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2009年5月17日 (日)

チャンチキおけさ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:門井八郎、作曲:長津義司、唄:三波春夫

1 月がわびしい 路地裏の
  屋台の酒の ほろ苦さ
  知らぬ同士が 小皿叩いて
  チャンチキおけさ
  おけさ切なや やるせなや

2 一人残した あのむすめ
  達者でいてか お袋は
  すまぬすまぬと 詫びて今夜も
  チャンチキおけさ
  おけさおけさで 身をせめる

3 故郷(くに)を出る時 持って来た
  大きな夢を さかずきに
  そっと浮べて もらすため息
  チャンチキおけさ
  おけさ涙で くもる月

《蛇足》 昭和32年(1957)6月、テイチクからレコード発売。

 浪曲ファンの間で当時人気の高かった若手浪曲師・南篠文若に着目したテイチクが、彼を歌謡曲歌手としてデビューさせることにしました。芸名を三波春夫とし、彼の自作による『メノコ船頭さん』を発売したものの、パッとしません。

 そこで、アマチュア作詞家から投稿されていた歌詞を採用して曲をつけ、急遽発売しました。A面になったのがこの『チャンチキおけさ』で、B面は同じ作詞家による『船方さんよ』でした。
 『チャンチキおけさ』は、あっという間に20万枚を突破、さらに売り上げを伸ばし、それにつられて『船方さんよ』もヒットしました。この2つのヒットにより、三波春夫は一躍スターダムにのし上がります。

 そのアマチュア作詞家が門井八郎で、これを機にテイチク専属になり、アイ・ジョージの『赤いグラス』などのヒット曲を書きました。

 テイチクに対抗して、コロムビアは翌年、浪曲師・酒井雲坊を村田英雄として歌謡曲歌手に転身させました。そのデビュー曲『無法松の一生』も、大ヒットとなりました。

 『チャンチキおけさ』が発売された昭和32年は、「鍋底不況」のまっただ中。サラリーマンの給料も、商店や町工場の売り上げも底に貼りついたまま。庶民はそうした憂さを、一杯飲み屋や屋台で晴らしていました。
 この歌は、いわゆる出稼ぎ労働者の心情を歌ったものですが、出稼ぎ労働者にかぎらず、歌詞もメロディもそのころの庶民の気持ちにぴったりフィットしていました。それが、この歌が大ヒットした大きな要因でしょう。

(二木紘三)

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コメント

二木先生がこの曲を演奏されたのは、それから半世紀後の今、日本どころか世界中の不景気を吹き飛ばす元気印の新曲登場を期待されてのことだろうと勝手に推測しております。(^^;)
私は中学生でしたが、本当に流行しましたねエ。

村田英雄誕生のいきさつは初耳です。感謝!

投稿: 佐伯K | 2009年5月19日 (火) 08時45分

いつも楽しく拝見しておりますが、私の大好きなこの曲が未だ載っておりません。それは、岡晴夫の「青春のパラダイス」です。私は67歳男子ですがこの曲の歌詞のは若き青春時代の思い出と血が騒ぎます。
近年ボニージャックスのCDでこの曲が好きになり、声楽家の藍川由美さんも歌っています。岡晴夫の歌はテンポがすごく速くてついていくのが大変ですが好きです。
でもボニージャックスのテンポとハーモニーが最高です。
 ぜひ、この曲を取り上げて下さい。

 私のブログに歌謡曲を取り上げています。見ていただけたら光栄です。

投稿: あすか | 2009年5月22日 (金) 09時18分

南條文若は浪曲師時代に私の家の近くにあったお寺(池青寺:ちえじ)で浪曲を語っていて、祖父母が聞きにいっていたようです。村田英雄も浪曲師時代に来ていたと聞きます。なお私の家は福岡県久留米市にあります。

投稿: 江尻 陽一 | 2009年5月27日 (水) 01時54分

故郷(くに)を出る時 持って来た
  大きな夢を さかずきに
  そっと浮べて 

この気持ちよくわかります。好きな歌です。

投稿: FT | 2009年12月14日 (月) 12時03分

 中学生の頃、この歌がラジオから流れてくると その度に腹をたてて スイッチを切った記憶があります。その頃の私は、日本の流行歌、中でも演歌調の歌が 大嫌いでした。特にこの歌を聞くと、よっぱらいの 粗野で下品な飲酒の情景が 浮かんできました。「小皿たたいて」は「皿をたたくな、最低やろ、行儀よく飲め!」「チャンチキ」は「もっと上品な表現はないのかい!」「歌全体」は「人生の敗北者どおしのなぐさめあいみたいだ!」なぜか本気で怒っていましたね。 

 心理学では思春期を 疾風怒濤の時代というそうですが、私の場合もまさしく 傲慢にして誇り高い疾風怒涛の思春期でした。現在の私のこの歌に対するの感想ですか? なかなか味があって、いいんじゃないですか。佐渡から 出稼ぎに都会にでてきているんですね。くじけずにがんばってね。こんな感じですね。この年齢の違いからくる歌の感想の差とは何なんでしょうね。たぶん私が酒を飲む経験、時に粗野で下品な経験も積んできたからでしょう。とりあえず、天国の三波春夫さん、あの時はごめんなさいね。

投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年10月14日 (日) 04時51分

 古典酒場という本があり、絶滅食堂ということばもあります。最近、昭和のなつかしいふんいきをもつ飲食店をレポートするブログの動きがあります。そんな古い店などほとんどないわけですから だんだんディープな地域やいかがわしい場所が店の報告とともに 白日のもとにさらけだされていきます。ディープ好きな私としてはおおいに困っています。
 彼らは遠出の際などは、宿泊費を削りつつ1日に6軒、7軒と店をめぐるので、身体(肝臓、痛風、その他)をこわしながらの満身創痍のレポートが多いのです。
 日本人はこりだしたらすごいと言いますが、ほんとうですね。音楽マニア、鉄道マニア、いろいろありましょうが、バカみたいに飲み屋さんを追跡している人に注目している私です。彼らの狂気にも似た情熱はどこからきているのかと。何のためにやるのかと思うのです。閉塞感の満ちた今の社会と関係あるとは確信していますが。
 仲間とおだをあげていた あのちゃんちきおけさの時代はどこへ行ったのでしょう??

投稿: 紅孔雀 | 2012年11月11日 (日) 21時57分

秋山小兵衛様の気持ちよくわかります。
子どもの頃、大酒のみの父が、酔っぱらってよくこの歌を歌っていました。当時反抗期だった私はそんな父と、この歌が大嫌いでした。その父も今は無く、私も父の年齢に達し、飲み会の後などで、たまに行くカラオケでこの歌を歌詞を見ないでも歌える自分が不思議に思います。
我が故郷(新潟)を出るとき持ってきた大きな夢は今ではさかずきの酒に溶けて流れてしまったようです。

投稿: 曽良 | 2012年12月22日 (土) 22時53分

チャンチキとは摺鉦(すりがね)の事らしい。作詞家とはこうも見事に言葉を当てはめる。凡人には出来ない。

投稿: 海道 | 2012年12月23日 (日) 14時37分

以前から気になってました。
一番目の歌詞の’小皿たたいて’の小皿は’ほざら’と発音するのが正しいらしいのですが、なぜ小皿と表記して’ほざら’と発音するのか ’こざら’と発音してはいけないのか(良いのか)どなたか教えてください。

投稿: なかむら | 2013年9月21日 (土) 11時18分

なかむら様
 チャンチキおけさ、久しぶりに聞きました。三波春夫、島津亜矢の二人で。
二人とも、小皿は「こざら」と発音していますが・・
「ほざら」と発音するとは・・
その発音が正しいらしいとおっしゃっていますが、なにか根拠でもあるのでしょうか。

投稿: 屋形船 | 2013年9月21日 (土) 19時34分

 この歌を聞くと、50数年前のことを思い出します。中学校の同窓会をお寺でしました。まだ、高校生だったのでお酒が飲めず、広いところがお寺だったのです。そこの子どもさんがクラスメートだったこともあり、お借りしたと思います。
 そのとき家で農家を手伝っているある友人がこの歌を歌いました。そのときは何も感じなかったのですが、大人の世界を見たような気がしました。酒、歌、仕事というような感じです。
 彼は今でも郷里で頑張っているようです。もう地域になくてはならない人なのではないかと思います。誠実な人物でした。
 いろいろなことを思い出します。
 

投稿: 今でも青春 | 2015年8月18日 (火) 20時38分

佐渡に観光で行った以外は新潟とは縁もゆかりも無いが、二木先生の演奏が素晴らしい『チャンチキおけさ』は新潟を象徴する歌で、新潟は実力県です。江戸の銭湯経営者に越後出身が多かったと言われ、石油掘削関連企業発祥地であり(新潟鉄工(破綻後解散)、コスモ石油、JXエネルギー…)、日本一の米どころを生かした米菓企業、洋食器製造…実力県です。
他方、自分の出身県をクサしたくないが、司馬遼太郎の著書(街道を行く)のNHKテレビ放映版で“この県は江戸時代から米1本でやってきた”と酷評され、同じ米どころでも新潟とは正反対の県であり、県庁所在地某市は某プロ球団や某J1チームの本拠地だが、実態は“座敷を貸しているだけ”です(レギュラーで県出身者ゼロ)。あまり歌に関係ない投稿で失礼しました。

投稿: 焼酎百代 | 2016年1月16日 (土) 15時01分

何かで読んだ気がしますが、三波春夫はこの歌はあまり好きでないと言っていた記憶があります(違っていたらごめんなさい)。でも、私はこの歌が流行った頃は高校生だったのになぜか、大衆酒場で今日の仕事を終えた庶民が楽しく、時には憂さを晴らしてみんなでワイワイ歌い笑っている情景がありありと浮かび、リズミカルな曲と相まって、いい曲だなと思い、自分でも歌いました。

話は違いますが、北島三郎のデビュー曲(だったと思いますが)「ブンガチャチャ節」は発禁処分になってお蔵入りになってしまいましたが、似たような雰囲気の曲でしたね。この曲も私は好きでよく歌いました。近年歌っても良くなったようですがあまり聞きません。もっと流行らせたいけど最近の若い人はあまり酒を飲まなくなったようで、これらのような大衆酒場で騒ぐような歌はダメなのかもしれませんね。

投稿: 吟二 | 2017年10月24日 (火) 11時37分

連続して書き込みで恐縮ですが、前に書いたことは間違いだったということに気がつきましたので訂正します。三波春夫はこの曲はあまり好きでないと何かで読んだ気がすると書きましたが、それは間違いで取り消してください。

思い出したのは、他の歌手が自分の歌でそのようなことを言った記憶でしたが、あやふやなことを書くことは止めます。

投稿: 吟二 | 2017年10月24日 (火) 11時49分

〽月がわびしい路地裏の 〽おけさ涙で曇る月・・・唸りたくなるほどの名調子です。戦前末期生まれのため昭和20~30年代の曲が好きな者ですが、「チャンチキおけさ」を始め「大利根月夜」「玄海ブルース」などヒットを連発した長津義司は𠮷田正と共に好きな作曲家の一人です。
昔はアルコール漬けで今は薬漬けですが、カミさんの忠告に従い安焼酎ロックを少し飲みながら聴くチャンチキおけさは“胃にしみ渡る”名曲です。 (なお、実に差し出がましいながら、いつも抒情性あふれる投稿をされるyoko様は最近見かけないですがお元気ですか)

投稿: 焼酎 | 2018年8月19日 (日) 09時53分

焼酎さま
ご心配いただきまことにありがとうございます。
今夏の猛暑、凄かったですね。なんとか切り抜けることができました。我が家はここ数年、エアコンなしで暮らしておりますが、エアコンを使わない多くの高齢者がと熱中症で倒れているという報道に接し来年はエアコン買おうね、と妻と相談している次第です。

コメントは頭に浮かんできていたのですが文がまとまらないうちに皆様の投稿に次々と接してそれを楽しんでいるうちに時間が過ぎ去ってしまいました。

特にnobaraさまの”若者よ恋をしろ”でのコメント「私はあらゆる人間関係に臆病で、・・・、・・・植物を友として生きています」にいたく共感し、僕と同じだと思いコメントを温めておりました。しかしnobaraさまのお体のご様子が心配で投稿を差し控えておりました。先日、nobaraさまは少し回復されているとのお知らせもありホッと安心させていただいているところです。ただやはり僕のケースをnobaraさまに重ねてコメントするのは失礼かと思いこの題材での投稿は諦めました。

山口の行方不明2歳児を救出された小畠春夫さん(78)の活躍は素晴らしいですね。毎朝8Km走っていらっしゃるのだとか・・・。私は足が弱く最近は隔日で5Km程度とぼとばと歩く程度です。今のところ休みながら歩く練習なので、たかだが5Kmですが4時間かかります。ただ、目標は高く、半日山歩きしてもくたばらない体力をつけたいと思っています。

投稿: yoko | 2018年8月19日 (日) 23時01分

度々投稿失礼します。
yoko様には「チャンチキおけさ」を通じ返信有難うございます。長年のアルコール漬け・不摂生・後遺症がたたり朝フトンから起き上がるのも一苦労ですが、yoko様には山歩きの体力をつけたいとの由、お互い頑張りたいものです。
軽ワゴン車に生活用具一式を積んで山口2歳児の救出や、東日本大震災500日間ボランティア活動、熊本地震や西日本大水害のボランティア活動で社会貢献している78歳・尾畠春夫さんを見習い、何とか頑張りたいものです。

投稿: 焼酎 | 2018年8月20日 (月) 00時10分

「チャンチキおけさ」ここでこの曲を聴くと、私が幼いころに我が家を訪ねて来ては楽しそうに父と一緒に焼酎を飲んでいた陽気なおじさん(父の知人)のことを想い出します!

そのおじさんは我が家にくると、決まって父と二人でいつもカストリを煽っていました。またそのおじさんは酔いがまわると湯呑茶碗などを箸で叩きながらこの唄をいつも気持ち良さそうに歌っていました。しかし子供だった私たちにはただうるさかった、そんな記憶が残っていますが、それも今では懐かしい良き想い出となっています。
このおじさんが我が家に突然訪ねて来ると、貧乏だった当時の我が家の家計は悲惨で、僅かなお金も父とおじさんの焼酎と肴代に消えてしまい、その日は母と私たちは夕食抜きにならざるおえませんでした。そのおじさんの前ではやもおえず笑顔を見せながら応対する母も、私たちにはその都度今日はごめんねと言いながらいつもすまなさそうな顔をしました。
その陽気なおじさんが最後に我が家に訪ねてきたのは私が6歳の時で、その日のおじさんは何故か帰り際、庭先で一人遊んでいた私を見つけると、突然ズボンのポケットから取り出した小さな石を私にくれました。その時のおじさんが言った言葉が私は今でも忘れられません。『・・この石は島根県の宍道湖で採れた滅多にない高価な石だけど、特別に坊やにあげるから大切にしろよ・・』と言って笑いながら帰って行きました。私はおじさんの姿が見えなくなると、その石を手に逸る気持ちを抑えながら、少しでも早く家族のみんなに喜んで貰おうと、おじさんが言ったその言葉を伝えながら家族みんなにその石を見せました。すると父も母も兄も姉もみんな誰もがただ苦笑するばかりでした。そしてそれはおじさんが吹いたホラだと知りました。私はすっかり信じ切っていたそのおじさんがついた嘘にその日はがっかりしたことを憶えています。(笑)
そしてその日以来そのおじさんが我が家に訪ねて来ることは一度もありませんでした。

「チャンチキおけさ」私はこの唄が好きで今でも時々口遊んだりしていますが、その都度私の脳裏を過るのは、幼いころに私をがっかりさせたその陽気なおじさんのことです。長年が経った今私がしみじみ思うのは、幼いころの強烈な想い出はたとえ長年が経ったとしてもいつまでも消えないものですね・・・。それにしても実に良い唄だと思います。


投稿: 芳勝 | 2022年5月 6日 (金) 23時54分

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