五木の子守唄
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
熊本県民謡、採譜・編曲:古関裕而
1 おどま盆ぎり盆ぎり 2 おどまかんじんかんじん 3 おどんがうっ死(ち)んちゅうて 4 蝉じゃごんせぬ 5 おどんがうっ死んだら 6 花はなんの花 |
《蛇足》 原曲は熊本県球磨(くま)郡五木(いつき)村の古謡。
長い間、地元の住民か民謡の専門家しか知らない曲でしたが、昭和25年(1950)、古関裕而が採譜・編曲して、NHKラジオの放送終了時に、自らハモンドオルガンを弾いて放送してから、全国に広まりました。
その後、民謡歌手の音丸や照菊が歌ってヒットし、多くの人びとに愛唱されるようになりました。
正調の『五木の子守唄』はコチラで聞くことができます。興味のある方はどうぞ。
子守唄には2種類あって、1つは赤ん坊を寝かしつけるための本来の子守唄、もう1つは子守り娘たちが不幸な境遇や仕事の辛さを歌った子守唄です。後者は正しくは守り子唄といいます。『五木の子守唄』は典型的な守り子唄です。
山深い五木村は、昔は一握りの地主が土地を所有し、村人の多くは地主の下で林業に従事するか、借り受けたわずかばかりの土地で焼き畑農業を営むほかありませんでした。
当然、彼らの生活は食うのがやっとで、子どもたちは7、8歳になると、口減らしのために、人吉や八代の豊かな商家や農家に奉公に出されました。奉公とはいうものの、「食べさせてもらうだけでよく、給金はいらない」という約束が普通だったといいます。
食べさせてもらうといっても、家族とは違う粗末な食べ物しか与えられず、子守りだけでなく、さまざまな用事をさせられました。女の子の場合は、無道ないたずらをされることもあったようです。
毎日の生活は、7,8歳から10歳前後の子どもが死を思うほどに、きつく、辛いものでした。
子どもたちは、そうした仕事の辛さや望郷の思いを即興的に歌うことによって、わずかな慰めを見いだしました。こうして成立したのが、『五木の子守唄』です。
長い時間をかけて積み重ねられてきたため、歌詞のヴァリアントは非常に多く、記録されているだけで70~80聯ほどもあるようです。歌う順序も言葉も、人によってかなり違います。
歌詞のヴァリアントは、熊本国府高等学校パソコン同好会のホームページに掲載されていますので、そちらをご覧ください。
五木村民の悲惨な状況は、敗戦後、GHQ(占領軍総司令部)の指令で実施された農地改革によってかなり解消されました。さらに、その後の高度経済成長のなかで、生活ぶりはよくなってきました。
しかし、その五木村も、遠からず村の中心部がダムの底に沈むことになっています。
上記の歌詞の意味を書いておきましょう。
1 子守り奉公もお盆で年季が明け、もうこの家にいないですむ。お盆が早く来れば、父母のいる故郷に早く戻れるのに……。
2 私たちの身なりは乞食と同じだ。あの人たちはお金持ちだから、上等の帯や着物を身につけている。
3 私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう。裏の松山で蝉がなくだけだろう。
4 泣くのは蝉ではなくて、妹だ。妹よ、泣かないでおくれ。お前のことが心配でならないから。
5 私が死んだら、人通りのある道の端に埋めてください。通る人たちがそれぞれに花を供えてくれるだろうから。
6 供えてもらう花は椿がいいな。閼伽水(あかみず)をもって墓参してくれる人がいなくても、雨が閼伽水の代わりになる。
各聯の最初に出てくる「おどま」は「私たち」、「おどん」は「私」という人称代名詞です。また、「かんじん」は正確には「勧進聖(かんじんひじり)」といい、僧形で物乞いをする人のことですが、要するに乞食です。
日本ではこのような無惨な児童労働はなくなりました。しかし、AA諸国のなかには、これと同じような状況が今も続いている国があることを胸に刻んでおきたいと思います。
(写真は戦前の五木村)。
(二木紘三)
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コメント
この子守唄の解釈を、他のブロがーの方としたことがあります。
その時はその方はとても物知りで、私の解釈に全部批判をしてきました。
でも、こちらを読んで、私の解釈が正しい事が分かり、胸につかえていたものが、消えました。
ありがとうございます。
私の子供達はこの歌でみんな眠りました。
その所為かどうかは分かりませんが、人の気持を必ず考える子達に育ってくれました。
いつ聞いてもいつまで聞いても、胸熱く聞いています。
それは、昔戦後も大分後の生まれですので、奉公こそありませんでしたが、辛い思いをして育ちました。
その頃を思い浮かべながら、涙して聞いています。
私は、色んな大きな病気や手術をしてきて今があり、重度のうつ病でもあります。
でも、とても癒されなみだとともに、なんともいえない苦しさが流れてくれるように感じます。いい曲を思い出しました。そしてこちらでこうして聞くことが出来るいま、とても幸せ感を味わう事が出来ています。
投稿: ぶー | 2008年5月28日 (水) 01時24分
悲しい素敵な歌です。でも、意味を改めてきちんとこちらで知り涙がでました。数知れぬちいさな子ども達のどうしようもない苦しみ悲しみ、想像するとやりきれなくなります。世界中のどの子どもたちにも味あわせてはいけない苦しみです。歌は歌って初めて歌。明日、友人達が来たらこの歌をフランシーヌの場合とあわせて解説付で無理やり聞かせてやるつもりです!”
投稿: 銀河の帝王 | 2008年5月31日 (土) 14時32分
この歌の原曲は朝鮮半島だそうです。馬族のため原曲はワルツのリズムで歌うそうです。
私は長野県伊那市在住ですが長野県人は熊本から来た民族だそうで、阿蘇の山麓の枝垂れ栗を天竜川を上り、足跡として南県境と辰野町に枝垂れ栗を残したそうです。
そう考えると熊本県との接点があります。
①桜肉を食べること(馬族ですからもっとも)
②蜂の子を食す
③上高地・諏訪のお舟祭り
④鳥居の作り方が海岸用であり、熊本の鳥居と類 似している。等です。
桜肉と言えば 福島県会津でも有名です。これは高遠藩主保科正之が会津に行き松平となりました。
有名な白虎隊に当時、高遠から出兵し戦死された若者もいたそうです。
伊那ではお葬式に天ぷら饅頭を食べますが、会津のお葬式にも天ぷら饅頭が出されるそうです。
朝鮮半島-熊本県-長野県-福島県会津と壮大な流れですね
投稿: 北原 | 2008年6月25日 (水) 20時34分
昭和29年都立高校の2年生でした。昼休み男女のクラスメートが輪になって歌っていました。私は福島県の中学3年の二学期を終了して東京の中学に転校し、その高校に入ったのでしたが、未だ山猿同然でした。
それまで聴いたことがない哀調しみじみの歌を耳にして、彼らに対する羨望と劣等感を感じたものでした。その後怪我がもとで故郷に戻るのですが、その頃芽生えた片思いを切なく思い出します。N.N
投稿: 福島県・70才・男性 | 2008年9月15日 (月) 12時58分
先日、川辺川ダム建設予定地の五木村に前原国交相が視察・懇談に訪れたとのニュースが流れましたが、深い山間を縫うように流れる清流と「子守娘」の彫刻が印象的でした。
遠い昔の子守娘たちは、五木村の子孫たちが、政・官・財による戦後のコンクリート行政に翻弄されているとは夢々思わなかったことでしょう。
それにしても「五木の子守唄」の歌詞と蛇足を目で追い、メロデイーを静かに聴いていると、自分の原風景が浮かんできます。
投稿: かんこどり | 2009年9月29日 (火) 18時51分
五木の子守唄はしばしば日本唯一の三拍子の子守唄と言われますが、ある人が調べたところ三拍子の子守唄は日本に30ほど有るそうです。
ただその半数以上が球磨川流域に集中しているので、その人はこう考えているそうです。
【豊臣秀吉の朝鮮遠征に加わった加藤清正は多くの朝鮮人捕虜を連れ帰った。この朝鮮人捕虜は球磨川の治水工事に投入された。彼らが故郷を偲んで歌った三拍子の歌は彼らの子孫やこの地域の人たちによって伝承され、この地域に三拍子の子守唄が多い理由になっている】
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 10時05分
おどん・・・人吉在住の小中学生の頃によく聞いた、同じ年頃の女の子達が自分をさして言う言葉でした。
おどま・・・おどみゃーと言ったと思います。
女の子が 私は・・・と言っています。
もう50年以上前聞いていた球磨/人吉の言葉です。
私達には 子供でもこの歌は始めっから女の子が、それも大変貧乏な家の女の子が、皆から離れ一歩下がって周りをうかがいながら、そして周りを羨みながら呪いながら歌っている とっても暗い切ない歌だと分かっていました。
このようなある意味とっても悲惨な歌詞の民謡は全国でもこれだけではないでしょうか。
東京で就職し 酒の席で 故郷の歌を・・・と言われとっても困った覚えがあります。
あの時東北の方々は皆さんとっても上手にお国の民謡を次々に歌いましたね。
今だったら解説しながら堂々と歌いますが、若かったんですねー、宴会の雰囲気に気を使いすぎました。
この歌を聴くと 人吉に「おくんち」「旧正月」に市内に出てきた周辺の町や村の人達を思い出します。
投稿: 昔の人吉人 | 2011年1月12日 (水) 17時19分
はじめまして、未曾有の東北地方太平洋沖大地震で日本国じゅうが、驚きと、悲しみにくれている中、偶然貴ブログに出会いました。これも偶然ですが3月11日のあの地震、大津波が起きる数時間前、過去にラジオから流れていた五木の子守唄を聞き、何とも言えない哀愁に心打たれたCD、「全国お国自慢民謡、九州。沖縄」を無差別を手に入れ聞いたのです。
五木の子守唄については何の知識もなかったし、唄自身も正確にきいたこともなかった。当然唄うことなんか絶対出来なかった私。それが、聞くほどに落涙。
音痴だと自他ともに許し絶対に歌を歌うことをしなかった私だったのに……。他人は私が唄うのを聞くと笑ったのでした。それほど下手だったのです。
そんな私が五木の子守唄のとりこになってしまい、その日からほとんど一日中、毎日、毎日CDを聞き、見よう見まねで歌い続けたのです。11日から今日(16日)まで、とうとう
完全に曲と歌詞を覚えうたえるようになったのです。
CDの五木の子守唄を唄っておられる男性歌手さんの淡々とした唄い方の中に零れおちる哀愁があって、どんなに聞いても、あきが来ないし、私をきりもなく唄いつづけさせました。
このような想いははじめてです。(ヤフーの知恵袋で問いても、その男性歌手さんのお名前はわかりませんでした)
そして、五木の子守唄のバックに潜む悲しい物語と差別の実態の残酷さがあったとわかり迫りくる哀愁はそれだったのだと理解しました。
この民謡をバックミュージックで流していると、聞くほどに、唄うほどに心やさしくなるのは不思議です。
ありがとうございました。
投稿: 遠藤 | 2011年3月16日 (水) 15時54分
このメロディ、この歌詞、『蛇足』を読ませていただき、涙して聞かせていただきました。ありがとうございます。
投稿: てんてん | 2011年8月20日 (土) 10時12分
『惜別の歌』について調べていたところ、偶然貴ブログに出会いました。そして『五木の子守唄』の欄にたどりつきました。2年前の夏、父が七十九歳で他界しました。自営業を営み、体一つで家族を養い、私たち兄弟を育ててくれました。酒好きで、ギャンブル好き、そしてわがままな人でしたが、情に厚く、商売人らしく人との付き合いを大切にする人でもありました。そして、本当に歌の好きな父でした。夜布団の中で、毎晩のように私が眠りにつくまでこの『五木の子守唄』を歌ってくれたことをいつも昨日のこともように思い出します。父との思い出は数多く私の心の中に今も生き続けていますが、どうしてもこの歌だけは特別なものとなっています。
気がつけばいつの間にか私も父親となって、二人の子供達にもやはりこの子守唄を歌いながら寝かしつけていました。子供たちは『おじいちゃんがパパに歌った歌を歌って。』と言ってくれたものです。
いつか、子供たちも大人になり、父となり、また母となった日には、私がずっと覚えていたように、そして歌ったように、私の孫たちにも歌い継いでくれるでしょうか。
いま、この下手な文章を書きながらも父の歌声が私の中ではっきりと聞こえています。
月日の流れの速さに感慨を覚えながら。。。
投稿: 和歌山県人 | 2012年2月13日 (月) 12時06分
「五木の子守唄」は貧しい家の娘達が創りだした歌で、人の心を打つものを持っていると思います。二木先生はとてもすばらしい解説をなさって下さっています。二木先生の解説のように理解することもできるのですが、この歌は掛け合い歌で、1番から6番のそれぞれは前半後半で別の話者の言葉と理解することもできます。そのような観点から、歌詞を解釈してみました。そうすると、「五木の子守唄」の少女達のたくましさも見えてくるように思います。
投稿: ruriko | 2013年3月15日 (金) 23時47分
関東人ですので九州の事は殆ど無知ですが、この歌の悲しさは能天気の私にも伝わってきます。方言が理解できなくて、詩の意味は余り分かりませんでしたが、丁寧な解説で理解できました。現在BSで再放送されている、ドラマ「おしん」を連想させます。現在の私の生活が経済的に苦しいなんて愚痴を言ったら、申し訳ないと思いました。農地解放が施行されるまでの小作人の苦しみは、想像を絶するものだったのでしょう。苦しい時はこの歌を思い出します。ありがとう御座いました。
投稿: 赤城山 | 2013年5月25日 (土) 10時53分
先のお方のおしんというなつかしい言葉に触発されて、コメントいたします。
私の、今住んでいる、ベトナム・ハノイの農村でも、おしんブームがすごかったようで、
おしんという言葉が、一般名詞の「家事労働」や、昔でいう「女中奉公」として使われています。
「今日は、一日中おしんで、疲れました」とか「おしんの仕事が見つかったので、
台湾に3年ほど出稼ぎにいきます」というふうに普通に会話されます。
あのドラマを見た人に聞けば「貧乏に負けずにがんばるところがすばらしい」といいます。
中には泣きながら見たという人もいます。
橋田壽賀子はすごいなあというよりも、アジア人の中にある感性の共通性を思います。
最後に一言です。
この歌は方言で歌われているため、歌詞の内容が、わかったつもりで実はわかっていないというところがありました。
<蛇足>で歌詞の意味を書いていただいでいるのは、おおいに助かります。
歌が明確になり、新しい命を得たかのようになりました。
いつもながらの、二木先生の地味にして大きな仕事、その一つだと思っています、
投稿: 越村 南 | 2013年5月26日 (日) 00時54分
2011年3月16日投稿の遠藤様 貴殿が聴いた歌は『石原裕次郎』の “ふるさと慕情”ではないでしょうか 実はこの歌で私も同じ体験しましたのでお知らせしているところです 違っているかもしれませんが、この『裕次郎』の曲・歌詞にも触れてください 涙しますよ
投稿: くろかつ | 2013年11月19日 (火) 04時53分
2年半おいて、続けて投稿します
と言いますのは、一度削除されていました石原裕次郎氏の歌う “ふるさと慕情” がyou tubeに再upされているからです しかも3つも……
民謡(巷間に唄われている)と一味違った奥深い哀愁を聴かせてくれます 『ふるさと慕情・石原裕次郎』で検索してください これを読まれた方にはぜひお奨めします
投稿: くろかつ | 2016年4月13日 (水) 21時14分
連日の熊本・大分の地震報道を見るたびに胸が
痛みます。
決して他人事とは思われません。
人は自然の力の前に何ができるのでしょうか」。
投稿: 修さん | 2016年4月18日 (月) 19時54分
「五木の子守唄」、子守唄の中に於いて、私の中では最高傑作のひとつだと捉えています!
今日は「蛇足」を読みながら、皆様から寄せられた貴重なコメントを何度も読み返しました。
蛇足末文の、「~しかしAA諸国のなかには、これと同じような状況が今も続いて国があることを胸に刻んでおきたい思います。」が、心に刺さります。
人には誰にも愛郷心があると思いますが、有名なこの子守唄を熊本県の民謡と捉えた時に、「五木の子守唄」にコメントされた方々の中に、「球磨人吉」に並々ならぬ強い思いを感じられた、お一人の方がおられます。
2009年12月28日(昔の人吉人様)が「五木の子守唄」へのご投稿文面には、この歌の内容を熟知されておられ、しかも説得力があり、球磨人吉への愛郷意識の強さを感じるものがありました。
私事で恐縮ですが、今年の2月28日、私が「緋牡丹博徒」へ投稿したおり、3月2日に(浜の望郷人様)からコメントを頂いた時のことが強く印象に残っているのです。
肥後にして肥後にあらず!球磨人吉の独特のなまりで語る、お竜さんのセリフを耳にされ、幼少の頃に育った故郷を想い出され、涙されたことなど!
そして末文に、人吉弁に言及して頂き、ありがとうございました!と結んであり、短い文面の中に、東京にお住まいになり、70代になられるという、この方の故郷への思いの深さを強く覚えました。
そんなコメントを拝読した時に、私は心を動かされ、思うままに、球磨郡五木村や人吉についてのWikipedia検索をしたり「五木の子守唄」動画を視聴したりしました。
私も少年の頃は、佐賀県にある、山々にかこまれた田舎で育っています。近所には少なくも、ここの写真にあるような茅葺の家もあり、その頃の風景が、懐かしく想い出されます。
現在は愛知県に住んで48年になりますが、この子守唄を聴く度に、幼少の頃に育った九州が、益々愛しくなってきます。
投稿: 芳勝 | 2018年4月11日 (水) 19時46分
たまたま読んだ本(2000年発行)に,樽谷浩子さんのエッセイに,作家村田喜代子作「龍秘御天歌」に,慶長の役で朝鮮からつれてこられた陶工の歌としてあったというた文章がありました。ご存じとは思いますが,念のためご案内します。なお,余談ですが,お名前は「ふたつぎ」と読むようですが,長野の二木さんはふたつぎで,私の場合はふたぎです。先祖を辿れば,ふたつぎ,ふたき,にきも同じかもしれません。失礼しました。
投稿: 二木 杢兵衛 | 2019年3月11日 (月) 11時59分
私は二点は確実に言えると思っている。
一つは、どの歌詞(どの連)にも共通して言えるが、詩の作りの問答歌的性格である。
五木の子守歌は、歌詞やメロデーの即物的な解釈による、当時の子守達の境遇と悲哀への共感だけを強調してしまうと、見当違いとは言わないまでも、もっとはるかに大きなものの価値を見逃すように思える。
子守りたちのグループ間での、即興の問答、歌争い的なやり取り場面が起源だという解釈は言い当てていると思える。
この「問答」という形式は二者以上で発祥するが、一人の個人の中では対句的に詩の形式として文学史的に発達する。
つまり、人間の意識・言語の発達のルール的な性質をもっており、文学や、哲学、科学などの思考能力をつかさどりこれらと深い関連がある。
五木の子守歌の問答歌的性格は、詳しく調べてはいないが世界にも珍しい程、典型性を示しているように思える。
多くの日本人が無意識のうちに感づいた一つの特徴と思える。
もう一つある。
この子守歌の俗謡的な原型を、抒情的な詩とメロディーに作り上げた本職の音楽家古関裕而の特殊な力量である。
特殊な力量とは、彼が問答的な歌詞の秀逸性に気づき、それを生かして大衆心理を掴める歌謡曲として完成させたことである。
古来より東西のすぐれた詩人たちが用いてきた方法である。
「おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんと
盆が早(はよ)くりゃ早もどる」
「盆が早(はよ)くりゃ早もどる」は、虚心に読んで子守りたちのユーモア、チャッメッ気と読んだ方が味わいはうんと深まる。
盆という「月日」が物理的に早く来ることはないのだから、投げかけられた相手グループの驚くべき「機智」による答え、気勢の盛り上げ効果ととるべきと思う。
こんな出来のいいやり取りに臨場したら、両グループともやんやの騒ぎだったのではなかろうか。
「誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
裏の松山蝉が鳴く
蝉じゃごんせぬ
妹(いもと)でござる」
ここは泣かせるが、「蝉が鳴く」という投げかけに、時と場面とを一変させて(転換させて)「妹でござる」という「受け」に持っていくのは、絶妙といっていいと思える。
ここは「機智」を超えて境遇を同じくする者たちとの「共感」へと分け入り、子守りら全員を現実に引き戻し覚醒させる「詩的な感動」のクライマックスとさえ言えよう。
拙い論考だが、この歌がここまで考えさせるものを持っていることは疑いない、と確信し、同時に現代的生命さえ期待させられたので投稿した。
投稿: 吉田 茂 | 2020年1月20日 (月) 14時00分
小学校の時習った歌だと思います。貧しい女の子の暗い歌だと思いました。これじゃ子守唄にならない、こんなんだから日本の歌は西洋に適わないんだ、と思いました。
いま歌詞を理解してこの曲を聴きますと心をゆさぶられます。詞もメロディもすばらしい曲だと思います。
五木村のホームページを拝見しました。いま人口は1000人程度なんですね。お祭りの子供たちの写真を拝見して心が和みました。そのあと私の故郷の村もインターネットで検索してみました。人口は今800人程度でした。私が小学生だった頃生徒数は200名を超えていましたが今は30名程度のようですね。もちろん小学校はもうありません。クラスメイトが何名か村に戻っています。私も戻りたい・・・
あの田舎の暮らし、家族との暮らしが懐かしいです。
投稿: yoko | 2020年1月25日 (土) 10時20分
「五木の子守唄」この唄の歌詩には、貧しい家に生まれ、守り子になった少女たちのその悲哀が見事に表現されており、またその切なげなメロディが心に深く沁み込んできます!
『蛇足』に記されている解説を読んでその意味を知り、この唄を聴いていると、守り子にならなければならなかった少女たちの、その生い立ちの悲しさを極めさせる唄にすら私は感じます。
ただ、この唄の歌詩を見て私が微妙に感じたのは、この唄は大人たちから見た守り子の悲哀を、歌ったのではないのか、という感念が心の片隅にあって、私にはその感念が拭えないところも少しありました。
そこでこの唄についてさらに調べていたところ、「正調・五木の子守唄」というのがあり、上記とは別の違った詩があることが解りました。
「正調・五木の子守唄」
おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
泣くといわれて 憎まれる 泣くといわれて 憎まれる
ねんねした子の かわいさむぞさ
起きて泣く子の 面憎さ 起きて泣く子の 面憎さ
ねんねいっぺんゆうて 眠らぬ奴は
頭たたいて 尻ねずむ 頭たたいて 尻ねずむ
おどんがお父つぁんな あん山おらす
おらすともえば 行こごたる おらすともえば 行こごたる
上記の「正調・五木の子守唄」の歌詩には、古関祐而が採譜した、一般的に流行したお座敷唄と呼ばれる歌詩とは違って、守り子自身の純粋な心情⦅現実味⦆を感じさせる、そんな幼い少女たちの思いが、よりこちらへ伝わってくるような、私はそんな気がしました。
私の生まれ故郷は佐賀県ですが、「正調・五木の子守唄」の三番目の歌詞にもあるように、人の身体のどこかを『つねる』という言葉を幼少のころに私は使ったことはなく、この唄と同様につねる動作をやはり『ねずむ』と言っていたので、赤ちゃんがぐずっている時に「頭たたいて 尻ねずむ」というこの歌詞には、九州出身者としての親近感と懐かしさを強く憶えます。
「五木の子守唄」この唄をじっくり聴いていると、貧しさゆえに家をはなれ、幼くも奉公に行かなければならなかった運命を背負った、そんな少女たちの魂と、心の叫びが聞こえてくるような気がしてきます。
投稿: 芳勝 | 2020年1月25日 (土) 22時28分
もっと早くから知られている民謡と思っていました。
管理人さんがリンクされているページに、沢山歌詞が載っていますね。
https://www.youtube.com/watch?v=Mv-A2HeTIwo
http://genkikaze123.hatenablog.com/entry/2016/12/07/222037
https://www.kanazawa-museum.jp/chikuonki/kancho/2017_07.html
YouTubeで歌を聴いていたら、懐かしい名前に出会いました。
ビクター少年民謡会 聴きくらべ「二つの五木の子守唄」
ふるさとにいた頃にラジオで「どうして男の子がいないのに少年なの?」
「その前に男の子がいたの」とラジオで言ってたのですが、
岡部幸恵ちゃんの名前は憶えていたのです。
投稿: なち | 2020年1月26日 (日) 19時24分
子供時代にから聞いて歌っていましたが、最近また気になり歌ってみましたが、この歌詞が少し意味ではないかと思うようになりました。
蝉じゃござんせぬ妹でござる 妹泣くなよ 気にかかる
姉の私が死んでも家族さえ泣かないのに6~7歳の妹が姉を思い泣くのはどうでしょうか?
自分が辛くて死んだら、次の年貢子守り奉公は妹が背負うことなるのであまりの辛さに耐えられず泣いてしまうので心配する優しい姉気持ちのあらわれだと思います。
この様な辛い時代を生き抜いた子供の強く優しい人生を思う子守歌だから心に響くのでしょうか?
投稿: 熊本県 信江 | 2020年6月29日 (月) 16時33分
熊本県 信江様のコメントに触発されて、改めて、この歌に接し、あれこれと、自分なりに思い巡らせてみました。
貧しさゆえに、辛い人生を歩み、自死ばかりか、お墓のことまで思いつめる、少女の心情を思いやるとき、深い悲しみを禁じえません。美しいメロディと相まって、心に沁みる歌です。
《蛇足》のところで、二木先生が、歌詞の意味を解説されていますので、大変分かり易いのですが、一部分、別の受け取り方もできるのではなかろうかと思う次第です。
私見ですが、歌詞1番から歌詞6番を通して、文脈を眺めますと、お盆の休みに里帰りした少女の心情を謳っているように思えるのです。
このように捉えますと、歌詞1番は、”今、お盆休みで、故郷に帰っているが、ここにいられるのは、お盆休みのときだけ。お盆が過ぎたら、奉公先に帰らなければならない。来年のお盆が早く来れば、その分早く、里帰りできる。願望に過ぎないが…。”となります。如何でしょう。
お盆は大方、酷暑・干天の時期ですので、歌詞4番で、蝉が出てくるのも、歌詞6番で水(干天の慈雨)に触れているのも、脈絡として、分かるように思います。
そして、歌詞4番の、♪妹泣くなよ 気にかかる♪のところですが、親が薄情ということではなく、親は貧しさ・辛さに打ちのめされて、涙も出ない(涙も枯れ果てた)状況で、歳の近い妹は、まだ熱い心を失っておらず、親身に姉のことを思って悲しんでいる状況を、背景として思い起こしますが、如何でしょう。
次いでながら、お盆休みについて。
私の子供の頃の田舎での生活で、子供達は、就学時間以外は、山や田畑の作業に駆り出されたものです。土、日も関係ありません。
お盆休みのとき、”正月3日、盆3日、祭りは2日でおこまいこ。”(お正月は3日休み、お盆も3日休み、お祭り(秋)は2日休み、ということにしておこうよ、という田舎のルール)と、従兄弟が、3日も休めることを嬉しそうに言っていたことを思い出します。
なかでも、お盆休みは、酷暑の時期に体を休めるという意味からも、最も重要な休日といえましょう。都会(東京)務めをしていた、別の従兄弟も、お正月に帰らずとも、お盆には帰っていたように記憶します。
投稿: yasushi | 2020年6月30日 (火) 16時01分
「五木の子守唄」この唄が醸し出す哀切漂うこのメロディに、私はどうしてこんなにも弾き付けられてしまうのだろうかと時々思うことがあります!
幸いなことに最近の日本では児童労働という声を耳にしなくなりましたが、未だ世界の各地においては当然のごとくそんな光景を否応なしに眼にしなければならないのが現実で、それが本当に残念でなりません。
確かに昔は子沢山のご家庭の少女が赤子を背中に負んぶする姿というのはあちこちで当たり前に見かける光景でしたが、ここでの守り子の少女たちは、家の貧しさゆえに幼くも親元をはなれて見ず知らずの(奉公先)へ行き、守り子をするというその現実は、それがたとえ己のさだめとは言え、幼い少女たちにとってさぞ悲しくそしてやるせなさがつのる切ない仕事だったのではないかと想像します。
私は幼少のころを佐賀県の田舎で育ちましたが、この唄に出てくる「おどん」私・「ごんす」ござんす・「かんじん」物乞い・というような言葉は知らずに育ちましたが、この唄のメロディに聴き入っていると、その方言さえも幼い守り子の少女たちの悲しさを漂わせます。
先の、熊本県 信江様のご投稿コメント、
「この様な辛い時代を生き抜いた子供の強く優しい人生を思う子守唄だから心に響くのではないでしょうか?」このお言葉に私も心からの共感をおぼえます。
投稿: 芳勝 | 2020年6月30日 (火) 17時29分
1番の解釈には私も引かかっていました。
yasushi様の”自死”という言葉に引き付けられて次のようにも思われるのではないかと考えました。
私が生きているのは盆までです。
盆から先はもうこの世にはいませんよ。
盆には仏様になってお家に戻ります。
それにしてもとても哀しい歌です。
投稿: yoko | 2020年7月 1日 (水) 11時14分
今はダムの下の下なのですね。立ち退き先が水害にあうとは悲しすぎます。勧進聖の話も改めて読みました。重源に惹かれていましたので・・・。
投稿: Tani Fumio | 2020年9月 4日 (金) 16時28分
Tani Fumio 様、
交流掲示板 1779をご覧ください。
投稿: 田主丸 | 2020年9月 4日 (金) 23時17分
かなしいうたです。
投稿: 沖田道男 | 2020年9月29日 (火) 03時25分
「五木の子守歌(唄)」多くのページの中で、二木先生の解説、皆様のコメントとも、このページがもっとも心が震えました。当方、ピアニストで、この歌を元にしたものを演奏したく思っておりますが、心に刻むべき様々なことをご教示頂きました・・むかしの方々に想いを馳せつつ、大切に響かせていきたいと存じます。ありがとうございました。
投稿: Mika Oi | 2020年12月 4日 (金) 00時14分
「五木の子守唄」ここでこの唄のメロディを聴く度に、私の胸にはどうしても熱いものが込み上げてきてしまいます!
『蛇足』に詳細に記された解説、たった7~8歳の子どもたちが口減らしのために奉公に出されたという辛すぎるその現実。
また、否応なしにそんな情景を私の脳裏に思い浮かべさせる物悲しいそのメロディは私の心をいつも震わせます。
そして、>「・・むかしの方々に想いを馳せつつ、大切に響かせていきたいと存じます。」
12月4日ご投稿、ピアニストであられる、Mika Oi様の上記お言葉に、この唄を深く思もわれるそのお心が、恐れながら私にはお察し申し上げられて、そのことを嬉しく思いました。
1961年、当時多分小学高学年位だと思われる、岡部幸恵さんの究極とも云えるその物悲しい歌声、そして1968年、当時多分二十歳手前位だと思われる、林恵子さんの素朴さの中にも凛としたものを感じさせるその歌声、YouTubeで視聴する「二つの五木の子守唄」そのそれぞれの歌声はもう圧巻で、私はそんな二人の歌声を聴く度に目頭が熱くなります。
「五木の子守唄」この唄の詩には負んぶした幼子をやさしく寝かしつける時の辛さや心情ではなく、守り子たち自身が背負わされた己の運命に押し寄せてくる切なさと悲痛な悲しみ、そしてそこから湧き出てくる守り子たちの魂の叫びそのものが私には聞えてきます。
投稿: 芳勝 | 2020年12月 5日 (土) 13時45分
歌の本筋とは関係ないかと思いますが皆様のコメントを拝見しているうちに、ふと随分昔に青森の三内丸山遺跡を訪れたことを思い出しました。そこでは亡くなった人は、集落から海に出る主要な道の両側に埋めると解説されていました。「道端いけろ」は縄文からあったのですね。
投稿: しょうちゃん | 2020年12月 6日 (日) 09時12分
2008年6月の北原様のコメントと、この歌のルーツと伝播の流れ(朝鮮半島-熊本県-長野県-福島県会津)について、大変興味深く拝見しました。
北原様は、長野県と熊本県にはいくつかの共通点があると言われます。それを読んで私は「ああやっぱり」と思いました。というのは、私が生まれたのは長野県上諏訪という所ですが、このあたりは「藤森」という姓の方がとても多いのです。調べたらこの姓は全国でも長野県が一番多く、他県にはあまりい無く、次に多いのは熊本県だったのです。1990~2000年に、ペルーに日系の「フジモリ大統領がいらっしゃいましたね。彼はご両親が熊本出身の方で集団移住をされた日系二世なのです。だから私は「ああやっぱり長野と熊本は同じルーツなんだな」と思ったのです。
そして、朝鮮半島と九州は距離的にも近く、今でもたくさんの韓国人観光客が九州を訪れますね。昔、李氏朝鮮時代の朝鮮半島の庶民は多くは極貧でしたから、新天地を求めて九州へやってきたことは容易に想像できます。そして五木村に住みついた方々もおられるのだと思います。でも、夢を持って苦労して渡って来ても日本も生きにくく、この歌のように貧苦から抜け出せない生活だったのでしょうね。
これがまた風習が似ていることから、会津地方にも同じルーツの方々がいらっしゃるようで、このサイトは本当にためになりますね。
ところで、「おしん」が流行っていた時、私は結婚した後だったと思いますが、父に「おしん、観てる?」と聞いたことがあります。寡黙な父は「見ていない」と言い、「おしんより…」と言いました。私はすぐに「俺の方がもっと…」と言おうとしたのだと感じました。実は父は尋常小学校を卒業すると成績を見込んだ先生が中学へと熱心に進めてくれたのですが、貧乏ゆえ、地方銀行の給仕に就職しました。両親の兄弟姉妹・我が子5人・それにもちろん祖父母の中で稼いでくる人は父ひとり、それに弟のひとりは京都へデザインと絵の勉強へ行っておりその仕送りもしなければなりません。収入は父ひとりの肩にかかり、彼らの面倒や子育て、食料確保などは母の肩に一手にかかっていました。そんな苦労を舐めつくしている父は、貧乏ばなしの「おしん」などは観たくなかったのです。「おしんより…ポツリと父がいた昭和」はその時を思い出した作った私の川柳です。
長くなってすみません。最後にチョーヨンピルの歌で「夕顔恋歌」というのがあります。作詞:荒木とよひさ、作曲:浜啓介で、「五木の子守歌」をベースにした曲ですが、いい歌です。ご興味ある方は検索してみてください。チョーヨンピルがうまい!
投稿: 吟二 | 2023年7月18日 (火) 10時18分