« 兵隊が戦争に行くとき | トップページ | 夢路より(夢見る人) »

2009年12月23日 (水)

シクラメンのかほり

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:小椋 佳、唄:布施 明

真綿色した シクラメンほど
(すが)しいものはない
出逢いの時の 君のようです
ためらいがちに かけた言葉に
驚いたように ふりむく君に
季節が頬をそめて 過ぎてゆきました

うす紅色(べにいろ)の シクラメンほど
まぶしいものはない
恋する時の 君のようです
木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして
愛がいつのまにか 歩き始めました

疲れを知らない 子供のように
時が二人を 追い越してゆく
呼び戻すことが できるなら
僕は何を 惜しむだろう

うす紫の シクラメンほど
淋しいものはない
後ろ姿の 君のようです
暮れ惑(まど)う街の 別れ道には
シクラメンのかほ(お)り むなしくゆれて
季節が知らん顔して 過ぎてゆきました

疲れを知らない 子供のように
時が二人を 追い越してゆく
呼び戻すことが できるなら
僕は何を 惜しむだろう

《蛇足》 散歩の途中、花屋の店先にシクラメンの鉢がいくつも置かれているのを見て、小椋佳の『シクラメンのかほり』をアップロードしようと思い立ちました。昭和50年(1975)に布施明の唄で発表され、大ヒットしたフォークソングです。

 この歌では、タイトルと歌詞の1か所に「かほり」という言葉が使われています。この歌がヒットしていたころ、香りは旧かな(歴史的仮名遣い)では「かをり」と書くのが正しく、「かほり」はまちがいだと、国語学者など旧仮名に詳しい人たちから指摘されました。
 シクラメンという花のあとなので、かほりは当然香りだと受け取られたわけです。

 そのうち、作者の夫人が佳穂里という名前だと知られるようになり、それなら『シクラメンのかほり』は実は「シクラメンの佳穂里」だろうということで、旧かな誤記問題は影を潜めました。

 かほりが夫人の名前だとすると、「シクラメンのかほり(佳穂里)」は修辞法としては、「雪の肌」「花の顔(かんばせ)」などと同じく隠喩(metaphor)になります。これらを直喩(simile)に直すと、それぞれ「シクラメンのようなかほり(佳穂里)」「雪のような肌」「花のような顔」となります。
 しかし、「シクラメンのようなかほり」では説明的になって、少しダレるので、作者はメタファーを使うことにしたのでしょう。

 ところで私は、作者にはやはり「かほり」を香りの旧かな表記として使う意図があったと思っています。

 佳穂里は、Kahoriが正式な呼び方、すなわち命名時の呼び方だったとしても、日常的にはKaoriと呼ばれていた/いるのではないでしょうか。
 というのは、Kahoriという音列では、「h」はかなり意識して発音しないと、抜け落ちてしまうからです。これは、佳穂里を自然に発音して、人にどう聞こえたか確かめてみるとわかります。

 もちろん、Kaoriが正式な呼び方だという可能性も大いにあります。

 菜穂子という名前も同じで、Naokoが正式な場合はもちろん、Nahokoと呼ぶように命名された場合でも、実際にはNaokoと呼ばれている例が多いのです。

 したがって、Kaoriが日常的な、あるいは親しい間柄の呼び方だったとすると、前述のメタファーは「シクラメンのかほり」ではなく、「シクラメンのかおり」とするのが自然です。
 それをわざわざ「シクラメンのかほり」としたのは、「かほり」に佳穂里と同時に香りの意味も持たせ、旧かなが醸し出すみやびな雰囲気を
メタファーに重ね合わせようとする意図があったからでしょう。
 だとすると、香りの旧かな表記という見地からは、国語学者などが言うとおり、「かほり」はまちがいということになりそうです。

 その旧仮名(歴史的仮名遣い)ですが、これは基準をどの時代に置くかによってかなり違ってきます。
 香りについて見てみると、江戸時代には「かをり」と表記するのがほぼ固定していたようですが、それ以前の時代には、「かほり」もかなり使われていたようです。

 少し古くなりますが、『源氏物語』では、「かをりをかしき顔ざまなり」(柏木)とある一方で、「花橘のかほりなつかしくにほひて」(花散里)と混用されています。

 歌詞全部が現代の歴史的仮名遣い(という言い方も変ですが)で書かれているならともかく、かほり以外は現代仮名遣いですから、いつの時代の歴史的仮名遣いであってもかまわないわけです。

 ただ、「かほり」に香りのニュアンスを持たせたとすると、まちがいが1つ出てきます。シクラメンの花には、匂いがまったくといってよいほどないのです。
 シクラメンはシリア、トルコ、ギリシアあたりが原産地ですが、花にやや不快な匂いがあったため、ヨーロッパで園芸植物として育てられているうちに、匂いがしないように品種改良されたからです。

 日本に入ってきたのは明治時代で、英名のsow breadをそのまま訳して、ブタノマンジュウと名付けられました。これはオオイヌノフグリほどではありませんが、花のイメージとまるで違うひどい命名です。
 その後この和名が使われず、シクラメンとだけ呼ばれるようになったのは、シクラメンのためにまことに喜ばしいことです。

 『シクラメンのかほり』がヒットしてから、香りのあるシクラメンを求める声が高まりました。花卉技術者が努力を重ねた結果、今では香りのあるシクラメンができています。
 私は出会ったことがないのでわかりませんが、その香りは佳穂里夫人のイメージに合ったものなのでしょうか。

 自作の詩や曲を愛する人に捧げるという話はときどき耳にしますが、これほど美しく、思いのこもった曲を捧げられた人は、あまりいないでしょうね。

(二木紘三)

お断り:このページでエラーが起きたため、作り直したところ、いただいたコメントがすべて消えてしまいました。そこで、バックアップデータからコメント復元しましたが、その結果、コメントの投稿日がすべて同じ日付になってしまいました。ご了承ください。

« 兵隊が戦争に行くとき | トップページ | 夢路より(夢見る人) »

コメント

小椋 佳さんはほんとに詩人ですね。いつもセンチメントを心に秘めている、そんな気がします。

夫人のお名前が佳穂里さんとは、初めて知りました。この詩の中では「かおり」よりも「かほり」のほうが、より情緒を伝えられるような気がします。旦那さんの芸名?「佳」は、奥さんの名前を取ったのでしょうか。そうだとしたらかなり愛妻家ですね。

彼の歌をいろいろ聞いたのちに、顔をテレビで見たら、申し訳ないですが、ちょっとイメージが違いました。でも、その後何回も見ているうちに優しそうなお人柄がイメージと重なってきました。いい歌ですね。

投稿: こぎつね | 2010年6月17日 (木) 17時51分

私は昭和52年に東京都大田区のある会社に入社しました。3歳年上の女性に仕事の指導を受けているうちに、その人が好きになってしまいました。
ある時、花屋の店先でたまたま白いシクラメンを見つけました。その頃は、白いシクラメンはまだ珍しかったのではないでしょうか。さっそくその女性に贈ろうと買って会社のロッカーに入れておきました。
しかし、渡すところを同僚に見られるのが恥ずかしくて、結局2日後に持ち帰ってしまいました。
 その方は、その1年後に結婚退社され、縁がなくなってしまいました。この歌を聞いたり、シクラメンの花を見たりすると、その頃の甘酸っぱい記憶が蘇ってきて、とても懐かしい気持ちになります。

それはそうと、このサイトは知識の宝庫ですね。私は片親だったため大学に行けませんでしたが、もし進めていたら、こういう先生に教わりたかったと思います。コメント投稿者同士で交流があるのもいいですね。

投稿: コマツ | 2010年6月17日 (木) 17時53分

もし日本で最も素晴らしい曲を1曲だけ挙げろと言われたら躊躇無くこの曲にします。ロマンティックな歌詞と美しいメロディが何度聞いても心にしみ入ってきます。小椋佳は大天才ですね。

投稿: 山下仁平 | 2010年6月17日 (木) 17時54分

何故「かほり」と書いてしまったのか?私の文章の先生は「匂い」の旧表記が「にほひ」だったことと関係があるのではと言っていました。それはそうとして、今も健在の布施明の歌唱力で、この歌の魅力は倍増しましたね。

投稿: Bianca | 2010年6月17日 (木) 17時56分

私はもっと単純に感覚的に〔かほり〕のほうがこの詩に合っているように感じます。〔かほり〕という字によってほとんど香りのないシクラメンに芳しい香りを感じる気さえします。。。

この歌のヒット中に知人が歌手の布施明氏とツーショットで撮った写真を見ましたが、知人の満面の笑顔と布施明の疲れ切った無表情な顔が対照的だった事をふと思い出しました。

投稿: おキヨ | 2010年6月17日 (木) 17時57分

小椋佳さんが作詞された歌には、全く外国語は出てこないようです。昨今、巷に流れる流行歌は、歌詞の半分以上が英語のフレーズだったりすることが多いように思いますが、小椋佳さんは美しい日本語だけで作詞されているのでしょうか?素晴らしいです。

投稿: 本田雅生 | 2010年6月17日 (木) 17時58分

同感です。世界で一番美しいのは日本語では無いかと思います。英語混じりの歌を口先だけで歌う若者達。時代の流れなのでしょうか。そういう自分の孫も(小学2年)この種の歌です。複雑な気持ちです。

投稿: 海道 | 2010年6月17日 (木) 17時59分

旦那さんの芸名?「佳」は、奥さんの名前を取ったのでしょうか。そうだとしたらかなり愛妻家ですね。(こぎつねさん)より
小椋は、大学3年の時に、福島県北塩原村の山城屋という民宿に逗留して司法試験の勉強をしようとしたら感傷に浸ってしまって詩を書くようになり、その村の名字から小椋を「佳」は、奥さんの名前を取ったそうです。確か御徒町の幼馴染だと聞いたことがあります。かなり愛妻家というか同志みたいです。歌ができると嬉々として一番に聞いてもらうそうです。
だいぶ前にがんだったと思いますが、凄く痩せて痛々しかったのですが、最近はすっかり元に戻って安心しました。 
 彼の存在を初めて知ったのは、当時勤めていた新大手町ビルのエレベーターホールで先輩が「すごくいいよ。」と言っていました。昭和49年のことですが、昨日のことのようにはっきりと頭に浮かびます。

投稿: すうちゃん | 2010年6月17日 (木) 18時00分

一般に、この歌は恋する心を歌ったものと解釈されています。しかし、作者が実際に表現しようとした主題はそうではないようです。

作者が銀行に勤めていたとき、私の姉も作者と同じ部門で働いていました。ある時、姉が家に持ち帰った銀行の社内誌に、作者は本当の主題について、次のように記していました。

「自分はやりたいことがいろいろあったが、それができないまま、時間がどんどん過ぎ去ってしまった。もしも、過去に戻ることができるなら、そのために自分は何でもするだろう。」

この気持ちは、歌の中では次の言葉の中に表されています。
「時が二人を 追い越してゆく
呼び戻すことが できるなら
僕は何を 惜しむだろう」

でも、これを前面に押し出してしまうと、誰も聞いてくれないので、見かけ上は皆が好きな恋の歌にしたそうです。

このように、歌の世界では見かけ上の主題と本当の主題は違っている場合が少なくありません。そのため、私は歌を聴くときは作者の本当の主題は何であるのかを推測するようにしています。これはなかなか楽しい作業です。

投稿: peace | 2010年6月17日 (木) 18時02分

peace様
小椋佳氏が銀行の社内誌にお書きになったのはこの歌を作った動機(モチーフ)であって、作品の主題(テーマ)はやはり恋ではないでしょうか。モチーフとテーマは別の概念だと思いますが。

投稿: 太吉 | 2010年6月17日 (木) 18時03分

お知らせ
このページにエラーが起こったので、バックアップデータから復元したところ、これまでいただいたコメントがすべて2010年6月17日付になってしまいました。ご了承ください。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2010年6月17日 (木) 19時33分

単に無知だったから仮名遣いを間違えただけ。

投稿: 三太 | 2010年8月10日 (火) 07時41分

小椋佳はしばらく覆面歌手として活動しましたが、やがて銀行員であるということが知られるようになりました。確か文芸春秋誌上だったと思いますが、小椋さんは、大学を卒業して銀行に就職した当時、心はまだ“蒼い”ままだったと述懐しています。小椋さんの最初のシングルは『しおさいの詩』ですが、そこでは青春を燃焼しきれなかった“悔い”を吐露しています。そしてこのシングルのB面が『さらば青春』です。私も小椋佳が流行り始めた当時大学生でしたが、やはり燃焼しきれていないという心境を抱いていました。
ですから、peaceさんが書かれた、銀行の社内誌に綴ったという「もしも、過去にさかのぼることができるのなら、そのために自分は何でもするだろう。」という『シクラメンのかほり』の作詞のモチーフの話はとてもよく理解できます。小椋さんは銀行を中途退職し、その年に母校東大の文学部に学士入学しています。哲学を勉強することが小椋さんの「やりたいこと」であったのかは本人しか知らないことです。しかし私は、小椋さんには、もう一度学生になりたいという動機もあったのではないかと推察しています。
小椋さんの詩には時に唐突な印象の描写もありますが、さだまさしさんとともに、美しい日本語を後世に残して欲しい詩人の一人です。

投稿: Yoshi | 2011年5月17日 (火) 21時49分

私も素晴らしい歌詞だと思います。小椋氏はまさに天才ですね。かほりの解説も素晴らしいと思いました。私は、peaceさんの解釈の「自分はやりたいことがいろいろあったが、それができないまま、時間がどんどん過ぎ去ってしまった。もしも、過去に戻ることができるなら、そのために自分は何でもするだろう。」がよく理解できます。大金持ちになった老人がその金全部を払ってでも若さを買いたいと思う心境に通じますね。私は、この歌詞の中でも特に「疲れを知らない子供のように」という表現に最も感銘を受けます。還暦を目前にして、子供たちが嬌声をあげて走り回っているのを見るたびに、ああ、自分にもああいう時代があったが二度とあの頃には戻れないのだなあとしみじみ思います。

投稿: SK2 | 2011年7月16日 (土) 20時27分

イメージの連鎖

シクラメンのかほり--布施明--ユーロビジョンソングコンテスト--アバ--ウォータールー--ブリジットフォセー--
禁じられた遊び

詳しく書けばこんな感じですが、シクラメンのかほりとワーテルローが直結していて、その歌からさらば友よに出ていたフォセーの顔が浮かぶのです。

つい最近このサイトを知り興味深く読ませてもらっています。

機会がありましたら、さいじょうやそ、本居長世、の
つくしんぼを取り上げていただけないでしょうか。30年ほど前一度ラジオで聞いてとても清冽な印象を受けた記憶があります。歌詞もメロディーも覚えていませんが忘れがたい体験でした。
その後それらしい全集など探してみましたがどこにも音源がありません。ラジオで聞いたときも少女のライブ録音でした。

投稿: ピサーニオ | 2011年12月 9日 (金) 01時38分

シクラメンは無臭のはずだと思っていましたが、謎が解けました。ある番組で小椋佳さんが次のようなことを言っていました。シクラメンには香りはないけれど、何か漂ってくるものがあるような気がする。それを「かほり」という言葉を作って表現した 云々。。。。まさに小椋佳さんは詩人ですね。

投稿: 本田雅生 | 2012年8月17日 (金) 20時33分

【シクラメンの花のような人との出会いから別れ、その日々をその人を・・・(時は容赦なく過ぎてゆき、取り戻すことはできないけれども)・・・取り戻したい。】

この歌を初めて聴いた時の印象です。歌詞の上では、シクラメンのようなその人と淋しい別れかたをしたものと思っていましたが・・・。

冬の窓辺のシクラメンは、バルコニーからの陽射しを受けると燃えたつように輝きます。その時、もうひとつのシクラメンの呼び名「篝火花(カガリビバナ)」を私は思い起こします。

投稿: 眠り草 | 2012年8月18日 (土) 10時44分

今晩は

小椋桂さんは詩人です、しかも深遠な、

「シクラメンのかほり」に流れるテーマは

歌詞から観ても、”時のながれ”かも

もうひとつの名曲「めまい」も同じくテーマは、”時のながれ”みたい
 
「時は わたしに めまいだけを残してゆく・・・・」

あたしの妄想でしょうか?

彼のほかの作品も一貫してながれているのは

”時のながれ”のテーマじゃないかと・・・

清少納言さまも、時のながれを詩っています。

 ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。 春、夏、秋、冬。

 グッ!ときますね。

     Au revoir

投稿: トッコ | 2012年9月28日 (金) 00時21分

二木先生
「ところで私は、作者にはやはり「かほり」を香りの旧かな表記として使う意図があったと思っています。」のお説に同感です。
小椋さんの詩はどれも日本語が美しく物語性があり惹かれました。とりわけ「裏の木戸をあけて」に心酔したものです。或る時「真っ白な一日」を井陽水が歌ってるのをテレビでみて衝撃を受けました。二人共演の番組でした。「シクラメンのかほり」も布施明のほうに魅かれました。布施明のディナーショーと陽水のコンサートが夢でしたが果たせぬまま老いました。還暦過ぎて暫くは「徳永英明に」に夢中になったりんご。古希目前の今は食もふるさと回帰、歌もふるさと回帰。貧しい炉辺でラジオから流れるのは「東京だよおっかっさん」「赤いランプの終列車」「古城」「哀愁列車」体内に沁み込んでます。愛車ではチェロ(水口肇」ヴァイオリン「天満敦子、千住真理子」ジャス「チエットベーカー」トランペットの「ニニロッソ」。正体は隠れ演歌ファン。何を隠そう昨年は大枚はたいて福田こうへいのディナーショーに3回。福島からという60代前後の女性3名が舞台間近に歩み寄り祈ったのです。福田こうへいは思わず前面に歩みより自らも正座。一番前のテーブル席でりんごはもらい泣きしました。とりとめもないコメントをお許しください。

投稿: りんご | 2015年2月12日 (木) 09時28分

現在70歳の老齢おじちゃんですが、私が学校を卒業して転職後、ある
自動車会社の営業をしていた頃、苦痛苦痛の連続の毎日でしたが、武蔵村山のある公園で休憩していた時、布施明のこの歌をラジオから聞いて、感動しました。人生は捨てたものではないなと思いました。その後、シクラメンの花は我が心の花になりました。

投稿: 浅川煙夢 | 2016年12月 9日 (金) 21時32分

「かをり」と言えば横浜の古い喫茶店が思い浮かびます。奥様のことは知りませんでしたがそれならこの歌はやはり「かほり」でなくてはならないでしょう。シンガーソングはあまり評価しない私ですがこの曲は心に染みて素晴らしい。これはまだ彼が役付でない若いころの作でしょうが当時の日本勧業銀行は元が国策銀行にしては割と自由な雰囲気があり、第一と三菱の合併が破綻したあとはお嫁さん候補として人気があった記憶があります。音楽がらみか彼はヤマハのある浜松の支店長になってますがその前後の「愛燦燦」は歌詞がちょっと難しくてやはり歳かなと思ったりします。二木先生にはいつか取り上げて頂きたいものです。銀行員には音楽の才能のある人が結構いて、合唱の世界で有名な多田武彦さんは富士銀行です。今は同じみずほですね。

投稿: しょうちゃん | 2016年12月10日 (土) 10時15分

昨日の小春日和も束の間、きょうは初雪間近を思わせる曇天です。シクラメンの花の出回る季節になりました。
また昨日、しばらくぶりで訪れた隣町の洒落たパンカフェのChristmasの飾りつけに時の流れを感じてはっとしました。
私が何を悲しみ、何を怒り、何を患おうとも時は過ぎゆくもの。目を閉じて「シクラメンのかほり」を聴いていると
この歌が巷に流れない日はなかった頃にタイムスリップ、閉じた目から涙があふれてきます。
前回の拙コメント、支離滅裂で恥じ入りました。
ふとここにきて自分の近過去に逢えるのも面白く二木サイトの醍醐味のひとつでもあります。

投稿: りんご | 2017年11月14日 (火) 10時25分

歌詞は、エルヴィス・プレスリー の「マリー・イン・ザ・モーニング」の歌詞と、
北原白秋の歌集「清しい・ためらいがち」から戴かれたそうです。

作ってから発表せずに1年お蔵入り。
そこへ布施明さんの歌の依頼が来たので「実は在庫がある」と提供されたそうです。
大阪のアナウンサーが小椋佳さんに直にインタビューをされていました。
開きそうにないですね。
https://ameblo.jp/tnelvis/entry-11912968240.html

投稿: なち | 2018年11月12日 (月) 18時31分

これも又昭和の名曲ですね。
昨日はNHK スタジオパークのゲストが布施明さんでした。
声に衰えもなくいぶし銀のような雰囲気が備っていました。今明かされる的な話で「実はシクラメンのかほりは絶対ヒットするわけないよ」と関係者も自らも思ったそうです。活動に疲れて2年間ぐらいの休養を目論んでいた彼は「しめた  これで休める」と思ったそうです。
ところが皮肉なことに大ヒット。気が載らず自分では脱力気味に歌ったとか?とても複雑な気持ちだったと苦笑してました。

投稿: りんご | 2019年2月14日 (木) 18時05分

「シクラメンのかほり」私が当時ラジカセのラジオで布施明が歌うこの曲を初めて聴いていた時、もしかしたらこの作者は小椋佳なのでは?とふと思った時のことを今懐かしく想い出します!

この曲を聴き終わった後、そのことが何故だか無性に気になり、すぐに行きつけのレコード屋さんに走って行き、店員さんに確かめたところやはりそうだったので、自分の直観が当たっていたことに、何か訳もなくただ嬉しかった時のことを憶えています。

実はその前年ごろ、そのレコード屋さんで「六月の雨」という曲が店内に流れていて、すぐに気にいった私はこの歌い手は誰?と店員さんに尋ねた時に、初めて知ったのが小椋佳という名前でした。そしてその場で私は迷わず「彷徨」というLPレコードを買って一時はそのアルバムを毎日聴いていたのです。布施明の「シクラメンのかほり」を初めて聴いた時、そのメロディに小椋佳の作風を多分直観したのだと思います。
また、当時そのさわやかで深みのある彼のその魅力的な歌声を聴きながら、私はLPアルバム「彷徨」の表紙に写るその男性が小椋佳本人なのかと一時は思っていましたが、後日その表紙は実はイメージ写真だったことを知りました。
その後も私は彼の楽曲にはまってしまい、その後も彼のLPレコード「帰っちゃおうかな」というアルバムを買ってそれも私は毎日聴いていました。そのころが懐かしいです。

「シクラメンのかほり」この「かほり」についての謂われはこのページの『蛇足』に記された、奥様の名「佳穂里」から・・という解説を読むまで私は知りませんでした。
そしてこの曲の詩にある「清(すが)しい」という表現に、私は小椋佳独自の稀な才能を感じています。


投稿: 芳勝 | 2020年12月30日 (水) 15時59分

芳勝様
交流掲示板 1978 をどうぞ。

投稿: 田主丸 | 2020年12月30日 (水) 18時28分

小椋佳の歌を初めて聴いたのは、受験浪人時代でした。、『かたぐるま』というTVドラマの挿入歌として聴いたのですが。心に染み入るような歌い方だと感じていました。
その後京都の大学で青春時代を過しましたが、低学年の頃は友人達と酒を呑んでは深夜まで議論をするのが常でした。テーマは哲学であったり、音楽であったり、また恋愛であったり…。自分を含めて友人達は、皆インテリ青年のつもりでした。思えば熱い青春時代でした。
その当時は小椋佳も流行っていて、私は好んで聴いていましたが、友人の一人は批判しました。純粋培養だ、と。それに心酔するお前も心が脆い、と。
今思うと、友人の言は的を得ていたと思います。小椋佳の歌は、優れて抒情的で、情動を純粋に表現していると思います。
私を批判した友人はしかし、心が通じ合った友でもありました。今、彼の行方は知れません。

投稿: Yoshi | 2024年3月19日 (火) 23時55分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 兵隊が戦争に行くとき | トップページ | 夢路より(夢見る人) »