雨のオランダ坂
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 こぬか雨ふる 港の町の 2 雨のふる日の 日ぐれの頃に 3 異人屋敷の 窓の灯りで |
《蛇足》 昭和22年(1947)の松竹映画『地獄の顔』の主題歌。
もとは菊田一夫作の新国劇『長崎』(初演は昭和21年)の劇中歌として作られたもので、カフェの女たちが歌う場面で使われました。
この映画では、『雨のオランダ坂』のほかに、『夜霧のブルース』『長崎エレジー』『夜更けの街』と計4つの挿入歌が作られました。いずれもヒットしましたが、とりわけ、『雨のオランダ坂』と『夜霧のブルース』は懐メロ番組で繰り返し歌われ、ロングヒットとなりました。
『雨のオランダ坂』は、『地獄の顔』の原作者・菊田一夫が作詞しました。映画の内容については、『夜霧のブルース』をご覧ください。
「マドロス」はオランダ語のmatroosが語源で、水夫とか船員を意味します。昭和30年代半ばごろまでは、『ひばりのマドロスさん』など、歌謡曲によく出てきましたが、その後はさっぱり見かけなくなりました。一般の言葉としても、死語に近いといってよいかもしれません。
オランダ坂は長崎市の観光名所です。だれでも知っていると思いますが、念のため。
(二木紘三)
コメント
昭和30年生まれの私には、何の思いでもない歌ですが、
この歌を聴いて、懐メロに興味を持った気がします。
すごく新鮮なメロディーと言う印象がありました。
投稿: M子 | 2008年6月30日 (月) 20時38分
二木様今晩は
「MIDI歌声喫茶」の時から楽しませて戴き、誠に有り難う御座います。最近はiPod touchでサイトを開き楽しませて戴いております。
ところで、ここ2日位前から選曲をしますと、「Quick Time」のアイコンに「?」マークが入り、音楽を聞くことが出来ない曲が有ります。(例:最近の記事掲載の曲名の内、①満州の丘に立ちて、②たびたち歌、③私の青空、④リンゴのひとりごとの4曲のみが試聴出来、他は聞くことが出来ません。)
これは、何か今までと方法と変わったんでしょうか???
もし、聞く方法が有ればご教示の程お願い申し上げます。
それでは、二木様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
投稿: Hirose Nakayasu | 2008年7月 5日 (土) 00時26分
7/1 の日にアクセスが禁止されています こんな表示に狼狽したのは 私だけでは無いようですね hiroseさまが仰られます通り 満州の丘に立ちて が聞くことが出来ました サイト側の説明では 此処へのアクセス数が多すぎて 参ったまいったとか 一日 二日の禁止 その後順次回複致しますので しばしご容赦下さいだって・・・ 吃驚したなも~ あははは
投稿: 寅 君 | 2008年7月 9日 (水) 21時38分
いつも楽しく聴かせていただき有難うございます。私は30年生まれですが高校時代よりナツメロばかり聞いておりました。古関裕而さん作曲の長崎の歌で好きな歌が3曲あります。『長崎の鐘』『長崎の雨』そして『雨のオランダ坂』です。長崎には何度か訪れましたが、異国情緒と幾多の悲哀がこの3曲で表現されているように思います。これからも素晴らしい音楽をよろしくお願いします。
投稿: 戦後生まれの昔人 | 2008年7月 9日 (水) 22時41分
昭和28年頃私が小学校3年だったと思いますが、当時人口10万たらずのわが町の商業高校に渡辺はま子が来ました、その頃は公会堂などあるはずもなく講堂での公演でした。
27年に父が死亡、当時高校生の近所のお兄ちゃんがよく可愛がってくれ、連れて行ってもらいました、この歌も歌ったのは事実ですがあまり印象にはなく、「モンテンルパの夜はふけて」の方が印象に残っております。
あきらちゃんと言うお兄ちゃんでしたが懐かしく思い出しております、国鉄の車掌をしていると言うことは聞きましたが定年後10年近くにもなり元気で居られることを祈りつつ感慨にふけっている今日この頃です。
それにしても二木先生のコメントには毎回見るたび聞くたびに泣かされております、何時までもお元気に続けてくださいますようお祈りいたします。
投稿: トクラテス | 2008年7月12日 (土) 15時47分
トクラテス様は学校の講堂でお聴きになったのですね。
私が友達に誘われて行った所は神社の境内でした。
木材で組み立てられた俄作りの舞台に裸電球が並び、芸人さんの歌や踊りを生で楽しみました。
劇場は有料ですが星空を仰ぐその場所は椅子もなく無料です。
当時中学生の私が舞台を見ていて“かっこいい!”と思ったのがマドロスさんの衣装と仕種。肝心の歌が「雨のオランダ坂」だったか?、はっきりとは覚えていないのですが‥‥多分この曲です。そうします。歌手は無名の方だったと思います。
刈り入れ時の秋祭り、感謝と慰労の催しだったのでしょう。
投稿: 高木ひろ子 | 2008年8月19日 (火) 22時16分
いつも楽しく聞かせて頂いており、このサイトにたいへん感謝しています。
さて、3番の歌詞の一行目の「窓の灯りで」は「窓の辺りで」の誤りではありませんか?
ネットの検索で調べても両方が出てきて正しいのが判らないのですが、
渡辺はま子さんのレコードを聞くと「あたりで」と聞こえるのです。
文脈からしても彷徨うのですから、「辺りで」が正しいように思えます。
投稿: タイチョー | 2011年3月12日 (土) 09時11分
「窓の灯り」か「窓の辺り」がですが、その後
YouTubeの昭和48年の映像ではに渡辺さんご
本人が「灯りで」と歌っていました。
「窓の灯りで、のぞいて見れば」と読むと文脈も
通ることになり、ますますどちらが正しい歌詞なのか
判らなくなってきました。
もしかすると、渡辺さんが吹き込みの時に間違
えた可能性もあるように思えます。
投稿: タイチョー | 2011年3月12日 (土) 09時38分
一番の歌詞にオイルのコートとありますが まだビニール等発明されていない時代です ごく薄い絹布に即乾性の油を塗った生地で防水の布で縫製したレインコートのことです 昔縫製の仕事をしていました
投稿: 夢見る男 | 2011年3月29日 (火) 19時43分
写真家の浅井慎平さんがNHKのおしゃれ番組に、若い日外国で買ったというオイルのコートを出品されていました。
南北戦争の将軍が着ているようなぴかぴかの半コートでした。
「藤浦洸作詞の雨のオランダ坂に唄われているオイルのコートです」と紹介していました。永年私も藤浦洸の作詞と思っていました。
投稿: 華雄 | 2011年3月30日 (水) 17時40分
タイチョーさんと同じに私も疑問を感じて<辺り>か<灯り>か調べたことがあります。
この歌は私が最初に全曲の歌詞を覚えた、思い入れのある歌謡曲です。その記憶では三番の歌詞は「異人屋敷の窓のあたりで」でした。NHKの「深夜宅急便」から原盤を録音して楽しんでおりましたが、やはり「窓のあたりで」。五、六年前、ネットでMIDI音楽が聴けることが分かって検索してみましたら、何とほとんどが「窓の灯りで」の歌詞で、漢字も<明り>でなく等しく<灯り>じゃあありませんか。二、三年まえからYou Tubeで歌声も聞けるようになって、レコードから採録のものはほとんど「窓の辺りで」の一方、ビデオ画像や他の歌手などはほとんど「窓の灯りで」で、渡辺はま子ご自身もなんと「窓の灯りで」と歌っていました。この間、何が起きたのでしょうか?
私が思うに、何時か、誰か、何処かで、歌詞の意味・構成上で意図をもって改変したものと想像しています。「異人屋敷の~窓の辺りで」とすると、<窓>はそれが場所を表わす有名なものでなければ如何にも唐突です。反対に、「窓の灯りで~濡れて彷徨う」とすると、これも変ですが、「窓の灯りで~濡れて彷徨うマドロスさんを恋しい人かと~覗いて見れば」とすれば少々修飾関係は遠いですが、意には適います。
この歌の歌詞は背景全体が港、オランダ坂、マドロス、雨以外に<夕暮れ>のイメージも重要です。想い出場面の一番、二番はそれがはっきりと分かる言葉で表現されていますが、現在を表わす三番を「窓の辺りで」とすると<夕暮れ>を表わす言葉がなくなり、時間的に曖昧となります。これが私が昔から漠然と感じていた疑問でしたが、夕暮れを表わす「窓の灯りで」により、明確となったと思います。
投稿: 飯田 | 2011年5月 5日 (木) 10時10分
上記の<辺り>か<灯り>か、と同じことが同じ作詞作曲コンビ、菊田一夫作詞、古関裕而作曲の「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」でも起こっています。一番の歌詞「風はそよそよ丘の家(上)」が<いえ(家)>か<うえ(上)」かというところです。私の記憶では「風はそよそよ丘の上」でした。ところが川田正子などのレコード原盤やMIDIサイトは概ね「風はそよそよ丘の家」となっています。私の記憶違いかと思って調べましたが、全音の楽譜は「丘の上」、You Tubeでも古いレコードは「丘の家」、由紀さおりなど新しい歌手のものは「丘の上」、そしてこの二木先生のサイトが「丘の上」。
原盤<家>→最近<上>と、「雨のオランダ坂」と同じ道を歩んでいるようですが、意味から見てみますと、詩人が情景描写で「風はそよそよ丘の<家>黄色いお窓はおいらの<家>よ」と<家>を重複して説明するだろうか?という疑問が<家>には残ります。両方とも菊田一夫氏がどこかで修正したのかな?と思いますが、検証できていません。それにしても、<あたり>と<あかり>、<いえ>と<うえ>。微妙ですねぇ・・・
投稿: 飯田 | 2011年5月 5日 (木) 13時08分
飯田様
窓の辺り⇒窓の灯り への変遷のついての素晴らしいご推察、感服しました。 また、鐘の鳴る丘についてのご指摘非常に興味深く拝見しました。
投稿: タイチョー | 2011年5月 5日 (木) 15時59分
飯田様
雨のオランダ坂の2番でも次のような変遷があります。
(レコード) 暮れて歩けば
(後のステージ) 濡れて歩けば
投稿: タテチョー | 2011年5月 5日 (木) 21時46分
タテ(イ?)チョーさん、ご指摘ありがとうございます。
私の記憶は<濡れて歩けば>で、歌の情景にもピッタリですので疑問を持ったこともなく、<辺り>に疑問を持って検索した時にも気付きませんでした。You Tubeの外盤と称するレコードでは、はっきりと<くれて・・・>と聞こえます。他のレコードでは<く>か<ぬ>か明確には聞こえませんでした。晩年の画像では<ぬ>と聞けばそうかな、という程度。楽譜は<ぬ>のものしかありませんが、タイチョーさんご指摘のように、吹き込み時の間違いか、渡辺はま子さんの発音に起因することかも知れませんね。両作者亡き後、意味合いでいくしかないのかも・・・。
この二木先生のサイトの「侍ニッポン」の<蛇足>にありますように、吹き込み時<新納鶴千代=にいろつるちよ>を徳山璉が間違って<しんのう・・・>と歌ってしまったものが定着した、など経緯のはっきりしたものも多いですが。
投稿: 飯田 | 2011年5月 6日 (金) 13時37分
鐘の鳴る丘についてあるMIDI制作者の意見です。
全音の「叙情歌のすべて」にも丘の上と記載してありましたので<上>としてありますが、一般的には概ね<丘の家>となっているようです。しかし、と再び、歌詞の全体を見ますと、詩人が、隣り合わせたフレーズに、<丘の家の黄色い窓はおいらの家よ>とするだろうか、という疑問が残ります。三番の最終フレーズも参照して下さい。
投稿: 海道 | 2012年2月14日 (火) 11時44分
渡辺はま子さんは、心に残る数多くの歌を当時の国民に残してくださいました。先の大戦のさなか、戦地に芸能慰問隊として来られたその中に、渡辺はま子さんがいらしたと私の父から聞いたのです。志願して入隊したけれど、理不尽な規律と過酷な軍隊生活の中、唯一の娯楽のひとつがこの慰問隊だったのです。
投稿: 国境の春 | 2015年2月27日 (金) 01時41分
渡辺はま子さんの大フアンの一人です。彼女の歌唱力は抜群だと思います。以前、長崎に旅行に行ってこの歌を思い出しました。昭和初期の良き時代が伝わってくるようで懐かしい限りです。
投稿: 一章 | 2015年7月28日 (火) 19時48分
この歌は終戦2年目の当方7才の時に・・・
当時、恋のこの字も知らない子供でしたが、なにか恋心(?)が芽生えた頃、耳にした不思議と懐かしい歌です。
投稿: すー | 2017年8月28日 (月) 21時01分
すーさま 私も終戦2年目の時、7歳でした。
私が生まれた東京都(現在の荻窪市)から九州の両親の故郷に身を寄せるようになり戦後の食糧難時代に巻き込まれました。
この歌との出会いは、その当時、ラジオから流れる渡邊はま子さんのこのメロディーに心を引かれ勇気づけられました。
現在、昭和期の懐かしいSP盤コレクションの中の一枚と出会い、過ぎ去った日々を懐かしく想い出しております。
コメントありがとうございました。
投稿: 一章 | 2017年8月29日 (火) 19時45分
1930頃から1980年頃までの気に入った歌を聴いています。
渡辺はま子さんは、戦前ビクターに少し在籍し、その後コロムビア移籍し終戦、戦後は少しコロムビアに残り、直ぐにビクターに復帰した経緯があります。
したがって、復刻盤がレコード会社ごとになり、ビクターからは、戦前初期・戦後大半である復刻盤、コロムビアからは戦前大半・戦後初期である復刻盤・・・、となり統一感にかけ全体像が把握し難くなってしまう。
この「雨のオランダ坂」と「火の鳥」の、もっともポピュラーと思われる2曲が分断されてしまう復刻CDが多く、2曲とも印象が薄まっている気がしないでもないが、至極いい楽曲と思われる。代表曲といっても過言でない。
最近になって、やっと渡辺はま子さんの各全曲を、時間軸とおりに編集し、鑑賞しているが、素晴らしいの一語である。
投稿: AtoQ117 | 2020年10月13日 (火) 15時20分
菊田・古関コンビによる名曲ですね…。
オリジナルは渡辺はま子盤ですが、手元に織井茂子のヴァージョンもあり、(ステレオ時代のものと思います)。こちらも素晴らしい出来栄えです。
投稿: ジーン | 2024年11月 8日 (金) 15時10分
「雨のオランダ坂」「桑港のチャイナ街」「あゝモンテンルパの夜は更けて」この三曲は渡辺はま子さん・私の好きな唄ベストスリーです!
中でもこの「雨のオランダ坂」は断トツで、菊田一夫氏の詩の良さもさることながら、何と云っても大家・古関祐而氏がこの詩に付けたメロディが私は大好きで、最近でも何気にこの唄をふと口遊んでいることがあるほどです。
『・・けむに むせてか 泣いていた 泣いていた・・』私は、何故か番末のこのフレーズのメロディには堪らないほどの魅力を感じるのです。
少年(12歳と15歳)のころ修学旅行で長崎へ行き、私はオランダ坂の石畳を二度歩いたことがありますが、いずれもバスガイドさん案内の団体行動で、しかもまだ子どものころでもあり風情を味合うなんてことは到底ありえませんでした。
これは、私の贅沢な望みになるのかも知れませんが、せめてもう一度だけ父の生まれ故郷でもある長崎の地を訪れ、その際には小雨の降るオランダ坂の石畳を、一人傘をさして歩くのも風情があって良いのかも・・・なんて、最近ではここでメロディを聴きながら時折そんなことを思ったりする自分がいます。
「雨のオランダ坂」この唄を筆頭にYouTubeにアップされている、渡辺はま子さんの澄み切ったその歌声の数々はどれもみな実に素晴らしく、まさに実力派たる所以ですね。
投稿: 芳勝 | 2024年12月29日 (日) 16時55分
先日交流掲示板のところで、百歳まで生きるぞおと叫んではみたけれど、まあ歳がとし、近頃持ち物を整理するようになってしまった。 今日なぞは、衣類を取り出したのだが、そのうちのコート三着、これまで宝物のように大事にしてきたもの、どうしても処分する気になれない。
まだ子供の頃、この「雨のオランダ坂」を聴いたとき、歌自体の良さもさることながら、そのなかの「オイルのコート」という言葉に捉われてしまったのだった。 「オイルのコート」、どういうものかは知らないけれど、それを着た「外人」が長崎のオランダ坂という素敵そうな道を歩いていく、ずいぶんかっこいいんだろうななどと思ったものだった。
当時戦後の事とて、英国の軍人が出る映画がかなりあったが、トレンチコートを着ている英国軍人の姿のカッコよさにすっかり魅せられていたのだった。 (その頃はまだバーバリーコートとは言っていなかったと思う)
特に、映画「第三の男」の中での、アリダ・ヴァリが古ぼけたトレンチコートを着て、待ち受けるジョセフ・コットンを無視してすたすた歩いていく姿(この映画の中の最高の場面だが)、じつに様になっていて素晴らしかったのだった。
この曲や映画に触発されてコートというものに気を遣うようになり、結局、ドイツ製のスプリングコート(ハーフ丈)、アメリカ・オレゴンの Pendleton のオーバー・コート (これもハーフ丈)、そして念願のバーバリーのトレンチも手に入れた。 この三着生涯の宝物的存在である。
私にコートに執着させるようになったこの「雨のオランダ坂」様々よ。 変な自慢話になるけれど、私は胸が厚いから、トレンチコートがよく似合うのではないかと、、、思うんだけれど、、、 まあ、アラン・ドロンのトレンチ姿にはかなわないか。
一度このバーバリーを着て、長崎に行って雨のオランダ坂を歩いてみるか。
投稿: 田主丸 | 2025年4月12日 (土) 02時25分