島原(地方)の子守唄
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞・作曲:宮崎一章(康平)、唄:島倉千代子/ペギー葉山
1 おどみゃ島原の おどみゃ島原の 2 帰りにゃ寄っちょくれんか 帰りにゃ寄っちょくれんか 3 沖の不知火(しらぬい) 沖の不知火 |
《蛇足》 歌の感じからすると、『五木の子守唄』のように古くから歌い継がれてきた民謡のように思われますが、実は昭和25年(1950)ごろに作られた新民謡です。作者は『まぼろしの邪馬台国』の著者・宮崎康平。
宮崎康平は大正6年(1917)、長崎県南高来郡杉谷村(現・島原市)に生まれました。
康平はペンネームで、本名は別にあります。最初の戸籍名は懋(つとむ)でしたが、のちに失明した際、自署が困難、活字がないなどの理由で一章と改名しました。ただし、字画を理由に一彰を使っていた時期もあります。
ペンネームも、若いころには耿平を使っていました(以上、名前についての情報は中井修さんからいただきました)。
早稲田大学文学部を卒業後、東宝の脚本部に入社しましたが、まもなく帰郷して家業の土建業を継ぎました。昭和22年(1947)には、乞われて島原鉄道の常務取締役に就任します。
当時の島原鉄道はオンボロ鉄道で、並行して走るバスに次々と客を奪われていました。
昭和24年(1949)、天皇が長崎巡幸の途次、島原半島を訪問する旨が伝えられました。当初は諫早(いさはや)でバスに乗り換える予定でしたが、康平が猛烈に運動した結果、お召し列車をそのまま島原鉄道に乗り入れることになりました。
ただし、その条件として路盤を強化し、レールを丈夫で安全なものに取り替えることが求められました。
康平の陣頭指揮のもと、昼夜兼行の工事が始まりました。康平は学生時代から眼底網膜炎を患っていましたが、このときの過労がたたって、翌年、ついに失明してしまいました。
失明の苛立ちや経済的危機などが原因で妻との関係がまずくなり、やがて妻は2人の幼子を残して出奔してしまいます。
のちに康平は、「妻に見捨てられた我が子を抱いて、失明の苦悩にじっと耐えながら、オロロン、オロロンと土地の年寄り衆が歌っていたあやし言葉を入れて歌っているうちに、なんとなくできた」のが『島原の子守唄』だと述懐しています。
失明を理由に常務取締役を辞した康平でしたが、昭和32年(1957)7月の諫早大水害で大損害を受けた島原鉄道の懇請を受けて復帰、再び鉄道復旧の陣頭に立ちました。
その工事の際、多数の土器が出土したことから、康平は古代史に強い関心を持つようになります。
その後康平は非常勤取締役に退き、再婚した和子夫人とともに、邪馬台国について九州全域から朝鮮半島まで調査して回ります。その結果をまとめたのが、昭和42年(1967)に講談社から発売された『まぼろしの邪馬台国』です。
この本は空前のヒットとなり、日本中に「邪馬台国論争」を巻き起こしました。その功により、この年創設された吉川英治文化賞を受賞しました。賞は、和子夫人の功績大であるとして、夫妻宛になっていました。
このへんの2人の生活ぶりについては、平成20年(2008)、吉永小百合・竹中直人主演で映画化され、話題を呼びました。
話を『島原の子守唄』に戻しましょう。
康平が子守りの際に口ずさんでいた歌は、次第に周辺の人びとにも知られるようになりました。昭和28年(1953)には保存会が結成され、九州各地でのさまざまな催事の折に歌や踊りが披露されました。
この歌が全国に知られるようになったきっかけは、菊田一夫でした。昭和27年(1952)、子守唄の取材で九州を訪れ、この歌に感銘を受けた菊田一夫は、帰京後、古関裕而に歌って聞かせました。
同年、康平は島原鉄道の依頼で『島原鉄道観光の歌』を作詞します。偶然にも、その作曲を引き受けたのが古関裕而でした。
古関の強いすすめを受けて、康平は『島原の子守唄』としてあらためて作詞、古関が編曲して、昭和32年(1957)、島倉千代子の歌でコロムビアレコードから発売されました。
レコード制作に当たって、島原地方の古謡がこの歌のベースになっているとされましたが、なぜか康平は自分の作だと主張しませんでした。そのため、レコードには「採譜・補作:宮崎耿平、編曲:古関裕而」と記載されました。
しかし、その後、歌詞も曲も康平の創作だとわかり、以後は「作詞・作曲:宮崎一章」で売られるようになりました。
島倉の歌で『島原の子守唄』は次第に人びとに知られるようになりましたが、大ヒットというまでには至りませんでした。
島倉盤から2年後、康平は妻城良夫との合作で別ヴァージョンの歌詞を作りました。タイトルも『島原地方の子守唄』と変え、ペギー葉山の歌でキングレコードから発売されました。これが大ヒットとなり、この歌は全国に知られるようになります。上記の歌詞は、このペギー葉山盤に依っています。
子守唄には、幼子を寝かしつけるための字義通りの子守唄と、『五木の子守唄』のような、子守り娘の不幸な境遇や望郷の思いを歌った「守り子唄』の2種類があります。
『島原(地方)の子守唄』は、「はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい」とあやし言葉が入っていることから、前者に分類されます。しかし、主要なテーマになっているのは実は「からゆきさん」です。
明治時代、島原半島や天草諸島の貧しい農家から、多くの娘が身売りに出されました。その数は累計20万人とも30万人ともいわれます。
彼女たちは、島原半島南端の口之津港に深夜密かに集められ、そこで外航船の船底に石炭とともに詰め込まれて、中国や東南アジア各地の娼館に売られていきました。
彼女たちの運命は過酷でした。外航船のなかで船員たちの慰み者になることも多かったし、娼館では辛い性奉仕や男たちから移された病気によって命を落とす者も少なくありませんでした。こうした女性たちが、からゆきさんと呼ばれました。
からゆきさんのなかには、無事年季を終えて帰郷し、貯めた小金で親のために家を立てる者もいました。身を売って得た金であるにもかかわらず、そうした家は近所からうらやましがられたといいます。
からゆきさんについては、山崎朋子著『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』(初版昭和47〈1972〉年)に詳しく書かれています。また、この作品は『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで、熊井啓監督によって東宝で映画化されました。
幼いころからからゆきさんたちのことを見聞きしていた康平は、子守唄を歌っているうちに、自然にそうした話を歌詞に織り込んでいったのでしょう。『島原の子守唄』の寂しいメロディは、からゆきさんたちの悲しい運命を歌うのにぴったりでした。
写真はからゆきさん(シンガポール国立博物館蔵)。
上記の歌詞に出てくるわかりにくい言葉について、少しばかり書いておきましょう。
「おどみゃ」は「私は」の意。
「しょうかいな」はそうかいなという意味ですが、ここでは囃子ことばとして使われています。
「鬼の池久助どん」は口之津港の対岸の鬼池に住んで女衒(ぜげん)を営み、富を貯えたとされる人物。実在したかどうかは不明。
「といも」はサツマイモのことで、「といも飯」はサツマイモを炊き込んだご飯。「粟ん飯」は粟を炊き込んだご飯。現代の混ぜご飯と違って、米の足りない分を芋や粟で補うのが目的でした。
「つば」は天草・島原あたりの方言で唇のこと。
不知火は8月の初めごろ八代海に現れる蜃気楼の一種。このため、八代海は不知火海とも呼ばれます。
「バテレン祭」は島原や長崎一帯で催されるポルトガルやオランダ、中国の影響を受けた祭。
からゆきさんを歌ったことばは、ペギー葉山盤以外のほうに多く見受けられます。そうした歌詞のうち、おもなものを順不同で挙げると、次のようになります。
山ん家は かん火事げなばい
山ん家は かん火事げなばい
サンパン船は よろん人
姉しゃんな にぎん飯で
姉しゃんな にぎん飯で
船ん底ばよ しょうかいな
泣く子はガネかむ おろろんばい
アメガタこうて ひっぱらしゅう
姉しゃんな どけいたろうかい
姉しゃんな どけいたろうかい
青煙突のバッタンフル
唐はどこんねき 唐はどこんねき
海のはてばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
おろろんおろろん おろろんばい
あん人たちゃ 二つも
あん人たちゃ 二つも
金の指輪はめとらす
金はどこん金 金はどこん金
唐金げなばい しょうかいな
嫁ごんべんな だがくれた
唇(つば)つけたら あったかろ
この歌についてもう1つ触れておかなければならないことがあります。前半のメロディが山梨県韮崎(にらさき)地方の民謡『縁故節』とそっくりだということです。
『縁故節』の起源は古く、江戸時代中期、明和年間に歌われ始めた『えぐえぐ節』が始まりとされています。『えぐえぐ節』はジャガイモをテーマとした歌で、江戸初期に日本に入ったとされるジャガイモ(ジャガタライモ)がこの時期にようやく普及し始めたことを物語っています。
昭和初期に韮崎市の有志がこの歌に伴奏と振りをつけ、盆踊りなどで歌い、踊られるようになったようです。
この民謡が広く知られるようになったのは、昭和3年(1928)に東京中央放送局(現NHK)から山梨県の代表的民謡として放送されたのがきっかけ。
その後何度か放送されたため、康平の記憶の片隅に刻み込まれ、それがからゆきさんたちの悲しい運命を歌ううちに自然に取り込まれてしまったのではないでしょうか。
岩手の『南部牛追い唄』が九州の『刈干切唄』や宮城の『お立ち酒』、静岡の『子守唄』などとよく似ている例にも見られるように、民謡の世界ではとくに珍しいケースではないようです。
(二木紘三)
コメント
私が終戦後から高校卒業まで過ごし、今なお95才になった母が住んでいる故郷島原の歌をとりあげていただき感激です。
宮崎康平氏の名前は時々耳にしていましたが、「まぼろしの邪馬台国」が文学賞をとるまでは、それほどの人とは認識していませんでした。
二木先生がお書きになっている、昭和天皇ご巡幸にまつわる康平氏の話は知りませんでしたが、お召し列車(当時はこう呼んでいました)が通る沿線では、お年寄り達がござに正座してお待ちしたというエピソードは記憶しています。戦後とはいえ天皇はまだまだ文字通り雲の上の人だったのですね。昭和天皇は窓際にお立ちになって手を振られていたそうです。
投稿: 周坊 | 2008年12月17日 (水) 22時47分
この歌はペギー葉山のものが耳に残っています。宮崎康平さんの失明が天皇巡幸と関係があったことは初めて知りました。「サンダカン8番娼館」は原作も映画も鑑賞しましたが、子守たち、からゆきさん、宮崎修平さん、それぞれに何か悲しく切ない物語があったのですね。
投稿: Bianca | 2008年12月18日 (木) 23時11分
私は肥前・東松浦郡(現在の唐津市)で生まれ、国民学校2年生で終戦を迎えました。農作業の繁忙期には、知り合いの家の娘さん姉妹が私ども兄弟の子守に来てくれていました。妹が生まれたのは、齢が空いていて、昭和23年の夏です。「ねんねこんぼ、ねんねこんぼ、ねんねこんぼよ おんのいけん きゅうすけどんの つれんこらすばい」と誰に教えられることもなく、口ずさみながら、ぐずる妹の子守をしたものです。旋律は、島原の子守唄の後半部と同じです。古くから肥前地方に歌い継がれていた子守唄がもとになっていることを知り、感慨無量です。二木先生の情報収集力にはただただ感服しています。
投稿: まきば王 | 2010年2月27日 (土) 13時47分
私は山梨出身の東京在住者です。
昔、「山梨の縁故節は島原の子守唄の盗作だ」と言われていて、それを信じていました。事実は逆だったのですね。故郷の民謡の汚名が晴れて嬉しいです。
投稿: MS | 2010年8月21日 (土) 22時41分
この歌は高校の修学旅行で訪れた長崎で、バスガイドさんから教わりました。あまりに叙情的な詩であったため、その後ずっと記憶していました。進学した京都の大学のコンパで歌ってみせ、「外見に似合わないロマンチストだ」と言われたこともありました。
その後、城山三郎の『盲人重役』を読み、宮崎康平という人が詩人にして鉄道マン、そして盲目の歴史学者であったということを知り、深い尊敬の念を持つに到りました。小さな鉄道を買収から守り、離婚と失明を克服し、また学会の蔑視を乗り越えた氏の生き方そのものに感銘を覚えます。
歌詞は方言を多用しながら、長崎のエキゾチックな面も描写しており、大変な秀作だと思います。
投稿: Yoshi | 2011年10月 8日 (土) 19時28分
昭和34年だったと思います。小学校の修学旅行で長崎・雲仙を巡り、島原から大牟田まで船に乗り、久留米に帰ったのですが、島原へ行くバスの中で、ガイドさんが歌ってくれたのがこの歌でした。「五木の子守唄の出だしそっくりだな」と幼い私は思いました。ガイドさんが「三角まで行かれるのですね。(少々間があって)ああ、大牟田ですか」と言いなおされたのも記憶にあります。中学校の修学旅行では宮崎の「もろた、もろたよ、いもがらぼくと、日向かぼちゃのよか嫁女」という唄など、いろいろ歌は記憶を強化してくれます。二木先生のこのサイトは本当にありがたいものです。お元気で続けられますように。
投稿: 江尻陽一 | 2011年11月 1日 (火) 17時07分
もう20年も前のことですが、島原、天草と旅行したことがあります。この歌を聞くとその風景が思い出されます。火山灰の多い島原半島や耕地の少ない天草の島々には大きな平野もなく、生産力の低い土地だと感じました。江戸時代の初期、3万7千人の農民が女、子ども、老人の区別なしに殺戮された天草四郎の乱も、明治以後のからゆきさんの悲劇も、この貧しい土地の連綿とした歴史のように思います。ところで子守歌の歌詞のなかに「あん人たちゃ二つも金の指輪はめとらす」とありますが、お金持ちになって帰ってきた女に対して村人たちはどんな視線を送ったのでしょうか。1娼婦稼業へのさげすみ、憐憫 2お金持ちになったことへの羨望、おそらくは2つの感情が交じり合っていたでしょうが、私は2の気持ちが断然強かったと思います。貧しい少女たちは、いいな、私も成功して親に家を建ててやりたいなと思ったと考えます。なぜなら、環境が絶望的であればあるほど(貧乏の極み)カラ元気ででも、人は明るく生きようとするでしょうから。人権感覚の進んだ今、衣食に事欠くことのない今、われわれがからゆきさんの話を知り「なんて不条理な、なんて悲惨な」というのも、ずいぶん「ずれている」ような気がするのです。帰郷した彼女らは身を隠すこともなく金の指輪をみせびらかすのでした。それから海外に身売りされたからゆきさんにショックにもにた悲哀を感じるのは、われわれが長い鎖国政策の中で、外国人と接するのが極度に苦手なだけ、ことさら驚いているだけのような気がします。彼女らにしてみれば船に乗れば直線距離のある意味、行きやすい場所だったでしょう。また異国で亡くなったと聞けば大きな悲哀を感じがちですが、たとえば長崎の丸山遊郭で苦労の末に亡くなった娼婦たちも同じことです。どちらも苦界を生きた同じレベルの悲劇と考えます。私たちが想像するよりもあっけたかんとした、しぶとい心持も、からゆきさんたちにはあったのではないかと思います。金の指輪からの連想です。
最後に<蛇足>の宮崎康平さんの紹介記事ですが、簡潔にして情熱的な記述で、二木さんの宮崎康平さんに対する敬慕の念が感じられる文章です。私はあらためて宮崎さんについて読んでみようと思いました。 さらにこの歌と山梨の縁故節との微妙な、なやましい関連ですが、どちらが先だ、後だ、盗んだ、盗まれた、こんな議論から何が生まれるでしょうね、著作権もほとんど関係のなかった時代です。それこそ野暮というものでしょう。二木さんの「民謡には似たものがある」というまとめ方には大賛成です。
投稿: 久保 稔 | 2012年8月13日 (月) 15時12分
この曲と縁故節、二木先生は前半だけ似ているとのことですが、前半に限らず全曲同じものと思います。速さが違うだけだと思います。再確認していただけますでしょうか。ご存じとは思いますが「ふる里の民謡1」(全音楽譜出版社)の240ページに載っています。「まぼろしの邪馬台国」は私も若き頃拝読し感激しましたが、真偽ははっきりしなければならないと思います。
投稿: 烏 | 2013年11月 4日 (月) 21時08分
烏様
お言葉ですが、『島原地方の子守歌』の後半、「はよ寝ろ……連れんこらるばい」に相当する部分は『縁故節』にはありません。少なくとも大塚文雄の『縁故節」を聞いた限りでは、私にはそう思えました。
なお、縁故節の成立について「大正時代ではないか」と書いた私の推測は違っていましたので、新資料に基づいて書き直しました。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2013年11月 4日 (月) 22時03分
ありがとうございます。お返事いただけるとは思いませんでした。
二木先生のおっしゃる通り『縁故節』には「はよ寝ろ……連れんこらるばい」に相当するところはありません。ただし、合いの手を除く『縁故節』のメロディー全体が『島原地方の子守歌』のメロディーと同じではないか、と思った次第です。先入観があり、先日のコメントになってしまいました。
投稿: 烏 | 2013年11月 8日 (金) 17時17分
宮崎康平先生のことも島原の子守唄のことも、さだまさしさんのコンサート中のトークを通して知りました。
さだまさしのライブアルバム「のちのおもひに」に収録されているバージョンはとても素晴らしいです。
投稿: 磐城 | 2019年1月15日 (火) 23時48分
「島原の子守唄」があの「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平氏だったと知ったのはこのブログが最初でした。
歌の背景には宮崎氏の苦しかったそして哀しい生活から生まれたものだと知りました。
昭和40年代この宮崎氏の「まぼろしの邪馬台国」が歴史好きだった私をとりこにしてしまいました。
氏の発想はかなり奇抜なものでしたが、邪馬台国への夢を拡げてくれました。
以来、書店で「邪馬台国」「卑弥呼」という活字を見ると全て買いあさりました。
大小合わせると70冊以上になります。
邪馬台国の比定地は奈良県の纏向遺跡が有力説となっていますが、今なお定かでないことが、楽しい夢を見させていてくれてます。
こんな思いを抱きながら「島原の子守唄」を聞いています。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2020年2月 2日 (日) 21時53分
[はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい 鬼の池 久助どんの 連れんこらるばい]:いまでも鮮明に脳裏に刻まれていている節回しです。子守娘の背中で聴いたのか・・・、戦前、私ども男の兄弟三人は村の片隅で暮らしていた姉妹の子守奉公ので育ちました。「ねんねこんぼ ねんねこんぼ ねんねこんぼよ うちの○○ちゃんを だいがしたか」です。10年ほどまえの投稿: まきば王 | 2010年2月27日 (土) 13時47分さんに触発されて投稿しました。二人の子、三人の孫の世話では必ず「ねんねこんぼ ねんねこんぼ・・・」であやしました。もうしばらくたてば、ひ孫をこれであやしたいものです。九州肥前の遺伝子を絶やさないためにも。わたしの田舎の子守唄で。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2020年7月 2日 (木) 15時19分
巣ごもりの徒然に亜浪沙さまの投稿を見て、60年前の高校の修学旅行を想起しました。岩戸景気で盛り上がる頃、神戸から関西汽船で別府、阿蘇の杖立を経て島原、博多から湯田秋芳洞の、大半観光バスの旅でした。バスガイドさんは西鉄バスの美人お姉さんしか記憶にありませんが、ガイドさんの歌う別府音頭、阿蘇の恋唄、と「島原のあねしゃま」が今も頭にこびり付いています。島原地方の子守唄はその後に覚えましたがその時には記憶にありません。二木先生の解説によればペギー葉山版は昭和34年ですからまだぎりぎりだったのでしょうか。あるいはやんちゃな男の子ばっかりを相手に哀しい歌は如何かとガイドさんが思ったのでしょうか。「島原の姉しゃま」は渡辺はま子さんが歌っているようですが、検索しても歌詞がでてきません。「南の風が吹いた故 ザボンの花が咲いた故 あたや16島原の 胸の熱かとあねしゃまばい 沖の入日を見て暮らす あたや16島原の ほんに哀しか あねしゃまばい」という1番(?)だけは歌えますが。コロナが一段落したら観光列車の種類が多い九州に旅行したくなりました。
投稿: しょうちゃん | 2020年7月 2日 (木) 21時13分
長崎のsitaruです。「島原の子守唄」は子供の頃は知りませんでした。島原という地域が、同じ長崎県にありながら、私が住んでいた長崎市からは遠く感じられ、島原半島の真ん中にある雲仙温泉までは、子供の頃から時々行っていたのですが、島原まで足を延ばすことはありませんでした。むしろ、30数年間住んでいた熊本市から、有明海を隔てて目の前に見える所で、数年に一度はフェリーを利用して訪れていました。島原城を見学し、江戸時代の面影を残す武家屋敷や、鯉が元気に泳ぐお堀を見て回り、昼食には島原名物の具雑煮(ぐぞうに)を食べるというお決まりのコースを何度も繰り返しました。また、時間があると、島原城の近くにある、島原藩時代の貴重な書籍を多く所蔵する松平文庫の見学もしました。
「島原の子守唄」を聴くと、やはりその歌詞のあちこちに使われている方言が気になります。地方で謡われる民謡には、多かれ少なかれその地方の方言が用いられているものですが、その正しい意味・用法の理解は、なかなかに難しいようです。「島原の子守唄」にも多くの、恐らく作詞者の宮崎康平さんが馴染んでいた島原半島の方言が使われているようで、私が特に気になったのは、一番の冒頭の「おどみゃ」という代名詞と、同じく一番後半の「しょうかいな」です。前者は、「俺どもは」が変化した言葉のようですが、「どもは」は音声の変化を起こせば、「どま」となって「どみゃ」とはならないのが普通です。現に、このブログでも取り上げられている、熊本県の民謡「五木の子守唄」の冒頭にも使われていて、そこでは予想される音声変化通りに、「おどま」となっています。「島原の子守歌」の「おどみゃ」が、どのようにして生まれたのか、小さいことのようですが、興味のあるところです。もう一つの「しょうかいな」は、「そうだろうか」と訳しても意味が通るので「そうかいな」の訛りだと考える人もいらっしゃいますが、「そう」が「しょう」と訛ることは、長崎を始めとする九州の各地の方言では、まずありません。私は20年ほど前、別の所で書いたことがあるのですが、「しょうかいな」を「正かいな」と解釈しました。一字漢語の「正」は、名詞としても、「正なり」という形容動詞としても歴史的に用いられていたようで、近年まで長崎や、九州各地、さらに東日本でも使われていたようです。意味は「本当(だ)、真実(だ)」です。従って、「しようかいな」は「本当だろうか」という意味だと考えられます。「五木の子守唄」にも、興味ある方言が色々と使われていますので、いずれまたお邪魔したいと思っています。
投稿: sitaru | 2020年8月19日 (水) 23時26分
子守唄が生まれるまでの背景を詳しく解説していただき、ありがとうございました。
「島原地方の子守唄」に関する私の思い出話をお伝えしたいと思います。
昔、熊本県宇土市に出張した時に、ふと思い立って、島原市まで足を伸ばすことにしたことがあります。といっても鉄路で行くと遠回りになるので、結局、三角港からフェリーで島原外港に向いました。フェリーの甲板から平成新山が大きく見え、改めて火山爆発による火災流災害に胸が痛みました。
島原では公立学校共済の宿舎を利用したのですが、そこの食堂で夕食をとっていた時、メニューだっか箸袋だったか忘れましたが、「島原地方の子守唄」の歌詞が印刷されていたのです。5番くらいまで載ってあり、その中の次の歌詞は初めて見るものだったので、よく意味がわかりませんでした。
姉しゃんな どけいたろうかい
姉しゃんな どけいたろうかい
青煙突のバッタンフル
唐はどこんねき 唐はどこんねき
海のはてばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
おろろんおろろん おろろんばい
たまたま、そばをホテルの支配人のような方が通りかかったので、思わず、
「この バッタンフル とはどんな意味なのでしょうか?」
と、お尋ねしたのですが、その支配人は正直に、次のように答えられたのです。
「いや、実は私もわからないのです。ちょっと調べてみますので、明日朝までお時間をいただけないでしょうか?」
明朝、食堂に現れた私を見つけた支配人さんがおっしゃるには、
「このバッタンフルというのは日本と中国をを往復する船会社の名前だったようで、要するに唐行きさんを乗せて行った船で、その船の煙突が特徴的青色だったんですね。いや、こんな質問を受けたのはお客様が初めてですが、お陰様で私もひとつ勉強になりました。」
と、返って感謝されてしまいました。
その後、色々ネット検索してみると、次のような説明がありました。
(参照)
http://obiwan3.greater.jp/chorus/doc/shimabarano_komoriuta_2015_11_29/p02.html
「バッタンフル」とは、'Butterfield & Swire Ltd.' のことで、イギリスのリバプールに本拠を置き 香港を
拠点として船舶会社を基幹とする総合企業。この「バターフィールド」の発音がなまったものです。
なお、上記サイトの2頁目では船の彩色絵も見ることができますから、興味ある方にはお勧めします。
ホテルを出た後、私は昔、島原半島の南部(現在の南島原市)で、「九州地人協会」という一種のコミューン建設をともに目指した友人の元奥さんにお会いするために、バスに乗って雲仙岳近くのある施設に向かったのですが、島原地方の子守唄とは関係がないので割愛させていただきます。
それにしても、この子守唄を聴くと、唐行きさんという日本の歴史の裏側事情のほかに、南島原で過ぎした何週間かの農作業や、原城跡や口之津海岸、島原城、歩いて登った雲仙普賢岳の風景など、青春時代の思い出が甘く、ほろ苦く思い出されてなりません。
投稿: 遊心 | 2021年1月 8日 (金) 10時51分
NHKのラジオ深夜便(2021/4/14)の「日本の歌・こころの歌」はペギー葉山さんの特集でした。すべてがなつかしく深夜便ラジオの音声をできるだけ小さくして聴くうちに、「学生時代」に続いて「島原(地方)の子守歌」がかかりました。さっそく二木紘三のうた物語をひらき、改めて諸兄のコメントを最初から拝読いたしました。その中に「まきば王」のペンネームでの投稿を読み始めるに小生の体験とほゞ同じコメントに出会いました。小生と同郷、同年代、兄弟、妹と書かれている内容がぴったり一致します。まきば王さんと同郷の身です!とこの場でご挨拶をとおもい筆?をとりました。「まきば王」さんお元気でしょうか?
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年4月14日 (水) 13時40分
「島原の子守唄」昭和32年にこの唄を歌った島倉千代子は、その四年後の昭和36年12月にこの唄のテーマでもある『からゆきさん』という唄を収録しています!
作詞:宮崎耿平 作曲・編曲:古関祐而 歌唱:島倉千代子
ランタンともる 異人館(やかた)の窓に
沖の入日が 恋しゅてならぬ
思い出します 天草灘を
私しゃ二本奴 からゆきさん
唄う故郷の 子守唄
煙が 消えてゆく
サラサ模様の 波が散る
あれはバッタンフール 日本へ帰る船か
沖の入日の タンジョンに
思い出します 天草灘を
明治、大正、昭和のはじめ頃まで、当時は貧しい家の子どもが売られるのは当たり前で、奉公に出るのは生みの親に対する孝行だという価値観があった。
また『からゆき』となった彼女たちは戸籍上でも生みの親との繋がりさえも抹消されるという、日本にもそんな悲しい時代があったことを思うと私は今でも胸が痛みます。
私は昔『からゆきさん』について著書等で調査したことがありますが、そこで私が知り得た、彼女たちが味わった『異国へ向かう船底で受けた数々の惨い仕打ち』そして『奉公先での想像を絶するその実態』のそれはあまりにも過酷すぎるもので、ときには死人さえも出たという、私の想像をはるかに超えたとても信じられないものばかりでした。
私はこの唄の歌詞に出てくる駄菓子『アメガタ』がとても懐かしいです。幼いころは私も『アメガタ』をよく食べました。冬は固くて噛めばパリッと割れるのですが、夏は柔らかくなりすぎて、歌詞のとおり噛みちぎるときには引っ張っていたことを想い出します。
「島原の子守唄」私はこの唄が昭和25年ごろに作られた新民謡だと<蛇足>にて初めて知りましたが、それまではもっと古くから存在する民謡だとばかり思っていました。
作者:宮崎康平は、きっと貧しい家に生まれ不幸で極限に近いその辛い人生の中を気丈に生き抜いた少女たち、そんな『からゆきさん』たちの存在があったことを、後世に伝えようとしたのではないかと私は思っています。そしてこの子守唄は、作者:宮崎康平が少女たちに慈愛の心を込めて贈る『哀歌』だったのではないかとさえ、私には思えてくるのです。
投稿: 芳勝 | 2023年10月19日 (木) 22時29分