能登半島
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作詞:阿久 悠、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり
1 夜明け間近か 北の海は波も荒く 2 ここにいると 旅の葉書もらった時 あなた あなたたずねて 行く旅は |
《蛇足》 石川さゆりは、昭和51年(1976)の『十九の純情』あたりから阿久悠+三木たかしの作品をよく歌うようになりました。
その絶頂が翌52年の元旦に発売された『津軽海峡・冬景色』で、このブームを活かそうと作られたのが、同年5月10日に発売されたこの『能登半島』です。
そのせいか、『津軽海峡・冬景色』より多少テンポは速いものの、曲調が似ています。
作戦が図に当たった感じで、この歌もオリコン10位に食い込むヒットとなりました。同年の日本テレビ音楽祭グランプリ受賞。
西田佐知子『香林坊ブルース』、北島三郎『加賀の女(ひと)』などとともに石川県の代表的なご当地ソングになっています。
(二木紘三)
コメント
名曲だと思っています。津軽海峡も良いですが、こちらの方が歌い易いと感じています。
投稿: 海道 | 2010年5月18日 (火) 13時35分
「ここにいると 旅の葉書もらった時・・・」のフレーズは実にいいですね。作詞者阿久悠さんは、誰をイメージし、能登のどこから旅のはがきを愛おしい人に送らせたか、今でも気になります。
投稿: 亜浪沙 | 2010年5月21日 (金) 17時35分
この歌詞を読んでいて、ふと気がついたのですが、この歌詞の中に、能登を詠み込んだものが何もないんですね。ですから最後の行の「能登半島」を消してしまうと、北日本のどこの海岸にも通用する歌になってしまうんです。ご当地ソングというと、必ず1か所や2か所に、その土地の名所や地名が詠み込まれているものですが、実に不思議です。
そこで、わたしなりに推理してみました。もちろん、確たる証拠は何もないのですから、真相をご存知の方は苦笑されるでしょうね。
石川さゆりが、阿久悠・三木たかしコンビで唄ったのは、『十九の純情』が最初でした。この歌は、彼女がアイドル歌手からの脱皮をはかった馴初めだと思うんです。阿久・三木ご両人も、しばらくは、この純情路線でいくつもりだった。ところが、『津軽海峡・冬景色』のご当地ソングが大ヒットしたので、あわてて純情路線として作っておいた歌詞に、ご当地ソングに欠かせない地名の「能登半島」だけを入れてレコーディングしたのではないか、と勘ぐってしまうんです。こんなコメントを書くと、泉下のお二人に叱られそうですね。
大学生活最後の夏休み(昭和34年)に、親友と金沢から能登半島をめぐる3泊4日の旅行をしました。金沢では学生寮で1泊して、蚊の大群の襲来に悩まされました。能登屈指の和倉温泉は貧乏学生には敷居が高く敬遠して、輪島に1泊。有名な朝市を見物し、平家の落人といわれる「時国家」を見て、宇出津経由で半島最先端の禄剛崎灯台に行きました。縹渺とした、日本海の水平線を見ていると、その先はシベリアかと、思わず旅のロマンを掻き立てられました。
特筆すべきは、途中蛸島付近の漁村に1泊したことです。その村の浜辺は、盛夏の午後の強烈な陽に揺らめく陽炎の中にあって、しかも見渡す限り白砂の海岸には、人っ子ひとり見えないのです。ちょうど「白昼夢」を見ているような感覚に陥りました。こういうときには、人間は「自然人」に還りたくなるのでしょう。誰も見ていないことを幸いに、わたしたちは「素っ裸」になって海に入りました。後にも先にも、「素っ裸」で泳いだのはこのときだけです。強烈な思い出として残る、この海岸は、今でも当時のままなのでしょうか。ぜひそうあってほしいという想いとともに、懐かしく思い出します。
投稿: ひろし | 2010年5月24日 (月) 15時37分
現役の頃何回か富山空港には行きましたが能登半島には行けませんでした。襟裳岬とは違って観るところが沢山ある所なんでしょうね。十九の女性の歌は沢山ありますが、何となく愁いがあり女性が一番輝く歳なんでしょうね。離れて暮らすウチの両孫娘も十九です。毎日オンライン授業で輝く場所がないらしいです。
投稿: 海道 | 2021年9月20日 (月) 13時33分