からたちの花
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からたちの花が咲いたよ からたちのとげはいたいよ からたちは畑(はた)の垣根よ からたちも秋はみのるよ からたちのそばで泣いたよ からたちの花が咲いたよ |
《蛇足》 北原白秋と山田耕筰のからたちにまつわる思い出が響き合ったところから、この名作が生まれました。
北原白秋は大正7年(1918)、34歳のとき、東京から神奈川県小田原に転居、天神山の浄土宗伝肇寺(でんじょうじ)に寄寓します。この伝肇寺から水之尾への山道がお気に入りの散歩道でした。
その途中にからたちの木がありました。それを見たとき、故郷・福岡県柳川の小学校への通学路にからたちの生け垣があったことを思い出し、それが『からたちの花』のモチーフになったといわれています。
転居した年、白秋は鈴木三重吉の誘いを受けて新童謡運動に参加、児童芸術雑誌『赤い鳥』の童謡面を受け持つことになりました。これを機に、白秋は童謡を書き始めます。
『からたちの花』は、大正13年(1924)に『赤い鳥』の7月号(第13巻第1号)に掲載されました。翌年童謡集『子供の村』に、さらに昭和4年(1929)年、童謡集『月と胡桃』にも再録されました。
小田原での生活を切り上げて上京した大正15年(1926)、童謡集『からたちの花』が発行されました。
なお、伝肇寺から水之尾への道は、小田原市が『からたちの花の小径』として整備し、観光の目玉の1つとしています。
もう一方の山田耕筰ですが、この時代に大衆音楽ではなく、クラシックの作曲家を目指したこと、ドイツへ留学していることなどから、裕福な家のお坊ちゃんというイメージを抱いている人が多いようです。
事実は逆で、10年に及ぶ父親の病気のため、子ども時代は貧しさを極めていました。9歳のとき、夜学校を併設している東京・巣鴨の印刷所に入れられ、昼間は印刷の下働き、夜は勉強という生活を送りました。
寄宿舎の食事は粗末で、育ち盛りの身には全然足りないため、印刷所の回りの畑から野菜を手当たり次第に頂戴して、生のままかじりました。
印刷所の庭にからたちの垣根があり、秋になると、実が黄色くなりました。酸っぱすぎて、普通なら食べられるようなものではありませんが、野菜といっしょにかじると、なんとか食べられました。
職工たちに怒鳴られ、蹴飛ばされたときには、からたちの垣根まで逃げて、その根元で泣きました。
10歳のとき父親が亡くなり、13歳のとき肺病に罹患、18歳のときに母親を亡くす、といったふうに苦難は続きました。
その後、働きながら、東京音楽学校に学びます。苦学を絵に描いたような困難きわまる学生生活でしたが、24歳のとき、才能が認められて、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太の援助でドイツへ留学することができました(以上『はるかなり青春のしらべ―自伝/若き日の狂詩曲』より)。
以後の活躍は、よく知られているとおりです。
私の記憶に残っているからたちの木は、幼馴染みのひとり"西のヒロちゃ"の家の庭に植わっていたものだけです。ヒロちゃたち遊び仲間と野山を遊び回ったものですが、ほかの場所にからたちはありませんでした。
今住んでいるところは樹木の種類の多い町ですが、ほうぼう歩き回っているのに、からたちにはまだ一度も出会っていません。(その後一箇所見つけました)。
戦前は防犯目的で生け垣としてよく植えられたようです。しかし、近年は住宅事情の変化から、ほとんど使われなくなりました。鋭いトゲが嫌われたことに加えて、生け垣そのものが減ったことにもよるのでしょう。
からたちという名前は知っていても、実物を見たことがある人は、案外少ないかもしれません。
曲は4分の3拍子と4分の2拍子がめまぐるしく入れ替わるのが特徴です。その切り替わりを意識して歌えば、作曲者の意図した効果が表現できるのでしょうが、声楽を学んだ人でなければむずかしいと思われます。
(二木紘三)
コメント
今は見れなくなった「からたち」もネットでは花も実もいつでも見れますね。みかんの一種ですね。Wikipediaによりますと、オレンジとカラタチの合成種は「オレタチ」というそうです。この曲で、カウンター12345678ゲット。2008.10.18(土) 16:46 画面はコピーしてあります。関係のないことをすいませんでした。オレタチのためさらなるご発展を。
投稿: araichi | 2008年10月19日 (日) 07時24分
有名な「からたちの花」ですが、作詞、作曲者の生い立ちとか、この歌が出来上がるまでの経緯は知りませんでした。
1オクターブ下げて歌えばちょうどよいようです。出来れば前奏があればとは思いますが・・・^^。
投稿: 三瓶 | 2008年10月19日 (日) 19時15分
1音下げました(ハ長調→変ロ長調に)。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2008年10月19日 (日) 21時43分
私の郷里では、からたちの花は見かけなかったと思います。しかしなぜか、子供の頃のことが懐かしく思い出される歌です。
二木先生の解説で、特に山田耕筰の生い立ちには深い感銘を覚えました。山田耕筰の作品ではありませんが、童謡『叱られて』を思い浮かべたり。「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を労せしめ、その体膚を鍛えしめ、その身を空乏にし、おこなうこと、そのなさんとする所に払乱せしむ。」という孟子の言葉が思い浮かんだり。
ところで昭和30年代後半頃、『山田耕筰物語』という映画がなかったでしょうか?確か中学生の頃、町の映画館で観たような記憶があるのですが。ストーリーは全く覚えていませんが、ラスト近くで山田耕筰ご本人が登場されたような…。
投稿: 大場光太郎 | 2008年10月21日 (火) 19時18分
童謡教室の仲間が映画「この道」を上映中だと紹介してくれましたので 行ってきました。映像も綺麗で良かったと思います。
土曜日の13:15開始でした。シニアの方がほとんどで学校で教わった北原白秋、山田耕筰しか知らなかった私は勉強になりました。また与謝野鉄幹夫妻や鈴木三重吉等も出てきます。
如何に当時の文学、音楽関係のことについて知らない我が身に恥じ入りました。二木先生の解説をあらかじめ読んでいましたので興味深く鑑賞できました。有難うございます。
投稿: けん | 2019年1月19日 (土) 17時43分
懐かしさの中には 愛おしいという意味もありますね。
(辞書で知りました)この歌は懐かしさを呼び起こします。
二木先生の解説 子ども時代の:山田耕筰に胸が痛みました。・岩崎小弥太は救いの神ですね。
先日 ラジオ深夜便で・山田耕筰の研究家の話があったが主にドイツ時代の事や。
戦時中の軍歌の作曲は兵隊さんを励ますという時代の要求に応えざるを得なかったという事情。
途中睡魔に襲われ聴き洩らしもあったか知れないが、山田耕筰研究家の後藤さんという女性の方、やんごとなき出自とみえてとてもおっとりと緩やかで聞き取るのに 神経を使いました。
投稿: りんご | 2019年1月19日 (土) 20時24分