが私も驚き感心しうなずきながら皆の話を楽しんでいました。
しかし、ずっと聞き役であるのも辛いものです。ふと気がつくと互いの目を合せて話をはずませているのは彼女たちと彼だけであることが分かりました。私は浮いていたのです。しだいに居心地悪く感じました。もういいよ、もううんざりだ・・・と思うようになりました。
そのうち車内がざわつき始め列車が停車しました。夜の12時頃であったと思います。ドヤドヤとかなりの数の人が下車して行きました。彼女たちもその京大生も降りてゆきました。それがその夜の最後の停車駅であったようです。福知山だったのでしょうか。列車はその後どの駅にも停車することなく、車内に静寂が戻りました。
私は再び「田舎には帰りたくない、家族に会いたくない」という思いに襲われました。夜汽車はふさぎこんでいる予備校生を乗せひたすら夜の闇の中を故郷へと走り続けました。
思い返してみますと我が家ではお母さんとお婆ちゃんがまだかまだかと首を長くして出来の悪い私の帰りを待ちわびていたのだろう、と思います。
長くてすみません。50年前の夜汽車の旅でした。
投稿: yoko | 2016年6月27日 (月) 13時42分
「ポ-ッ!」とキレの良い、抜けるような音で山合いの奥まで響き渡る、透き通った音の汽笛は、気持ちの良いものでした。初めゆっくり、徐々にスピ-ドを増して走り出す様はとても爽快でした。小学校入学前の頃のことです。祖母と一緒に夜行列車に乗り、東京へ初めて出かけました。列車の中では、靴を脱いで床に新聞紙を敷いて、足をのばした開放感は心地よいものでした。次の日、朝早く、東京へ。少しの旅の疲れと眠たさに朝の陽がさし、新鮮な空気。「これが東京か-」とワクワクしたおしゃまな女の子のようでした。お鼻の内が黒くなるのもここで体験済みです。特別SLマニアではありませんが、「ポ-ッ!」と「シュッシュッ」の音を聞きながら目を閉じているとふわっ・・とした感じになります。近く数年のうちにSLは走らなくなり、汽笛は聞こえず、静かさに淋しい気持ちになりました。そんな記憶があります。小学校で教えていただいたときは1日で、しかもさーっと通り過ぎたのを覚えています。私はヤマハ音学教室で丁度習ったばかりだったので「あ!おなじ曲だ」とうれしかったのに・・。その時の教本には「ことりだったら」という題で習ったとおもいます。
「ことりだったら はねがあったら いいだろな とおくへこした みーちゃんのうちに あいにいく」
と子供用にやさしく訳してありました。
投稿: junko | 2017年4月10日 (月) 11時58分
夜汽車というものは、鉄道が走っていない南の島で生まれ育った私にとっては憧れの最たるものでした。
私が汽車に初めて乗ったのは、小学6年の修学旅行の時です。
いなかのデコボコ道をオンボロバスに揺られる感覚に慣れてしまっている私としては、滑り出すように発車した汽車の動きは
まさに驚きでした。 たった一駅間の乗車でしたが、とても興奮したのを憶えています。 蒸気に乗ったのはその時だけですね。夜行列車は急行、特急寝台と何度か利用しましたが、やはり車窓風景は旅情溢れるものがありました。
豪華な寝台特急は現在でも走っていますが、夜行急行とか
復活させて、「のんびりズム」を尊重して欲しいなぁと思います。
管理人様のイラストを拝見してると、まるで一幅の水墨日本画を観てるようで、心が穏やかになります。
ほかのページのイラストでもそうですが、素朴な、プリミティブな描線が心地よくて良いなぁと感じます。 また配色も、殊にグラデーションのセンスが素晴しいなぁ…と。
昔はエアブラシ技法での表現など、大変な苦労仕事でしたけど、Macのお陰で制作者のセンス・意図などを充分に伝えられるようになり、いいことだと思っています。
楽しませてください。
投稿: かせい | 2018年5月20日 (日) 22時05分
二木先生!ロマンチックな素敵な絵ですね!!
この絵を拝見してすぐ、我が身を重ね胸に迫る想いと共に、
以下のような駄文が浮かびました。
『夜汽車』
駅を出ると直ぐに急勾配の登り坂!
くねくねと山を回りトンネルへと長く続く線路・・・
あの山の向こうには愛しいあのひとが居る
今、僕は愛しているあのひとに逢うため、この夜汽車に乗っている。
それも機関車のすぐ後ろの一両目に。 煙くないかって???
煙も煤も関係ない。 一ミリでも近くあのひとの傍に行きたい。
一秒でも早くあのひとに逢いたい!!
蒸気機関車よ!大変だろうが頑張ってくれ!!
石炭をもっと焚いて!! 蒸気圧を上げて・・・・・
頑張れ! 頑張れ!!僕達の愛の為に頑張ってくれ!!
山を越えてしまえばあの満月が照らす
明るい愛の園にあのひとがいる♪♪♪
ぼォーーー~~~~~ォ
◇曲への投稿でなく済みません。
私は現地に行って確認したわけでは有りませんので、あくまでも聞きかじりと想像ですが、岩手の釜石線(釜石~花巻)の『陸中大橋駅』を過ぎると間もなくトンネルが有り、何かそこのイメージを感じさせるものが有るような気がします。
今はディーゼルカーに代わっていると思いますが、昔は蒸気機関車だったので機関士への煙害を防ぐために、トンネルの下の入り口に大きな扉を付け、列車が全部トンネルに入るとその扉を閉めたそうです
すると列車後部が真空状態になり、煙が後ろへと早く流れて行き、乗務員も乗客も煙での苦しみが薄れたそうです。
私は音楽も鉄道も・・・アノヒトも、大好きです。
投稿: けい。 | 2019年11月 7日 (木) 19時20分
初めて投稿します。長崎市在住の60代後半の者です。私は長崎市の北東の外れ近くの山村に生まれ育ちました。子供の頃から童謡や唱歌が好きで、特に四季折々の景物を歌ったものを今でも好んで聞きます。春の小川、朧月夜、若葉、夏は来ぬ、紅葉、冬景色、たきび、などです。夜汽車は4年の音楽の教科書に載っていました。山一つ隔てた町を長崎本線が通っており、夜汽車の汽笛の音がよく聞こえました。高校生の頃、童話を書いていましたが、その中の一編にこの歌を織り込みました。そして、二番までの歌詞に、次のような三番の歌詞を作って入れた記憶があります。
山のかなた 走る夜汽車
いつかは ここに走れ
小さな願い 乗せて行く
夜汽車を好きな方が沢山いらっしゃるようで、嬉しく思っています。
投稿: sitaru | 2020年8月 3日 (月) 01時59分