宗谷岬
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 流氷とけて 春風吹いて 2 吹雪が晴れて 凍(しば)れがゆるみ 3 幸せ求め 最果ての地に |
《蛇足》 宗谷岬に特別の思い入れがあった船村徹は、何度か現地に足を運んでイメージ作りをして、それを曲に表しました。
昭和49年(1974)、稚内(わっかない)在住の作詞家・吉田弘がこれに歌詞をつけました。彼は、歌にありがちな嘘はいっさい排除し、地元の人たちに長く愛唱されるような歌を、と考えて作詞したといいます。
その結果、哀調を帯びた船村演歌とはまったく違う、春風のように暖かく伸びやかなフォークソングができあがりました。
同年、千葉紘子が吹き込みましたが、一般には広まらず、ほとんど地元だけで歌われていました。
昭和51年(1976)、NHK旭川放送局のスタッフが宗谷に取材に行った折、この歌を発掘、同年4月、ダ・カーポの歌で「みんなのうた」の1曲として放送され、全国に知られるようになりました。
宗谷岬は日本の実効支配が及んでいるうちでは最北端の地ということで、もともと旅行客の多い場所でしたが、この歌のヒットにより、訪問者が激増したといわれます。
3番のピリカはアイヌ語で「美しい」の意。
(↑と書きましたが、ピリカは名詞でしょうね。下記佐藤裕司さんと☆諒さんのコメントご覧ください。「波もピリカ娘が子守をしてくれるかのように」ととるのが妥当のような気がします。2017年12月28日追記)
(二木紘三)
コメント
ダカーポの 大ファンです。
歌のほうは 弾むような声が素晴らしい。
二木先生の 伴奏は
いままで 聞いたことがないような
演奏ですね。
有難うございます。
投稿: 二宮 博 | 2008年3月21日 (金) 22時08分
オルゴ-ルのような感じで良いですねぇ。。。
投稿: sunday | 2008年3月24日 (月) 06時58分
二木さん、ご無沙汰しておりました。「宗谷岬」ゆったりとしたリズムで素敵な曲に仕上がってますね。春の海ひねもすのたりのたりかな(与謝蕪村)の句にあるような雰囲気がただよいます。宗谷岬には何度か足を運びましたが、間宮林蔵がサハリンの方角を指差している大きな像が印象に残っています。
沖を通る外国船は、どこを目指しているのでしょうか。今、初孫の御守りでサンフランシスコ湾岸のBerkeleyに来ています。80歳前後の日系2世の方々とシニアセンターで交流しました。みなさん、第二次大戦中はキャンプに強制収容された経験をお持ちです。それと、日本への強制送還を受けた方もおられました。日本語を話す機会を月二回の集まりでもっていらっしゃるのです。一緒に日本民謡を歌ってきました。もちろん、かっぽれも踊り、とても喜んでいただけました。では、又。
投稿: tomoe_saloon | 2008年3月27日 (木) 01時06分
カラオケのお友達から二木先生の事をお聞きして私も
歌が大好きなので失礼乍らコメントさせて頂きました。
お気に入りに入れさせて貰いましたのでこれからも
暇を見つけて聴かせて頂きます。
投稿: 川上 槙子 | 2008年4月 6日 (日) 16時49分
この歌は千葉紘子も歌ったのですね。聞いた事がありません。千葉と言えば名曲「折鶴」ですよね。
投稿: M.U | 2008年9月15日 (月) 13時13分
「知床旅情」の(2)・・・・<岩かげによればピリカが笑う>にもあります“ピリカ”とは何?と最近まで知らなかったのですが、二木先生のアイヌ語で『美しい』と言う意味だとの解説に、目から鱗で・・・娘さんが笑ったので美しいのかもともと美しかったのか・・・
・・・波もピリカの子守のように・・・も『美しい』を置き換え想像すれば、より広くて深いロマンが思われこの歌がとても好きになりました。
見るべきものは二木先生の<蛇足>!有難う御座いました。
投稿: 尾谷 光紀 | 2009年1月13日 (火) 22時23分
昨年の今頃、私は脳梗塞で入院中でした。娘が朝日新聞日曜版を届けてくれました。歌の旅人は宗谷岬です。ダ・カーポの明るい歌声は大好きですが、それと共に掲載の写真に写っているのはサハリンの南端です。遥かに霞んではいますが、あそこは紛れもなく、小生の生まれた大泊町。いや~、懐かしい。この歌が尚一層好きになりました。
投稿: 大門坊 | 2009年6月11日 (木) 00時46分
「ピリカ」は確かにアイヌ語で「美しい」という意味ですが、知床旅情もこの歌でも北日本の海沿いで見られる海鳥の「エトピリカ」を「ピリカ」と略して歌っているのだと思います。「エト」は「くちばし」の意味でその名の通りくちばしの美しい鳥です。宗谷岬付近や知床半島ではポピュラーで愛されている鳥です。海中を飛ぶようにすばやく泳ぐのを水族館で見た事があります。
投稿: 佐藤裕司 | 2009年6月18日 (木) 23時03分
ピリカの解釈についてですが、『知床旅情』のピリカはピリカメノコ(美しい女)の略でしょう。
『宗谷岬』の方はアイヌに伝わるわらべ唄『ピリカピリカ』を指しているのだろうと思います。
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 19時51分
昭和52年 北海道に行ったとき、稚内に向かう観光バスの車中ではじめて「宗谷岬」を耳にしました。
北海道に詳しく日頃は無口な先輩が口ずさんでいる姿が印象に残っています。
宗谷岬に行くためバスを降りると、ダ・カーポのきれいな歌声がお店から聞こえてきました。
広々とした宗谷海峡の青い海、夏なのに優しく肌をなでる海風、樹木がなく草に覆われたなだらかな丘・・に歓迎されながら 澄み切った温かい歌声を耳にしますと・・「日本人で良かった・・」と感慨にふけりました。
それは 前夜、北方領土から命からがら引揚げてきた友人のお父さんが「恵まれていた北方領土での生活」の話をしてくれたことが耳に残っていたからです。
投稿: けん | 2016年8月10日 (水) 10時22分
度々のコメント申し訳ありません。
青春時代に憧れて何度も旅をした北海道に纏わる歌のコメントが続いて嬉しく思います。
道北では、宗谷岬にはあまり印象が残っていないのですが、稚内港に残る樺太への連絡船のドックの跡と途中で途切れる線路には感慨深いものがありました。
ところで、私が宗谷岬を訪れた年(1974年)はダカーポのリバイバル前で、他の歌手の歌声が流されていましたが、千葉紘子さんではなかったと記憶しています。この歌には1972年発売の黒木真理という人のレコードが存在しているようです。
http://blogs.yahoo.co.jp/rahyale/35154489.html
投稿: Yoshi | 2016年8月10日 (水) 17時02分
宗谷岬には行ったことがありません。札幌に行ったとき樺太の郵便局を舞台にした「死んでもブレストをはずすな」という「氷雪の門」の話を聞き感動しました。
この話を「氷雪の門」は稚内にあると聞きました。またこの話は行かないとよく分からないものと思います。
宗谷岬という言葉を聞くと「氷雪の門」が連想されます。
投稿: 今でも青春 | 2016年8月11日 (木) 22時14分
この曲のオリジナルの歌手ですが、先日コメントしたように1972年レコードの黒木真理さんだと思われます。調べた範囲で千葉紘子さんのコピーが1980年です。http://www.chibahiroko.com/data/profile/index.html
投稿: Yoshi | 2016年8月16日 (火) 09時49分
二木先生 こんばんは
また 勝手な文をつづりたくなりました
申し訳ありません
汚濁にまみれた 日本 全く良くなる兆候もみられませんね
もりかけ スパ リニア またまた ジャパンライフ まで 政権の中枢が全部からんでいます 税金をたれながしていながら庶民には増税を強いる
戦略特区と云う名の 国民の財産を吸い上げるためにおかれた会議 自分の親しいものにだけ利益を提供する機関
アメリカから不必要な 不良品を買うための防衛予算
自分に逆らう沖縄への補助金は削減
熊本の復興も全く進んでいない
いやだ いやだ この国はどうなってしまったのだろう
正義 公平 という言葉が消えてしまい 悪人が何をしても不起訴 したい放題 三権分立は建前だけとなりさがりました 総理大臣が国会で 自分は立法府の長 なんて発言するくらいですよね そんなレベルの人間が大臣????? マスコミも 偏向報道しかしない
機密費をもらい すしを食わしてもらっている人間がキャスター???政府応援団 ちょっと間違っているのではーーー
そのなかで 宗谷岬 をききながら
悪が駆逐され 清らかな春がきてくれることを強く願いながら この すばらしい曲に浸っています
きれいな春 待っているよ 僕にでもできることがあれば 何か行動したいですね
北海道のアルバムを引きずりだして 一回だけ訪れた道北に思いをはせています
昭和42年 8月4日に稚内から利尻に渡りました
(残念ながら 稚内から 宗谷岬には行ってないですね)
5日 には早朝から 利尻富士を攻撃
ほぼ 4時間で登頂しています
山頂の湧き水で とかして飲んだインスタントジュースは 格別な味でした (当時は インスタントの粉ジュースが 主流だったです)
6 7日 は礼文島 桃岩のお花畑 天国に遊ぶとは
このような 時をいうのでしょう
7 日には 稚内にもどっています
毬藻の歌 で 越村 南さまが 孫娘と阿寒に行きたい と書いておられましたが 是非行ってください 一人旅もいいですが 孫さんともいいでしょうね
僕の方は 11日に阿寒につき 湖畔のキャンプ場で一泊しています
その後 摩周湖 知床とめぐり
その北海道の帰路 友と別れて 21日には はじめての 平泉 (高館 中尊寺 毛越寺 無量光院)
すばらしい 旅でした
きれいな思い出に涙する 自己陶酔でもしないと
やっておれない 毎日です
投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年12月27日 (水) 22時14分
Yoshi さんが書かれていますが、
昭和49年に歌詞が出来る前に、レコードが昭和47年に出るのは変ですね。
http://www.columbia-songs.co.jp/contents/pickup_songs.html
https://ameblo.jp/lamanbow/archive1-201003.html
http://record-syowa.blog.so-net.ne.jp/2015-12-11-4
投稿: なち | 2017年12月28日 (木) 13時04分
佐藤裕司さんへ、
私も『ピリカ』は海鳥のエトピリカの略と思います。
能勢の赤ひげさんへ、
こんなひどい世の中になるなんて思いもよらなかったです。為政者には今後は利益相反がないことを宣誓したうえで行動してほしいものです。
投稿: ザジ | 2017年12月28日 (木) 14時37分
ダ・カーポには「落ち葉しぐれの三浦洸一さん」に通じる
品格があります。
この歌が船村徹さん作曲であることを改めて認識、感慨深いものがあります。
また、 ここぞという時に現れる「なち様」にも最近は
親近感を覚えます。親近感ではなくやはり 月光仮面や
伊達直人的な存在への憧れかもしれませんね。
能勢の赤ひげ様も戻って来られ、二木先生の蛇足、皆様との有意義な交流が来年、再来年とつづきますよう祈っております。二木先生 ご自愛なされて 名曲と名言を提供ください。
投稿: りんご | 2017年12月28日 (木) 16時35分
能勢の赤ひげ 様、投稿の他の皆様
最近、筆を折る様な投稿があり、心配していました。
復帰されて、良かったです。
言われている事は、ほとんど同感です。
栃木県塩谷町出身の船村徹さんが、こんな歌も作曲されていたのですね。初期の頃、私の今、住んでいる茨城県日立市から近い笠間市出身の作詞家、高野公男さんと組んで、「別れの一本杉」等を作曲されました。高野さんは、若くして結核で亡くなられ、船村さんも今年亡くなられました。笠間市の高野さんの墓には、毎年、お参りされていた様です。
時々、「男の友情」と言う曲を聞いて、両者を偲んでいます。
投稿: 竹永尚義 | 2017年12月29日 (金) 18時05分
二木先生
こんばんは
宗谷岬 船村徹【本人歌唱】を 聞いていて
先生のページに至りました
歌はこころでうたうもの とアルバムに書かれています
ほんとそうですよね 「こころ」です
一年半前に コメントした 自分の投稿 残っていましたね
いやだ いやだ この国はどうなってしまったのだろう
時間だけ過ぎていますが 社会 明るさはないですね
悪く悪く進んでいます
真っ黒な アメーバーのような 酷く汚らわしい
空気 権力に覆われた 大阪
いや 日本全体
福祉 医療行政 改革の名の 改悪
一つの例は 高齢の方を救急で依頼すること
難しいですよ
投稿: 能勢の赤ひげ | 2019年4月18日 (木) 21時52分
Yoshi さんが聴かれた黒木真理(まこと)さんのオリジナル、
歌声はどんなのかと探していたらありました。
千葉紘子さんでない、ダ・カーポでもない、芹洋子さんでもなく、
一度聴いたら覚えられる、宗谷岬で怒涛逆巻くような声ですね。
投稿: なち | 2020年7月26日 (日) 14時43分
続けてすみません。
https://www.neowing.co.jp/product/COCP-38058
検索すると出ると思います。
「レコード・デビュー60周年記念 (決定盤)演歌の心 船村徹作品集 (下)」
投稿: なち | 2020年7月26日 (日) 15時19分
蛇足にありましたように、みんなの歌で初めて聴いた時、映像とともに歌詞もいいなぁと思いました。誰が作曲したのかと次回の放映で見ると船村徹でした。え?と思いました。どっぷり演歌の作曲者がこんな歌も作るんだと驚きました。
投稿: konoha | 2020年7月26日 (日) 19時32分
なちさま
こんばんは
ご無沙汰いたしております
宗谷岬 ほんとうに いい曲です
50年余り前の
利尻 と 礼文の記憶が揺すぶられました
今日は 昼過ぎ テレビに浸っておりました
相撲 野球 と 京都・祇園 紗月の四季
丸顔でとても人の好さそうな可愛い 祇園甲部で
一番人気のある芸妓の 紗月さんを主題とし
京都の 伝統 四季 祇園の芸 をからませ綴っていく
綺麗な番組だった
最近は 京の舞妓芸妓さんは 京都の子は少ないよね
などと考えていると
何と 利尻岳をバックに 利尻の浜で
友人の漁師さんと 語る紗月さんが映っていて
この子は 利尻の子なんだと認識した次第です
人間の運命とは 不思議なものですね
一人一人に それぞれの人生があり
悩み 苦しみ 楽しみ 笑い
生きる
考えさせられました
投稿: 能勢の赤ひげ | 2020年7月26日 (日) 20時01分
香西かおりさんが唄う稚内から礼文・利尻へ向かう連絡船の女一人旅の歌(題名は失念しました)が「宗谷岬」と重なっています。礼文島は皆既日食でその名を知りました。小学校3・4年生のころかと思います。夏の北九州・佐賀県東松浦郡湊村(現在は唐津市湊町)の磯で太陽が小さくなってきて冷たい海風に裸同然の身がさらされ、寒くてふるえたことを覚えています。昨日からのNHKの深夜便「明日への言葉」で礼文在住の写真家・エッセイストの杣田美野里さんへのインタビュウが昨年の10月に続いて再放送されました。聞き手は深夜便のアンカー村上里和さんです。再放送を希望する多くのリスナーに応えたものです。杣田美野里さんは惜しくも病に倒れ放送直前に不治の病に倒れ、最後に発刊された「キャンサーギフト」の写真・エッセイ集が遺作となたそうです。「キャンサーギフト」には末期がんの心境を見事に織り込んだ多くの短歌があり、ご本人のリクエストで村上里和さんが何首か朗詠されていたのを印象深く拝聴しました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2022年1月14日 (金) 15時19分
写真家・エッセイストの杣田美野里さんの遺作となった「キャンサーギフト」の写真・エッセイ集が手にはいりました。「礼文の花降る丘へ」の副題が添えてあります。エッセイ集の帯に「がん患者であることは、けっして幸せなことではありません。でも、命の限界を知り、いろいろなことを諦めたその後で、当たり前と感じたていたものが輝きを増すことがあるのだと思います。」とあります。
添えられた短歌に”「宇宙は優しいよ」と石一つ多感な心に置きし人あり”とありました。彼女・杣田さんは美術大学を卒業したものの、自分の目標が見つからず、友人の紹介で子供向けの新聞社にアルバイトに入り「宇宙は優しいよ」といってくれた漫画家と仕事机を並べます。彼との出会です。
「思いっきり仕事をして、思いっきり遊ぶんだ」という彼の言葉は杣田美野里さんの人生観となりました・・・とエッセイにつづられています。彼は67歳の若さで大腸がんで他界されたそうですが、添いとげられなかった若い彼女にとっては心痛如何ばかりか、だったのでしょう。
彼女は一人、最北の島・礼文島を、一人、旅します。香西かおりの歌の題名は「最北航路」でした。この歌詞には若い女の悲痛な思いがにじみ出ています。歌詞には、あたかも杣田美野里さんの思いを代弁しているかのように思えてなりません。
わたしもキャンサーのひとりです。生涯にぜひとも『花咲く礼文島』を旅したいものです。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2022年2月 3日 (木) 13時44分