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2008年6月30日 (月)

黒い瞳(タンゴ)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:Paul Eples、作曲:Oscar Strock、
日本語詞・編曲:三根徳一、唄:ディック・ミネ

黒き汝(な)が瞳 なやましや
夢路やよ覚むるな 君がひとみよ
もゆる想いをば 胸に秘め
いとしき なつかし 君が瞳

泪にうるみて かがやくは
去りにしまぼろしに うつる瞳よ
想い出も去りて 今はただ
冷たく ほほえむ 君が瞳

         間奏

     (繰り返す)

《蛇足》 原題は"Zwei Dunkle Augen Schauen Mich An(2つの黒い目がじっと私を見つめる)"で、第二次大戦の前から"リガのタンゴ王"として世界に知られたオスカー・ダヴィドヴィッチ・シュトローク(Oscar Davidowitsch Strock、ロシア語表記ではОскар Давыдович Строкの代表作。
 リガはバルト3国の1つ、ラトヴィアの首都です。

 以下、混乱を避けるために、シュトロークのタンゴを『黒い瞳-S』、ロシア民謡の『黒い目(黒い瞳)』を『黒い目-R』と表記します。

 シュトロークは、1893年1月6日(ユリウス暦では1892年12月25日)にユダヤ人の一家に生まれました。父親はオーケストラの団員で、シュトロークは幼児期から音楽に親しみました。7人の兄たちも、のちに全員プロの音楽家になりました。
 そういう環境のなかで、シュトロークは早くからギター、バラライカ、ヴァイオリン、ピアノなどを習得したといわれます。

 12歳のとき、ロシアの古都、サンクト・ペテルブルグの音楽学校に入学、2年後に退学して、音楽教師になるとともに、映画館や劇場、カフェなどで伴奏の仕事をしました。
 結婚して子どもが生まれたのを機に帰国、リガで書籍や楽譜の出版業を営む傍ら、作曲に励みました。作品は、バラード、ワルツ、ジャズ、タンゴなどと幅広く、生涯の作品数は300以上に及びました。

 彼がとくに好んで作ったのはタンゴで、その作品は欧米各国で演奏されました。代表作『黒い瞳-S』は、1928年、35歳のときに作曲されたようです。
 このころから、自分のオーケストラをもち、フランスへの演奏旅行や、ベルリンでのレコード吹き込みなど、活発な音楽活動を展開しています。

 『黒い瞳-S』には、1つ謎があります。上の曲では、間奏部分に『黒い目-R』のメロディが取り入れられ、曲全体をいっそう印象的なものにしています。ところが、シュトロークの原曲にはこの部分はなかった、という説があるのです。
 シュトロークの原譜か最初の録音盤が見つかれば確認できると思い、いくつものキーワードの組み合わせで検索してみましたが、まったく見当たりませんでした。『黒い目-R』のメロディが入っている演奏と、入っていない演奏とがあるとわかっただけです。

 原曲には入っていないとすると、『黒い目-R』を取り込んだのは誰かが問題になってきます。
 それはアルフレッド・ハウゼだとするのが通説になっていました。確かに、アルフレッド・ハウゼの華麗の演奏には、『黒い目-R』が取り込まれています。

 しかし、彼が最初でないことは明らかです。
 ハウゼが自分の楽団をもったのが1942年、これは潰れましたが、1948年に軽音楽全般を演奏するTanzorchesterを結成しました。1952年にドイツ・ポリドールと契約したころ、ドイツおよび日本のポリドールからの要請で、タンゴ演奏専門の楽団に衣替えしました
(Wikipedia)
 彼がシュトロークの曲に『黒い目-R』が取り込んで編曲したとすると、その時期は1942年以降、たぶん戦後でしょう。

 いっぽう、三根徳一による編曲&日本語詞でディック・ミネが歌った上の曲は、昭和10年(1935)1月にテイチクレコードから発売されました。私が調べた限りでは、シュトロークの原曲に『黒い目-R』のメロディが組み込まれた最も古い記録です。
 アルフレッド・ハウゼの編曲は、三根徳一の編曲を参考にしたものではないでしょうか。
 なお、アルフレッド・ハウゼ楽団は、
『黒い目-R』をタンゴに編曲した曲も演奏しています。

 三根徳一はディック・ミネの本名で、訳詞や編曲をする際にはこの名前を使っていました。第二次大戦中の敵性語排斥の時代に使った芸名は、三根耕一でした。

 話をシュトロークの生涯に戻しましょう。
 1933年にナチス党が権力を掌握すると、ユダヤ人であるシュトロークは、おもな活動の舞台としていたドイツを脱してラトヴィアに戻りました。
 しかし、そのころから経済的危機に見舞われます。リガの出版社は倒産し、レストランを開業しようとしましたが、失敗に終わりました。

 1940年にラトヴィアがソ連に併合されると、シュトロークの音楽は退廃的だとして迫害を受けました。西欧音楽を退廃的だとするドグマティックな理由のほか、彼がユダヤ人であることも、影響していたでしょう。
 1941年、独ソ戦により、ラトヴィアがドイツに占領されると、一家はカザフスタンのアルマトイに疎開、ドイツの敗戦後ラトヴィアに戻りました。再びソ連治下に戻ったラトヴィアでも、シュトロークの苦境は続きました。至るところで、彼の作品の演奏が拒否されたのです。

 演奏が部分的に解禁されたのは、1970年代に入ってからです。この間、シュトロークはピアニストとして生活を支えました。
 1975年6月22日、シュトロークは、栄光と苦難に満ちた82年の生涯を閉じました。

(二木紘三)

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コメント

奉公した 神田の羅紗店の番頭さんは タンゴ大好き人間でした と言っても踊る方です 黒い瞳のレコードを掛けるのが わたくしの役目です ♪ 黒き汝瞳・・・ 少年の心にも 甘く切ない文語調の歌詞が気に入っていました わたくしの十五の春は この曲から始まりました 

投稿: 寅  君 | 2008年7月 9日 (水) 21時17分

ディック・ミネが歌っていたとは思いませんでした。が曲を聴いて歌いだしが〔黒きなが瞳~♪〕とすっとでてきたのでよく聞いていたのですねこの曲。。。タンゴはなやましげのなかにも気品があって好きです。

投稿: おキヨ | 2008年7月 9日 (水) 23時10分

15の春がこんな曲で始まる方もいらっしゃるんですねぇ。
それこそがその人の財産ですよね。
こういう曲を聞くと自分の中に潜在的に眠っている物が
呼び起こされるような気がしますが…。忘れている何かです。

投稿: sunday | 2008年7月11日 (金) 15時32分

何気なくこの曲を選んで(クリックして)音楽を聴き始めました。初めて聞く曲・・・歌詞画面が過ぎ 二木先生の解説を読み出すと あの有名なロシア民謡「黒い瞳」のアレンジ曲らしくて・・・何と まるで似ても似つかぬメロディーだなーと思って聴き続けますと 来ました来ました間奏にあのロシア民謡「黒い瞳」,大好きなフリオ・イグレシアスの「黒い瞳のナタリー」,布施明の「哀しみの黒いひとみ」が聞こえてきました。嬉しくてほっとしました。あの哀愁を秘めた甘い声のフリオ大好きです。主人の車で買い物に行く時は発車と同時にフリオのCDをかけます。今聴いていますこの曲の間奏に原曲を挿入して下さった二木先生に厚くお礼申しあげます。

投稿: 初老女性 | 2008年11月29日 (土) 21時03分

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