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2009年1月15日 (木)

羽田発七時五十分

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:宮川哲夫、作曲:豊田一雄、唄:フランク永井

1 星も見えない空 淋しく眺め
  待っていたけど 逢えないひとよ
  さよなら さよなら
  俺を急(せ)かせる 最終便
  ああ 羽田発七時五十分

2 恋は切ないもの はかないものよ
  知っていながら 瞼が濡れる
  さよなら さよなら
  うるむロビーの 赤い灯よ
  ああ 羽田発七時五十分

3 忘れられない夢 見果てぬ夢を
  捨てて旅立つ 心は暗い
  さよなら さよなら
  俺は涙を のせて行く
  ああ 羽田発七時五十分

《蛇足》 昭和32年(1957)11月にレコードが発売されました。

 このころ、海外旅行は原則禁止であり、国内旅行も含めて、飛行機での旅行は庶民には高嶺の花でした。
 しかし、7年後の昭和39年
(1964)4月には海外旅行が自由化され、高度経済成長の波に乗って、空の旅は急速に大衆化していきます。それを予兆するかのように現れたのがこの歌でした。
 空港を歌った歌謡曲は、これが最初ではなかったかと思います。

 海外旅行でどこがいちばんドラマチックか、すなわちドラマが感じられるかといえば、いろいろな意見はありましょうが、私は空港だと思います。それも小規模な空港ではなく、ハブ空港と呼ばれる大規模な国際空港です。

 旅行は非日常を楽しむ行為だといわれます。人びとがとりわけ強くそれを期待するのが海外旅行です。
 しかし、外国で人びとが目にするのは、その地の人びとが何千年にもわたって積み重ねてきた生活です。それがいかに日本の日常生活と違って見えたとしても、実体は人間の普遍的な日常生活にほかなりません。
 現地の生活が非日常なのではなく、その地の日常生活のなかで自分がつかの間の非日常であることを楽しむのが海外旅行だといってよいでしょう。

 いっぽう、空港はその存在自体が非日常です。空港は1930年代に、ほとんど突然といった感じで人間文明のなかに生じたものであり、それ以前に類似の存在はありません。巨大国際空港にいたっては、まだ3,40年の歴史しかないでしょう。
 そこに生活者は存在せず、絶え間なく行き交う旅客とローテーションで働く従業員がいるだけです。日常生活からの隔絶、ないしは生活感の欠如――これが巨大国際空港に入ったときに感じられる、なんともいえないワクワク感の源泉ではないでしょうか。

 海港との類似性がよくいわれますが、通常、海港は市街地=生活空間の辺縁にあって、それとグラデーショナルにつながっており、大空港のような隔絶感はありません。
 これは、航海や漁業が生活の一環として古代から行われており、港はその歴史のなかで自然に生まれ、整備されてきたという事情によるものでしょう。

 空港について、私にはこんな記憶があります。

 平成元年(1989)5月、私は、日本から来る取材チームと合流するために、滞在中のパリから、ロンドン・ヒースロー空港に向かいました。
 ところが、着いてみると、チームの到着時間を勘違いしていて、9時間ほど早く着いてしまったことがわかりました。

 その9時間をどう過ごすか、ちょっと迷いましたが、締切の迫っている仕事があったので、それをこなすことに決めました。
 私は荷物をロッカーに預け、到着ロビーのカフェテリアの片隅に陣取って、携帯ワープロを打ち始めました。

 私の集中力はTVCMのサイクル程度しか続きません。10~15分ワープロを打っては、コーヒーを飲んだり、あたりのようすを眺めたりしました。1,2時間ごとに、土産物店などロビー内の見物に出かけました。

 見ものには事欠きませんでした。黒人男性と白人女性の痴話げんか(たぶん)、「だからおまえらイギリス人はダメなんだ!」とイギリス人の国民性を列挙しながら、従業員に怒鳴りまくるフランス人らしき青年、出迎えの人混みのなかから数人の警官に引きずり出されて連行される、何人(なにじん)かわからない男性など。

 空港に限ったことではありませんが、見知らぬ場所でも9時間前後もいると、軽い「住み着き感」が感じられるようになります。私はワープロを打ちながら、生活の場でないところで感じる擬似的住み着き感の快さを楽しみました。
 その快さは、その状況が数時間で終わり、また食べ物にも困らないという、まことに都合のよい条件に支えられたものでしたが。

 そのうち私はふと、この空港のなかで、ほとんど誰にも気づかれずに数ヶ月暮らすことは可能ではなかろうか、もしかしたら実際にそういう人間がいるかもしれない、というようなことを考えました。

 風のように吹きすぎていくだけの旅客は、住み着いた人間には気づかないでしょう。従業員も、持ち場が違えば気づかない可能性があるし、気づいたとしても、自分の職務に関係なければ、言挙げしないかもしれません。
 問題は食事・シャワーその他ですが、これも何人か支援者がいれば、乗り越えられるはずです。

 そんならちもないことを考えているうちに、飛行機の到着時間が来て、私の夢想は打ち切られました。

 それから4年後の平成5年(1993)、フランス映画『パリ空港の人々』(フィリップ・リオレ監督)を見て、私は「やっぱりな」と思いました。映画はこんなあらすじです。クセのある人物が何人も出てきて、ユーモラスですが、最後にホロッとさせる佳作です。

  学者のアルチュロはモントリオール空港でパスポートや財布を盗まれてしまいます。パリのシャルル・ド・ゴール空港に着いたものの、パスポートがないうえに、フランスとカナダの二重国籍で、しかも現住地がイタリアという複雑な事情から身分の確認がなかなかとれず、空港から出られなくなってしまいます。
 空港には、彼のほかにも、それぞれの事情から住み着いている者が何人もいます。彼らは団結し、物々交換したり、空港の敷地内でウサギを捕まえたりして、自給自足の生活を送ります。
 数ヶ月後、アルチュロはやっと身分が証明されて、空港から出ることができました。彼を慕って空港から脱けだしてきた黒人の少年とともに、彼は新しい生活に向かいます。

 この映画は、ある実在の人物がモデルになっています。メフラーン・キャリーミー・ナーセリー(Mehrān Karīmī Nāsserī )というイラン人です。
 メフラーンは比較的原音に近い表記ですが、そのほかマーハン、メーラン、メヘランなどとも表記され、一定しません。

 メフラーンは1942年に医師の息子として生まれました。イギリス留学中に反政府運動をしたかどで、帰国後刑務所で長期間拷問を受け、のちに国外追放に処されます。

 ヨーロッパに向かったメフラーンは、いくつかの国で入国を拒否されましたが、1980年にベルギーで難民の認定を受けることができました。その地で何年か暮らしたのち、留学していたイギリスへの移住を決意して、フランス経由でイギリスに向かおうとしました。

 ところが、シャルル・ド・ゴール空港に向かう途中の駅で、身分証明書や通過ビザなどが入った鞄を盗まれてしまいます。ヒースロー空港行きの飛行機には乗れたものの、書類がないため、イギリスへの入国を拒否され、シャルル・ド・ゴール空港に戻りますが、やはり身分証明ができないため、入国できません。
 結局彼は、空港ターミナルビルのチェックインカウンターと搭乗ゲートの間にある待合ゾーンから出られなくなってしまいます。

 空港内での彼の生活は、1988年から、フランス赤十字がパリ郊外のホームレス支援施設に収容した2007年までのほぼ18年にも及びました。ただ、ずっと待合ゾーンで暮らしていたわけではなく、1994年以降は当局の黙認を受けて、出発ロビーの店舗ゾーンで過ごしていました。

 一時期、メフラーンは精神に異常をきたしたようですが、しだいに空港内の生活に順応するようになりました。洗面所で髪を洗い、身だしなみを整え、日中は空港が用意したソファーでラジオを聞き、読書したり、日記をつけたり、ときどき空港職員や店員の手伝いをして小銭を稼いだりしたようです。
 寝るのもそのソファーで、洗濯は空港の職員がしてくれたといいます。

 彼の日記は、のちに出版され、各国語に翻訳されました。日本では平成17年(2005)8月、 『ターミナルマン―空港に16年間住みついた男』 (最所篤子訳、バジリコ刊)として出版されています。

 2004年には、スティーヴン・スピルバーグ監督がトム・ハンクス主演で映画化しました。邦訳題名『ターミナル』で、舞台はアメリカのジョン・F・ケネディ空港に変わっていました。
 ストーリーも、ヨーロッパの小国から亡き父親とのある約束を果たすため、ケネディ空港に着いた男が、母国で政変が起きて、パスポートも入国ビザも無効になったため、入国できなくなり、空港内で仲間に助けられながら過ごす――といった話になっていました。

 映画では脚本家のオリジナルと謳っていましたが、メフラーンに25万ドル支払われたので、彼の日記をベースにしていたことはまちがいありません。

 メフラーンの18年は別格として、大規模国際空港で数週間から数ヶ月暮らすといった例は、どうもそれほど珍しくはないようです。

【追記】メフラーンは2022年11月12日、ド・ゴール空港のターミナルで死去。1999年にフランスの滞在資格を取得し、市内で暮らしていたが、スピルバーグ監督の『ターミナル』で得た25万ドルをほとんど使い果たし、亡くなる数週間前に空港に戻っていたという。

(二木紘三)

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コメント

こんにちは
いつもお世話になっています。
国際空港では天候とかストライキなどの影響で
予定外のことになり
空港で夜明かしして次の飛行機を待つということもありますね。

だから
何日も空港で過ごす人もいると思います。

それにくらべて
日本の大き鉄道駅でも
深夜には閉めてしまいますから
そこで朝までいたくても追い出されそうです。
昔はもっとおおらかだったと思うのですが
最近はせちがらくなり犯罪も多くなって
管理する側も大変なんでしょうね。

北京空港で床に新聞紙を敷いて一夜を明かした人の文章を読みましたが
やはり服を着たまま寝るのは疲れそうですね。

投稿: みやもと | 2009年1月16日 (金) 09時57分

二木先生の経験もナーセリーの経験もおもしろかったです。さすがに18年は困りますが、2,3か月なら大空港で生活してみたいものです。

投稿: カツマタ | 2009年1月16日 (金) 15時36分

この曲は吉田正先生の作ではありませんが、フランク永井にとっては思いいれのあった1曲だと推察します。
8時ちょうどの「あずさ2号」は無くなったらしいが、七時五十分発の空の便はどうなんでしょう。

投稿: 海道 | 2009年1月16日 (金) 17時18分

 有楽町で恋人と逢うことはおろか、夜霧の第二国道を車で走ったり、俺は淋しいんだとつぶやきながら飛行機で旅立つなんて、当時の私には夢のまた夢のような話でした。そのはるかに遠い夢にあこがれて九州の片田舎でこれらの歌を口ずさんだものです。
 今の若者にとってこんな歌は日常そのものの歌で魅力はないのでしょうか?
 タン タ タン タ タン タ タタタ ターン タタタ-・・・・この歌のイントロを聞くと、貧しかったけれど希望だけはあった青春時代が蘇ってきます。

 

投稿: 周坊 | 2009年1月17日 (土) 19時50分

〔羽田発七時五十分〕大変懐かしく拝聴しました。
それにもまして〔蛇足〕の楽しかったこと。。。

最近メキシコ空港に日本人が住み着いていて話題になっていますね。現地の方々に結構親切にされているようです。
男性に文才があったのなら後日面白い本が出版されるのではないでしょうか。
以前もどこか忘れましたが女性が空港に住んでいるというのを聞いた事があります。

投稿: おキヨ | 2009年1月19日 (月) 11時43分

最近良く「おまえに」を耳にしますが、フランク永井なら愛妻、その他の歌手なら愚妻がイメージされます。
(盗作)

投稿: 海道 | 2009年1月19日 (月) 13時36分

高校生の頃は飛行機など一生乗ることはないと思っていた私がなんと1975年に一人でイギリスに行くことになりました。26歳の私の給料が11万円にもならないとき正規の往復運賃が100万円と聞きびっくりしました。先輩に教えてもらった「欧日協会」とかいう団体のパック旅行が60万円でした。アンカレジで天ぷらそばを食べて1000円札を出したら白い硬貨を一つくれ「タッカイなぁ~」と思ったものです。羽田に着いたとき東京の下町の団体から一斉に拍手が起きました。多分「ああ墜落せずに日本に帰ってこれてよかった」という意味だったと思います。

投稿: なとりがおか | 2009年1月20日 (火) 00時35分

二木様 初めて投稿するものです。こんな素晴らしい
siteがあるなんて知りませんでした。
蛇足から私の人生において不勉強なところ、未経験なもの無知なもの等を学まさせて頂いております。
さて、フランク永井さんの羽田発7時50分は私の現役社会人生の始まりと終りを現しており、生涯で一番好きな詩なんです。    特に三番がいいですね。
尚、このsiteにコメントされている人は、詩の内容に
よりCLOSEな方が多いようで、その実感が伝わって来るのも素晴らしいですね。

投稿: 黒原大雲 | 2010年5月 8日 (土) 02時37分

Thank You!!

投稿: KIM | 2011年4月21日 (木) 23時18分

懐かしく拝聴しました。45年ほど前、労音に加入していました。フランク永井さんの公演があり、この歌をお歌いになった後、フランクさんが歌詞についてのエピソードを話されました。レコードが出来て、いざ発売の時点で、羽田発の最終便は8時20分になっていて、問題になったそうです。関係者が相談の結果、8時20分では「気がぬける」「おさまりが悪い」ということで、そのまま発売することになったとのことでした。日本語の微妙な感覚について、観客全員がうなずいていたことが思い出されます。実際にお歌いになった時点では、最終便の時刻はさらに遅くなっていました。日本が発展していた最中のことです。

投稿: KAMEさん | 2013年4月 8日 (月) 01時09分

この曲は子どもの頃、フランク永井が歌っていたなあということ以外、とくに感動もない歌です。フランク永井には悪いけど。

それより<蛇足>が特別、おもしろいではないですか。いつもは、簡潔明快な文章を書かれる二木先生が、饒舌といえば失礼ですが、この度は、思い入れが強く、長文で、ことさらていねいな説明になっているように思います。そのこだわりに、まず驚きました。
空港という生活感のない隙間の空間に、多大なインスピレーションを感じた二木先生。後日、それを実証するような数奇な人物が現れる。たしかにおもしろい話ですね。
オリジナルな発想、口で言うのは簡単、でもなかなかできないです。自分にしかできない考え、イメージ、大事ですよね。ほとんどの場合、どこかで仕入れた知識の受け売りですね。ヒントになる話でした。

投稿: 屋形船 | 2013年4月 8日 (月) 23時55分

《蛇足》「空港を歌った歌謡曲は、これが最初…」ということで、空港を歌った歌謡曲2番目はマヒナスターズ『夜霧の空の終着港(エアーターミナル)』(昭和34年、羽田空港?、佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)あたりになりますか。
他にも、『東京の灯よいつまでも』(羽田空港(歌詞3番)、佐伯としを作曲)、『国際線待合室』(伊丹空港、花礼二作曲)、『空港』(歌詞に空港名無し、猪俣公章作曲)、『北空港』(新千歳空港?、浜圭介作曲)…など多数あるようです。

投稿: 焼酎百代 | 2015年9月 2日 (水) 19時03分

この歌を聴いた時私は16歳でしたが、未知の世界への憧れと最先端の都会性を感じました。フランク永井の渋い低音とソフトな歌い方がなおさらそう感じさせました。あとで聞いたら彼はジャズ歌手だったそうですね。だから演歌や歌謡曲にないおしゃれな雰囲気にマッチしたのだと思います。

あれから海外旅行へ何回も行きましたが、この歌のようにしみじみとした感慨がありません。やはりこの歌は男女の別れの歌だからでしょうか。大衆歌謡は本当に恋と別れの歌が多いですね。不倫の歌もたくさんあります。男女とも、既婚者もみんな心の奥では新しい恋に憧れているのでしょうか。

投稿: 吟二 | 2019年5月21日 (火) 21時09分

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