二人の銀座
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
M.テイラー、D.ウィルソン、唄:山内 賢・和泉雅子
(男女)待ちあわせて 歩く銀座 (男女)触れあう頬 夜の二人 (男女)銀座 二人だけの (間奏) (男女)銀座 二人だけの |
《蛇足》 昭和41年(1966)、ザ・ベンチャーズの曲に永六輔が詞をつけ、大ヒットしました。歌ったのは俳優の山内賢と和泉雅子。翌年、日活が二人の主演で映画化しました。
ザ・ベンチャーズはメンバーが何度も入れ替わっていますが、この曲を作ったのは上記の4人です。
大学に入った年(昭和36年)の秋頃から、私はN女子大のMさんという人とつきあい始めました。彼女は名古屋出身で、同女子大の北側にあった寮に入っていました。
寮の敷地内には、木造2階建ての古びた建物が5つか6つあり、彼女の寮は門を入った突き当たりのところにありました。
電話で打ち合わせて会えばよいのですが、女子大の寮を訪ねるというスリルというかドキドキ感がたまらず、1、2度直接迎えに行きました。
クリスマスが近くなったころ、彼女に電話すると、寮のクリスマスパーティに使う景品用のおもちゃを買うので、銀座にいっしょに行ってほしいと頼まれました。
大学に入学したてのころ、田舎出身者の常で、都内の名所をあちこち訪ね回りましたが、銀座は、そこを歩くというだけで緊張した場所でした。そこでデートをするのです。これはすごいことだと思いました。
夕刻、目白駅(だったと思います)で待ち合わせて、銀座にあったナントカ堂とかいう有名おもちゃ屋に向かいました。街は街頭スピーカーからジンゴベ~・ジンゴベ~やらアイム・ドリーミン・オバ……が流れ、クリスマス気分一色でした。
おもちゃ屋で何点か景品になりそうなものを買ったあと、喫茶店でおしゃべりして、銀座通りをしばらく歩いてから帰りました。
ただそれだけのデートでしたが、「待ち合わせて歩く銀座」を聞くと、そのときの情景がいきいきと蘇ってきます。
彼女とは、キスどころか、手もつながないまま、つきあいが終わりました。
その翌年、同じN女子大寮の別の建物で暮らす人とつきあうようになり、2、3度直接寮を訪ねました。
あるとき、寮の門を入っていくと、門の左側にあった守衛所から守衛が血相を変えて、というのはオーバーですが、硬い表情で出てきて、「あんたねえ、しょっちゅう平気で入ってくるけど、ここは女子大の寮だよ。いったい、何の用でどこへいくの」と詰問されました。
寮を訪ねたのは、間をあけて5、6回程度でしたから、しょっちゅうというほどではないのですが、ほかにそんなことをする者がいなかったようで、よほど記憶に残ったのでしょう。
そこでヘドモドすると、うさんくさいヤツというので一悶着あったでしょうが(なにしろ半世紀近く前の時代ですから)、私は、とっさに「サークルの連絡で××寮に行くのですが……」と、逆に怪訝そうな顔でいいました。
守衛は、「ああ、そう……」と拍子抜けしたような感じで、守衛所に引っ込んでしまいました。
その場はそれで収まりましたが、その後はさすがに行きにくくなって、電話で打ち合わせしてから会うようになりました。
その人とも、私の身勝手から、結局短いつきあいで終わりました。
「待ち合わせて歩く銀座」から、連鎖的にらちもないことまで思い出してしまいました。
(二木紘三)
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コメント
思い出というのは年月とは関係なく輝くものですね。
昔は二木先生のように、純真のあまり手一つ握らずに別れるというパターンがありました。
私のように老年期に入ると、過去の思い出達がより鮮明になって日常を潤してくれます。楽しかった、辛かった、どちらも同じ分量で思い出されます。
〔二人の銀座〕という曲は思い出にするにはいささかとうがたっていましたが、それでも〔待ち合わせて 歩く銀座〕はまだじゅうぶんに若かった時代を思い出します。
投稿: おキヨ | 2010年1月11日 (月) 13時48分
この歌が流行っていた頃の和泉雅子は昭和18年生まれの小生にとっては、今なお活躍中の吉永小百合の当時より、一般的な意味では美しい女優さんでしたね。
その後何故か女優業を引退して、北極点探検の団長さんをやっていた頃の体型はご存じの通り。それでも、彼女が探検成功の後の何かのインタビューで「成功の秘訣は、うまくいかなかったことはすべて”団長”のせい、うまくいったことはすべて”団員”のせい、にすることなのよ」といっていました。本当に偉いですねえ!男でもなかなかこのような気概でプロジェクトを担うリーダーは少ないのではないかと思います。
和泉雅子にしても、吉永小百合にしても、我が青春時代の可憐なアイドルたちを、今は人格的に尊敬して感じられる、というのは、これも「年の功」でしょうかねぇ。ちょっと寂しい気もしますが・・・。
投稿: Snowman | 2010年1月11日 (月) 18時11分
昭和45年4月の入社までの3ヶ月を幼稚園の運転手のアルバイトをして卒業しました。運転手としての時間はさほど長くなかったのですが雑用含めて6時間勤務で1200円の給与でした。
その時の園の教諭とデートをすることなり、銀座の映画館に行き「チップス先生さよなら」を見ることとなりましたが、私にとって初めてのデートのようなもので、奮発して映画は指定席を買いました。今でも記憶に間違いがなければ1人2500円と相当高かった記憶があります。
妻(その時の彼女)も同様に記憶しているようですが間違いはなかったのでしょうか?
今でもこの曲を2人で聴くと当時を思い出し話をしております。
和泉雅子さんについては、日活映画「悪太郎」(今東光原作)での清純なイメージが今でも残っています。
投稿: 修さん | 2010年1月12日 (火) 21時10分
高校生の頃、泊りがけで遊びに行った絵の好きな友人の家で、レコードプレーヤーで『二人の銀座』を何度も何度もかけていたのを思い出しますね。
彼は画家になる夢叶わず、お父さんが勤めていた大学の職員になったと聞きましたが。
投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 07時27分
この歌は、ベンチャーズ作曲だったんですね。やっぱりリズムがいいですね。私はカラオケで、原曲よりマイナス2の音程で歌います。山内 賢の声は高いですね。和泉雅子ちゃんは、子供の頃から活躍していたんでしょう? 芸能人の嫌味な所がなくて、素敵な人になりましたね。おんなっ気がなくなったのはちょっと寂しいけど(笑)。
投稿: 吟二 | 2010年1月15日 (金) 23時56分
銀座の何とか堂というおもちゃ屋さんには私も行っていると思います。そこで、ぱっちんガム(引き出そうとすると指がばねではさまって痛い思いをするもの)とかトランプの箱を持つと電気がはしるものとかいたずらおもちゃを買って従兄弟たちに試していました。いまでも「乾燥さそり(開けると中でがさごそと音がするもの)」などを自作して楽しんでいます。いくつになってもこれはやめられません。
投稿: 江尻陽一 | 2010年1月16日 (土) 23時09分
先生、肉食系だったんですね。
もっともあの頃の若者は、多かれ少なかれ肉食系でしたが。
投稿: コマツ | 2010年2月 6日 (土) 18時02分
いつもはヒトカラなのですが、このあいだ4人で行く機会があって、久々にこの「二人の銀座」を皆で唄いました。山内賢さんのパートを僕が唄いまして、頭のテッペンから声を出しましたら、皆が大笑いしてました。でも全員でノリノリでしたね。 ペーブメントなんてのもこの歌で知りました。九州の田舎育ちにはベンチャーズや「銀座」なんて遠いものでしたから歌にだけでも情熱をかけたものです。懐かしい青春時代が甦って来ます。
投稿: かせい | 2010年2月11日 (木) 19時15分
青春時代の懐かしい歌ですね。和泉雅子の歌はもっと売れても良かったと思います。山内賢さん2011、9月没ご冥福をお祈りします。
投稿: 海道 | 2012年1月 3日 (火) 14時39分
《蛇足》に「彼女とは、キスどころか、手もつながないまま、つきあいが終わりました。その翌年、同じN女子大寮の別の建物で暮らす人とつきあうようになり、2、3度直接寮を訪ねました…」とありますが、N女子大とは通称“ポンジョ”と言われる一流私立女子大であると推測されますが、それにしても誠に失礼ながら二木先生の謹厳実直ぶりを象徴するような一文でないかと独断と偏見で思う今日この頃です。
当方の場合、昭和40年代前半の駅弁大学(大宅壮一などが揶揄して呼称した、駅弁を売っている程度の急行停車駅がある地方都市にある地方国立大の蔑称)工学部出身ということで、定員480名の工学部には女子学生など一人もおらず(昨今は「リケジョ」ブームですが)、女性とは無縁の学生生活でした。カミサンとは見合いでしたが、大学時代、女の子のエキスをタップリ吸ってればなーという悔恨人生の今日この頃です。実にクダラナイ投稿で失礼しました。
投稿: 焼酎百代 | 2015年9月 9日 (水) 13時50分
『二人の銀座』がベンチャーズ作曲だとは知りませんでした。ベンチャーズは何という題を付けたのでしょうか。彼らの作曲による『北国の青い空』には’Hokkaido sky’、『京都の恋』には’Kyoto doll’、『京都慕情』には’Reflection in a palace lake’という題が付けられています。
最近ギターを再開しました。単独行の登山を趣味にしていたのですが、体力的に自信が持てなくなり、家族や知人に迷惑をかけてはいけないと思い、他の趣味を考えることにしました。思いきってエレキギターを始めようかとも思ったのですが、もう少し大人しいアコースティック-エレキギターを買いました。ベンチャーズもポール=マッカートニーもコンサートでアコースティック-エレキギターを使用しています。めざすは職場の忘年会のステージですが、学生時代のレベルには戻れても、それより上のテクニックを獲得するのは難しいです。
投稿: Yoshi | 2015年9月10日 (木) 13時42分
たぶん何度か参加している者ですが、この冬か昨年秋かにある企画映画上映の中で 花咲く乙女たちなる日活映画に若かりし小百合さん和泉雅子さんなどが出ていましたが 雅子さんが飛びぬけて美しい歯並びでした すばらしい さてこの曲がヒットした時代は田舎の小娘でしたので のちに東京に住むようになり 今でも毎週のように銀座を自転車で散歩する老婆ですが みゆき通り すずらん通りを通行するとき口ずさみます いい歌です thanks
投稿: 佐伯真由美 | 2017年5月25日 (木) 15時36分
焼酎百代さん
ずいぶん時間が経っての書き込みですが「二人の銀座」はGinza Lightが英題です。
作曲に関わったノーキー・エドワーズは2018年3月に82歳で亡くなりました。
ザ・ベンチャーズはエレキ・ギターだけでなく
アコースティック・ギター、エレキ・シタールなどを
巧みに演奏に取り込んでいます。
「京都の恋」ではエレキ・シタールを使っています。
投稿: おばさま | 2018年4月24日 (火) 08時51分
「二人の銀座」この歌が流行っていた頃、私は小学6年生でした!
その年の冬休みの年末に、広島に就職していた我が家の次兄が正月休みで帰ってきました。そして音楽好きな私を、隣町にあるレコード店に連れて行ってくれました。
次兄はお年玉の代わりに、好きなレコードを一枚買っていいよと言ってくれたので、いろいろ悩んだ挙句、私は当時大好きだった「二人の銀座」を買ってもらいました。そのレコードは、50年が過ぎた今でも大切に保管しています。
そしてその翌年、家事手伝いをしていた長姉は、やはり隣町に来たこの映画に、私を連れて行ってくれました。前年に映画「絶唱」を長姉と一緒に観た時、小雪役の和泉雅子さんファンになった私は、この映画を食い入るように観ました。
映画では、和泉雅子さんの美しさと、彼女がモンキーダンスを踊っているシーンが、特に印象に残っています。
そして映画で見た銀座の風景にも、子供ながら強い憧れを抱きました。
35年程前になりますが、当時バイヤーだった私は、あるグループのデパート視察旅行で東京へ行った時、夕方に八重洲口で解散の後、私は子供の頃から憧れてきた、銀座通りを暗くなるまで、一人でくまなく散策しました。
そして通りで見つけた「銀座ライオン」のビアホールに入り初めての黒ビールを飲みました。店内には独特の素敵な雰囲気が漂い、おつまみも美味しく、大きめのピッチャーで頼んだビールを全て飲み干しました。
それと私が見た、夜の銀座は思ったより綺麗な街並みで素晴らしく、この「二人の銀座」を聴いてると、またゆっくり来たいと思いながら、後ろ髪を引かれ、最終下りの新幹線に乗った当時の事を、懐かしく想い出します。
地方出身の私にとって、東京の街と言えば「銀座」、東京のシンボルと言えば「東京タワー」と言う認識が、何故か今でも心の中に、深く根付いています。
投稿: 芳勝 | 2018年4月25日 (水) 12時37分
二人の銀座といえば和泉雅子さん、美人は当然ですが、歯並びが美しい超健康的です、30代はじめに仕事で誘われて東京に住むようになり、銀座まで自転車で10分で行けるので、うろうろ走るたびに、35年も過ぎたけど心の中で ♪みゆき通り すずらん通り ♪ を歌っています、この歌がヒットした頃は金沢に住んでいたので 銀座は媒体で見るだけ、三原橋あたりで生まれ銀座は遊び場だったという和泉雅子さんはどこでも知ってる少女だったのでしょう、銀座といえば 二人の銀座 和泉雅子と山内賢なのです。あ たそがれの銀座も ちょっと好きです。
投稿: 芝公園の冬子 | 2020年11月11日 (水) 15時59分