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2010年5月28日 (金)

わかれうた

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲・唄:中島みゆき

1 道に倒れて 誰かの名を
  呼び続けたことが ありますか
  人ごとに言うほど たそがれは
  やさしい人好しじゃ ありません
  別れの気分に 味をしめて
  あなたは私の戸を たたいた
  私は別れを 忘れたくて
  あなたの目を見ずに 戸を開けた
  別れはいつも ついて来る
  幸せの後ろを ついて来る
  それが私の くせなのか
  いつも目覚めれば 一人
  あなたは憂いを 身につけて
  浮かれ街あたりで 名を上げる
  眠れない私は つれづれに
  わかれうた今夜も 口ずさむ

2 誰が名付けたか 私には
  わかれうた唄いの 影がある
  好きでわかれ唄う はずもない
  ほかに知らないから 口ずさむ
  恋の終わりは いつもいつも
  立ち去るものだけが 美しい
  残されてとまどう ものたちは
  追いかけてこがれて 泣き狂う
  別れはいつも ついて来る
  幸せの後ろを ついて来る
  それが私の くせなのか
  いつも目覚めれば 一人
  あなたは憂いを 身につけて
  浮かれ街あたりで 名を上げる
  眠れない私は つれづれに
  わかれうた今夜も 口ずさむ

《蛇足》 昭和52年(1977)9月10日発売。中島みゆき5枚目のシングルで、ヒットチャートで初めて1位を獲得した作品。

 中島みゆきは「別れ歌の女王」と呼ばれ、失恋の歌、それも傑作が多いシンガー・ソングライターです。

 別れにも、いろいろな種類があります。相手から告げられる別れ、自分のほうから言い出す別れ、どっちも別れたくないのに別れざるを得ない別れ、死別のような不可避の別れなど。

 恋の場合は、どんな別れ方でも、上手に別れるのはむずかしいものです。へたをすると、泥沼化して満身創痍ということにもなりかねません。上手な別れ方がどういうものかはわかりませんが、どうしてもダメだとわかったら、自分で心に区切りをつけるしかないでしょう。

 区切りをつけたつもりでも、それまでの思いが深ければ深いほど、別れたあとの心の痛みは続きます。ときには10年も20年も。
 しかし、さらに時間が経つと、別れの痛みが消えて甘美な記憶だけが残る場合があります。そのとき初めて、その恋が自分にとっていい恋だったかどうかがわかるのです。
 そういうものではないでしょうか。

(二木紘三)

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コメント

先生の解説に同感です。どうして中島みゆきはこの様な
素晴らしい詞が書けるのでしょうか。凡人とは視点が
違うのですよね。

投稿: 海道 | 2010年5月29日 (土) 13時23分

中島みゆきの 曲は
 遍路 アザミ嬢のララバイ 吉野家
 キツネ狩り とか
とにかく 私は信者です。

投稿: 二宮 博 | 2010年6月 5日 (土) 03時02分

ワルシャワから.二箇月前娘十八歳がポーランド語訳でこの歌をうたい,喝采を浴びました.娘には特別に日本語を教えなかったのですが,良い翻訳となっております.中島さんとは同郷です.この時代の歌の群はNew Musicと呼ばれていましたね.でも実は郷愁に溢れた想い出の歌ですね.二木先生ありがとう.

投稿: Szymon Isakowski | 2010年6月 6日 (日) 07時53分

イサコフスキー様
お元気そうでないによりと存じます。このたびの貴コメントに「中島さんとは同郷」とありましたが、現在90歳になる私の母も北海道(旭川市)出身で、同郷です! 最近お嬢様がこの「わかれうた」を自訳のポーランド語で歌い喝采を浴びたとのお話、私もうれしく拝読しました。
 現在の日本を代表する女性シンガーを挙げるとすると、私の独断と偏見によれば、松任谷由美、五輪真弓、松田聖子、竹内まりや、そして中島みゆきということになるでしょうね。そのなかでも中島みゆきは、「女の情念をうたわせたら彼女の右に出るものはいない」といわれるように、他の歌手とは一味タイプ違うように思います。どちらかというと伝統的な日本女性の情念の歌い手とでもいいますか。
 お嬢様がどのようなポーランド語訳の詩にされたのか、日本語しか知らない私ですが、大いに興味があります。

投稿: くまさん | 2010年6月14日 (月) 22時59分

くまさん様 ご無沙汰いたしております.お変わりございませんか.娘の訳詩は直訳より意訳で、ポーランド語で歌いやすいようにしてあります。しかし歌詞の趣旨は伝わっていました。ただ彼女もお友達も、「わかれうた」の旋律の動きは、いわゆる演歌と同じものであると言っております.小生にはそのようには聞こえないのですが.「こぶし」がそう聞かせるのでしょう.母上は旭川のご出身とか,美しい、清冽な印象を与える北の街です.小生は乙忠部というオホーツクの漁村で生まれ育ちました.もっと寒いところです.家内はベラルス(白ロシア)系ポーランド人です.反共産革命側の白系ロシアとは違います.昔スラブ族の下位四群の住む地理的方角(東西南北)を、赤、黒、白、青(古代中国の方角色識別方法と同じ)で表現したことによるものです.スタルヒン投手は政治的には白系ロシア人で、方言的、民俗的には大ロシア人(今のロシア人.中世の黒ロシア人)となるでしょう.

投稿: イサコフスキ | 2010年6月23日 (水) 04時05分

イサコフスキ様。コメントありがとうございます。
 『わかれうた』は演歌なり、お嬢様はそう喝破されましたか。いやあ、私にはそこまで言い切る勇気はありませんでした(笑)。ところで以前「花かげ」のところでイスケレーチカという子守唄をおしえていただき、you tubeで何度も聴いていますが、これに日本の「江戸子守唄」ーねんねんころりよ おころりよ・・・というあれですーをダブらせると不思議によく共鳴するように思います。日本の方がずっとメランコリックではありますが。
 四方を海に囲まれ、単一言語、単一民族(?)の日本で生きる者にとって、多くの言語、民族、宗教が入り混じる東欧世界を想像するのは容易ではありません。しかしこれらの国々の民族音楽には、どこか日本の演歌を思わせるものが少なくないように思うのですがどうでしょうか。ちなみに明治の初めごろ日本人に大変好まれ盛んに演奏された「ドナウ川の漣」というワルツ、これはルーマニア人の作品ですよね。またあるときyou tubeで、ブルガリアのある楽団が梶芽衣子の「怨み節」を完璧な日本語で歌っているのを聴いて驚いた記憶があります。

 シモン様のご出身地である乙忠部(枝幸町)へは行ったことがありませんが、名寄市にいる私の従妹がここで獲れる毛ガニをよく送ってくれます。大変おいしいです。
 往時旭川近辺にも多くの白系ロシアの人々がいたという話は母からよく聞いており、旭川中学時代のスタルヒンのこともおぼろげに憶えているそうです。(母は彼よりより4歳年下です。)
 スタルヒンの40年という短い生涯を思うにつけ、彼の過酷な運命に胸が痛みます。なによりも彼に対する日本人の薄情さに胸が痛みます。あれほど旭川を愛し、あれほど「日本人」になりたいと訴えていた彼に、日本は余りにも冷たすぎました。今は娘のナターシャさんが元気に活躍ししておられることがせめてもの救いですが・・・。

投稿: くまさん | 2010年6月26日 (土) 10時48分

二木様
中島みゆきの大ファンというわけではありませんが、
彼女の不思議な雰囲気は魅力的です。
そしてこの唄は大好きです。演奏を何度も聞かせていただきました。
ところで、
2番の3行目
「好きでわかれうた唄うはずもない」

「好きでわかれ唄うはずもない」
が正しいようです。

投稿: papilio | 2010年7月 5日 (月) 00時02分

papilio 様
おっしゃるとおりでした。
さっそく修正しました。
ありがとうございました。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2010年7月 5日 (月) 18時15分

中島みゆき、1970年代からの際立った象徴のひとりですね。このところ深夜よく彼女のCDとLPをそれは古い古い三極管真空管アンプで聴きひたっています。 「世の中はいつも変わっていくから...変わらない夢を流れに求めて..」この、攘夷-産めよ増やせよの歴史的反動現象の結果プロセス的様相の真性不景気「世情」ですが、男と女-別れはいつも変わりません。楽しいにつけ、悲しいにつけ音楽のすばらしさも変わりません。彼女の歌、ニッポン女性から生命力がジーンと染込んで来る気がします。それにしてもすばらしいアレンジ/サウンド、二木さまいつも感謝しています。

投稿: ヴイダケア | 2010年9月22日 (水) 02時53分

私が大学の試験に落ちたとき私の家族はお通夜状態だったのかもしれません。私の気持ちを慮って皆口数も少なくなっていたかもと思います。

しかし私の心は晴れ晴れとして気分は天国でした。そもそも試験に落ちるだろうってことは自分では早くから分かっていたし、試験に落ちたことよりも、もう高校に通学しなくて良いということの喜びの方がはるかに大きかったのです。

そんな日祖母が私に外に出ろと促しました。畑に行こう、と言いました。

小学生のころ家の手伝いで畑への道は良く通いました。しかし中学校、高校になってとんと畑にはいっていません。畑に行くのは久しぶりです。野山の風の香り、土の匂いを嗅いで子供の頃を懐かしく思い出しました。

かって畑には銀の稲穂が波打ち、トウモロコシ、スイカ、なす、ゴボウ、うりなどが育てられ村民が行き交いにぎやかでした。私の弟は当時3歳で、藁で大根を一つ背中に括り付けられて家に運ぶお手伝いをしました。道行く人は皆弟を振り返り”可愛い”と叫びました。私も嬉しくて可愛い弟が誇りでした。

でも今畑はなんて寂しいんでしょう。人一人歩いていません。畑も多くが放置されています。風も冷たくて・・・。

道の奥深く、祖母は立ち止まり言いました。「本当はお前が大学に落ちのが嬉しい」そして泣き出しました。「お前がいなくなってもう一生の別れになるのかと思っていた、大学に落ちたので、まだ一緒にいられるから嬉しい」。と言って泣きました。

その夜、母がどこから情報を仕入れたのか、「〇〇君は東京の予備校へ行くそうだ、□□君も東京の予備校に行くそうだ、お前も予備校に行け」と言いました。

祖母は傍でしょんぼりとうつむいて聞いていました。

祖母は予備校の時京都に一度、大学に入学した時大阪に一度、私に会いに来ました。(サボテンの花 2015年12月 7日 (月) 23時46分でコメントしました。)

この私のコメントと中島みゆきさんとの歌はまったくイメージが合わないと思えるのですが、この私の祖母を17ー8の娘だと思ってみるとあら不思議ですね。少しは合ってしまうような気もするのですが・・・

投稿: yoko | 2018年11月30日 (金) 09時25分

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