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2008年6月 6日 (金)

リンゴのひとりごと

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:武内俊子、作曲:河村光陽、唄:河村順子

1 わたしはまっかな リンゴです
  お国は寒い 北の国
  リンゴ畑の 晴れた日に
  箱につめられ 汽車ポッポ
  町の市場へ つきました
  リンゴ リンゴ リンゴ
  リンゴかわいい ひとりごと

2 果物店(みせ)の おじさんに
  お顔をきれいに みがかれて
  みんな並んだ お店さき
  青いお空を 見るたびに
  リンゴ畑を 思いだす
  リンゴ リンゴ リンゴ
  リンゴかわいい ひとりごと

3 今頃どうして いるかしら
  リンゴ畑の おじいさん
  箱にリンゴを つめながら
  歌を歌って いるかしら
  たばこふかして いるかしら
  リンゴ リンゴ リンゴ
  リンゴかわいい ひとりごと

《蛇足》 昭和14年(1939)、作詞家の武内俊子が入院中、作曲家の長妻完至から見舞いにもらったリンゴを見て書いた歌。

 見舞いに訪れたキングレコードの柳井堯夫ディレクターが、それ見てレコード化を提案。武内俊子は、思いつくままに書いたものだから、とあまり乗り気ではありませんでしたが、どうしてもというなら、作曲はリンゴの送り主の長妻完至に、と希望しました。
 しかし、柳井堯夫は、歌詞は河村光陽向きだと考え、あえて武内の希望を曲げて、河村に作曲を依頼しました。

 曲は昭和15年(1940)1月に完成し、翌月、河村光陽の娘・順子の歌でレコードが発売されました。

 なお、2番の果物店は「くだものてん」としている歌集がいくつかありますが、河村順子は「くだものみせ」と歌っているそうです。武内俊子の意図がどちらだったかはわかりません。

 武内俊子は広島県三原市の生まれで、結婚して東京・世田谷に居住。子育てをしながら、当時の主要児童誌『コドモノクニ』や『幼年倶楽部』に次々と童謡や童話を発表しました。
 童謡では、ほかに『かもめの水兵さん』などのヒット曲があります。

(二木紘三)

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コメント

河村光陽のメロディは、そこはかとないペーソスにあふれていて、聴いていると胸に迫ってきます。
光陽の生家は、私が住んでいる北九州市の南隣の福智町(平成の合併前は赤池町)にありました。現在は、生家が隣接していたとされる下宮神社に記念碑が建っています。
福智町では、光陽の功績を記念して毎年「童謡まつり」を実施しています。
五木寛之の小説「青春の門」の舞台となった田川市や香春町とも隣接していますが、赤池は上野焼(あがのやき)という焼物の里でもあり、炭鉱の町という雰囲気ではなく、光陽が幼年期を過ごした頃はのどでかな田園であったろうと想像されます。

投稿: 周坊 | 2008年6月 7日 (土) 11時15分

この曲には思い出があります。
昭和30年代。…神戸市灘区在住の頃
りんご売りの方が青森の方から来られてた
と思いますが。。。
その時必ずこの曲を鳴らして客集めを
していたからです。
その他ロバのパン屋さんなども
何故か音楽を鳴らしながら来ていたんですねぇ。

投稿: sunday | 2008年6月 9日 (月) 15時36分

涙が出るほど懐かしい曲です。
終戦直後の昭和21年4月、近くの幼稚園に入り1年通いました。こんな頃にも幼稚園があったようです。
色々な歌を習いましたが、この曲はその中の1つで今でもメロディーと1番の歌詞は鮮明に覚えています。
今ここで聴けるとは思いませんでした。有難うございます。

投稿: 清水 ひろし | 2008年6月15日 (日) 10時57分

こんにちは。
いつも聞かせていただいております。
25年生まれで知らないはずなのに、この曲はなぜか全部知っています。とてもすばらしい曲でいつも感心します。真っ青な空、真っ赤なりんご、忙しそうなおじいさん・・・その一つ一つの情景が目の前に現れてりんごの気持ちまで分かるような詩に すばらしいの賛美を贈りたいです。最近の曲にはこうした風景や情景は、残念ながら見られませんね。

投稿: みのりん | 2008年6月15日 (日) 20時34分

好きな童謡の一つです。他に「うれしいひなまつり」「なかよし小道」などが好きですが、ここのサイトで作曲が全て河村光陽さんと知りました。不思議なことです。全部いわゆる「ヨナ抜き」なんでしょうか。

投稿: 陽ちゃん | 2008年6月27日 (金) 22時30分

とても懐かしい歌で、聴く度に、なぜか胸が切なくなります。 19年生まれのおばあちゃんですが、最近、二木さんの
すばらしいサイトを見つけ、時間を見つけては、パソコンの前で一人静かに心癒されております。
今日は、たまたま遊びに来た隣に住む孫を膝の上にのせて、この歌を一緒に口ずさんでみました。 1年生の孫には、この歌の意味がどの程度理解出来ているかわかりませんが、幼い胸にも、きっと何か残るものがあるのでは!と思います。

投稿: ガーネット | 2008年6月30日 (月) 16時28分

透き通るような童心と、未来へ向けた明るさが感じられる歌詞ですね。しかも曲が少し哀愁を帯びて、明るい歌詞とコラボレーションした時、チャップリンのように悲しみの中に笑いがある、笑いの中に悲しみがあるような深いものを感じます。でも、「6歳まで子供はみな天使」という言葉があるそうですが、りんごの純な気持が尊い気がします。

投稿: 吟二 | 2009年4月19日 (日) 15時19分

初めて書かせていただきます。
昭和22年(1947年)生まれです。九州・小倉に生まれ育ち、昭和45年(1970年)に、ここ日立市に出てきました。まさかここに住み着くことになるとは思いもしませんでしたが。今、定年農業をしています。
今年になって昔の懐かしい唄を探していて、二木先生のこのサイトに行き当たりました。題名を知っていた唄、知らなかった唄いづれもメロディを聴くといつか聞いたことのあるものばかりで、当時のことが思い出され、涙ぐむことが多いです。ありがとうございます。
この唄は、亡き祖母がよく唄っていました。文字も満足に書けないような人でしたが、私の学生時代にたどたどしい字で、一度手紙をくれたことがありました。その手紙は今でも持っています。
二木先生は、私より年上のようですが、どうかいつまでもお元気で、このサイトを続けていただけますようお願いします。

投稿: 竹永尚義 | 2010年3月17日 (水) 19時54分

最初にこのサイトを訪れてからもう10年くらいになります。最近はご無沙汰でしたが,たまたまリンゴのひとりごとの歌詞でわからないところがあって調べているうちにヒットしました。歌詞といい曲といい胸にぐっと来る唄ですね。昭和14年作ですか。
それと二木さんの蛇足に書いてある記事が素晴らしいです。どうやってこんな詳細な情報を入手されるのでしょうか。それとも元々ご存じなのですか。この蛇足が昔から大好きでした。MIDI自体も大変よくできています。ありがとうございました。もっともっと続けてください。

投稿: 無名人 | 2011年9月27日 (火) 10時46分

岩手のちっちゃなリンゴ農家です。
3.11後ライフライン3日間ストップし寒さの中88歳元気な母が肺炎で急逝しました。今リンゴの最後の手入れの時期です。何時も母が口ずさんでいた唄でした。この記事を見ておもわず胸が苦しくなってコメントしました。

投稿: すがわらけん | 2011年10月 9日 (日) 15時04分

2年前に職場の同僚と上野(あがの)焼の里を巡りました。そこで河村光陽さんがここの出身だと知りました。
記念碑と「かもめの水兵さん」の演奏ができる鉄琴がありました。「りんごのひとりごと」「うれしいひなまつり」など私が子供のころに好きだった童謡がみんな彼の作品だったのはきっと彼のメロディーが子供の心をとらえるものがあったのであろうと思います。

投稿: Ejiri Yoichi | 2014年4月21日 (月) 12時45分

まだ小学校に入っていなかったので、4~6歳くらいの頃かと思われます。季節になるとりんごを沢山載せたトラックがやってきました。おじさんが運転して、おばさんが荷台に乗ってやってきます。味見のために大きなりんご(子供でしたのでそう見えたのかもしれません)を両手で包んで腿のうえで「パカッ」という音と共に半分に割ります。女の人なのにすごい力! ととてもびっくりしていた私です。大きな木の箱におがくずと一緒に入ってきます。その次に来たとき、おばさんは苦労してりんごを割っていました。そしてその次に来たときは、違うおじさんとおばさんでした。あの笑顔のチャ-ミングな可愛らしいおばさんが好きでした。今の時代ではあまりないかも知れない、あたたかくて、ほのぼのとした情景です。いつの頃からか覚えていませんが"今頃どうしているかしら、りんご畑のおじいさん”と同じことを感じていたことを思い出します。祖母と母が歌ってくれていたものと思います。

投稿: junko | 2017年9月24日 (日) 12時53分

junko様、他投稿の皆さま。

7年前に投稿していました。私の生れ故郷は北九州市小倉北区ですが、作曲の河村光陽さんは、私の生地からは、「福智山」と言う北九州市で一番高い山(標高901m)を挟んで、反対側の福岡県田川郡福智町のご出身です。「上野焼き」の里でもあります。
 私は今、茨城県で定年農業を営んでいますが、その事を知ったのは、つい最近の事です。生地からは、西南西の方角に、「山のあなたの空遠く・・・」と言う感じで、山の上の方だけが見えていました。福智町を実際に訪れた事はありません。
 今は、遠く関東の地から、偲ぶのみです。

投稿: 竹永尚義 | 2017年9月24日 (日) 16時43分

懐かしい歌ですね。
間もなくりんごの季節になります。
わたしの家はりんご園の隣です。
りんごの四季は私の四季です。
八重桜の咲く頃に林檎の花も咲き始めます。
あえかな薄紅の蕾は開くと白になります。
暑い夏を超すと順次 りんごが実ります。
今は早稲の「津軽」「さんさ」やがて千秋、大トリのふじまで凡そ三か月間、各種出回ります。
この歌を歌っていたころは
りんごといえば「紅玉」通称ベニダマ
今食べると美味しくもない「国光」
不思議な味の「インドりんご」
当時は斬新だったスターキング
私は 薄緑で大玉の甘酸っぱい「むつ」~陸奥が好きだったが今は見かけません。
黄色の王林は眺めては綺麗でも食べては?でした。
これから出回る信濃スイートも早生種では美味しいですね。然し50年前に「一個1000円」とびっくりさせられた「ふじ」を超えるりんごは今だ出ませんね。「ふじを超えるりんご」と宣伝された「北斗」も鳴かず飛ばずでしたね。

りんごの歴史は昭和史そのものです。
今夜は遠い昔の子供時代に帰って
二木先生の演奏を繰り返し聞いています。
皆さん 山形のりんごも美味しいですよ!

投稿: りんご | 2017年9月24日 (日) 19時25分

竹永様                       私は、ず-っと年下ですが、この唄は祖母、母を思い出させる懐かしい曲です。私も一度だけ祖母から手紙をもらったことがあります。短いものでしたがとてもうれしかったのを思いだ出します。進学した時に送られてきたものです。18才の頃です。若いですね。竹永様と同じように今でも大切にしています。竹永様は、きっとおばあちゃんっ子だったのではないですか? 私もそうだからです。

投稿: junko | 2017年9月24日 (日) 19時52分

あれは確か、昭和39年の頃だったと思いますが・・・、当時某アルミメーカー名古屋支店の営業部にいましたが、正にアナログ全盛時代で今とは隔世の感がありました。勿論NETはおろか、携帯電話やメールなど思いもつかない時代で、やっとポケベルが精一杯の時代でしたが、それなりに楽しい時代でした。ことに車での地方出張は楽しみの最たるもので、四季それぞれに行きたい地方や場所を、もっともらしく理由をつけて出張予定を組み、背中越しに部長の目を気にすることもなく気ままな一人旅・・・楽しかったな~。

信州飯田の町なかに入り、街道沿いのそれほど高くもない木に大きな真っ赤なりんごが、無数にぶら下がっているのを初めてみたときは、思わず目を見張りました。
りんごって1本の木にこんなにたくさんなるんだ~と、感動しました。そして、誰もこれをとって食べないのかな~と、不思議な気もしました。これが私の実際になっているりんごとの初対面だったのかなと、懐かしく思い出しています。

投稿: あこがれ | 2017年9月25日 (月) 00時01分

あこがれさま ご無沙汰いたしております。
お元気のご様子なによりです。当地方では、朝方ちょっと冷え込むようですが、そちらの方では如何でしょうか。
りんごの便り楽しく拝読いたしました。
のどかな町あいの風景の中、大きな木に赤いリンゴがなっている。
美味しそうですね!手を伸ばしてとって食べてみたい気分になりそうです。私もりんごは大好きで毎日のように近所のスーパーりんごを召しあがっております。
私の住む県内でも、リンゴ狩りの便りを耳にしますが、いまだに足を運んでおりません。機会があれば大きな木になっている真っ赤なりんごを自分の手でもぎ取りたいものです。
少しはりんごの気持ちも分かるかも知れないですね。
コメントありがとうございました。


投稿: 一章 | 2017年9月25日 (月) 00時58分

 りんごと言えば昭和46~7年ごろ研修か出張で長野市に行きました。宿屋でりんごが山盛りで出てきてびっくりしました。、また、あこがれ様が書いておられるように、木になっているりんごを初めて見ました。
 実家にりんごを箱で送りました。いい思い出です。
 この歌は小学校で習ったように思います。どうもはっきりしませんが、私は幼稚園、保育園に行かなかったので、おそらく学校だったと思います。

投稿: 今でも青春 | 2017年9月25日 (月) 11時02分

私の亡母の里は群馬県です。日本のチベットといわれる山間の寒村です。水田はできず陸稲と蒟蒻、葱を細々とやっておりました。叔父がリンゴ栽培を始めました。長野に近いからリンゴもできるとの信念でした。よく送ってくれましたが、やはりリンゴは素人だったからか、気候が合わなかったからか十年たっても甘みこそあれサクサクの粗リンゴでした。猿害もあって一向に商売にはならずついに廃業しましたがそれから数年で黄泉の世界へゆきました。一度生前の母と行った時リンゴ畑に連れて行ってもらいリンゴをもいでかじりました。叔父も頑張っているな。売り物になるといいなとは思いました。いとこが家は引き継ぎましたがリンゴはこりごりだと手は付けておりません。この歌の様に店先に誇らしく並んでいる真っ赤なリンゴを思うとリンゴ畑のおじいさんならぬ田舎者そのものだけれど気のいい叔父を思い出します。因みにこの叔父は徴用でニューギニアに二等兵で派兵され、田舎者故馬の世話をさせられマラリアで生死の境を彷徨い運よく生還したのでした。その時の無理で足が不自由になり最後は坐骨神経痛で夏でも歩行が辛かったようです。
この秋つやつやした真っ赤なリンゴ、思い切りかじって味わいたいと思っております。

投稿: 林 滋 | 2017年9月25日 (月) 12時15分

戦後よく子供が集まるとこの歌を歌っていました。楽しい思い出です。でも、当時は信州のリンゴも甲州のブドウも遠州のミカンも酸っぱくて美味しくありませんでした。酸い物が苦手だったので私は殆ど食べられなかったですね。現在はすべて甘くて美味しくなりました。どれも食べられるようになりました。農家の方々や研究している方々のお陰です。インドリンゴを最初に食べた時は感激しました。最近は売られなくなりましたね。私が住んでいる遠州はミカンも柿も梨もブドウもメロンも何でもおいしく安く食べられます。ただ、リンゴだけはだめですね。今年も毎日おいしくりんごを頂いております。遠州産でないことは確かです。リンゴ農家の皆様有難うございます。


投稿: ハコベの花 | 2017年9月25日 (月) 17時57分

小学生の頃母が木箱でりんごを買っていました。おがくずの中に埋もれているりんごを掘り出して食べました。

りんごは酸っぱくて嫌いでした。アップルジュースは甘いですが最近のりんごも甘いのでしょうか。でももうダメです。りんごと聞くとあの酸っぱさが思い出されて脳が拒絶反応します。

あ!りんご様のことではありません。

投稿: yoko | 2017年9月25日 (月) 22時11分

私の小さい頃、果物専門のお店はなく、普通の食料店が果物を
置いていました。 店のおじさんが木箱の中からりんごを取り出して、白い布巾でりんごを丁寧に拭いているのを見てましたが、木箱の中で緩衝材として使われていたのは、「もみがら」
でした。 きれいに磨かれて店先に並べられたりんごは、青森産だったのか、長野産だったのか、おじさんに聞いておけばよかったなぁ…と思っています。長ーい汽車旅行をしてきたのだろうから…。

投稿: かせい | 2017年9月26日 (火) 01時36分

このところの好天と朝晩の冷え込みで
日に日にりんごも赤味を増しています。
尤も現在収穫のりんごは早生種です。
今しがた夕方の5時50分 隣のリンゴ園で薄暗がりの中を確認したら
晩生のふじも薄らと赤味を帯びていました。
これからの冷え込みとともに赤く大きく育った
ふじに透明な甘い蜜が入ります。

yoko さま
子供のころの酸っぱいりんごがトラウマになっているのですね。有名百貨店や吟味の八百屋さんで手に入ると思われますが。(ネットでも買えるが一個買いは?)山形県朝日町の無袋ふじをお試しください。酸っぱいりんごの概念を否定してくれます。
老婆心まで

投稿: りんご | 2017年9月26日 (火) 18時09分

リンゴにまつわる皆さんのコメントを楽しく拝読しながら二木先生の演奏を聴いています。

りんごさんの「リンゴの歴史は昭和史そのものです。」のコメント通りですね。

私がはじめてリンゴを食べたのは満州奉天市に住んでいた幼児の頃だろうと思います。
昭和10年代満鉄奉天局殖産部に勤務していた亡父の自叙伝によると「南満のリンゴ」の栽培、地下貯蔵、買い付け、輸送などの言葉があります。

昭和21年9月日本に引揚げるまで米軍管理下の葫蘆島で私達家族も収容所にはいったそうです。
ハルピン引揚者は無一文が多く、中央軍の持ち物検査も無事終了、全身のDDT消毒などを受け人間らしくなったと
記されています。
そしていよいよ日本に帰れるという時 父はとっておきのズボンを売り3歳半の私にリンゴを、生後半年の妹にリンゴ汁を飲ませたそうです。

熊本に引揚げ後 リンゴを食べた記憶はあまりありません。無一文で田舎に引揚げた我が家に生活の余裕はなかったのでしょう。しかしラジオから聞こえる「リンゴのひとりごと」は心地よく耳に入っていました。
大きくなって都会の生活をする時、リンゴを沢山食べたいと、「真っ赤なりんご」に憧れていました。
私にとって「寒い北の国から送られてきた真っ赤なリンゴを両手でもち、かぶりつくこと」は夢でした。

投稿: けん | 2017年9月27日 (水) 11時44分

「リンゴのひとりごと」この歌は河村光陽作品の数ある童謡の中でも「なかよし小道」と並んで、今も尚そのメロディに郷愁を誘われる大好きな唄です!

この唄を聴くと思い出すのは、私が幼い頃に我が家の姉たちが近所の女の子たちと、各々のお手製数珠玉袋を使い「リンゴのひとりごと」や「桜井の決別」の替え唄などを歌いながら、リズムにあわせてお手玉遊びをしていました。小さい娘は二つ玉で、大きい娘は三つ玉を使える少女もいましたが、そのうちに一人二人と大人たちも混じってきては、四つ玉や、中には五つ玉を操る大人もいて、みんなでわいわいと賑やかに楽しんでいました。その頃がとても懐かしいです。

また幼い頃に過ごしていた佐賀県の田舎はミカンの産地で値も安く、冬になると毎日食べていましたが、その当時、市場や八百屋さんでもリンゴは値が高くて病気にでもならないと、滅多に口に入れることのできないバナナと同じく貴重な果物でした。
私はリンゴが好きで今はよく食べますが、幼い頃からの名残なのか、今でもまるかじりをしてみたり、妻にも皮は剥かずにそのまま切ってもらいます。

竹永尚義様の2010年3月17日ご投稿、御祖母様のお手紙にまつわるコメントに、恐れながら私は胸を打たれるものがありました。

投稿: 芳勝 | 2018年10月 5日 (金) 00時23分

私もこの歌は大好きです。横浜に住む78才の者ですが、童謡を最近はよく口ずさんでいます。
子供のころは八百屋さんの店先にあるリンゴを見ては青森が産地と思って想像していました。その後信州リンゴといって町内に車で売りに来る人もいました。
後年転勤で広島に6年ほど住んでいたとき、会社の行事でリンゴ狩りがあり、広島でもリンゴが出来るのを知ってびっくりしました。美味しくて家族でたくさんもいで食べたことを思い出します。
リンゴの丸かじりいいてすね。

投稿: 栗さん | 2018年10月 5日 (金) 09時20分

[汽車ポッポ 町の市場へ つきました]の「へ」と「に」について。
「町の市場○つきました」だけを抜き出せば、○は「に」となるでしょう。「に」は「場所」を、「へ」は「方向」を示す助詞だから・・・。しかし、この詞の場合、「林檎畑」と「お店先」が重要で単に「通過点」です。
 「まちの市場へつきました」と書いた作者の細かな心配りに感心しました。 私は20年程前まで国語教師をしてましたが、こういうことを言うと大概嫌がられました。
 

投稿: ezs02123 | 2019年9月17日 (火) 11時38分

『リンゴのひとりごと』を、久しぶりに、二木オーケストラの演奏で聴きました。
最近、この歌を聴く機会は滅多にありませんが、子供の頃はよく聴いたように思います。

この歌のタイトル、歌詞から、リンゴが主人公の歌ですが、みかんや柿などの他の果物が主人公の歌が見られないことから(私が知らないだけ?)、ユニークだなあと思うとともに、心なごみます。
因みに、戦後の名歌『リンゴの唄』(サトウハチロー 作詞、万城目正 作曲、並木路子 唄 S21)の歌詞1番の3行目に、
   ♪リンゴはなんにもいわないけれど♪
そして、歌詞2番の2行目に、
   ♪リンゴに良く似た可愛い娘(こ)♪
などと、リンゴを擬人化した表現が見られます。
思うに、大きい赤いリンゴが、少女の赤いほっぺ(頬)に似ていることに由来するのではないでしょうか。
合わせて、『リンゴの唄』の出だしの、♪赤いリンゴに唇寄せて♪に、リンゴへの親近感を憶えるとともに、想像ですが、”赤いリンゴに頬寄せる”、少女の情景が浮かんできます。

投稿: yasushi | 2022年3月10日 (木) 14時48分

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