シベリア大地の歌
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作曲:ニコライ・クリューコフ、日本語詞:楽団カチューシャ
1 シベリアの大地は 3 苦しみにひるまず |
《蛇足》 1947年公開のソ連映画『シベリア物語』の主題歌。上の写真はその1場面。
この歌のほか、『シベリア讃歌』『さすらい人(別名:バイカル湖のほとり)』『君知りて』も、挿入歌として使われました。前の2つは新たに作曲されたものですが、あとの2つは民謡です。
『シベリア物語』は、前年に公開された『石の花』に続いて、ソ連では2つめのカラー映画です。あらすじは次のとおり。
戦争で腕に傷を負い、ピアニストへの夢を断たれたアンドレイ・バラショフは、モスクワに復員する。その頃、恋人ナターシャはソプラノ歌手として、かつてのライバル・ボリスはピアニストとして、それぞれに名声を得ていた。
すべての希望を失ったアンドレイは、生まれ故郷のシベリア奥地に向かう。しばらくは無為の日々を送るが、やがてその地の美しい民謡を聴くうちに、音楽への希望を取り戻す。ピアノがだめでも、歌があるし、作曲もできる――そう考えたアンドレイは日々音楽に精進した。
あるとき、たまたま音楽研究のために滞在していた町に、ナターシャやボリスの乗った飛行機が不時着する。彼らの楽団は、国際的なコンサートに参加するため、アメリカへ向かう途中であった。
修理を待つ間の一夜、町に出た一行は、町民の前で歌っている男の声を耳にする。それがアンドレイの声だと覚ったナターシャは、彼と感動の再会をした。お互いの愛情に変わりがないことを確認したナターシャは、その地にとどまる決心をする。しかし、ナターシャを愛するボリスは、彼女には洋々たる未来が待っているとアンドレイを説得する。彼女の成功を願うアンドレイは、わざとケンカ別れして、シベリアの奥地に去ってしまう。
気候の厳しい奥地でさらに音楽に励んだアンドレイは、数年後、ついにシンフォニー『シベリア物語』を完成させる。モスクワで開かれた演奏会は大成功で、それを誰よりも喜んだのはナターシャであった。二人はついに結婚し、アンドレイの故郷・シベリアの奥地へと向かうのであった。
こう見てくると、ロマンチックな恋愛映画・音楽映画のように見えます。作品自体がそうであることにまちがいはないのですが、実は、シベリアがすばらしい土地であることをソ連民衆に宣伝するためのプロパガンダが制作の目的でした。
1937年、シベリアの沿海州に居住していた朝鮮族約20万人がシベリアの奥地や中央アジアのカザフスタンに強制移住させられました。
1941年、ヴォルガ地域のドイツ人約80万人とカフカース(黒海とカスピ海の間)で暮らしていたチェチェン人とイングーシ人約50万人も、カザフスタンやシベリアへの移住を強制されました。
朝鮮族については、対日戦が起こった場合、日本軍に協力することを恐れたからであり、ドイツ人、チェチェン人、イングーシ人の場合は、侵攻してくるドイツ軍に呼応して反乱や破壊活動を起こすことを防ごうとした施策でした。
いずれも、ほとんど現実性のない想定でしたが、病的な猜疑心にとらわれていたスターリンは、それを実行させました。
移住はまさに電撃的に行われました。ある日、またはある夜、突然現れた軍隊によって、人びとは家から追い出され、列車に乗せられました。持つことが許されたのは、身の回り品だけでした。
移住先には、まともな住居も食べ物もなく、多くの病人や餓死者が出ました。しかし、強制移住者の大半は当局に反抗することもなく、少しでも生活をよくしようと、黙々と働き続けました。
これは彼らだけのことではありません。スターリニズムという鉄の桎梏につながれていたソ連民衆は、ことの理非を問わず、当局に服従することが習い性のようになっていたのです。
そうしたなかにあって、服従の精神をまったく受け入れなかった民族が1つだけありました。チェチェン人です。『収容所群島』の作者・ソルジェニーツィンによれば、彼らは民族全体として「当局に取り入るとか、気に入るようなことはいっさいやらず、いつも胸を張って歩き、その敵意を隠そうともしなかった」といいます。
他の強制移住者たちは、移住先でそれぞれの生活を築き上げ、それなりに満足していました。
いっぽう、チェチェン人は原住地への帰還を求め続け、フルシチョフによるスターリン批判後の1957年、ついにそれを果たします。
その後も、彼らの独立不羈の精神は収まらず、ソ連が崩壊すると、ロシアからの分離独立闘争を開始しました。しかし、ロシアは強大な武力によって親露政権を成立させ、独立派を野に追いました。
独立派は、ゲリラ化して武装闘争を続け、ロシア国内で何度もテロを実行していますが、それによって、彼らの孤立化はますます深まっています。
話が飛びましたが、第二次大戦が終わると、ソ連政府は、シベリア開拓を進めるために、強制移住者たちをその地にとどまらせるだけでなく、開拓への参加志願者を全国から募る政策を展開しました。その観点から制作されたのが、『シベリア物語』だったのです。
(二木紘三)
« 春一番 | トップページ | 大きな栗の木の下で »
コメント
『シベリア物語』の映画は見てません。蛇足によるとプロパガンダ映画ようですが、一度鑑賞してみたいと思いますが無理ですね・・・。
なんか映画クトル・ジバゴと呉に入港したロシア艦の素朴な水兵とのフレンドリーな出会いを思い出しました。
投稿: kachan | 2010年2月 4日 (木) 22時07分
「シベリア物語」は2,3回見ましたが、素敵な青春音楽映画でした。宣伝はあまり前面に出ていず、空爆を受けながらも音楽を愛したロシア人に感動したり、才能ある作曲家が首都を離れ僻地にやられる苦悩とか、地元の女性との恋愛が、清潔に描かれていたように記憶しています。当時日本の人々に愛された映画でした。
投稿: Bianca | 2010年2月 5日 (金) 18時18分
スターリンの強制移動に何か文句を言った朝鮮人たちは
一晩で行方不明になったと
私に話してくれた人がいました。
(その人もまた聞きでしょうけれど、とにかく有無をいわせずだったらしい。おとなしく朝鮮人たちが移動したわけがないでしょう)
最初は帝政ロシアが積極的に開拓のため朝鮮人を受け入れたのです。それからソ連時代になって朝鮮人たちはひどい目にあったのです。
なんでしたら韓国の歴史学者に聞いてください。
エカテリーナ女帝の時代に公式に迎えられたドイツ人開拓移住者の子孫も、その後時代は変わり、スターリンにそういうわけで強制移住させられたのでした。
キルギスの都ビシュクは、その前はフルンゼという名前でした。
レーニンに可愛がられたフルンゼは亡くなって、スターリンだけが残って、歴史はああなったのですが
もしフルンゼが生きていたらと思われます。
投稿: みやもと | 2010年3月19日 (金) 21時28分
旧制中学生の頃、初めてカラー映画の”石の花”と”シベリア物語”を観ました。ストーリーは覚えていませんが、音楽映画として感動した記憶があります。宣伝色は殆ど感じませんでしたが・・・。スターリンはいろいろと恐怖政治をやっていたようですね。
投稿: 三瓶 | 2010年4月20日 (火) 17時18分
いい映画でしたねえ。アンドレイが興に乗って居酒屋でアコーディオンを弾いて「シベリア大地の歌」を歌い始めると、リフレーンでは酒場の客みんなが声を合わせて壮大な合唱になるところ、いっぺんでこの歌が好きになりました。そのころ、「ロシア人は生まれつき音楽の才能に恵まれていて、ポリフォニーの伝統があるから、すぐ多声の合唱になる、初めての歌でも自分のうたうべきパートもメロディーもわかるのだ」と、自分には別次元のような説を聞かされ、誇張があろうとは思いつつも、この居酒屋のシーンに説得されていました。
Biancaさん、三瓶さんと同じく、この映画にプロパガンダはほとんど感じませんでした。むしろ逆に、印象的だったのは、アンドレイが「シベリアの奥地に去って」吹雪に巻かれる一軒屋でただひとり音楽に励むところです。質の高い音楽創作のためには居酒屋の ”民衆” から遠ざからねばならなかった。これは芸術家には孤独が必要なのだというアピールで、当時のプロレタリア文化理論とちがうようだなと感じたことを思い出します。
投稿: dorule | 2013年2月28日 (木) 12時06分
1947年公開のソ連映画『シベリア物語』の主題歌と知り、想いをあらたにしました。私の叔父は。京城(現在の韓国ソウル)鉱山専門学校に在学中、学徒動員で兵役に服し、終戦となっても帰ってきませんでした。消息不明で生死がわかりません。このころ、家(留守宅)では、毎晩、小ぶりの座卓に影膳をそなえ、叔父の無事を家族で祈る毎日でした。1948年になって一通の手紙が届きました。「元気だ」ただ、それだけの内容でした。発信地はタイセットと記されていました。役場で調べてもらいました。シベリアのイルクーツク(バイカル湖の南端)からさらに西にいったところがタイシェットです。シベリアに抑留されていたのです。待つことながく、やっと帰還した叔父は完璧に洗脳されていました。叔父が本来の日本人に戻るのに何年もかかったのを覚えています。叔父が若くして他界したのち、1975年、モスクア経由フランクフルト行きの機上からシベリアの荒涼とした大地を窓の下に見たとき、かの国に対する憤りがこみ上げ、涙しました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年9月 8日 (水) 16時38分