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2008年6月14日 (土)

出発(たびだち)の歌

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:及川恒平、作曲:小室 等、唄:上條恒彦と六文銭

1 乾いた空を 見上げているのは誰だ
  お前の目に 焼きついたものは
  化石の街
  愛の形が 壊れた時に
  残されたものは 出発(たびだち)の歌
  さあ今 銀河の向こうに
  飛んで行け

2 乾いた空を 見上げているのは誰だ
  お前の耳を 塞(ふさ)がせたものは
  時計の森
  自由な日々が 失われた時に
  残されたものは 出発の歌
  さあ今 銀河の向こうに
  飛んで行け

  さあ今 銀河の向こうに
  飛んで行け

  さあ今 宇宙に さあ今 未来に
  さあ今 宇宙に さあ今 未来に
  飛んで行け(繰り返す)

《蛇足》 昭和46年(1971)に上條恒彦と六文銭が歌ったヒット曲で、「失われた時を求めて」という副題がついています。

 同年10月、三重県合歓(ねむ)の郷で開かれた「合歓ポピュラーフェスティバル’71」でグランプリ受賞、次いで11月、第2回世界歌謡祭でもグランプリを獲得。さらに翌昭和47年(1972)には、上條恒彦と六文銭がNHKの紅白歌合戦初出場という輝かしい経歴をもっています。

 昭和39年(1964)に海外渡航が自由化され、昭和40年代に高度経済成長に伴って管理社会化が強まり始めると、「自由と夢」を求める若者たちが、続々と海を渡りました。
 この歌は、ザ・フォーク・クルセダーズの『青年は荒野を目指す』
(昭和43年)、谷村新司の『昴』(昭和55年)などとともに、そうした風潮をバックに生まれた作品です。

 上條恒彦は長野県東筑摩郡朝日村出身。上京後、新聞配達、工員、トラックの運転手、歌声喫茶のリーダーなどをしながら、歌の道を目指しました。やがて労音の歌手になり、NHKの歌番組にもたまに出るようになりましたが、とりたてて注目されことはありませんでした。それが、この歌の大成功により、一躍脚光を浴びることとなったのです

 オペラ歌手に勝るとも劣らない余裕のある大声量と外連味(けれんみ)のない正統的な歌い方は、音楽ファンの間で高い評価を受けています。幼時に父親を亡くすという不幸がなかったら、クラシック方面に進んでいたかもしれません。
 この歌のほかに、フジテレビ系列の時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌、『だれかが風の中で』というヒット曲があります。
 歌手としての活躍のほかに、数多くの舞台やテレビドラマに出演し、独特の存在感を示しています。

 六文銭(ろくもんせん)は、小室等が中心となって昭和43年(1968)に結成されたフォークグループ。4年間という短い活動期間に、『雨が空から降れば』『出発の歌』という2つのヒットを放ちました。

(二木紘三)

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コメント

今日、お世話になった元上司にさよならを言ってきました。せっかちで、瞬間湯沸かし器。しかし、あたたかい方でした。定年退職して1ヶ月ぐらい経ってから体調を崩され、入院したと聞いて、お見舞いに伺わなければと思っていた矢先に逝ってしまいました。これからも形を変えてご指導をいただこうと思っていましたのに、残念でなりません。

二木さんのmp3で彼の出発を静かに思い、歌わせていただきました。ありがとうございました。

投稿: Oh,no! gucci. | 2008年6月14日 (土) 23時05分

このフェスティバルの実況をテレビで見ていました。たしかヒデとロザンナも出ていました。ステージが進んで、この歌が始まったわけですが、ひげを生やしたやせぎすの人が椅子に座りギターをぼそぼそと弾き出しましたのを覚えています。この人が小室等だったのですが、ポピュラー系にあまり興味がなかったこともあり名前を知りませんでした。すると、黒いTシャツを着た熊みたいな男が歌いだしましたねー。歌いだすと同時に画面に釘付けになりました。声の粘りといい、声量といい、他を圧倒していました。この人が上条恒彦だったわけです。曲が進み、最後のところで休止が入り、ここで終わったのかと思ったら、ドラムが勢いよく鳴り出し、再び、「さぁー今!銀河の向こうに飛んでゆけー・・」、これには度肝を抜かれました。それ以来上条の大ファンとなり、この歌のドーナッツ盤が売り出されたとき早速買い求めました。
この年の紅白歌合戦に出場した上条恒彦が、「やっとカラーテレビが買えました」とか言っていたのが印象に残っています。

投稿: 佐野 | 2008年6月20日 (金) 20時00分

 長崎のsitaruです。「出発の歌」は、私がフォーク・ソングというものを認識した最初の歌です。1972年の2月だったと思います。私は高校二年生でした。間もなく卒業する三年生を送り出す恒例の行事である「予餞会」(よせんかい、=送別会、歓送会)が体育館で開催され、一、二年生がクラス単位で、合唱、器楽演奏、寸劇などを披露しました。先生方も、担任のクラスの出し物に加わったり、先生方だけで寸劇を披露したりされました。その中で、二年生の或るクラスが合唱したのが、この「出発の歌」でした。そして驚いたことに、そのクラスの合唱が始まると同時に、ステージの下で見ていた生徒たちの大合唱が始まったのです。私は戸惑いました。なぜなら、私はこの歌を全く知らなかったのです。仕方なく、私は口をパクパクしながら歌っているふりをしました。そうしながら歌詞を聞いていると、「銀河」とか「宇宙」ということばが出てきます。「へぇ、流行歌にはこんな壮大な歌もあるのか」と思いました。実は、これ以前にも、後にフォークソングのジャンルに入れられる曲を聴いてはいました。最初に印象づけられた曲は、中学2年の終わりの春休みに、母が熱心な信者だった、或る新興宗教団体の青年部の合宿研修(1969年3月)に、中学の友人何人かと参加した時に、ラジオから何度も聞こえて来た「風」(はしだのりひことシューベルツ、1969年1月発売)でした。そ以前にも、マイク真木さんの「バラが咲いた」や、森山良子さんの「この広い野原いっぱい」などの曲を聴いていたはずなのですが、みな普通の流行歌だとばかり思っていました。中学生から高校生の初めににかけて、私は小川知子さんや藤圭子さんの歌が好きで、フォークソングのジャンルのものは、自分から好んで聞くということはありませんでした(当時から、「夜のヒットスタジオ」などいくつかの歌番組がありましたが、フォーク系の歌手は出演しないという風潮があったことも、私がフォークソングに親しまなかった原因の一つかも知れません)。結局、「出発の歌」の後も、いろいろなフォークソングの名曲を知らないままに時は流れ、本当にフォークソングを聴くようになったのは、大学一年(1973年)の冬、「神田川」(南こうせつとかぐや姫)が大ヒットした時からです。
 ついでですが、この時の私のクラスの出し物は、古代ローマを舞台にした創作劇で、ある国の王が権力闘争に巻き込まれ、最後は右腕と信頼していた配下の者に裏切られ、処刑されるという筋で、私はその王の下僕の役でした。私のセリフは、処刑場に連行される王に向かって、「旦那さま!」と、悲痛な叫び声を上げる、その一言だけでしたが、聞いていた同級生の印象に残ったようで、それからしばらく、私を見ると「旦那さま!」とニヤニヤしながら話しかけてきました。舞台で演じ、ことばを発したのは、あとにも先にもこの時一回きりです。

 追記  

 芳勝様、いつも暖かいお言葉と、励ましのお言葉をいただき、ありがとうございます。寒さが増してきましたので、どうぞご自愛くださいますよう。

投稿: sitaru | 2020年12月 9日 (水) 04時28分

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