高原の宿
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:高橋掬太郎、作曲・唄:林 伊佐緒
1 都おもえば 日暮の星も 2 風にもだえて 夜露に濡れて 3 昏(く)れる山脈(やまなみ) 哀しく遠く |
《蛇足》 昭和30年(1955)4月、キングレコードから発売。
林伊佐緒は明治45年(1912)5月11日、山口県下関市生まれ。本名は林勲。明治大学に入学しましたが、アルバイトで歌謡曲のレコードを吹き込んだことが大学側に咎められ、中退。兵役を果たしたあと、本格的な歌手活動を開始しました。
シンガー・ソングライターの草分けの一人で、多くの歌を自ら作曲し、歌いました。最初のヒット曲『もしも月給が上ったら』は北村輝の作曲でしたが、戦中・戦前派には懐かしい戦時歌謡『「出征兵士を送る歌』は彼自身の作曲です。
戦後も、『ダンスパーティの夜』『真室川ブギ』『高原の宿』などの自作曲をヒットさせました。
昭和30年代には作曲家としての活動が主体となり、三橋美智也の『リンゴ村から』『母恋吹雪』など、春日八郎の『長崎の女(ひと)』『ロザリオの島』など、数多くのヒット曲を生んでいます。
歌手としては、その大声量が評判で、いくつかのエピソードを残しています。
平成7年(1995)9月29日、肺炎のため没。
2番の1行目は「夜霧」としている歌集が多いのですが、林伊佐緒が「夜露」と歌っているので、そのようにしました。私の遠い記憶でも、夜露だったと思います。
30年代以前の歌には、丘や高原がよく出てきました。
私にとって、丘は少年時代の記憶を彩る景物であり、高原は青春時代の記憶を鮮やかに再現させてくれるキーワードの1つとなっています。高原では、心躍り、ときめく場面が何度かありました。ときに、苦いスパイスを少々振りかけられたこともありましたが。
今、高原に行く機会があっても、もはや心を揺り動かすようなことは何も起こらないでしょう。残念なことです。
(二木紘三)
コメント
この時代の歌詞には何となく風情を感じます。
麗人草の歌が好みです。
投稿: 海道 | 2010年5月 8日 (土) 08時01分
この当時、私は7歳くらいで意識しては聴いていないはずですが、何か懐かしい唄です。
長じて経験した心躍り、ときめく場面(二木さんの「蛇足」と同じく苦いスパイス付ですが)を思い出させていただきました。ありがとうございます。
投稿: 竹永尚義 | 2010年5月18日 (火) 16時51分
とても素敵なアレンジで、心地よいひと時を味わいました。
3番の「ともすランプ」の件は、小学生の頃のNEWSでみた「最後のランプ地域解消」を思い出します。
歌の中では叙情あふれる感じですが、今から思えば内側の煤掃除とか大変だったんでしょうね。
投稿: 山ちゃん | 2010年6月 2日 (水) 22時51分
先生の仰る通り「夜露」と歌っていますね。それにしてもこの詞はどこの高原なのでしょうか。信州人としては
信州の高原と思えて仕方がないのですが。
投稿: 海道 | 2010年6月10日 (木) 06時56分
歌のモチーフとなっている高原は、海道 様の仰っている信州の「蓼科」「軽井沢」辺りかも(あくまでも推量です)。そして宿はロッジかヒュッテでしょうか。
この「高原の宿」S31年・「山蔭の道」S32年・「丘にのぼりて」S33年 を、私は秘かに高椅掬太郎の『高原三部作』と呼んでおります。作曲の林伊佐緒、飯田三郎の素晴しいメロディがあればこそですが…。 ランプといえば、ホヤガラスのスス落としは子供の仕事でしたね。
投稿: かせい | 2012年9月10日 (月) 01時07分
高校1年のころ流行っていました。歌謡曲はご法度の学校でしたので歌いませんでしたが、この歌が大好きといった級友がいました。なかなかの美女で大人びた人でした。30歳を前に生まれたばかりの子を残して癌で亡くなりました。この歌を聴くと彼女を思い出します。その頃、高原というところは素晴らしいロマンスが生まれるところだと憧れていました。今でも憧れているのですが、出かける元気のほうが無くなりました。残念です。
投稿: ハコベの花 | 2012年9月10日 (月) 20時04分
また、私の悪いくせ〈ばっかり食い〉が始まりました。お許し下さい。
かせい様の仰る『高原三部作』は、S31年(高校1年)「高原の宿」 S32年(高校2年)「山陰の道」 S33年(高校3年)「丘にのぼりて」と、青春真っ盛りの歌だけに思い入れが強い歌です。もっとも、これらの歌を知ったのは、多分20才を過ぎた頃だと思いますが…。高原シリーズ(月よりの使者は勿論ですが…)には いずれもロマンがあって夢がふくらんできますね。
投稿: あこがれ | 2017年3月 9日 (木) 21時33分
高橋掬太郎の『高原三部作』と私が勝手に呼んでる3作品のリリース時期はそれぞれS30年、S31年、S32年でしたね。
その頃私は未だ幼少の身ですから、メロディの一部は頭のどこかにインプットされたかも知れませんが、歌詞の内容など右から左へスルーだったと思います。 しっかり歌詞を覚えメロディを把握したのは50歳を過ぎてからのことです。
あこがれ様のようにリアルタイムで、青春時にお耳になさったことは、とても羨ましいと私には感じます。
50歳を過ぎてからでの歌唱経験であっても、この『三部作』は私の大切な『歌』となりました。高原の情景がハッキリと映像として、胸に迫ってきます。本当に秀作品だと思います。白樺にそよぐ風がいつも肌に感じられるようで……。
投稿: かせい | 2017年3月16日 (木) 01時17分
今朝から、高原の駅よさようなら・高原の旅愁・高原列車は行く と、高原ものばかり聞いていました。
今日は、今から六甲山荘に上がりますので、少しでも山の仕事を楽しもうと気分をレラックスさせて山道を駆け上がろうと思っています。
今日の六甲山は、雲に覆われて見えませんが、気分は晴れています。
投稿: あこがれ | 2017年7月14日 (金) 09時33分
どこの高原だろうか、との書き込みがありますね。
これについては何時、どこで見聞きしたのかは忘れてしまいましたが、作曲に当たって林伊佐緒が作詞者に質したところ、「君、こりゃ、どこのというのはないんだよ」との返答だったとか。
歌を聞く者がそれぞれ思い浮かべるのがいいのだ、ということかと、感じたことでした。
投稿: 菅笠 | 2022年2月21日 (月) 22時05分
私も同じ様なことを聞きました。
「どこの高原にも合うように作ってあるんだよ」
というようなことでした。
投稿: Hurry | 2022年2月23日 (水) 17時11分
なぜひとは高原に憧れるのでしょうね!四国の小さな村で育った私は小さい頃からずっと信州の高原に憧れていました。そして、上高地をはじめたくさんの信州の高原を訪れました。岡山県に住み、77才になった今も信州への思いはかわりません。
投稿: 神野弘 | 2022年4月19日 (火) 22時22分
やっと今年は県人会の故郷訪問ツアーが出来そうです。10月に上高地からロープウェイで西穂高に上り岐阜県側に下りる予定です。会長の案ですが、これでは故郷訪問ツアーにならないかと申されるので、いやいや飛騨は昔筑摩県の頃同じ県だったと言ったらまとまってしまいました。
投稿: 海道 | 2022年5月 1日 (日) 16時16分
声量自慢(ご当人が意識していたかどうかは知らず)らしく、この歌もまさしく朗々と歌い上げるにふさわしい曲。今夜も思い出にふけりながら自室で歌っておりましたら、ふとあることに気づきました。高原や山小屋が舞台の歌は概して失恋・死別などが主題の、いわゆるオセンチな曲が多い。それに比して海や海原を歌う曲は、明るく能天気な曲が多いということ。もちろん明るく太陽が降り注ぎ、遠く開けた海原は、希望と夢に溢れているから当たり前と言われればそのとおりですが。しかし、例の若大将がウクレレに乗せて「ボカアシアワセダナァ」とつぶやくのは、「もはや戦後ではなく」なっていたからでもありますねえ。
投稿: 半畳亭 | 2024年11月 9日 (土) 20時34分