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2010年4月19日 (月)

小雨の丘

>(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:サトウハチロー、作曲:服部良一、唄:小夜福子

1 雨が静かに降る 日暮れの街外れ
  そぼ降る小雨に 濡れ行くわが胸
  夢のような小糠雨 亡き母の囁き
  独り聞く独り聞く 寂しき胸に

   (台詞)
   「ああ、母さん、
   あなたが死んで三年
(みとせ)
   私はこの雨にあなたを想う 雨、雨、
   泣きぬれる雨、木の葉も草も、そして私も」

2 辛いこの世の雨 悲しき黄昏よ
  そぼ降る小雨に 浮かぶは想い出
  移り行く日を数え 亡き母を偲べば
  ともしびがともしびが 彼方の丘に

   (台詞)
   「ともしび、ともしび、
   母さんの瞳によく似たともしび、
   私は歌おう、私の好きなあの丘で、
   母さんを思う心からの歌、
   ああ、なつかしい想い出の歌」

3 丘に静かに降る 今宵の寂しさよ
  そぼ降る小雨と 心の涙よ
  ただ独り佇めば 亡き母の面影
  雨の中雨の中 けむりて浮かぶ

《蛇足》 昭和15年(1940)8月にコロムビアから小夜福子の唄で発売。
 戦後、高峰三枝子や井上ひろしがカバーしています。

 小夜福子は宝塚歌劇団出身で、この歌がデビュー曲でした。
 戦後は女優に転身し、東宝『音楽五人男』、新東宝『銭形平次捕物控』、松竹『大忠臣蔵』、日活『やくざ先生』など各社の映画に出たほか、テレビ時代になると、NHK『赤穂浪士』、フジテレビ『大奥』など数多くのドラマにも出演しました。

 平成元年(1989)12月29日、80歳で没。

 サトウハチローは、母を捨てて女優と同棲するようになった父・佐藤紅緑(作家)への反発からグレたといわれ、その分、実母に寄せる思いがとくに強かったようです。母をテーマとした歌詞や詩をいくつも作っています。

(二木紘三)

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コメント

終戦1年後、北朝鮮から引き上げてきて一家6人親戚の家に転がり込みました。かぼちゃやさつま芋ばかり食べていました。4歳年上の従兄がいて、よくこの歌を口ずさんでいました。彼は12,3歳でしたから多少ませていたのかも知れません。「そぼ降る」とか「小ぬか雨」などこの歌で覚えました。
それにしても、母を偲ぶだけの流行歌がよくヒットしたものだと思います。サトウハチローの実体験なのでしょうか。

投稿: 周坊 | 2010年4月20日 (火) 16時36分

「小夜福子は宝塚出身で、若い頃はすごくかわらし(い)人だった」というのは三回忌を迎えた母の言葉。「井上ひろしはリバイバル歌手かと思っていたらカバーとかいうのか」というのは愚息の考え。歌謡曲の「セリフ」というのは昭和30年代以降のものかと思ったのは私の浅慮。二木様、ありがとうございました。

投稿: なとりがおか | 2010年4月20日 (火) 22時44分

 2番の後の台詞中「お母さんの瞳によく似たともしび」で、小夜福子は「母さんの瞳」と唱えていて、「お」は発音していないように聞こえますが、如何でしょうか。

投稿: 槃特の呟き | 2010年4月20日 (火) 23時45分

槃特の呟き様
「お」は私の打ち間違いでした。
最初の台詞が母さんとなっているので、2番目も当然母さんですね。

投稿: 管理人 | 2010年4月21日 (水) 12時05分

懐かしいメロディーです。
サトウハチローがの母に対する芳醇な感情が表された詩ですね。男性が母を語るとき女性のそれとはややセンチメンタルな部分が強いような気がしないでもないのですが、心を潤す美しい詩だと思います。

私も周坊さん同様〔そぼ降る小雨、や、夢のような小糠雨〕のフレーズが子供心にひびきました。

投稿: おキヨ | 2010年4月22日 (木) 11時54分

おキヨさんの言われるとおり、男は母にはよりセンチになると思います。昔、テレビ「3時のあなた」のコーナーから始まっって、本になり昭和47年に発売された「母にささげる詩 おかあさん」(高嶺三枝子編)を読んだら涙が止まらなくなりました。でも、意外なことに採用された投稿者は女性のほうが圧倒的に多かったです。これは、昼間のテレビから書籍化されたので、その時間男性は見られなかったからでしょうね。男性が見られれば逆転したかもしれませんね。私は文芸川柳を作っていますが、「母」という題で作ろうとするとけっこう頭に浮かびやすいのですが、どれもセンチメンタルな句になってしまいます。

おかあさん だめだかあちゃん遠くなる
給食費泣いた母さん忘れない

投稿: 吟二 | 2010年4月23日 (金) 09時21分

 すみません。ちょっと書き忘れちゃって。先の「母にささげる詩 おかあさん」は、昭和47年にサンケイ新聞出版局から出されました。見たい方がいらっしゃったらと思いまして。本当に感動しちゃいます。私は本屋の回し者ではありません。

投稿: 吟二 | 2010年4月23日 (金) 09時28分

「3時のあなた」から生まれた、
高峰三枝子編「母に捧げる詩 おかあさん」は、
第1集が昭和46年発売、第2集が昭和47年発売、第3集が昭和48年発売です。
昭和47年発売は高峰さんが番組で唄っておられた「おかあさん」ですね。

投稿: なち | 2010年4月23日 (金) 09時48分

とても懐かしい歌です。戦後まもなく小学生の頃良く聴いた気がします。今でもカラオケでたまに唄いますがあまり受けません。全く私の思い違いかもしれませんがその頃観た映画”酔いどれ天使”のバックに流れていたと錯覚しています。他の映画か違っていたらお教えください。黒澤明監督、志村喬、三船敏郎など出演で結核なのに医者(酔いどれ)の言うことを訊かないやくざを演じる三船が雨の中泥の中を転げ回るシーンがこの歌と共に思い出されるのですが。

投稿: 釈 浄慶 | 2010年4月27日 (火) 22時48分

周坊さん。またお会いできました。あなたが北鮮からのご帰還者だとは、もちろんですが知りませんでした。去年「流れる星は生きている」や「極光のかげに」などを読み返していました。わたしたちの世代は北鮮などといっていました。同じ戦後を生きたものは、もちろん歌謡曲の記憶も共有しているわけですね。お元気で。

投稿: 菅原 主 | 2010年5月 5日 (水) 13時13分

私は、満州やシベリアの人たちの苦労に比べればまだまだ恵まれていました。
戦後は貧乏のどん底でしたが、みんな希望を持っていたと思います。
今もどん底ですが希望が見えてこないのは年のせいでしょうか。
菅原 主さん、お互い音楽を楽しんで元気に過ごしましょう。

投稿: 周坊 | 2010年5月 7日 (金) 10時44分

2005年1月~3月に放送されたNHKテレビの連続ドラマ「ハチロー~母の詩、父の詩~」で、今年7月19日に亡くなった原田芳雄がハチローの父・佐藤紅緑を演じていました。ドラマの中で「小雨の丘」の曲が流れる場面があり、原田が演じる紅緑が号泣していたのが印象的でした。

投稿: Patrickbyname | 2011年8月28日 (日) 17時40分

私もこのドラマ観ました。良いドラマでしたね。酔っぱらって大声で「小雨の丘」を歌っているシーンが忘れられません。人間の奥底にある悲しみがあふれて来るような歌でした。人は悲しい時に悲しい歌を歌ったり聴いたりする方が悲しみが薄らいでいくような気がします。私は悲しい時に「小雨の丘」を聴きます。セリフの部分は要りません。もう1度あのドラマを観たくなりました。

投稿: ハコベの花 | 2011年8月28日 (日) 21時02分

九月の雨には何故か悲しみを誘われます。国会議事堂前で雨に濡れながら安保法案反対のデモを見ているとますます気持ちが沈んできます。若いお母さんたちの一生懸命さに「有難う」と言いたくなります。権力の横暴に成す術もない私は頑張ってくれている若いお母さんを尊敬します。身体を冷やして風邪をひかれません様に願っています。お母さんたち有難う。

投稿: ハコベの花 | 2015年9月17日 (木) 00時00分

作詞家サトウハチローは童謡詩人でもあり、「おかあさん」についての詩では、最も多くの作品を残した詩人と言われています。この歌からも、夕暮れに降る小雨のなかに母の面影を偲んでいる、かれの母に対する一途な愛情が感じられます。しかし、こうした母への思いは、かれの異母妹である佐藤愛子によると、それらはフィクションであって、かれが母(実母)に愛情らしきものを示したことはないと否定しています(著書「血脈」による)。ことの真偽は置いて、巷間、かれが少年時代から不良であり、放蕩息子であったことはよく知られています。しかし、放蕩息子であっても、いえ、放蕩息子であればなお、母のかれに対する愛情が強かったことは否めません。また、詩人として成長したかれに、その母の愛情を真実として受け入れる感性がなかったとも言えません。その感性の片鱗が、かれの書いたたくさんの「おかあさん」という詩に散りばめられているように思います。
 
 一体、親と子の間の愛情はどちらが強いのでしょう。かの吉田松陰は「親思ふこころにまさる親ごころ……」と詠って、親の子を思う愛情(親ごころ)に軍配を上げていますが、これはかれの歌を持ち出すまでもなく、普遍的な真理(?)のように思われます。最近は、子を虐待する親もいるようですが。
子を思う「親ごころ」では、父親よりも母親の方が強いでしょう。子はまさに母親の分身ですから。したがって、わが子の安全や生存を脅かすものには鋭く反応します。ハコベの花様がコメントされているように、生存を脅かす最たるものが戦争です。洋の東西を問わず、母親の反戦運動が起こるのは当然でしょう。
 

投稿: ひろし | 2015年9月17日 (木) 22時42分

幼児の絵本とか子供向けの物語には必ずと言ってよいほど優しいお母さんが描かれています。たまに意地悪なお母さんが登場するとしたらそれは継母であったりします。小さい頃私はなんだか僕の家のお母さんは違うなぁと気づきました。友達の家に遊びに行くと確かにどの友達の家のお母さんも優しくて羨ましかったです。だけど、僕の家はそうではなかった。

小学校4年生の頃だったと思います。海の見える段々畑に母の畑仕事の手伝いでついて行きました。仕事中、たまたま母の背中に周った時、母が力いっぱい振り下ろした鍬の柄が私の額を直撃しました。私は仰向けに跳ね飛ばされ気を失うかと思う激痛で動けなくなりました。もしその柄が私の目を直撃したら私の眼はつぶれていたでしょう。もし鼻だったら私の鼻はつぶれいたたでしょう。もし口だったら・・・。私の額はその後腫れて大きなこぶができました。

しばらくしてよろよろと立ちあがったとき母は叱責の言葉を発しました。「後ろでウロウロするな!」と・・・
私は悲しみと共に母に対する憎しみの気持ちが生じました。これが僕のお母さんの言葉なのか、と・・・。

食事の時、母は祖母を責めました。ご飯の炊き方が良くない、柔らかすぎる、お味噌汁が濃すぎる、と。私は心の中でお母さんの炊いたご飯よりお婆ちゃんの炊いたご飯の方が美味しい、お母さんの作ったお味噌汁よりお婆ちゃんの作ったお味噌汁の方が美味しい、と思っていましたが黙っていました。

ある日お婆ちゃんが土間で転びました。それを見ていた母は、「ボヤボヤするな!」と一括しました。その後、お婆ちゃんと二人になった時お婆ちゃんは泣きました。

小学生のときお婆ちゃんに質問しました。「お婆ちゃん男と女とどっちが好き?」。お婆ちゃんは答えました。「そりゃ、男だよ、女は意地が悪いからね」、と。

中学生の時、敬老の日でお婆ちゃんにお菓子のビスケットとをプレゼントしました。お婆ちゃんは嬉しい嬉しいと言って泣きだしました。ビスケットを仏壇に供えて手を合わせて泣いていました。

敬老の日を前に母と祖母のことを思い出しました。

投稿: yoko | 2015年9月20日 (日) 12時48分

私が25歳の時、市街地から田畑のある田舎へ越してきました。驚いたのは女の人の働きでした。家事万端をこなし、夫と一緒に農業をして、毎日を過ごします。デパートも行かず、食堂にもいかず、揚句に夫に怒鳴られ、真っ黒になってただ働くだけ、私は女が虐待をされていると思いました。田舎で育った夫はあれが普通でお前は遊んでいると言いました。幸いな事に田畑がないので働きませんでしたが、YOKOさんのお母さんは何のために生きているのか分からなくなっていたのだと思います。
どんなに悲しかったかと思います。殆どの家がお金を握っているのは男のようでした。今は専業農家もなくなり、農家の奥さんも旅行に行ったり、車で買い物に行ったりしています。良い時代になったと思います。世界中のお母さんが優しくニコニコしていられる国になると良いですね。

投稿: ハコベの花 | 2015年9月20日 (日) 18時02分

今朝、ふっとこの歌が口をついて出てきました。このページを開いたら2年前の9月にも投稿していました。初秋の雨は淋しさを連れてくるようです。
(諍えば淋しさのみがつのりゆく九月の雨の降り止まぬ窓)とノートの隅に書いてありました。酒を飲んで遊び歩いている夫に愛想をつかしたころの歌です。九月は何故か私にとっては淋しい月のようです。もう会えない人たちの顔が浮かびます。母よりも父の顔のほうが浮かんできます。恋した人の顔も浮かびます。皆どこへいってしまったのでしょうね。九月の雨よ彼の君を連れてきて!!

投稿: ハコベの花 | 2017年9月16日 (土) 12時08分

今日はこれから雨が降り出すそうでこの歌がぴったりです。イメージの中だけでも”彼の君”になって差し上げたいですが吾ながら無粋・醜男そのものの私故それもままなりません。役立たずの吾です。
 私も亡母を思い出します。亡母も色々人生にもて遊ばれてろくな思いもなかったと思います。出世もなく、花嫁を迎えて喜んでもらうこともなく、歳ばかり取った私をそれでも生前は会社勤めの毎朝送り出してくれていました。一度だけ嬉しそうな顔をしてくれたのは墓を買った時でした。こじんまりとした寺の片隅の小さな墓に今眠っています。夏水仙が好きだったのでそのうち墓石の周りに植えようと思いつつまだ実現しておりません。でもよくある嫁と姑の諍いはなかったのがこれも親孝行かなと愚にもないことを考えています。

投稿: 林 滋 | 2017年9月16日 (土) 12時57分

「小雨の丘」は、誰に教わったか憶えていませんが、子供の頃から知っていました。
亡き母を一途に思う心情が伝わってくる名歌だと思います。
曲想も歌詞とぴったり合っていて、今改めて聴いてみて、♪夢のような小糠雨 亡き母の囁き♪のところまできますと、思わず、目頭が熱くなります。

昼間の雨でなく、夕方や夜の”そぼ降る小雨”は、しんみり、しっとり、心に沁みるように思います。(歌詞1番では、”日暮れ”、歌詞2月番では、”黄昏”、歌詞3番では、”今宵”、とあります。)

私の母は、先年、99歳で、天寿を全うしました。長女生まれで、子供の私から見ても、多少、世間知らず、偏屈なところもありましたが、子供思いで、戦後の混乱期に子供5人を育てた母の苦労に思いを馳せるとき、ただ、感謝、感謝です。

投稿: yasushi | 2019年1月12日 (土) 13時47分

私はこの歌がここに出るとすごく嬉しくなります。何故か自分がこの歌の中にいるような気がします。母にたいする思い入れは全くないのですが、自分の気持ちが時々雨模様になるのでしょうね。窓の外の雨の降る様子を眺めていると気持ちが落ち着いてきます。今日の様な良いお天気でもこの歌が流れると静かな淋しさが心地よく感じられます。

投稿: ハコベの花 | 2019年1月14日 (月) 12時09分

今日は、朝から雨がしとしと降っています。
雨の歌といえば、私がすぐ思い浮かべるのは、『並木の雨』(S9)、『雨に咲く花』(S10)、そして、この『小雨の丘』です。

『小雨の丘』を聴くと、同期入社のM君のことが思い出されます。
昭和37年4月、約400名の同期入社の新入社員(事務系、技術系)は、独身寮に入り、”見習い”と称する会社生活を始めました。
そんなある日のオフ・タイムに、数名で懇親の寄り合いをし、一人ずつ歌などを披露し、順番が彼に回ってきたとき、彼が歌ったのは『小雨の丘』でした。そのときは、”何と地味な歌を歌うのだろう?”と思ったものです。

見習い期間を終え、私とM君は、同じ工場の同じ職場(課)に配属になり、技術者としての道を歩き始めました。担当分野は違いましたが、それから三十余年の間、何かと懇意に付き合ってくれました。
定年間近に彼は関連会社に転籍となり、それから余り年月をヘ経ずに、病で他界しました。親友を亡くした思いでした。

今では、『小雨の丘』は、M君にとって、心に秘めた思い入れのある歌だったのだろうと思ばかりです。

投稿: yasushi | 2022年10月17日 (月) 13時58分

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