終着駅
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落葉の舞い散る 停車場(ば)は 真冬に裸足(はだし)は 冷たかろう (間奏) 肩抱く夜風の なぐさめは そして今日もひとり 明日もひとり |
《蛇足》 昭和46年(1971)12月25日に発売。
奥村チヨは、昭和44年(1969)の『恋の奴隷』を筆頭に、『恋狂い』『恋泥棒』と、女性の官能を赤裸々に歌った曲が続けざまにヒットしたため、そのコケティッシュな容姿と相まって、お色気歌手のイメージが定着してしまいました。
しかし、彼女自身はそのたぐいの歌は好きではなかったし、ほんとうの自分は、世間のイメージとはまるで違うと思っていた、と語っています。
昭和46年末、奥村チヨは1枚の楽譜をレコード会社の社員から見せられました。それを見たとたん、彼女は「ああ、私がほんとうに歌いたかった曲にやっとめぐり会えた」と感じたそうです。
それが、作曲家としてなかなか芽の出なかった浜圭介が乾坤一擲の思いで書いた『終着駅』でした。
その年の12月25日に発売された『終着駅』は、年が明けてから爆発的に売れ出し、最終的には100万枚を超す大ヒットとなりました。
のちに、奥村チヨは浜圭介と結婚、芸能界から退きました。
浜圭介は『終着駅』に続いて、『そして、神戸』『雨』『石狩挽歌』『舟唄』『雨の慕情』『哀しみ本線日本海』『すずめの涙』『心凍らせて』など、次々とヒットを飛ばすことになります。
さて、終着駅ですが、ここで歌われているのは、東京なら新宿や上野、パリなら東駅や北駅、ローマならテルミニ駅といった大都市のターミナル駅ではないと思います。
その逆、すなわち幹線からローカル線に2度か3度乗り換えて、もうその先に線路はないという終点の小駅でしょう。
駅舎は廃駅と見まがうほど古くて小さく、薄暗い電灯の下で、年老いた駅員が、ほとんど降りてこない乗客を待っています。もしかしたら、無人駅かもしれません。
駅前に狭い広場があるものの、バスもタクシーも止まっていません。広場から続く道の両側には、軒の低い家が数軒まばらに立っているだけ。初冬の冷たい風が道ばたに積もった枯葉を時おり舞い上げるという、わびしい光景です。
この終着駅はもちろん、比喩としての終着駅であり、現実の場所を指しているわけではありません。しかし、歌っている人の脳裏には、このような光景が浮かんでいるのではないでしょうか。
そんなわびしく暗い光景の中に、毎夜、「過去から逃れた女」が、1人か2人ずつ降りてくる。その過去は1人ひとり違うともいえるし、みんな似ているともいえます。
降りては来たものの、乗り物はないし、あったとしても、ゆく場所がありません。女たちの多くは、ここをそれまでの人生の終点とするつもりで、過去から逃げてきたのでしょう。
しかし、その気になれば、旅は続けられます。夜が明ければ乗り物が見つかるかもしれないし、見つからなくても、歩くことはできます。元の列車に乗って、別の方向へ向かうという手もあります。
いずれの場合も、過去からもってきた「重い荷物」は捨てなくてはなりません。それを抱えたままでは、新しい旅は始められません。
(二木紘三)
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コメント
落葉の舞い散る停車場・・・・・・着眼点が良いですね。それと奥村チヨの歌い方がこの曲に向いてる。
投稿: M.U | 2008年9月11日 (木) 06時40分
昭和47年といえば子育てに夢中の頃で、歌は頭の上を素通りしていたようです。
いま、何度も練習してお蔭様で歌えるようになりました。嬉しい!
投稿: 高木ひろ子 | 2008年9月23日 (火) 19時18分
落葉の舞い散る停車場に降り立った女性達も今や還暦
ですが、幸せに成れたのでしょうか。先生の名解説を
よんで、ふとそう思いました。
投稿: 海道 | 2009年4月23日 (木) 18時44分
「終着駅」今日徹子の部屋で久しぶりに奥村チヨの生歌でこの曲を聴きました!
今年いっぱいで引退を決めた彼女ですが、相変わらずおしゃれで、とても71才とは思えないプロポーションとまたその歌唱力の素晴らしさを実感させてくれました。
恋の3部作「恋の奴隷」「恋狂い」「恋泥棒」がヒットしていた頃からファンの私には、この色っぽい歌も、彼女が歌うと何処かに清潔感を感じさせてくれました。またその少し後に発売の「中途半端はやめて」この歌も恋の三部作と同じくあの大作曲家筒美京平のメロディが素晴らしく、私の大好きな歌でした。
また夫である作曲家浜圭介が手掛けた「終着駅」奥村チヨ最大のヒット曲となったこの歌は、どうしても彼女が歌いたいと切願して歌うことになった曲だと本人が言っていたのも解るような気がします。
奥村チヨが引退するのはファンとして淋しくもありますが、彼女には素敵な幕の引き方のような気がします。
投稿: 芳勝 | 2018年10月24日 (水) 16時58分
この歌が発売されたのが昭和46年、大学生最後の年でした。この歌がうた物語に取り上げられたのが2008年、サラリーマン最後の年でした。ある意味終着駅であり節目、節目の年でもありました。
タイトルは忘れてしまいましたが、かってのサラリーマンは定年後どこにいるのか、という内容の本を書評で読んだことがあります。喫茶店でコーヒーを飲んでいる、図書館で新聞を読んでいる、スポーツジムで汗を流している、といった内容だそうでした。まさに俺のことじゃないか、嫌な本だなぁと思いました。アメリカではコーヒー一杯で長時間居座っている客が店員に箒で追い出され、トラブルになったというニュースも聞きました。老人の住みにくい世になっているのかもしれません。”働かざる者食うべからず”なのでしょうか?
先日の”春分の日”は家族連れも多くマクドナルドも大入り満員でした。私はコーヒーカップを手にもって空席を探していたところ、店員さんが近寄ってきて、「お客様、お客様、お席をお探しでしょうか?」と話しかけられました。そして私から離れて行かれたのですが、しばらくして戻ってこられ、「お客様、こちらへどうぞ・・・」と一人席に案内していただきました。そして、「いつもありがとうございます」とにっこり。
内心は俺なんかいつも百円コーヒー一杯で店に嫌われているんだろうな、と不安を感じてもいたのですが、ホッとした一日でした。僕にとってはマクドナルドが終着駅になるのかも知れません。
投稿: yoko | 2019年3月22日 (金) 09時41分
奥村チヨさんの歌唱には、「終着駅」以前は「何だこの歌い方は」と思いながら聴いていました。しかし「終着駅」は違いました。幾度か聴く間に、一人しみじみ聴く歌謡曲の一つとなりました。これは浜圭介さんには悪いが、チヨさんの歌唱と千家和也さんの詩に負うところが大かと思いました。このページの冒頭の写真のように、吹き溜まりに肩寄せ合う枯葉は喜寿を越えた昨今の自分のように思えます。
私は毎週土曜日、中学時代の級友と4,5人が喫茶で集まる「モーニング」を続けていますが、まさにこの枯葉の光景が重なります。
人生の終着駅に着き、荷物を下ろしてこし方を振り返る自身を歌っているようです。人生を歌う歌としては仲宗根美樹さんの「川は流れる」と並ぶ名歌だと思います。
最近の川柳「枯葉たち肩を寄せ合う吹き溜まり」自嘲の句です。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2024年5月20日 (月) 08時24分