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2009年10月17日 (土)

わたしの城下町

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:安井かずみ、作曲:平尾昌晃、唄:小柳ルミ子

1 格子戸(こうしど)をくぐり抜け
  見あげる夕焼けの空に
  だれが歌うのか子守唄
  わたしの城下町
  好きだともいえずに歩く
  川のほとり
  往(ゆ)きかう人に
  なぜか目をふせながら
  心は燃えてゆく

2 家並がとぎれたら
  お寺の鐘がきこえる
  四季の草花が咲き乱れ
  わたしの城下町
  橋のたもとにともる
  灯(あかり)のように
  ゆらゆらゆれる
  初恋のもどかしさ
  きまずく別れたの

  橋のたもとにともる
  灯(あかり)のように
  ゆらゆらゆれる
  初恋のもどかしさ
  きまずく別れたの

《蛇足》 昭和46年(1971)4月に発売された小柳ルミ子のデビュー曲。デビューシングルでありながら、130万枚あまりを売り上げ、同年のヒットチャート1位に輝きました。

 この前年、旧国鉄(現JR)の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが始まり、この歌のヒットの影響もあって、城下町を旅する若者が増えました。

 私の「わたしの城下町」は、高校生活を送った松本。市内を流れる女鳥羽川(めとばがわ)のほとりをよく歩きました。行きつ戻りつしたことも幾たびか。思い出す事どもの、あまりに多くて……。

(二木紘三)

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コメント

この歌とか瀬戸の花嫁、京のにわか雨。時代を感じますね。純情と言うか、可憐と言うか、風情を感じます。

投稿: 海道 | 2009年10月17日 (土) 11時22分

私の城下町は、幼稚園から高校まで住んだ鹿児島であり、いま住む松江です。それにしても、この歌を歌っていた頃の小柳ルミ子、その後の人生は波乱万丈でしたねえ。初めは処女の如く、・・・・・というのが大抵の女性のたどる道なんでしょうか。

投稿: Bianca | 2009年10月17日 (土) 12時44分

この歌はメロディーも歌詞もいいですね。懐かしいです。初恋のもどかしさがよく表れているようです。
二木さんが川のほとりを行きつ戻りつする姿が目に浮かぶようで・・・(笑)
それにしても、あの頃の小柳ルミ子は実に可憐で初々しく、清純で可愛かったのに・・・女性ってずいぶん変わるもんですね

投稿: 矢嶋武弘 | 2009年10月17日 (土) 15時58分

拝啓 管理人様  
 以前この歌を掲載頂く事をお願いし叶えられて(私の意見でなかったかも)大変うれしく思います。ありがとうございます。私が高校時代にラジオでこの歌がまだメジャーにないころよくスポットで流されていて(あの頃はラジオがキャンペーンのメーンだったかも)これは絶対ヒットすると思っていました。高校3年間3人娘(小柳ルミコ。南沙織、天地真理)が席捲してましたね。あの当時は心に純な感じだれにもあったような。懐かしくいい時代でた。

投稿: alude2500 | 2009年10月17日 (土) 16時11分

日本にはいくつもの城下町があり、ひとそれぞれに「私の城下町」があるのでしょうね。私にとっては加賀の金沢です。
「好きだともいえずに歩い」たのは犀川のほとりであり、また浅野川のほとりでした。
往きかうひとになぜか目を伏せながら・・・ほんとにそうでした。

投稿: くまさん | 2009年10月17日 (土) 21時28分

 数年前、TVインタビューで平尾昌晃さんが”私の城下町”のモデルは長野県諏訪の高島城であること、肺を患い岡谷市の塩嶺病院に入院中に曲を書いた事を話しておられました。
 因みに、私は諏訪市在住で、高島城の近くですので、この唄に一層親近感を感じました。
 二木先生は山向こうの松本出身なんですね。

投稿: 月の輪熊 | 2009年10月18日 (日) 15時36分

月の輪熊 様

私は、上諏訪の諏訪湖近くに生まれ、小学校2年まで高島小学校に通いました。私の祖先は、高島城の毒見役だったと聞いております。安井かずみが「私の城下町」と言ったのは高島城だったんですか。うれしいです。

月の輪熊と私は、もしかして縁者なのかもしれないと、ちょっと妄想してしまいました。でも、これもこのサイトの功徳ですね。同じ長野県の管理人様、有難うございま~す。

いまは亡き私の上司が、「格子戸を、格子戸を、格子戸格子戸格子戸を…」と歌っていたのが懐かしいです。

投稿: 吟二 | 2009年10月18日 (日) 21時02分

吟二様

 ご指名、有り難うございます。
身近な方からコメントが来ていてビックリしました。

 私の祖先も高島藩士だそうですが、身分は低かったと思います、幕末、幕府令により水戸の天狗党との戦いで鉄砲隊の一員として、和田峠で狙撃した話を伝え聞いております。

 それにしても天狗党の末路は哀れでした、加賀において投降者354人が斬首、ひどい話です。

 我々、今、平和な時代で本当に良かったです、音楽も聞き、メール交換も出来ます、同郷同士、今後もお付き合いください。 

投稿: 月の輪熊 | 2009年10月19日 (月) 18時27分

信州人にしか理解出来ない事を書かせて戴きます。お許し下さい。松本は諏訪から見れば山向こうですが、昔松本に住んでいた私共から見れば諏訪が山向こうでした。
「松本 伊那 佐久 善光寺」四つの平は肥沃の地。
諏訪の湖には魚し 幾つに成っても忘れない県歌ですね。

投稿: 海道 | 2009年10月20日 (火) 07時27分

 われわれにとって、小柳ルミコはデビュー当時の「旅情演歌歌手」のイメージが残っており、突然の変身にとまどった、というのが実態ではなかったかと思います。
 しかし、宝塚歌劇団出身の本人は、歌って踊れるエンターティナーを目指していたが、デビュー時の事務所の方針は相変わらず演歌路線。諦めきれず、ミュージカルの「劇団四季」に入団することまで考えていたようです。ようやく事務所が渋々折れて、「歌と踊りのステージ」を認めたが、最初の公演では、観客が突然の変身に唖然。「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」の小柳ルミコが「網タイツで登場し、足を左右に多角上げて激しいリズムに乗って腰をくねらせて踊っているところを想像してみてください」。しかし、徐々に高い評価をもらうようになり、1980年の紅白歌合戦で「来夢来人」を披露。「満場のお客さんの拍手喝采に感無量」だったと書いています。――――週刊大衆連載のエッセイ「ルミ姉の清く正しく美しく」より2009.10.26号

投稿: Dr.Unchiku | 2009年10月20日 (火) 15時25分

私は自分の出身地(福岡)が小柳ルミコの生家の近所だったので、彼女の歌には何かと関心が有りました。
尤も、彼女のデビュー当時には既に福岡を離れて(東京に)居ましたので、時折り帰省した時に、彼女の母親と大変仲良くしていた、私の義姉から小柳ルミコに関する情報を聞かされていた程度ですが。
福岡は黒田五十二万石の城下町ではありますが、彼女の生家(私の実家)は城下町(福岡の)西の外れ(西新)だったので、彼女が歌う「私の城下町」のイメージには、城下町(福岡)の印象は多分なかったでしょう。彼女の母親や私の姉を通じての「小柳ルミコ情報」が途絶えた今日、彼女の歌を聞くことも有りませんでしたので、このサイトで「私の城下町」を懐かしく思い出し、一筆啓上いたしました。

投稿: (英山華) | 2009年10月22日 (木) 18時43分

私の古里は宮崎県中部の3万石の城下町です
城郭は廃藩置県で取り壊されていますが、石垣や湧水を貯えた堀が残り、土手に菫・タンポポの咲く小川が南面を流れ、お寺の鐘も聞こえます 初恋のもどかしさが随所に残り懐かしいですね
同様に城下町を思い出させるのに三橋美智也の“古城”と梶光夫の“わが青春の城下町”があります
とくに後者は私の城下町になんとなく風情が似てますね
この『うた物語』にぜひ加えてほしいと思います

投稿: くろかつ | 2010年2月25日 (木) 19時43分

私の「わたしの城下町」は、生まれた萩、学生時代を過した松山、転勤族としての勤務地である、小倉、お江戸、福山、岩国でした。                                          松山では、ストームに集約された学生生活を堪能し、二木先生の心情を、石手川の土手とお堀端で、追体験しました。小倉では、一人娘との出会いがありましたが、「家」の制度を紫川のドブの流れに捨て、虹の出た空からの雨に身を清めました。お江戸では、丸の内・大手町・日本橋でカントリーボーイとシティボーイの違いを実感しました。福山では、私の世代としては晩婚となる31歳で備後の人を娶りました。岩国では、二木先生の後輩となる兄を持つ職場の女性に、このサイトを教えてもらい(平成15年)、生活の潤いのツールを一つ増やすことができました。                        お江戸、松山、福山、小倉と城址内に何らかの構築物がありますが、萩は戦災も経験してないのに城址のみです。廃藩置県政策の忘れ形見です。                                 近くに高校が二校あります、一昨昨日・一昨日・昨日今日・明日・明後日と淡い恋が生まれ、また、きまずく消えるのでしょうか。                                            今、萩は夏みかんの花が咲き乱れ、シトラスの香りに溢れてます。城下町の青春よ恋よ、香り高く、栄えあれ!                                                        アカデミックなステージもありますよ。       おいでませ!                                  

投稿: 夏橙 | 2010年5月14日 (金) 23時42分

この「私の城下町」が発売されたのが46年4月でしたら、長男が19歳、次男が15歳の時でした。
4月の私の誕生日に、このレコードをプレゼントしてくれて、確か公演のチケットも・・・だったと思います。

私は此の唄が好きで良く唄っていましたが、音痴の私はどうしても唄えない箇所があったことを思い出しました。

好きだともいえずに・・・の次の「歩く川のほとり」のところです。節回しができませんでした。
掃除機をかけながらでも、ここのところを何べんも練習したことを思いだしました。
2番目の「橋のたもとにともる灯りのように・・・」のところは唄えていたのですが・・・

この裏面は「瀬戸の花嫁」でした。
お嫁にいく時の弟を思っての唄でしたが、これも好きな唄でした。
懐かしい思い出の唄を有難うございました。

投稿: ちづる | 2010年5月25日 (火) 21時09分

私にとって 私の城下町は仙台です。20歳か21歳の頃です。東京に下宿してまして その下宿先の友人の実家が仙台で夏休み遊びに行きました。そこに妹がいました。確かみどりさんと言いました。2人は一瞬にして恋に落ちました。少なくても私はそう思ってます。東京で会ったり 仙台で会ったり 福島で会ったりしてました。しかし男とゆうのは幼稚なんですよね その友人にも遠慮してましたね。東八番町で抱きしめる勇気があったならば 往きかう人になぜか目を伏せながら 初恋のもどかしさ 気まずく別れました。それぞれ結婚しましたが彼女は離婚しました。今でも10年に1回位電話してます。女性はドライですね 私は40年も思っております。

投稿: マルコポーロ | 2010年10月 3日 (日) 20時22分

またまた、懐かしい曲!。

昭和46年春、私も一子の父となり、一大発奮、
一戸建てを着工!。
秋には、6畳一間のアパートから、引っ越し!。

残業を終え、帰路につく国道16号、
カーステレオから、毎晩、聞こえてきた曲が、
〝私の城下町〟でした!。

風呂に入り、わが手をじっと見、
働けど働けど、我が暮らし、楽にならず!。
じっと、手を見る。
♪格子戸を・・・、よく、口ずさみました!。

抱え込んだローンが大きすぎたんですかね?。
しきりに、タメイキが出た頃でした!。
40年以上経ったんですかね?。
今も、そこに住んでます。(神奈川県です)

投稿: 寂心 | 2010年11月 6日 (土) 21時01分

月の輪熊様

今日の朝日新聞に、平尾さんと高島城、そして「私の城下町」をめぐる特集が載っておりましたので、早速、二木さんのWebを見るとこのページがありました。
信州というのは叙情歌とのかかわりが深いですね。

投稿: Octanion | 2012年5月19日 (土) 15時43分

安井かずみの歌詞から「自分が想うお城の情景」が目に浮び、(安井かずみはどこをモデルにしたのか、敢えて明らかにしていない。)平尾昌晃(高島城をイメージして作曲したと言っている。)(安井に依頼にいったディレクターのイメージは飛騨高山城らしい。)(格子戸は京都先斗町の物をイメージしたと安井は語っている。)の旋律は、それにマッチして唄いやすく、大ヒットしましたね。瀬戸の花嫁で「愛があるから大丈夫なの」と歌って18年後に結婚したが、大丈夫じゃなかった。西島三重子の「池上線」の駅名を作詞家が池上駅とばらした事を西島が残念がったと言う。

投稿: 海道 | 2012年7月20日 (金) 12時13分

曲もさることながら、管理人氏の「思い出す事どもの、あまりに多くて....。」 沁みます。

投稿: maeda | 2012年7月24日 (火) 00時35分

 昭和46年、広島で下宿生活をしていた大学生の私は、この曲がたいへん気に入り、レコードがすりきれるほど聴いていました。
 今、聴いてみれば、純情すぎるというか、素直すぎる歌詞ですが、そう思うのは自分が世間の塵にまみれすぎて、当時の自分を失ったせいでしょう。あの頃は女の人の前に立つだけでおちつかず、緊張しました。初恋のもどかしい気持ちは本当にこの歌詞にあるとおり「川面にゆれる灯」でありました。
 ところでこの歌詞にまちがいがあると人から聞きました。「格子戸をくぐりぬけ」の所ですが、格子戸は右側にすべらせて、人が通れる空間を作り身体を移動させる。この時、鴨居をくぐるわけですが、格子戸は2枚重なって身体の横にあるだけ。だからけっして格子戸をくぐってはいない。鴨居や鳥居や暖簾はたしかにその下をくぐるが、格子戸をくぐれるのはモグラだけだと彼は言います。
たしかにーーと絶句状態になりました。
これを聞いてから作詞家は細心の注意を払ってもミスの出る仕事だなあと思いました。もちろんこの曲が名曲であることには全くかわりありませんが。

投稿: 久保 稔 | 2012年8月10日 (金) 04時50分

確かにくぐるのは鴨居ですが一般的には格子戸をくぐると言った方が風情を感じるのではないでしょうか。格子戸を開ける動作を含めてくぐると言えないものでしょうか。綺麗な言葉の連続ですから。

投稿: 海道 | 2012年8月16日 (木) 15時17分

丹波市春日町に住んでおりますが、青春時代を思い出す、懐かしい曲です。幼き頃、毎日のように保月城を見ながら小学校に通って居りました。二十歳過ぎには宝塚で生活をしておりますが・・・・懐かしいです。

投稿: 吉森信行 | 2014年11月 1日 (土) 22時52分

30数年前のある日曜日、「NHKのど自慢」のテレビ放送で流れてきたのが、この曲「わたしの城下町」でした。
日頃から聴きなれていた曲でしたが、20代女性の方の柔らかで温か味のある熱唱の姿でした。
勿論、三つの鐘で合格されました。
今でも、耳元に彼女の熱唱が聴こえてきそうです。

投稿: 一章 | 2015年8月19日 (水) 19時37分

 小柳ルミ子さん、可憐でした。同僚にこの歌をよく歌う
人がいました。フリもつけていました。
 「瀬戸の花嫁」もよかったです。ちょうど私の結婚のころだったと思います。

投稿: 今でも青春 | 2015年8月21日 (金) 20時08分

久保 様
>鴨居や鳥居や暖簾はたしかにその下をくぐるが、格子戸をくぐれるのはモグラだけだ<
 あなた様は「ある人」から聞いた話として、上記のようにコメントされ、この歌の「格子戸をくぐり抜け」の出だしの部分は、作詞家のミスと断定されていますが、江戸時代に作られた格子戸には、人が出入り出来る“くぐり戸”が設けられているものがあります。商家の表の通りに面した格子戸には、防犯などからこうした造りが、かなりあったのではないでしょうか。こうした江戸時代に作られた格子戸の残っている城下町が、まだあるのではないか、とわたしは推察しています。したがって、あながち作詞家のミスではないと思っています。

投稿: ひろし | 2015年8月25日 (火) 17時15分

 ひろしさま
 私も、直近の海道さまのご指摘もあり、もう一度説明しなくてはと思いながら、出典を探すのがめんどうで、そのままにしていました。
茶室に入る時、にじり戸というのがありますが、あれは、あきらかに、「くぐる」ですね。またいろんな料亭の案内書を読んでみると「暖簾をくぐって、格子戸を開ける」とか「格子戸をくぐる」とか、いろいろです。
 私がコメントを書いたのは、高島俊男の『お言葉ですが』という「週間文春」の連載記事がベースで、作詞家の安井かずみさん自身が、一世一代の作詞上のミスだったと認めていたような記憶があり、書きました。伝聞の形というのは、そういう意味です。ま、しかし、ソースを示さないことには、けりがつきませんので、今、探しています。今年中に見つける予定です。
そして、言葉というのは、仮に誤用されても多数の人々の間に定着してしまったら、それが通ってしまいます。言葉とはそういうものです。ゆえに、本来の意味は、こうなんですと言い立ててもつまらないことかもしれません。
 たとえば、「赤穂の浪人」「赤穂浪士」といったりします。
しかし、主家を失った失業状態の武士は、本来は「牢人」です。「作州牢人・宮本武蔵」、これは正しい表記です。
「浪人」あるいは「浮浪人」というのは、もともとは、奈良・平安時代に本籍地を離れて流浪した農民のことです。兵役などが、重税のため本籍地を離れ、国司の追及を逃れたわけです。
いっぽう、江時代初期、大名家の取り潰しが多くなると、流浪する牢人を、浪人というようになります。あいまいな使い方、誤用です。

 格子戸をくぐりぬけ・・くぐるという本来の意味とずれてきても、いっこうにかまわないんですが、もともとの言葉にこだわったコメントのつもりでした。出典が見つかれば、また投稿します。

投稿: 久保 稔 | 2015年8月26日 (水) 00時01分

平尾昌晃さん(79歳)のご冥福をお祈り申し上げます。

和製プレスリーとして活躍中の平尾さんのロカビリーに痺れた高校時代は「星はなんでも知っている」、「ミヨちゃん」を歌っていました。

熊本城のお堀端を通る時、私は「わたしの城下町」を口ずさみ、その頃気になっていたおさげ姿の女学生を思い出します。

愛する妹の結婚式では新郎の友人が「瀬戸の花嫁」を歌ってくれたのが昨日のように思い出されます。

「わたしの城下町」をとりあげていただいた管理人に感謝します。いつか「瀬戸の花嫁」もよろしくお願いします。

投稿: けん | 2017年7月23日 (日) 10時18分

瀬戸の花嫁 もアップされたようですね

 この わたしの城下町 と 千賀かほるさんの 真夜中のギター  この二つの曲は 自分の青春のメロディーといえる曲でした  時間をあけては 走り回っていたころ   京都 浜寺 五月山   五台山 もありましたね   崇徳上皇陵ーーー 行っていますね  うらみの権化の地  朝鮮的にいうと つきない うらみ 恨(ハン)ということになるのでしょうね  五台山では 崇徳上皇の心など考えもしない 単に観光地めぐりでしたが    どこを走っていても 聞こえていたのは わたしの城下町 と 真夜中のギター  脳の皺の一本一本の奥深くまで 刷り込まれたのでした

 小柳氏 と 千賀氏 ほぼ同じように 階段をかけのぼられたのに  その後の人生 --- 考えさせられます

  
 
   島倉千代子さんの歌われた 人生いろいろ

 その通りです  それぞれの人生に乾杯 ということでしょうか  何を 好しとするか 決めれるものではありません  いわんや 他人様のことなど
 こんな時間に コメントできるなんて どれだけ幸せか
 と考えながら 謙虚に反省を忘れず 足るを知って ほどほどがいいんだよと肝に銘じ
  私の城下町のメロディーを 頭に浮かべながら
 隠れ里 武田尾に向かいます

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年8月 3日 (木) 13時46分

19才の時、私の城下町でデビューをされた小柳ルミ子さん!
その時17才だった私は、テレビの画面で愛らしい顔と魅力的な声で歌っているその彼女の姿にとりこになりました。この曲のレコードの裏面に入っている 木彫りの人形 という曲もとても気に入り何度も聞きました。私が住んでる地域の市民会館で小柳ルミ子ワンマンショーがあったので見に行きました。その時は実際に見る小柳ルミ子さんに興奮しました。確か新曲の 恋にゆれて を歌ってる間奏の時、握手もできました。その日ばかりは、どうしても握手をした余韻を味わいたくて、手を洗いたくありませんでした。懐かしい想い出です。レコードはもちろん持っていますが、中でも一番好きなアルバムは、彼女のデビューして初の LPレコード 私の12曲 というタイトルですが、その中の 島原地方の子守唄 は絶品です。 私の城下町から星の砂 までの小柳ルミ子さんは私の心の中で永遠に残る方だと思います。

投稿: 芳勝 | 2017年11月 3日 (金) 09時12分

 昔、この歌の「格子戸をくぐり抜け」の部分について「格子戸はくぐれませんよ」と投稿しました。中国文学者の高島俊男の『お言葉ですが』の受け売りでしたが、その文章をコピーしたくて、本屋を廻りましたが、『お言葉ですが』の全原稿を収録した本はなく、見つけられませんでした。今回、最後のコメントをいたします。
 言うまでもなく、格子とは細い角材をすき間をあけて並べたもので、窓や戸や扉に使います。格子戸は引き戸であり、レールの上を滑らせるもので、もし、その下を人間がくぐろうとすれば、人一人が通れる穴を掘らねばなりません。
 大作詞家でも間違いはするという似たような話をあるブログでみつけたので紹介します。
 北島三郎の『風雪ながれ唄』に「♪破れ単(ひとえ)に三味線ひけば~」という歌詞があります。単(ひとえ)は裏地のないペラペラの着物のことで、裏地のついたのは袷(あわせ)といいます。雪の北海道の流れ旅なら単(ひとえ)では、確実に凍え死んでしまいます。すくなくとも、破れ袷(あわせ)でなくては・・。「貧しいから単(ひとえ)しかなかったのでは・・」という屁理屈も出そうです。「それならあなたが、単(ひとえ)で留萌、滝川、稚内と歩いて旅してみせてください」といいたいです(笑)
 歌詞について揚げ足をとるつもりは全くないです。安井かずみ、星野哲郎のような大作詞家でも間違いはする、それが人間のおもしろいところだと思います。(『うれしいひなまつり』のサトウハチローは有名ですね)
「格子戸をあけ」「破れ袷(あわせ)」では語呂が悪いと作詞家は思ったのかもしれない、あるいは知らずに間違ったかです。
大衆は、語呂がよければ「格子戸をくぐりぬけ」「破れ単」でいっこうにかまわないようです。真実なんかどうでもいいというわけです。
私の偏屈、天邪鬼はここで大衆といささか衝突します。
 しかし『私の城下町』はわが青春の名曲です。昔は小柳ルミ子の大ファンでしたが、その後の彼女の変貌ぶりに驚きました。

投稿: 越村 南 | 2019年2月17日 (日) 22時00分

私の城下町はふるさとの 松山城です。高校から 近いので足腰の鍛錬でよく天守閣までの坂道をダッシュしました。おかげで体もがっちりしました。昭和47年ころでしたので 青春どまんなか。瀬戸の花嫁も愛媛は 瀬戸内なので思い入れが あります。しまなみ海道の島々がうかびます。

投稿: ぶるぱぱ | 2019年6月15日 (土) 13時00分

ちょうど10年前の10月にコメントを寄せた者ですが、何度聴いてもこの歌は抒情性が豊かでしっとりとした気分になります。
昭和46年の春に結婚した私は、アパートへ帰る道すがら、駅の近くで小柳ルミ子さんの大きな看板をいつも目にしていました。とても可愛かったです。
それから暫くして、「ヤクルトジョア」のCMに水着姿で登場した小柳さんは、ういういしく溌剌として美しかったです。それにずっと見とれていたので、新妻があきれた顔つきをしていたのを覚えています(笑)。
10年前に少し失礼なコメントを寄せた私だけに、今回はルミ子さんの素晴らしい点だけを記しておきます。

投稿: 矢嶋武弘 | 2019年9月25日 (水) 15時59分

「私の城下町」この曲をテレビで歌っている小柳ルミ子の姿を初めて見た時、その可憐さとそしてその魅力ある歌声に、私はたちまちファンになりました!

彼女がデビューした昭和46年は私が17才の時でしたが、それから二年が過ぎた頃に、私は一度だけ小柳ルミ子ワンマンショーを観に行きました。私の席はステージの前から四列め中央の席だったので、スポットライトを浴びながら歌っている、彼女の愛らしい顔やドレスに身を包んだ素敵な彼女の姿を、肉眼ではっきりと観ることができました。そしてそのステージで彼女の生の声で聴いた「漁火恋唄」の絶唱には特に感激しました。しかも新曲紹介の「恋にゆれて」の間奏中に、私は握手をすることもできたので、その日はとても満足しながら帰路についたことなどを、懐かしく思い出します。

今日は45年以上前に買った彼女のLPレコードアルバムを久しぶりに取り出して、その中のページに記載されている絣柄風のワンピースを着ているスナップ写真や、数々のシングルレコードのジャケット写真などを眺めていましたが、そこにはどれも清楚で可憐な小柳ルミ子が写っています。

今思えば、その後に彼女が思いもよらぬ大胆なイメージチェンジをはかった時には、私は驚きを隠せませんでした。

それでも私は「私の城下町」から「星の砂」がヒットしていた頃までの、彼女が持っていた清楚で可憐なイメージの歌手小柳ルミ子のその姿が、いつまでも私の心の中に残ったままでいます。
今でも時々「春のおとずれ」・「花のようにひそやかに」・「一雨くれば」など、清楚で可憐なイメージだった頃の小柳ルミ子の歌声が聴きたくなり、YouTube動画を視聴したりすることがあります。

そして彼女がヤクルトジョアのテレビコマーシャルに出演していた当時、私はそれを好んで飲んでいたことも、今では懐かしい想い出でとして残っています。


投稿: 芳勝 | 2019年9月26日 (木) 21時59分

「・・ああ 誰にも故郷がある 故郷がある」
この部分は、山口洋子/平尾昌晃の「ふるさと」で五木ひろしさんが今でも歌い続けるヒット曲の歌詞のサビです。城下町を故郷にもっておられる諸氏は人生幸せです。管理人さんは実に味のあるすこぶる短いコメントで「わたしの城下町」を提供されています。この歌詞と旋律をとうして時空をこえ素直に故郷に思いをはせたいものです。

投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2020年7月 7日 (火) 13時19分

このところのコロナ騒ぎでこの老人ホームに閉じ込められていて、暇のままに、苑内の樹々の手入れや枯葉の掃除の間、ふと気が付いたらこの歌を口ずさんでいるのでた。 この歌と「瀬戸の花嫁」、同じ歌手の二つの歌、専門的な理屈は分りませんが、なんとなく曲調が似ているようですが、共にとても身近に感じるようなメロディーですね。

いつの頃だったか、ある時外国から帰ってきたら、日本中にこの二曲があふれかえっているようで、いつの間にやらそのメロディーが素直に頭の中に入り込んでおり、そのまま歌詞も覚えこんでしまったような感じでした。

歌手の名前は小柳ルミ子といいました。 新人だということでしたが、巧い歌い方でした。 その声の明るさがいいですね。 初めにいい曲を宛てて貰うのも、その才能を認められている証しなのでしょうか。 「一夜明けたら有名になっていた」というのはバイロン卿の言葉ですが、「一曲歌ったら一流歌手になっていた」というのが小柳ルミ子でしょうか。 彼女の歌はこの二曲しか知りませんが、この歌唱力ならほかにもいい歌があるんでしょうね。

作曲者は、とみたら、あれあれ、平尾昌晃なのでした。昔、昌章と言ったと思いますが。 彼は私と(美空ひばりと)同じ歳ですが、その昔あのロカビリーとやらを奏でていて、私たちは、ああイカレポンチどもがと軽く思っていたのでした。
その後、ロカビリーなどと言う変なリズムの世界から「改心」して、新たにこのような素晴らしい歌謡曲を作るようになったのでしょうか。
(ここのところ、冗談的に言っています。ロック調に偏見蔑視はありません。為念。)

コメントを見ますと、皆様この曲がお好きなようですが、中に、格子戸をくぐり抜けるのが、物理的におかしいというのがあって、なるほどと笑ってしまいました。だけど、これはこれでいいのではないかとの思いがあります。 京都あたりの格子戸のある家を見ると、内玄関から外に面した格子戸の間には、ちょっと狭い通路があります。低い屋根になっていて植木があったりします。 そこをなんとなく身をそばめて進み、格子戸をからりと開けて、鴨居に頭をぶつけるわけでもないのに、なんとなく頭をかしげてすっと身をのりだします。 そういう風情を、格子戸をくぐり抜ける、という言葉で表わしても、日本語として許される表現ではないかと思われるのです。
この歌詞でおかしいのは、そんなところではありません。 通りに出たら、どこからか子守歌が聞こえてきました? そんな、表に聞こえるほど大きな声で子守歌を歌ったら、寝かしつけるどころではありません。 せっかく眠っている赤ちゃんが起きてしまうではありませんか。
いえいえ、へ理屈はやめましょう。 「静かさや かわずがドッポン水の音」という句の水の音と同じ、子守歌という言葉でこのまちのあたりの静けさを表わしていると解釈した方がよろしいようです。

さて城下町、コメントにもあちこちの、ご自分の愛する城下町を述べておられます。 日本に多々ある城下町、どこもなんとなく旅情をそそられます。 松本もいいし、姫路もいい。山形や飫肥は街全体が美しい。

この歌の、格子戸をくぐり抜けて出てきた娘さんの姿は、と問えば、今日は紺絣の単衣に、臙脂の半幅帯を文庫に結んでいます。 黒塗りのカッコに赤いはなおがよく映えます。 しずやかな物腰で歩きながら、知人にであったらほのかに笑顔をむけて挨拶、私みたいな鬼瓦のような旅人にも、そっと挨拶をしてくれます。 そのまま小川にまで進むと、立ち止まってじっと川面を見つめます。 静かな容ながら、心は燃えているのでしょう。

このような風情の娘さんが似合う城下町、それは、越前大野です。
水の清らかな城下町です。

<蛇足>
この静かな大野の街にしては、小柳ルミ子の声は華やかすぎるかもしれません。

  

投稿: 田主丸 | 2020年11月17日 (火) 21時59分

承前

83にもなると、こんな間違いを致します。
「古池や かわず飛び込む 水の音」 と
「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」と
ごっちゃにしてしまいました。

投稿: 田主丸 | 2020年11月17日 (火) 22時17分

この頃に戻れるマジックを誰か教えて下さい。瀬戸の花嫁、京のにわか雨、雪あかりの町、お祭りの夜。声と歌が
馴染んでいましたよね。

投稿: 海道 | 2022年8月 8日 (月) 15時46分

今日も投稿多謝本当に失礼申し上げます。江戸後期の儒学者【尾藤二州】柴野栗山、古賀精理と共に寛政の三博士、門下に【近藤篤山】尾藤二州の妻の姉が【頼山陽】の母。日本一の紙の町郷土四国中央市三島川之江の偉人です。川之江城は細川始め次々と城主が変わり仏殿城とも呼びます。悲話として【与謝野晶子】句碑に姫が嶽 海に投ぐるや果てもうまして入りぬ大名の娘は。元総理大平正芳の豊浜に姫浜(川之江城の姫)。

投稿: 細川 和代 | 2022年10月18日 (火) 10時03分

又投稿で失礼します。
宇和島城は伊達藩の九曜の細川の家紋が用いられています。三十年程前に隣の大洲城にも行った帰りに内子で【牛子華先生】に私の絵を描いて頂きました。八十八か所のお寺も国宝級の絵だと思う程素敵で砥部焼観光センターで山水画の指導をされています。来日された素晴らしい権威の有る先生です。名所は又肱川の蓬莱山に建つ【臥龍山荘】の茶室【不老】】で、数寄屋造りの京都色濃い建造物に風光明媚な肱川と崖の上に建つ臥龍山荘が見事です。

投稿: 細川 和代 | 2022年11月 1日 (火) 06時51分

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