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2010年5月16日 (日)

能登半島

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:阿久 悠、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり

1 夜明け間近か 北の海は波も荒く
  心細い旅の女 泣かせるよう
  ほつれ髪を指に巻いて ためいきつき
  通り過ぎる景色ばかり 見つめていた
  十九なかばの恋知らず
  十九なかばで恋を知り
  あなた あなたたずねて 行く旅は
  夏から秋への 能登半島

2 ここにいると 旅の葉書もらった時
  胸の奥で何か急に はじけたよう
  一夜だけの旅の仕度 すぐにつくり
  熱い胸にとびこみたい 私だった
  十九なかばの恋知らず
  十九なかばで恋を知り
  すべて すべて投げ出し 駈けつける
  夏から秋への 能登半島

  あなた あなたたずねて 行く旅は
  夏から秋への 能登半島

《蛇足》 石川さゆりは、昭和51年(1976)の『十九の純情』あたりから阿久悠+三木たかしの作品をよく歌うようになりました。
 その絶頂が翌52年の元旦に発売された『津軽海峡・冬景色』で、このブームを活かそうと作られたのが、同年5月10日に発売されたこの『能登半島』です。
 そのせいか、『津軽海峡・冬景色』より多少テンポは速いものの、曲調が似ています。

 作戦が図に当たった感じで、この歌もオリコン10位に食い込むヒットとなりました。同年の日本テレビ音楽祭グランプリ受賞。

 西田佐知子『香林坊ブルース』、北島三郎『加賀の女(ひと)』などとともに石川県の代表的なご当地ソングになっています。

(二木紘三)

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コメント

名曲だと思っています。津軽海峡も良いですが、こちらの方が歌い易いと感じています。

投稿: 海道 | 2010年5月18日 (火) 13時35分

「ここにいると 旅の葉書もらった時・・・」のフレーズは実にいいですね。作詞者阿久悠さんは、誰をイメージし、能登のどこから旅のはがきを愛おしい人に送らせたか、今でも気になります。

投稿: 亜浪沙 | 2010年5月21日 (金) 17時35分

この歌詞を読んでいて、ふと気がついたのですが、この歌詞の中に、能登を詠み込んだものが何もないんですね。ですから最後の行の「能登半島」を消してしまうと、北日本のどこの海岸にも通用する歌になってしまうんです。ご当地ソングというと、必ず1か所や2か所に、その土地の名所や地名が詠み込まれているものですが、実に不思議です。
 そこで、わたしなりに推理してみました。もちろん、確たる証拠は何もないのですから、真相をご存知の方は苦笑されるでしょうね。
 石川さゆりが、阿久悠・三木たかしコンビで唄ったのは、『十九の純情』が最初でした。この歌は、彼女がアイドル歌手からの脱皮をはかった馴初めだと思うんです。阿久・三木ご両人も、しばらくは、この純情路線でいくつもりだった。ところが、『津軽海峡・冬景色』のご当地ソングが大ヒットしたので、あわてて純情路線として作っておいた歌詞に、ご当地ソングに欠かせない地名の「能登半島」だけを入れてレコーディングしたのではないか、と勘ぐってしまうんです。こんなコメントを書くと、泉下のお二人に叱られそうですね。
 
 大学生活最後の夏休み(昭和34年)に、親友と金沢から能登半島をめぐる3泊4日の旅行をしました。金沢では学生寮で1泊して、蚊の大群の襲来に悩まされました。能登屈指の和倉温泉は貧乏学生には敷居が高く敬遠して、輪島に1泊。有名な朝市を見物し、平家の落人といわれる「時国家」を見て、宇出津経由で半島最先端の禄剛崎灯台に行きました。縹渺とした、日本海の水平線を見ていると、その先はシベリアかと、思わず旅のロマンを掻き立てられました。
 特筆すべきは、途中蛸島付近の漁村に1泊したことです。その村の浜辺は、盛夏の午後の強烈な陽に揺らめく陽炎の中にあって、しかも見渡す限り白砂の海岸には、人っ子ひとり見えないのです。ちょうど「白昼夢」を見ているような感覚に陥りました。こういうときには、人間は「自然人」に還りたくなるのでしょう。誰も見ていないことを幸いに、わたしたちは「素っ裸」になって海に入りました。後にも先にも、「素っ裸」で泳いだのはこのときだけです。強烈な思い出として残る、この海岸は、今でも当時のままなのでしょうか。ぜひそうあってほしいという想いとともに、懐かしく思い出します。

投稿: ひろし | 2010年5月24日 (月) 15時37分

現役の頃何回か富山空港には行きましたが能登半島には行けませんでした。襟裳岬とは違って観るところが沢山ある所なんでしょうね。十九の女性の歌は沢山ありますが、何となく愁いがあり女性が一番輝く歳なんでしょうね。離れて暮らすウチの両孫娘も十九です。毎日オンライン授業で輝く場所がないらしいです。

投稿: 海道 | 2021年9月20日 (月) 13時33分

2010年5月のひろし様の「この歌詞の中に、能登を詠み込んだものが何もないんですね」「地名の「能登半島」だけを入れてレコーディングしたのではないか、と勘ぐってしまうんです」に全く同意します、ご明察です。私も「能登半島のどこの話なの?具体的に何があったの?」と思います。
この歌、曲はいいんですが歌詞は『津軽海峡・冬景色』を作った阿久悠の冴えが全然見られません。大ヒットしたその歌の後を追ってその4か月後に大急ぎで作ったのがこの『能登半島』という感じですね。いやレコード会社の上層部から無理やり作らされたという感じかな。

ところで『能登はいらんかいね』(作詞;岸元克己 作曲;猪俣公章 歌;坂本冬美)という歌があります。『能登半島』は完全に差をつけられちゃったと思います。歌詞を紹介します。1番と3番です。

『能登はいらんかいね』
1番 ♪ 欠けた徳利に
 鱈子(たらこ)のつまみ
 酒の注(つ)ぎ手は
 見染(みそ)めたあの娘(こ)
 能登はいらんかいねー
 ふるさと能登はョー
 寝酒三合に 口説(くど)きを混ぜて
 今夜は輪島の 夢をみる

3番 ♪ 冷やで五合 ぬくめて五合
 しめて一升 酒ありゃ楽し
 能登はいらんかいねー
 ふるさと能登はョー
 氷鳴らして 想いを馳(は)せりゃ
 御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)の
 音がする


ちょっとのん兵衛すぎるきらいはありますが、いやあ、なんともいい歌です。坂本冬美の歌いっぷりも すばらしい。

これなら能登半島のどこで、なにをしたか、が具体的にわかると思います。また『能登はいらんかいね』の題の意味を調べてみると「能登出身の私を妾にいらないか」という意味だと知り、うーん貧しい土地ならではの話なのだなあとまた別の感動がありました。


ひろし様はなかなか渋い所を友人と二人で旅行しましたね。しかし蛸島や輪島は今電車ではいけないです。2001年には能登電鉄の輪島線が廃止され、2005年には能登電鉄の能登線が廃止され、輪島、蛸島へは電車で行けません。能登電車は七尾―穴水間の運転だけです。

私も輪島へは親友のT君と27歳の時行きました。昭和51年ですから、大阪から金沢、羽咋、七尾、経由で北陸線。七尾線、能登鉄道とつないで輪島に行きました。松本清張の『ゼロの焦点』を読んでから、能登半島へはぜひ一度行ってみたいと思っていましたから。
あの小説の犯行現場になった能登半島の西岸にある能登金剛に行きたかったのですが、2泊しないとちょっと無理、それに車がないとダメだとわかり、あきらめて、輪島の朝市に行きました。この旅行のことはほとんど覚えていませんが、輪島の海岸に降りて友人と二人で撮った写真がずいぶん後から出てきました。能登金剛がダメならせめて能登の海だけでも味わいたいと思って撮ったのです。二人は高校2年の時の同級生同士で、当時は二人とも独身でした。この後それぞれ結婚しましたが、25年後二人とも妻を病気で失い、再婚するとは思いませんでした。
いくら時間をかけて写真の二人の顔を眺めてみても、二人の運命などは予知できないですね。彼は大阪の近鉄藤井寺駅のすぐ近くで整形外科のクリニックを今も続けています。来年帰国した時には、会いに行きたいです。

投稿: 越村 南 | 2023年10月 4日 (水) 15時47分

ひろしさん、越村さんの「あわてて作った・・」には同感です。アイドルとして雌伏していた実力派の彼女がシリーズ最終作の「津軽海峡冬景色」で満塁逆転ホームラン、見つけた路線を確立すべく急いだのでしょう。その後出産もありしばらく大ヒットがなくても、波止場しぐれ、天城越えまでを持ちこたえた戦略成功といったところでしょうか。ところで「津軽海峡・・」は曲先で三木さんの連続3連符に阿久さんが見事に詞を載せ上野から青森まで10秒掛らないと話題になりましたが、二木先生が「曲調が似ている」と書かれているようにこの「能登半島」も、よあけ、まじか、きたの、うみは、なみも、あらく、と楽譜を知らないので間違っているかもしれませんが3連符が続くように思います。この歌も曲先でしょうか。
能登半島は学生のころ一人旅で能登金剛、輪島、蛸島などを巡ったのを懐かしく思い出します。先日TVで上杉謙信が七尾城攻めに海路珠洲に渡った故事を見て「荒城の月」のイメージを生み出したであろう謙信の詩が思い出されました。

投稿: しょうちゃん | 2023年10月 8日 (日) 19時23分

 同好の方々のコメントを拝読いたしまして、能登は一度は行ってみたい所なんだと思いました。私も友達と連れ立って旅行に行くという体験で、初めは伊豆半島、その次は能登でした。昭和39年秋、能登という言葉に惹かれていきました。季節柄寂しい空気感があり、海岸沿いに走るバスから見た風景は歌詞の雰囲気で、当時はうら寂しい漁村での暮らしから逃げ出したい気持ちになるかもしれませんね。

 羽咋から能登金剛、ヤセの断崖から覗いた断崖絶壁はすごかったですね。その後、総持寺の宿坊の畳敷きのだだぴろい講堂の片隅に女性(女子かも)3人だけの宿泊でした。翌朝4時のお勤めに参加するのが決まりでした。輪島から帰途につきました。30数年後、車で能登一周をしました。記憶にあるバスで通った凸凹道ではなく舗装された綺麗な道路とうら寂しさが消えた能登に驚きました。

投稿: konoha | 2023年10月 9日 (月) 07時10分

松本清張の年譜を見ていると82歳の時、清張は1991年(平成3年)12月9日、10の両日に朝日新聞の社機に乗り「波の塔」の富士山麓青木ヶ原樹海、「ゼロの焦点」の能登金剛、「点と線」の福岡・香椎潟、つまり小説の舞台になった土地の上空を飛びました。清張は喜びと興奮で手にしたカメラのフイルムの空回りに気づかなかったそうです。この旅はこれらの土地を空からぜひ確認したいという本人の永年の夢がかなったものでした。
すごいなあ、清張は翌年8月、83歳でなくなっていますから、死ぬ直前まで好奇心は旺盛だったんだなと感心し、また能登金剛も自分の眼でしっかり確かめたかったんだなと思いました。
konoha様も能登金剛の断崖絶壁を堪能されたのですね。うらやましい。能登という言葉に惹かれていきましたと書かれてますが、その発想こそ本当の旅につながりそうな気がします。
山本素石という人が小学校5年生の頃、黒板横にかけられた日本地図から下北半島の付け根に野辺地という地名をみつけ、いかにも地の果て、寂しい街のように思いました。戦争が終わって軍隊から家に戻り、26歳の時、昭和20年の冬に復員軍人、食料買い出しのカツギ屋でごった返す汽車に乗って往復5日の旅に出ました。行ってみたら野辺地はほんとうに何もなく、駅から町へ吹雪の中を歩いただけで、何となく2泊して何もせず帰っただけだった。しかし15年来の夢の地へ昔の自分を拾いに戻ったような旅であったそうです(「つりかげ」PHP文庫より)
イメージができると旅もしやすいですね。歌も同じで聞いた人にはっきりとしたイメージができるかどうかですね、そんな気がします。

投稿: 越村 南 | 2023年10月16日 (月) 14時23分

 10/4の越村 南さまの『能登はいらんかいね』は昭和39年秋に行った時のバスの中から見た能登にぴったりでした。人肌恋しい秋の能登でした。

投稿: konoha | 2023年10月17日 (火) 09時06分

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