ガード下の靴みがき
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 紅い夕日が ガードを染めて (セリフ) 2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ 3 誰も買っては くれない花を |
《蛇足》 昭和30年(1955)8月、ビクターからレコード発売。
宮城まり子は、幼くして母親・弟と死別するなど、辛い少女時代を送りました。昭和25年(1950)にポリドールから歌手デビューをしましたが、まもなくビクターに移籍、そこで『毒消しゃいらんかね』『ガード下の靴みがき』など、いくつかのヒットを飛ばしました。その後、女優業にも進出、独特の存在感を示しました。
『毒消しゃいらんかね』は、宮城まり子のために書き下ろされた歌でしたが、レコード発売前に、NHKのバラエティ番組『日曜娯楽版』で楠トシエが歌って評判になったため、彼女の歌として記憶している人も多いと思います。
昭和43年(1968)、静岡県浜岡町(現・御前崎市)に肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を開設(のちに掛川市に移転)、以後、肢体不自由児教育に一身を捧げてきたことは、よく知られています。
作家・吉行淳之介の人生のパートナーとして、彼が先立つまで強い絆で結ばれた生活を送ったことも有名です。
さて、この歌の制作年度から、敗戦後10年を経ても、なお靴磨きをしている戦災孤児がいたことがうかがわれます。
『鐘の鳴る丘』や『リンゴの唄』にも書きましたが、戦争が終わると、空襲などで親も家も失った戦災孤児たちが、街にあふれました。彼らは、生き抜くために、靴磨きや露店の手伝い、女の子は花売りなどをして、その日その日をしのぎました。そのなかには、小学校入学前の幼児もいたといいます。
そうした経験をした人のひとり、山田清一郎さんの記事が、朝日新聞社会部編『それぞれの昭和』(昭和60年〈1985〉刊)に載っています。
山田さんは、神戸市の繁華街にあった生花店で生まれました。昭和20年(1945)3月27日未明の空襲で父を失い、6月5日午前の空襲で母を失いました。この2度の空襲による死者は約5700人。
ひとりっ子だった山田さんは、10歳で孤児になりました。以下、同記事から引用します。
……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった山田少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
「狩り込み」にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた。
その後、山田少年は長野盆地南端にある養護施設「恵愛学園」に収容されました。食糧不足からいつも空腹で、愛情にも飢えていた山田少年は、反抗的で、戦争未亡人の保母を泣かせました。が、小学校への通学を許されたころから、素直に保母を「おかあさん」と呼べるようになりました。
のちに山田さんは、東京に出て、さまざまなアルバイトをしながら定時制高校に学び、さらに大学を出て中学校の教師になりました。
山田さんの場合は、本人の資質や意志によって、順調な人生行路を歩むことができました。しかし、戦災孤児のなかには、横道にそれたり、挫折したりして、みじめな後半生を送った者も少なくありませんでした。
ある種の人たちは、国の誇りとか国家の威信といったことを声高に主張します。そうした言葉自体に問題はなくても、彼らが意図するのは、実は他の国々に対する政治的・軍事的なプレゼンスの強大化です。
そうしたことを追求していった結果が、多くの人びとから愛する者や、楽しかるべき子ども時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。三等国・四等国でけっこう。芸術や科学、スポーツで成果を上げれば、ほかの国々からの尊敬は得られます。実際、そういう国もあるのですから。
(二木紘三)
コメント
カラオケで一人でこの歌を歌うと、胸が詰まって歌えなくなる時期が長かったが、最近、やっと泣かなくなった。
宮城まりこさんは、天使のような方ですね。肢体不自由児のお母さん!私はあなたを尊敬しています。
投稿: 吟二 | 2009年2月21日 (土) 21時45分
先生の言葉を借りれば「責められるべきは避けようと思えば避けられた戦争に突入した指導者の愚かな行動」そのとうりだと思います。私も一寸運が無ければ、中国残留孤児だった思うと、涙なくしてこのニュースを見れません。どちらの親も凄い。
投稿: 海道 | 2009年2月22日 (日) 16時16分
宮城まり子さんは社会的な偉業を成し遂げても少しも偉ぶることなく、どこか頼りない表情は昔と変わりません。歌手時代は幼い仕草が故意に感じられてあまり好きではなかったのですが今では最も尊敬できる女性の一人です。
二木先生の最後の欄は心から共感できます。
投稿: おキヨ | 2009年2月22日 (日) 23時00分
二木先生のコメントの結語はその通りだと思います。
現在声高に叫ばれる言葉に、「国際競争」「国際社会に貢献」「国連中心」「国益」などという言葉です。
これらの言葉が「正義」に優先しているように思われます。何が正義なのかを議論することはなくなりました。
投稿: 周坊 | 2009年2月24日 (火) 22時08分
今朝は、1時間ほどこのサイトでいくつかの曲を聴き、二木先生の意義ある「蛇足」を読んでおります。
今、再び、朝鮮からのミサイル発射に備え、迎撃実験でなくいきなり実戦的応戦(打ち落とす)といったニュースが飛び込んできました。
私が生まれた年に叔父は青春を知ることもなく戦死、兵長と記されたお墓には遺骨もなく、60数年経て立派な石柱も傾きが増してきました。
投稿: vide | 2009年2月27日 (金) 10時29分
いつの世であれ、どんな戦争であれ、戦争というものは実に悲惨であり、多くの不幸をもたらします。しかし私たちが『ほんとうの愛』とは何かを知り、『ほんとうの幸せ』とは何かを悟るのは、多くの場合実にこのような不幸な体験を通してであるというのも事実です。なんという皮肉でしょう。「愛」の人・宮城まり子さんのこの歌を聴くと、ふとそんな感慨に捉われることがあります。
投稿: くまさん | 2009年3月15日 (日) 21時51分
「三等国・四等国でけっこう」という二木さんの意見に賛成です。なにも、金持ちになるのが偉いことでもない。エコノミックアニマルになってギスギスして暮らすより、「夕陽丘三丁目」の頃のほうが貧しくても人情があって、子供たちも外でみんな思い切って遊べましたよね。みんな貧しければ我慢できる。貧富の格差が大きすぎるとねたみ、そねみ、文句が噴出して、世の中の雰囲気が悪くなりますね。
投稿: 吟二 | 2009年3月22日 (日) 21時56分
「ガード下の靴みがき」、この歌は、だいぶ昔に、宮城さんご本人が、「自分の人生を変えた歌」とおっしゃっていました。それ以来、この歌を聴くと、宮城さんの生き方、歌の情景(私も東京の下町で戦災に会い、戦後の不幸な時代を見てきましたから)などが浮かんできて、涙なしにはこの歌は聴けません。
投稿: ごんべえ | 2009年4月 4日 (土) 23時22分
私は1931年生まれです。所謂『満州事変』の年に生まれ、1937年『支那事変』の年に小学校に入学しました。当時の教育の『成果』で、頭のてっぺんから足の先まで『立派な』軍国の少国民でした。
“暗い谷間”の時代を身をもって体験してきました。
二木さんの次の言葉には心から共感します。
ある種の人たちは、国の誇りとか国家の威信といったことを声高に主張します。そうした言葉自体に問題はなくても、彼らが意図するのは、実は他の国々に対する政治的・軍事的なプレゼンスの強大化です。
そうしたことを追求していった結果が、多くの人びとから愛する者や、楽しかるべき子ども時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。三等国・四等国でけっこう。芸術や科学、スポーツで成果を上げれば、ほかの国々からの尊敬は得られます。実際、そういう国もあるのですから。
この歌より2年くらい後のことでしたが、街角でまだ小学生ぐらいの子に靴を磨いてもらいました。しがないサラリーマンだった私は「おつりはいらないよ」(僅かな金額)と言って帰るのが精一杯でした。
投稿: 田崎 透 | 2009年8月 4日 (火) 23時34分
僕が小学生の頃、宮城まり子さんと中村メイコさんがそれぞれ一人何役かの声を使い分けて演じていた『シャボン玉天使』というラジオドラマがあって、この番組を聴くとなんか気持ちが温かくなったものでした。
70年代頃にはちょっとの間だけどまり子さんの御自宅に新聞を配達してた事もありました。順路を取った人から「ここに吉行淳之介も住んでるんだよ」と教えられへえ~と思いました。
何年か前『新日曜美術館』でお見かけしたまり子さんは何か痛々しい感じで、見ているのが辛かった。今はどうしておられるのでしょうか?
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 08時25分
まぁ「シャボン玉天使」を聴いておられましたか。
宮城まり子さんと中村メイコさんで、
いつもこの番組を思い出していたのですが、
ネット上にはなかったのです。
昭和31年から32年にかけてですね。
♪私はラーメン屋のラーメン娘・・
♪ぽっかりふんわりこしゃぼん玉・・」
管理人さん、あまりにも懐かしくて、
この歌に関係ないことを書きました。
駄目でしたら諒さんが読まれた頃に削除してください。
投稿: なち | 2010年1月13日 (水) 14時58分
なちさん、教えて戴き有難うございます。
昭和31~32年頃でしたか。僕が小学2~3年頃だなあ。
まり子さんもメイコさんも七色の声なんて言われてましたね。
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 19時18分
靴みがきの少年の歌と言えば「
さあさ皆さん東京名物とってもシックな靴みがき…」と暁テル子さんが歌った『東京シューシャインボーイ』もありましたね。
『東京シューシャインボーイ』が明るくコミカルな感じなのに対して『ガード下の靴みがき』は悲しく切ない歌ですね。
僕が東京に出て来た1960年頃にはもう靴みがきの少年を見かけることは有りませんでした。
僕が「戦後」の光景として憶い出すのは街角でアコーデオンを弾きながら軍歌を歌っていた傷痍軍人の姿です。
投稿: ☆諒 | 2010年1月16日 (土) 08時04分
◉「ガード下の靴磨き」はカラオケでいつも唄う事にしています。
歌詞といい、メロディといい、涙なくしては唄えません。いつも
途中で絶句です。 本当にいい歌ですね。 山田太郎の「新聞少年」も 良い歌ですね。昔の少年少女は皆よく苦労に負けずに頑張りましたね。
今は恵まれすぎて、何が大切なことなのかよくわからないみたいです ね。
投稿: かせい | 2010年1月19日 (火) 21時53分
一昨夜、TV東京の『シューシャインボーイ』というドラマを観て、「ガード下の靴磨き」を久々に思い出し、このサイトにたどり着きました。二番以降が歌えなかったので。
きょう午後、カミさんもいなかったので、ずっと一人で
ブツブツ歌っていました。涙は出なかったけど、途中なにか胸に迫ってメロディーがあやしくなりました。貧乏な時代が良かったとは思わないけれど、それから失ったものが大きい、大き過ぎるという気がして。ここは、ではどうすればいいのかを考えられる場所だと思いました。
投稿: おづせ | 2010年3月26日 (金) 17時37分
歌は思い出に寄り添い、思い出は年と共に薄れて行く
大正12年生まれ 私が遠い満州から大学に入学すべく上京したのが昭和16年 戦争を経て今日までの移り
変わりの激しさ戦災孤児や浮浪者が群がつた上野駅の地下道、闇市と復員軍人でごつた返した 今は無き古ぼけた新橋駅 当時の三国人に一時占領された新宿駅 思い出は尽きませんが、廃墟と化した当時の建物の佇まいについて回つた隠語
パンパン、GI 銀しゃり シャブシャブ デカ ドブロク シロ(サツカリン) メチル(沢山飲んだらお陀仏)三国人 斜陽族 太陽族
これらの言葉が象徴するような当時の生々しい生活があの時代に息付いていたであろう
「ガード下の靴磨き」この歌に添えて こんな女に誰がした!「星の流れに」の歌詞
時代は変わりましたね~
投稿: 田原 | 2010年12月 8日 (水) 20時30分
最近「新橋二丁目七番地、唄:あさみちゆき、作詞:田久保、作曲:杉本」が流行っていますが、新橋駅前で靴磨き40年の歌です。昔新橋(官公庁)へは良く出張しましたが、会ったことはありません。(実話だそうです。)どう言う人生だったかは本人にしか解りませんですね。
投稿: 海道 | 2012年9月 9日 (日) 07時15分
本当に悲しい歌ですね。こどもの頃上野駅辺りに行くと「浮浪児」がいたのを覚えています。自分は、たまたま運よく浮浪児にならなかっただけだと今では思えます。
戦争は悲惨です。平和は有り難い。だから、その平和は断乎として守らなければいけません。
勿論、平和平和と叫んでいれば良いものではないことは自明のことです。
現在の平和が、もし脅かされそうになった時は、場合によっては侵略者を撃滅して祖国を守らなければならないと覚悟しています。
投稿: 白蝶 | 2014年3月11日 (火) 20時35分
昭和10年生まれの元軍国少年です。二木氏の「ある種の・・・」以後に同感。日本はやれG8だ何だとかいって大国を目指すけれど、年3万人もの自殺者を出す国です。戦中戦後は皆が貧しく私も両親もシラミをわかして空腹に耐えた。敗戦国だから今のように世界にカッコウつけるどころではなかった。社会は混乱していたが、しかし春を待つような希望があった。スイスのような中立の国、デンマークのような世界で目立たなくても皆が生きていける国を目指していたように思う。
投稿: 昭和老人 | 2014年5月28日 (水) 19時34分
小学5年生の時初めて聞いた歌
今でも私の応援歌
投稿: 稲葉 武 | 2015年5月17日 (日) 21時18分
昭和20年3月10日の東京大空襲で、日本橋の中洲にあった我が家は焼失しました。私が生まれる4か月前の事でした。幸い、埼玉の片田舎に一軒家を購入して一部疎開をしていましたので、当面の衣食住には対応できましたが、失う物のあまりの大きさに数年間は大きなダメージだったようです。
幼少期、父に連れられた東京には私より5歳程度大きい男の子たちが靴磨きをしている光景があちこちでみられました。NHKのラジオドラマと記憶していますが、山本克己さんの「不屈の青春」というのがあり、その後学校の図書館で同名の本を読みました。
戦後孤児となった多くの子供たちが、「不屈の青春」や、この歌の歌詞の様な悲惨な生活をしていたという事は真実です。我が家も一歩間違えれば、私の兄・姉もこの人達と
同じ境遇となったかもしれないことを思うと、改めて今ある平和の有り難さを感じます。
投稿: タケオ | 2015年8月28日 (金) 20時10分
宮城まり子さんの「ガード下の靴磨き」はカラオケで歌いますが、そのたびに当時の情景が思い出されてきて、涙があふれます。私も東京・城南一帯の大空襲の中を親子で逃げまどったうちの1人です。まかり間違えれば、ガード下の靴磨きになっていたかもしれません。さいわいにしていまは幸せに暮らしていますが、私の住んでいた目黒、渋谷界隈にも当時はまだまだ私と同世代のこういう子供たちがたくさんいました。その彼ら・彼女らがその後どうなったか…。この歌はまさに戦争告発の歌です。いつまでも歌い続けたいと思います。
投稿: 光男 | 2015年9月25日 (金) 15時52分
最近この歌を聞いています。昭和30年の発表と聞き、なるほどと思いました。県内の観光バスに乗り、ガイドさんにこの歌をお願いしたら「まだ覚えていないので、・・・」と言われたことを思い出します。小学校6年ぐらいでした。親類の人が国鉄にいて、そこの子どもとバスに乗ったのです。特に3番の歌詞に惹かれます。ある歌手が歌い終わって走って楽屋に戻る様子を見て、「泣いたんだな」と思いました。明日は長崎慰霊の日です。やはり、二木さんの言われる通りだと思います。
投稿: 今でも青春 | 2017年8月 9日 (水) 09時49分
すみません。8月9日は昨日でした。「長崎原爆の日」というようなタイトルでテレビに出ました。日付を間違うようではダメですね。昨日に続けての投稿をお許し下さい。
投稿: 今でも青春 | 2017年8月10日 (木) 12時58分
何度聴いても涙誘われる歌です。戦後十年、焼け跡は見られなくなりましたが、まだまだ貧しさがあちこちに残っている時代でした。
2番の歌詞にある「小さなお札」とは額面幾らの紙幣なのでしょうか?
百円札(板垣退助)ということはありませんね。現在に換算すると千円に相当します。となると、十円札ということになりますね。
十円紙幣はこの歌のリリースされた55年4月に発行停止になりましたが巷では流通しています。私も二宮尊徳の一円札とともに使った記憶があります。「小さなお札」とは十円札ということなのでしょう。たぶん靴磨き代が10円だったのでしょうね。菓子パン1個10円の時代です。 宮川哲夫と利根一郎のコンビは後年、橋幸夫が唄う『雨の中の二人』
『霧氷』を作りました。 いいコンビでした。
投稿: かせい | 2020年1月10日 (金) 16時07分
宮城まり子さんが93歳でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。真珠湾前に生まれた身ですが、もの心ついたときには「マッカーサー元帥ありがとう」という表紙の絵本を持っていましたし、後に市電が延伸する広い空き地には進駐軍のセスナが離着陸していました。給食には脱脂粉乳とコッペパンに分厚い割りチョコが記憶にあります。この歌の頃は占領も終わり景気も良くなったと思いますが、まだ社会は一律ではなかったことが、この歌が受け入れられていることで分かります。歌謡曲を毛嫌いする向きもありますが、次第に記憶が薄れるなか歌謡曲は歴史の副読本として有用だと思いますが。
投稿: しょうちゃん | 2020年3月23日 (月) 08時03分
「ガード下の靴みがき」私が幼いころにこの唄を台所に立つ母がぽつぽつと口ずさんでいたことを微かに憶えています!
ここのページを開き、二木先生が奏でるメロディを聴きながら「それぞれの昭和」に記載された記事、山田清一郎さんの壮絶な体験と、その後の逆風に負けない素晴らしい生き方を拝読する度に、私は思わず目頭が熱くなります。
そして『蛇足』末文にある、
>「多くの人びとから愛する者や、楽しかるべき子ども時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。」このご意見は、まさに図星で私の心にも深く刺さります。
私財を投じて日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を運営、また「ねむの木村」を開設し、独自の障害児教育に取り組み障害児への理解を訴えてこられた、宮城まりこさんに、心からの敬意と感謝の念を抱かずには居れません。
この度、天国へと旅立たれた宮城まりこさんのご冥福を心からお祈り申しあげます。
投稿: 芳勝 | 2020年3月23日 (月) 10時29分
宮城まり子さんのご冥福をお祈りいたします。同時に心から感謝を込めてありがとうございました。
「ねむの木学園」を開設された報道を見たとき、なんて凄い人なんだろうと思いました。あの小さな身体の中に秘められた意志と行動力に驚かされました。 宮城まり子さんがハンチング帽子(?)を横被りして、胸当てズボンのポケットに手を突っ込み、小柄な体でリズムをとりながら「ガード下の靴磨き」を独特な声で歌っていたのを思い出します。
女性史の編纂をしていた時、取材で一緒に組んだ方が婦警の第一号でした。彼女の仕事は戦争孤児の収容でした。彼女は編纂途中で病気で亡くなりました。もっと詳しくお話をお聞きしておけばと後悔しきりでした。
戦後30年頃まだ上野駅のJR(国鉄)から地下鉄銀座線へ行く地下道にはまだ浮浪者(当時はそう呼んでいました。)がかなりいました。外に通じる通路です。子供心にも顔を膝に埋めて座っている人たちが強烈な印象として残りました。
投稿: konoha | 2020年3月23日 (月) 11時26分
この歌を聴いていると一面の焼け跡が目に浮かびます。食べ物がない、家が無い、あの光景を覚えている人が少なくなってきています。食べ物を盗んだ少年、少女は少年院に入れられました。遊郭に売られた少女もいました。
学校の先生の中には闇で儲けた金持ちの子供に優等賞を与える人もかなりいました、生徒は「社会とはそんなものだ」と通知表を信じなくなりました。それが小学校で教えられた一番の学問だったような気がします。戦争中威張っていた人の反省する言葉を全く聞きません。でもあの時代を見れた事はなまじかの勉強より良い勉強だったと思っています。
投稿: ハコベの花 | 2020年3月23日 (月) 12時21分
宮城まり子さんが天に召されましたね。93歳の天寿を全うされたわけです。先にも書きましたが、彼女の唄は「ガード下の靴磨き」に代表されるごとく貧しくともたくましく生きる戦後の庶民への応援歌でした。ご自身の不幸な幼時体験からねむの木学園を創設し、人生のほとんどを障害児教育に捧げた彼女の崇高な真心はきっと障害児たちに届いているに違いありません。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。
投稿: 光男 | 2020年3月23日 (月) 16時32分
2020/3/23付けの最近のコメントでなんと5名の方々が時を置かずして投稿されたのを拝読させていただました。宮城まり子氏の訃報を翌日の新聞をみてやっと納得いたしました。氏の偉業をたたえ哀悼のコメントを発信された4名の諸氏に頭が下がります。小生、遅ればせながら冥福をお祈りいたします。
投稿: 亜浪沙(山口功) | 2020年3月25日 (水) 16時31分
私には、観ると必ず嗚咽してしまう映画のシーンが3つあります。 チャップリンの『街の灯』のラストシーン、グリア・ガーソン主演『心の旅路』のラストシーン、安井昌二主演の『ビルマの竪琴』での、水島が兵隊仲間と別れる時に『仰げば尊し』を奏でるシーンです。
そして、歌においてはこの『ガード下の靴磨き』です。必ず泣いてしまいますので、人前で唄うことはできません。 3番の♪可哀想だよ お月さん〜♪あたりでは、感極まって嗚咽以上の状態です。 お恥ずかしい。 まり子さんのデニムのオーバーオール姿が目に浮かんできます。心よりご冥福お祈りいたします。 合掌
投稿: かせい | 2020年4月12日 (日) 14時33分
宮城まり子さんの人柄について、昭和2年生まれの叔父から聞いた話があります。デパートの屋上でのイベントに出演していたときに、幼児の迷子が出て会場が大騒ぎになった時に彼女がさっと舞台から下りてきて、涎まみれの女の子を抱き上げて“お母さんいませんか”と呼びかけたそうです。衣装を気にせず何でもない事のように振る舞う彼女を見て、理屈じゃなくてさっと対応できるすごい女性だと感じたそうです。
近所の会社から毎年“ねむの木学園”の子どもたちの絵を題材にしたカレンダーを貰うたびに思い出します。
投稿: はる | 2020年4月15日 (水) 22時16分
私は昭和17年生まれ、疎開先の田舎で生まれました。戦後の食糧難、貧困生活は子供心に強烈な印象で残っています。田舎では「疎開の子」とさげすまれました。母親から学校で習った「お百姓さんご苦労さん」という歌を歌ったときに泣きながらたたかれたことがありました。疎開先で母親がどれだけ苦労したことか・・!!
戦争は人の心も貧困にしたのだと思います。
この歌は涙なくしては歌えません。戦争は一番弱いところに犠牲者を出すのです。
宮城まり子さんは本年令和2年3月天寿を全うされました。本当の博愛の心をもったやさしい「おばちゃん」でした。ありがとうございました。
投稿: タケちゃん | 2020年7月18日 (土) 10時42分
偶然、NHKみてたら宮城まり子さんの15分くらいの番組あってました
靴磨きの少年の歌を歌われてたそうで、ネットで検索してこちらへたどり着きました
皆さんがおっしゃる通りなので書きません。私も同感です
朝から自民党の次期総裁のニュースばかり。政治家は綺麗事言ってるけど私腹を肥やし、金持ちの為、選挙のためだけに政治を行っていて、画面に映る脂ぎった虎視眈々と権力と政治ポスト狙う奴らばかりで、宮城まり子さんの番組見せてやりたいと思いました。
投稿: オサップ | 2020年8月29日 (土) 06時39分
「ガード下の靴みがき」この曲が生まれたのは昭和30年、戦後10年が経っていたとは云え、当時の日本の背景を自分なりに偲ぶ時、この唄に涙した人たちは、私が想像するよりもはるかに多かったのだろう・・歳を経てきたせいなのか、最近ではこの曲を聴きながら、私はそんなことを思うようになりました!
そして、『・・風の寒さや ひもじさにゃ 馴れているから泣かないが あゝ 夢のない身が つらいのさ・・』宮城まり子さんの歌声が、二番の歌詞のこの部分に触れた時、私は何故だかいつも目頭が熱くなってしまいます。
「東京シューシャンボーイ」のヒットから4年後、朝鮮戦争の特需景気で、焼野原になっていた都会には復興のツチ音高くビルが建ち、街は日ごとに装いを新たにしていきました。しかし、一方で闇市や娼婦などは街の片スミに追いやられて、戦後復興は未だしの感がありました。(昭和の流行歌・森田潤氏解説より)
本日3月21日は、障害のある子どもたちの教育や福祉にその半生をささげられ、そしてそれを全うされてこられた、宮城まり子さんの御誕生日でもあり、そしてまた御命日でもあります。
『・・きれいな心を持ってる人はいるが、それを形にして、一生かけた人はいない。マザーテレサに匹敵する日本が生んだ素晴らしい女性だ・・』私は著名人のこの発言にまさに同感の思いを抱きます。
宮城まり子さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。
投稿: 芳勝 | 2022年3月21日 (月) 09時32分
この歌を聞いていると昔の体験が蘇りいつも涙ぐんだものです。しかし昨今、世界中の不幸な少年少女のニュースを見るにつけ何もできない自分がなさけなくなります。若し、この歌に実在のモデルがあったとして、当のご本人がこの歌を聞いたら、どのような思いがするだろうかと考えました。「ボクのことをこんなに思ってくれる人もいる。ありがたいな、、、」と思うかもしれません。しかし、このように考えるかもしれません。「ボクは生活の為に力一杯やっていたので、あれで良かったんだ。人様から哀れと思われたり同情を受けることはイヤだな、」と考えるかもしれません。悲しみや苦しみの中に生きている人を見た時、そばに寄り添い「大丈夫だよ、一緒に頑張ろうね」明るく笑顔で話しかけられる自分になりたいな、と思う今日この頃です。
投稿: いえのマル | 2023年12月 7日 (木) 13時56分
(文中敬称略)
「イムジン河」(1968、歌唱:ザ・フォーク・クルセダーズ、日本語詞:松山猛(1946~))、「別れの朝」(1971、歌唱:ペドロ&カプリシャス、日本語詞:なかにし礼(中西禮三、1938~2020))に引き続いての「昭和の演芸の中の昭和歌謡」、「ガード下の靴みがき」にも思い出がありますので、くどいようですが書いてみたいと思います。
こちらは私の子供時分の東西の笑いの横綱がこの曲をモチーフにそれぞれコント・漫才を演じており、「不謹慎」というクレームもあったかもしれませんが、子供の頃そんな光景を目の当たりにしたことがある方々が演じていただけに、重みがある出し物だったと私的には思います。
まず西の横綱は横山やすし(木村雄二、1944~96)・西川きよし(西川潔、1946~)の漫才「男の中の男」(作:中田明成(1944~2017))。
やすしときよしがそれぞれ少年期に何らかのアルバイトをしていた際(もちろん中田の創作。但し、きよしは実際に小学生時代に新聞配達のアルバイトをしていた)チンピラに絡まれ泣いている時に月光仮面のような正義感のある男に助けられたという自慢話合戦のような演題で、特にやすしが「僕が昔○○のアルバイトをしてた時に…」とふったあとそれに関する歌、例えば○○が「靴磨き」の時は「♪紅い夕日がガードを…」と「ガード下の靴みがき」を、「卵売り」の時は「♪コッコッコッコッコケッコー…♪)と「ミネソタの卵売り」(1951、歌唱:暁テル子(関根ひさ、1921~62)、作詞:佐伯孝夫(和泉孝夫、1902~81)、作曲:利根一郎(恩田良武、1918~91))を歌い出したり、チンピラの出てくる場面では「こら!ワレ!おんどれ!誰に許可とって商売しとんのや!」と怒鳴るときよしに「君がやるとリアル過ぎるわ」とツッコミを入れられるシーンには笑えました。
対する東の横綱はザ・ドリフターズの「ドリフ大爆笑」(1977~98、フジテレビ・東海テレビ・関西テレビ系)における「ガード下の…」をモチーフにしたコント。
原曲通りのシチュエーションのセットで、靴磨きの少年に扮した志村けん(志村康徳、1950~2020)が夕暮れの街行く人々を呼び止めても誰も振り向きもせず、強行手段で「おじさん、靴磨かせておくれよ!」と帰宅途中のサラリーマンに扮したいかりや長介(碇矢長一、1931~2004)の足を両手でつかんでコケさせ(いかりやは何度も断るためその繰り返し)、降参したいかりやが靴磨きに応じるも莫大すぎる代金に「払えるか!」と言って逃げようとするもまた志村にコケさせられる…というような内容だったと思いますが、このコントに限らず「ドリフ大爆笑」ではいかりやが結構他のメンバーにやり込められるシーンが多かったような気がします。
蛇足にはなりますが、やすきよの漫才のネタ振りでストリップショーの話題が出たときにきよしが「タブー」(ラテン楽曲、「8時だョ!全員集合」(1969~85、TBS・CBCテレビ・朝日放送テレビ→毎日放送系)の後半ショートコント集における加藤茶(加藤英文、1943~)の「ちょっとだけヨ」のコントのBGM)を口演奏してやすしがそれに合わせて踊る場面があり、やすしが「ちょっとだけヨ」と言うときよしに「他人(ひと)の芸をパクるな!」と突っ込まれるネタもあります。
投稿: Black Swan | 2024年4月23日 (火) 21時51分