武田節
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:米山愛紫、作曲:明本京静、唄:三橋美智也
1 甲斐の山々 陽に映えて 2 祖霊(それい)まします この山河 (詩吟) 3 躑躅ケ崎(つつじがさき)の 月さやか |
《蛇足》 昭和36年(1961)に発表された、いわゆる新民謡。戦後に作られた新民謡のなかでは、とくに成功したものの1つです。
山梨県では、地域の集まりなどでよく歌われ、実質的に県民歌の役割を担っているという話を聞いたことがあります。
詩吟を入れたい方は、2番のあとで、プレイヤー・アイコン左端の縦二重線をクリックして曲を止め、詩吟が終わったら、再度アイコンをクリックして3番を歌ってください。
上の写真は武田信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の堀。現在は武田神社の境内になっています(甲府市古府中町)。
(二木紘三)
コメント
昔、口やかましいガミガミ屋の上司に仕えていたとき、
宴会の席で「何か歌え」と言われて、この曲の2番だけを
歌いました。
上司はジロリと私を見て「お前がこの歌を歌った意味はわかっておる」と言われました。
言いたいことが通じた感はありましたが、口やかましいことは最後まで変わりませんでした。
この歌を聴くたびにあの上司をお思い出します。
投稿: 勝馬 | 2009年8月27日 (木) 21時30分
昔、ある結婚式場で花嫁の″親戚のおじさん″がお祝いにこの歌を歌いました。それまでにこの歌を知ってはいましたが「ああ、いい歌だなあ!」と思いました。
この歌は格調が高いですよね。特に男の生き方を考えさせてくれます。
投稿: 藤村大蔵 | 2009年9月 4日 (金) 19時46分
この曲は良い曲だとは思いますが、信玄にあらしまくられた信州人としては歌う気になれません。おまけに家内
が甲斐人ですから。
投稿: 海道 | 2009年9月 8日 (火) 20時59分
はははっ、「おまけに家内が甲斐人ですから」を読んで吹き出してしまいました。海道さんって楽しい方ですね。友達になりたい。ははは。
投稿: y,y | 2009年9月 9日 (水) 09時07分
海道様のコメントにy,y様は吹き出してしまわれたそうですが、わたしも思わず笑ってしまいました。海道様はなかなか面白い方ですね。そのデンで言うと、越後人であるわたしもこの歌を唄う気になれません。上杉謙信公(越後人は敬愛を込めて「公」をつけます)のライバルを持ち上げる歌など口が裂けても、と言いたいところですが、そこは「義」の人謙信公のことですから、「敵に塩を贈った気持ちで、唄ってあげなさい」と泉下で微笑んでいることでしょう。
新民謡の『武田節』は人口に膾炙されていますが、わたしの曖昧な記憶ですと、越後にも謙信公を褒め称えた新民謡があるのです。確か『春日山音頭』(あるいは「小唄」?)と言って、次のような歌詞があるのですが。上越地方にお住まいの方には、ご存知の方がおられると思います。
春日山頭松吹く風に
アリャ松吹く風に
今も聞える義の叫び
そうだ そだ そだ その意気だ
その心意気
甲斐の信玄逃がそとままよ
アリャ逃がそとままよ
(以下忘失)
メロディは覚えているのですが、歌詞はまったくウロ覚えです。したがって表記は旧かなのはずですが、勝手に新かなにしました。『武田節』の向こうを張るなどという大それたことを夢見ているわけではありませんが、越後にも『武田節』が作曲される遥か前に、謙信公を称える歌が既にあることをお知らせしたかっただけです。
投稿: ひろし | 2009年9月 9日 (水) 11時56分
生まれ故郷の偉人に対して何かしらの愛着を持つのは自然だと思います。「ひろし」様には申し訳無いのですが、直江兼続の祖先は木會義仲の重臣・樋口兼光だそうです。また母は信州の豪族の娘説もあるとの事。越後人と信州人はどこかで繋がっているのではと思う時があります。(川は繋がっているからでしょうか?)
投稿: 海道 | 2009年9月 9日 (水) 12時42分
民を抑圧した支配者なんて、「偉人」ではありませんね。
むしろ、地元だからこそ崇敬の念は起こりません。
「先祖がコイツに虐げられた」というのが事実ですから。
投稿: takama | 2009年9月20日 (日) 14時17分
むかし娘の結婚式に、婿方の山梨県在住のおじさんが武田節を歌ってくれました。とてもいい歌だと思いました。それ以来、私の愛唱歌の一つになりました。
三橋路也の「古城」も共通した雰囲気がありますね。そんな歌がもっとあったら皆様、教えて下さい。
投稿: 吟二 | 2009年9月27日 (日) 23時50分
確かに我々信州人にとって甲斐の信玄に対する思いは複雑です。特に東信、中信地区は虐殺、追放によって甲斐人が、多数入植したため甲斐の姓が多いそうです。
しかし、後年越後にも武田の菊姫が景勝に嫁ぎ、尊敬されていましたから、我々も歴史物語として現代を生きましょう。
因みにカラオケで県歌がエントリーされているのは信濃の国ただ1曲だけだそうです。
山梨県人は県歌がエントリーされていないため、悔し紛れにこの武田節を県歌だ!と言い張って唄うそうです。
投稿: 月の輪熊 | 2009年10月19日 (月) 13時04分
こんばんは♪
~県民歌を担っている~曲なんですね。
いいですね、こういう曲が県民歌ならば。
何か人のため県のために頑張っていこう!なんて
そんな元気が出てきますね。
実は友人と共に採譜させて頂きました。
近く「甲斐の国」を訪問して演奏いたします。
(この曲はサプライズなのです・・・)
「詩吟」も練習しています。節回しが難しいですね。
漢詩に触れることは多いのですが、吟ずるのは初めて
です。しかしながらとても面白いです。
因みに「ああモンテンルパの夜は更けて」も採譜させて
頂き、過日演奏いたしました。歌が入っていないので音
が拾い易かったです。
有難うございました。
投稿: やまゆり | 2009年11月27日 (金) 23時59分
東京都民ですが・・・・
甲斐の国(山梨県)には終戦直前に疎開し、そこで小学1年生になりました(その頃は小学校ではなく国民学校でしたが)
2年ちょっといましたが、地方病の日本充血吸虫に感染し、死ぬ思いをしまいた
よって山梨県にはこだわりがあります
「武田節」を始めて聴いたとき、懐かしさと同時に、甲斐人の排他性がにじみ出ているなぁと思いました(2番の歌詞)
また、「つつがあらざる」という日本語は誤用だと思います
「つつがなし」または「つつがない」は一つの決まり言葉であり、「あらざる」は「ない」の古典的言い方ですが、「つつがない」の一部をかえることは出来ない筈です
中央本線の新宿~甲府間には43個のトンネルがありました
列車に乗りながら数えたことがあります(今は減っている)
2週間前に甲斐駒に登ってきました
疎開先は伯父の嫁さん(義理の伯母)の実家ですが、今はブドウ園をやっています
投稿: マツケンサンバ | 2010年10月 3日 (日) 11時58分
マツケンサンバ様
「つつがない」はおっしゃるとおりですね。「とんでもない」「ふがいない」「もったいない」「いけすかない」「しがない」などはいずれも1語の形容詞ですが、語末の「ない」が否定の助動詞だと思われて、たとえば「とんでもありません」とか「とんでもございません」といったふうに誤用されます。
私もたまに間違えますが、誤用かどうかを見分けるには、「ない」を「ある」に置き換えてみて、その単語が存在するかどうか考えると分かります。たとえば「とんでもある」という言葉はないので、「とんでもありません」という言い方は間違いだと分かります。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2010年10月 3日 (日) 16時40分
これは勉強になりました。
私は点訳初心者なのですが,「ない」について手引き書には
形容詞の「ない」は分かち書きし(例:関係□ない),
助動詞の「ない」は分けない(例:捨てない)。
その判別は「捨てズ」とは言うが「関係ズ」とは
言わない。
とあります。そこまでは良いのですが,さらに
前の語と複合して一語となって場合は分けない
(例:味気ない)
とあり,その判別方法がわからなかったのです。なるほど,「アル」にしてみればわかるのですね。
投稿: みなかみ | 2010年10月 5日 (火) 23時25分
初めてメールします。
もしやと思っておりましたが、二木様は二木氏の一族でしょうか。小笠原長時が信玄に塩尻峠の戦いで負けて没落したとき二木弾正の中塔城に匿ったという資料が残っております。
仁科雄三というペンネーム、学生時代上高地でアルバイトしていたことなど何か感じます。
私は名古屋の団塊世代です。
投稿: なかの | 2011年8月17日 (水) 11時57分
なかの様
この件については何度か訊かれたことがありますが、私は家系とか先祖に関心がなく、調べたことがありません。しかし、関係ないと思います。明治になって平民も苗字をつけるときになったとき、「本家が昔の豪族にちなんで二木にするそうだから、うちもそれにすべえ」というのでつけただけだと思います。そのせいか、私の生家の周りは二木だらけです。
仁科は、生家からかなり北方に仁科三湖という3つの湖があり、その最北の青木湖が好きだったので、初めて本を書くことになったとき採っただけです。いずれも全然何の由緒もなしです。がっかりさせて申し訳ありません。
投稿: 管理人 | 2011年8月18日 (木) 00時17分
私はいまは定年となり九州に引っ込んでおりますが、昭50年頃は東京でサラリーマンをしておりました。同僚の未婚の女性(20代前半)がその友人の挙式に呼ばれたことが三件立て続き、その三件ともやや遠い甲府市近くであったそうです。その全部に余興として来客から歌われたのがこの『武田節』。一人が歌うと全員が盛り立てるように大合唱になり、この歌は山梨県民の血を沸き立たせるものがあるのだなあと、どの披露宴に列席していても感じたと言っておりました。
投稿: 乙女座男 | 2012年8月29日 (水) 10時58分
子どもの頃から耳になじんだ武田節ながら作曲者が明本京静(青森県出身)であることを蛇足様の名解説で初めて知りました。もともとクラシック歌曲・大舞台のオペラ志望であったが(ものすごい体力が必要)、若い頃には体があまり丈夫でないため、その進路に迷っていた同県出身の奈良光枝が相談を掛けたのが彼女の兄の親友・明本京静。その助言に従って、負担の少ない歌謡曲を選んだことで、超美人歌謡歌手奈良光枝の誕生につながったと。明本はもともと作曲とは縁のない工学部出身(東京帝大工学部中退)。いわば丸きり畑違いからの作曲者が、このような国民的新民謡をものにするのだから驚き!
投稿: 乙女座男 | 2012年8月29日 (水) 18時04分
<甲斐と信濃>
私は神戸で育った人間で、あまり東日本には縁がないんですが、若い頃この「武田節」を知り、素直にいい歌だなあと感じました。たぶん私が歴史好きだったせいでしょう。社会に出て、人をまとめていく難しさを多少なりとも知った後は、信玄の「人は石垣、人は城」は底力のある知将の名言と思いました。一方で信州の真田昌幸の、上杉に付いたり武田に付いたりして家康から「日本一の横着者」と呼ばれた生き方も好きでした。だって武将の力は立地条件(兵力、石高)に左右されるから卑怯だとか従順とかいってられないですよね。とくに痛快なのは、真田の少数の兵が秀忠の大軍を巧妙な戦法で上田城に釘付けにして、関が原の合戦についに間に合わせず、家康に冷や汗をかかせたところですね。また兄信幸は東軍に弟幸村は西軍につける計らいをみると信玄に勝るとも劣らぬ智慧と謀略を感じます。後年出張の折に躑躅ガ崎跡(たしか現武田神社)と上田城に行き、長年の夢を果たしました。 ところでこのコメント欄をみて、信州出身の方がかつての信玄の侵略にいまだこだわりを多少もっているのを知り、考え込みましたね。そして思い出したのは会津若松市と萩市の間でなかなか友好都市交流が結べなかったという話です。会津は戊辰戦争で長州軍に蹂躙されたものですから、さもありなんです。それはおよそ150年前の出来事、しかし信玄の信州侵略はおよそ550年前ぐらいですかね、大昔ですよ、確執というかこだわりがすごいですね。私はそういうものが人々の中に脈々と流れていることにほんとうに驚きました。もちろん、皆が皆そうではない、それはわかったうえで、歴史の重み、土地の呪縛みたいなものを感じ、1日考えこみました。
投稿: 久保 稔 | 2012年9月 1日 (土) 18時30分
「そして信玄に可愛がられ、その才能をいたく愛された真田信繁(幸村)の父昌幸は、信玄の心の中の武田信繁の大きさを最も知る者のうちの一人であったとも思われるし、また当時の人間として純粋に武田信繁に心酔していた可能性もあります。そこで自分の子に信繁と付けても不思議ではありません。」
「信玄は信繁の死体を抱くと号泣したと伝えられ、上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、信玄の長男・義信が謀反を起こすことはなかったといわれるほどである。」
これらのようにネット上で評されている武田信繁が川中島で村上義清(信濃の豪族)に討たれたのはキツツキ戦法の失敗の責任をとったのだと思えてなりません。(私は武田信者でも、村上信者でもありません)
投稿: 海道 | 2012年9月 2日 (日) 21時21分
マツケンサンバ様 [「つつが」について
「つつがない」という形容詞はありますが、この詩の「つつが」は名詞と解すべきだと考えます。
国語辞書にはどちらも載っているのではないでしょうか。
七五調を維持するために無理に分けたのでもなく、形容詞の誤用でもないと思います。
ちなみに手元にある岩波古語辞典(1975年発行)には名詞と形容詞が載っています。この「つつが」の用例として次のようにあります。
事にふれて、わが身に恙ある心ちするも、ただならず・・・・<源氏匂宮>
投稿: 周山 | 2012年9月 8日 (土) 15時59分
先日県人会のカラオケ会で諏訪出身の方がこの歌を唄ったので、何故敵の歌をと聞くと諏訪地域の人達は敵意が無いらしい。妹の子に勝頼を産ませてもですかと言いたかったが止しました。550年も前と仰いますが、今は村おこしであちこちに立て看板が立っています。また村誌の中に信玄の信濃侵攻に対して豪族達は山頂に山城を築いたとも書かれています。そんな事は何も知らず、城跡を駆け回り、豪族の墓を蹴飛ばして遊んだ昔を思い出します。しかもそんな情報がネット上にあるのです。確かに大昔の事ですね。
投稿: 海道 | 2012年9月 9日 (日) 15時57分
周山様
お久しぶりです。お元気だったでしょうか。
ご指摘の「つつがなし」ですが、私は形容詞だけだと思っていました。
(1)つつがなし(形容詞)
(2)つつが(名詞、主語)+なし(形容詞、述語)
の2種類があるわけですね。口語では(1)は「つつがない」、(2)は「つつががない」となるわけですが、(2)は実際には使われないので、そこからの連想で、文語の「
つつがなし」も形容詞だけだと思っていました。不明でした。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2012年9月10日 (月) 11時18分
しつっこくてすいません。先生は家系や一族に興味が無いと仰っておられますが、下記の様に梓川村誌(松本市梓川梓)にある史実は先生と無関係だとは思えません。二木重高の末裔は松本浅間温泉の館主だそうです。
「二木(ふたつぎ)氏は、西牧氏から離反して深志小笠原氏側に付いたことにより中塔城(埋もれた古城として有名になっている)主となり、転身に成功した。その後は武田氏→ 深志小笠原氏→武田氏→武田氏滅亡後は小笠原貞慶に従っている。
在地の小領主は自分たちの家を存続させるために誰の下に付くべきかを、そのときの状況により判断し戦国期を生き抜いてきた。二木氏はその典型的な頭の良い領主であったといえる。」
投稿: 海道 | 2012年9月12日 (水) 11時47分
私にはあまり郷土愛というものはありません。おそらく神戸の歴史が浅いからでしょう。戦国時代の昔、この神戸や播州が毛利と織田の草刈場になったと知っても、とくにどちらかに肩入れする気はないです。ですから海道さんが、諏訪の知人が「武田節」を歌ったのを聞いて「どうして敵の歌を」と問いつめるところはおかしいですね。山梨の人にこの歌を歌うなとか言えばケンカになるかもしれないですね。おっとだまされるところでしたね。海道さんは山梨の人には決してそんなことは言わないでしょう。気心知れた県人仲間だから言えたんでしょうね。結局は長野県人会は楽しい集まりですよという話ですね。(山梨の人と本気でやりあえば軽い病気ですよね。)
「武田節」はたしかに勇ましい出陣の歌です、しかも信玄の宿願であった上洛の前夜の宴ですね。1572年の終わり頃の出来事でしょう。翌年三方ガ原で織田徳川連合軍を粉砕しますが、その3カ月後、信玄は病死します。脳卒中といわれていますが、その死を隠して伊那、諏訪経由で甲府へ帰ってきます。哀しい帰還だったでしょうね。その後の武田家の武運は坂道を転がるようなものです。長篠の合戦の大敗北、歯止めのかからない家臣の離反、そして織田徳川の甲州侵略、天目山の勝頼の自決と続きます。私は「平家物語」の平家の公達の滅亡よりも勝頼の自害により多く同情します。なぜか、ビートたけし風に言えば「壇ノ浦みんなで飛び込めばこわくない」しかし勝頼は家臣からみはなされて身内だけで自決したんですね。勝頼はとくに暗愚な大名だったとは思わないです。
以上の歴史的経過が頭をよぎるものですからこの「武田節」は単に勇ましい歌だけではなく、悲劇の前夜を思わせるのです。そして運命を予感できない人間の哀れを思ってしまうのです。
投稿: 久保 稔 | 2012年9月14日 (金) 14時52分
つつが「恙」は病気や災難という意味であり、そうでない状態として「つつがない」という慣用句ができた。これと別に正体不明の虫さされのあとに発症する原因不明の致死的な病気があり、それは「恙虫」(つつがむし)という妖怪に刺されて発症すると信じられていた。これをツツガムシ病と呼んだ訳だが、後に微細なダニの一種に媒介される感染症であることが判明し、そこからこのダニをツツガムシと命名したものである。
投稿: 甲斐男児 | 2013年4月28日 (日) 09時22分
勇壮であり、教訓的であり、品の良い歌ですね。山梨県の人は結婚式の時には好んで歌うと思います。私が結婚したウン十年前も、親戚のおじさんが披露宴で歌ってくれました。
アンコの詩吟があるからまた良い。ここは詩吟を習っていない人には難しいところですね。
私は最近、皆さんに聞いてもらう機会が何回かあり、詩吟入りで歌っていますが、詩吟を本格的に習ったことがなく、見よう見まねでやっています。
以前、短歌詠と言って、短歌を詩吟で歌うのを聞いたことがありますが、とても良く、ジンとしました。私も詠えるようになりたい。
投稿: 吟二 | 2014年4月18日 (金) 20時49分
吟二さん
私 一時期、詩吟を習い6年ほど勉強しましたが、今はやっておりません
短歌詠や俳句詠もやりましたが、俳句詠は都都逸に
似た感じですが、もっと格調高いもののようにおもいます。
さて私の育った伊豆の西海岸は現在、「伊豆市と」なっていますが、その隣の「伊豆の国市」は町村合併の前は「韮山町」「伊豆長岡町」と「大仁町」でした。これから紹介する「ああ源氏武士」は旧韮山町では「武田節」よりも人気があったのですが、全国的にはあまり、はやらなかった
のかもしれません。
作詞は高橋掬太郎 作曲は山本丈晴 唄三橋美智也という一流の布陣で格調高いものです。
一 野面(のもせ)の風に一族の
無念を想う二十年
蛭ケ小島の月に泣く
ああ男の心知るは誰
二 配流(はいる)の身にも花開く
恋あり燃ゆる命あり
若き源氏の夢かけて
ああ蹶起(けっき)を蹶起を誓う伊豆の空
三 蛟龍(こうりゅう)ついに雲を呼ぶ
石橋山の明けの陣
駒よいななけ旗揚げの
ああ決意に勇む眉(まゆ)太し
というものですが、今でも伊豆長岡の「あやめ祭り」では会場に流れているそうです。
投稿: マッチンのパパ | 2014年11月 1日 (土) 15時37分
「春日山節」作詞 相馬御風 : 中山晋平 作曲 :唄 鈴木正夫
♪戦するなら 謙信公のような 敵も情に 泣くような・・
YouTube にありますね。
「山梨県の歌」 昭和25年に出来ているようです。
「山梨の唄」で検索すると、
沢山の歌を流してるサイトがありますね。
投稿: なち | 2014年11月 1日 (土) 19時22分
山梨県民の歌となっているらしい「武田節」ですが、だからと言って、これを「新民謡」と位置付けるのは少し違和感があります。新民謡の代表曲である「チャッキリ節」や「天竜下り」などは、何よりも庶民の生活ぶりが織り込まれていて、歌いやすく、間に詩吟を入れるようなひねったところがないのが特徴で、「節」を「武士」にかけた「侍魂」をテーマにするこの歌は、戦国武将をうたった「歴史歌謡」と位置付ける方が自然だと思います。
ところで、この歌の作曲者、明本京静氏は、有名な作曲家としてその事績は詳しく調べる事が出来ますが、作詞者の米山愛紫氏の方は全くわかりません。インターネットで検索しても、数は少なからず出てきますが、そのすべてが、「武田節の作詞者」であることがわかるだけです。一つの歌の作詞者と作曲者でこれだけ情報に格差のあるのも珍しいと思います。もう少し情報をご存じの方はおられないでしょうか。
投稿: solong | 2019年7月23日 (火) 12時27分
米山愛紫 で検索して1件目 2件目は読まれたと思います。
https://blogs.yahoo.co.jp/saegusauntai/36209974.html
https://blogs.yahoo.co.jp/saegusauntai/36210103.html
国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/
「武田節」は知っていても、作者の名前は頭に入ってないので、
JASRAC で調べました。
米山愛紫 44件 明本京静 135件
米山愛紫作詞「大泉音頭」「三富音頭」「靖国の子へ」がありますが、
他は校歌ばかりです。
作詞 米山愛紫 : 作曲 明本京静 の校歌もありました。
投稿: なち | 2019年7月24日 (水) 05時20分
県人会連合会の歌祭りで野尻湖ひとり(水森かおり/五能線カップリング)を熱唱した。そうしたら前の方にいらしたご高齢のお母さんが泣きながら聞いて下さった。後でうかがったら「私しゃ新潟の上越の生まれで子供のころ良く泳ぎに行っただよ」と言う事でした。信濃川の半分は信州の千曲川なのだから野尻湖だって共有財産だ。私は塩の道近くで生まれました。小林一茶は野尻湖のすぐそばで生まれました。この近くが二人の古戦場です。5回も戦って何を得たのバカ。(天下を取れた?)武田節ばかりでなく信濃の国だってYサイトに載ってるぜ。
投稿: 海道 | 2021年4月30日 (金) 05時45分
昭和45年頃、銀行の慰安旅行のバスの車中で4年上の先輩がマイクで歌っていました。昔の歌にも感動する男らしい歌が有り何時までも心に残っていて今では宝です。又女性の先輩が♪桜~ほのぼう~の...伊予絣懐かしいです。
投稿: 細川 和代 | 2022年8月18日 (木) 10時12分
「武田節」私がこの唄を一瞬で好きになったのは、独身のころの、生涯忘れることのできないある事情がきっかけで、後の私が長年にわたり、人方ならぬ恩恵を賜ることとなった大工の棟梁が、私の就職を祝う酒の席で、この唄を心を込めて披露してくださった時でした!
(詩吟)疾(と)きこと風の如く
徐(しず)かなること林の如し
侵掠(しんりゃく)すること火の如く
動かざること山の如し
私は長年にわたり商いの道を歩んでまいりましたが、想い出深いこの唄の、詩吟の部・風林火山の詩は、これまで私の人生の教訓でもあり心の支えでもありました。思い起こせばこの詩から受けたその教訓は無学な私にとって、少なからずも後の成功の要因になったという実感があります。
「武田節」私はここで二木先生の名演奏を聴きながら、どこまでも感謝して止まない、在りし日の棟梁の尊いお姿を今も時折思い浮かべています。それにしても聴けば聴くほど実に良い唄です!
投稿: 芳勝 | 2022年8月20日 (土) 14時02分