海
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
文部省唱歌
1 松原遠く 消ゆるところ |
《蛇足》 大正2年(1913)、『尋常小学唱歌(五)』に発表。
『冬景色』が冬の叙景歌の傑作なのに対して、これは夏の叙景歌の傑作ですが、言葉がむずかしいこともあって、音楽の教科書には載らなくなりました。
言葉の説明を少ししておきましょう。
「島山」は、全体が山である島。「著(しる)き」は、はっきりしているという意味の形容詞の連体形。「漁火(いさりび)」は、夜、魚を集めるために漁船で焚くかがり火。「浦風」は、浜辺を吹く風で、浜風と同じ。「沙(いさご)」は砂のこと。
昔の子どもたちはこの曲を「松原父ちゃん……」という他愛もない替歌にして歌っていましたが、私は正確に覚えていません。そのうち、どなたかが投稿するでしょう。
(二木紘三)
コメント
海の無い県で生まれ育ったので、海と聞けば直ぐ反応
してしまいます。先生が「椰子の実」の解説の中で述べられている島崎藤村の気持ちが良く解ります。
投稿: 海道 | 2010年7月 5日 (月) 18時51分
早速ですが
♪ 松原父ちゃん 消ゆる母ちゃん
父ちゃんと母ちゃんと喧嘩して
父ちゃんの得意な空手チョップ
母ちゃんの得意なハンマー投げ
見よこのけんか 見よこのけんか
だったかと。1964年度東宝映画「ああ爆弾」
で、子役の少年ががなっていました。
60年代いっぱいくらい、小・中学生に
「歌いつがれて」いたはずで、ギャグ漫画
「おそ松くん」でも、「イヤミとチビ太とケンカして…」と、
「替え歌の替え歌」として登場していたのを
記憶しています。
まあ、パロディーというほどのこともない、
こういう他愛ないものも、まだ元歌が教材に使われ、
浸透していればこそでした。
投稿: 金兵衛 | 2010年7月 7日 (水) 16時43分
私は、海道さんとは逆に海辺で育ったのでこの歌を聴くといつも一つの海の風景が浮かびます。
夏休みの宿題の絵は、毎年々々二階の窓から見えるその構図でした。遠くに熊本の山並みがあり、その上に入道雲が盛り上がっていて、有明海には大牟田に行き来する石炭船や白帆の釣り船が浮かんでいました。
一番手前が海岸に並ぶ松林で、松林から我が家(借家)まで200mほどずっと田んぼでした。
現在では松林の代りにコンクリートの護岸、田んぼには家が立ち並んでいます。借家は建て替えられてどなたが住んでいるのかも分りません。
投稿: 周坊 | 2010年7月 7日 (水) 17時00分
私はこの歌の英語版を買いました。
テレビのCM(松本引っ越しセンターのコマーシャルソングとして、使われていました。
右の隅の方を見ると、歌:スザンヌハードと書いてありましたので、早速そのCDを買いました。
英語で聞くと、また、違った感動があります。
投稿: 殿川 | 2012年10月 9日 (火) 14時30分
海の日が7月20日であると、昔は知っていましたが、2003年のハッピーマンデー制度により第3月曜日になってから、まったくなじみがなくなってしまいました。
ゆえに大事な記念日を形骸化させるのには、第0曜日というふうにに変えたらいいと、策謀好きな政治家に進言したいくらいです。成人の日がその典型です。
日本には、海のある県、海のない県があります。
私は、兵庫県・神戸市の垂水の育ちで、明石海峡を見下ろす高台で大きくなりました。淡路島の向こうに夕陽が落ちるのを見つめた少年時代がありました。精神的影響といえば大げさですが、多少なりともそういうものは、あるだろうと思います。
逆に、海のない県、雪のある、白樺のある、穂高をはじめ山岳にめぐまれた長野県に、ある種の憧れをもっていました。ないものねだりという感覚ですね。
投稿: 越村 南 | 2015年7月12日 (日) 04時25分
連投で申し訳ありません。”海”と聞けばつい一言書きたくなってしまいます。
グーグルマップを検索すれば、日本海の波打ち際から100メートルの砂浜を挟んで私の生まれ育った実家があります。
目をつむれば波の音が聞こえ、「明日浜辺をさ迷えば~」と口ずさみます。
いまでこそ私の故郷のすべてをすばらしく懐かしく感じますが住んでいた当時はそうではありませんでした。
小さい頃、何度も津波に襲われる夢をみました。
一クラス50人近くもいた学校が嫌いで、小さな山の分校、24の瞳にあるような岬の分校、大石先生のような優しそうな美しい先生に憧れました。
一学級2~3人の小さな学校だと、嫌で嫌でたまらなかった体育の球技も徒競争も大運動会もないのに、と思いました。
”朧月夜”を習った時は、山に囲まれた菜の花畑の街に住みたいと思いました。
しかし、何といっても最大のあこがれは”東京”でした。
東京は、目からも耳からも手からも口からも入ってきました。
東京を旅してきた担任の先生から、東京タワーと羽田空港のカラー写真がプリントされている下敷きをお土産にもらいました。ラジオでは島倉千代子の「東京だよおっかさん」を聞きました。マッチ棒とセメダインで東京タワーを工作しました。学生時代には大阪から東京に出て、建設工事現場のアルバイトをしました。
神奈川の会社に勤めているときは、土日新宿に出て、喫茶店に入りびたり、「思い出横丁」で食事しました。挙句の果ては都内に古い四畳半のアパートを借り、二時間かけて神奈川の会社に通勤しました。
気がついてみると、今、もう17年、都心のマンションに住んでいます。
最近ナポレオンヒル博士の言葉を見てはっとしました。
「思考は現実化する」
気がつかぬうちに思いが現実になっていたんですね。
”松原とうちゃん・・・”は面白いですね。私も何度か口ずさんだと思います。正規の文部省唱歌の歌詞が子供たちにはつまらなく人気が無かったのもわかるようなきがします。しかし私の父と母は喧嘩して別れて暮らしていました。それを思うとなんとなく替え歌の品のなさを感じ、歌えなくなりました。
投稿: yoko | 2015年7月13日 (月) 11時45分
>挙句の果ては都内に古い四畳半のアパートを借り、・・
あちこちに駄文を書き散らかさせていただきました。
この四畳半のアパートについては、”神田川”に書きました。
投稿: yoko | 2015年7月13日 (月) 16時25分
幼少の頃、初夏の浜辺で遊ぶのが好きでした。
小さな切り通しの坂を駆け下りると、青い海と白い砂浜が目に飛び込んできました。 キラキラと輝く石英を多く含んだ砂浜は、太陽の熱を含んで、小さな足の裏はすぐに熱くなり、渚に着くと水の冷たさに安堵するのです。
そんな故郷の思い出の海辺も遊泳禁止になり、テトラポットがあちこち鎮座して、散歩する人達だけの淋しい場所に・・。
でも視野を大きくとると「白砂青松」はしっかり残っています。
ふるさとの 雄松が枝に 吹く風は
遠き昔の 潮の香ぞする
青い海、見たいなぁ…………
投稿: かせい | 2016年6月 4日 (土) 01時23分
かせい様に同感です。子供の頃、夏の砂浜は足の裏が焼けつくように熱かったですね。飛び跳ねて一目散に波打ち際まで駆け抜け足を海水に浸しました。大人になってこの時の熱さを今一度確かめようと砂浜で裸足になってみたのですが、ちっとも熱くないんですね。普通に暖かいだけでした。なぜかものたりなさを感じました。
昔、海岸に打ち上げられていたのは、漂白された木の枝や、捨てられた漁具、海藻類など(時折、猫の死骸も・・・)でしたが、徐々にプラスチック製の生活用品やガラス瓶が増え白浜も汚くなりました。その多くが中国や韓国からの漂着物のようでした。最近はどうなのでしょうか。
1980年代になると島根の海岸部では松くい虫が猛威をふるい、美しかった海岸の松も集団で枯死しました。山陰線の車窓から見えた美しい海岸も見るも無残な姿になりました。私の故郷も例外ではありませんでした。
写真で見る限り最近では緑も回復してきているようです。白砂、青松の海岸が戻ってきて欲しいです。
この夏、山陰を旅してみたいなぁ、と思ってはいるのですが・・・
投稿: yoko | 2016年6月 5日 (日) 12時30分
酷暑の中清涼剤になれば良いのですが、若い頃みた潮騒と言う映画を夏になると思い出します。(吉永小百合:光る海、山口百恵:少年の海)その中で一糸まとわぬカットがありました。昔に戻れぬものでしょうか。
投稿: 海道 | 2018年8月 3日 (金) 13時18分
普通文部省唱歌は作詞者がはっきりしないようですが、この歌の作詞者が判明したのは、著作権をはっきりさせたものとして、当局(文部省)が送った書類を親類の方が持っておられたものがその根拠になったと聞きました。当県の海沿いに歌碑があります。
毎年小学校ごとのコンクールが行われているようです。「われは海の子コンクール」というような名称だった思います。歌詞は難しいですが、いい歌なのです。
投稿: 今でも青春 | 2018年8月 3日 (金) 18時10分
今でも青春 様
どうやら『海』と『われは海の子』をとりちがえてらっしゃるようですね。
鹿児島出身者の作詞であると判明したのは、『われは海の子』のほうです。
『われは海の子』のページの、二木先生の《蛇足》を今一度お読みになって、インプットし直して下さいね。
12号台風の影響はいかがでしたか? 長いこと南九州付近に停滞してましたので、心配しておりましたが……。北の方から台風が襲来しようとは、ゆめゆめ思いませんものね。
海岸ぺりの松原の松は、概ね『クロマツ(雄松とも)』です。
昔、故郷の海浜近くの松原のなかに、療養所がひっそり静かに建っていました。松葉を通って吹き抜ける、汐の香りを含んだ風は、結核の療養に頑張る人達には心地よいものだったに違いありません。
今では、白砂も埋め立てられ、松原も建物に浸食されて、風景が随分変わってしまったようです。日本の原風景が、歌の中にだけ生き続けるなんて、とても淋しい事です。開発もよくよく考えてやっていかないと……。
投稿: かせい | 2018年8月 5日 (日) 15時13分
かせい様
ご指摘ありがとうございます。
もう一度見直してみました。確かに勘違いしていました。
投稿: 今でも青春 | 2018年8月 5日 (日) 16時38分
今まで歌の意味をきちんと知ろうと思わないまま何となく歌っていました。
今日この場所に来て、意味を知りこの歌の良さを知った次第です。
こののどかな日本の風景を現代の子供たちに伝えていきたいと改めて思いました。
そして一度壊してしまった風景を戻すのは難しいことも伝えていかなくてはならないと改めて思いました。
投稿: 童謡唱歌が好き | 2019年7月26日 (金) 11時22分
童謡唱歌が好きな方様
懐かしい歌ですね。漁村の情景が目に浮かびます。風景が目に浮かんでくる歌が今は皆無というほどありません。日本語の言葉を丁寧に使い、歌を聴いているだけで自分がその漁村にいるように感覚が伝わってきます。こうした歌が今は皆無になってしまいました。昔は風景の中に自分が佇んでいるような思いを抱かせる歌が沢山ありましたね。子供の想像力が培われたと思います。日本から詩人が消えたと私は思っています。文部省にも言葉を大切にする人が居なくなったのでしょう。がなる歌,ひなる歌ばかりで日本の歌が貧しくなってしまいました。残念ですね。
投稿: ハコベの花 | 2019年7月26日 (金) 15時44分
童謡唱歌が好き さま
ハコベの花 さま
こんばんは
お二人の 投稿
読ませていただきました
日本の風景 歌などの 日本の心ののこるもの
荒らされ 荒んでいくこと
耐えられないですね
和歌の浦 などの 風光明媚の地がのこされるよう
車いすの状態で 頑張られていた
万葉集の権威 犬養 孝 先生のことを
思い出しました
有り難うございました
投稿: 能勢の赤ひげ | 2019年7月26日 (金) 20時07分
ほんとにいい歌ですね。 小学校唱歌でもおそらく名曲ナンバーワンというところでしょうか。 なんとなく日本の自然の、素朴な美しさが心の中に迫ってくるような。
今から十数年前のことだったか、それからの終の棲み処を求めて、友人から借りた車で日本の中をさまよっていた。 まだCDの持ち合わせがなく、運転中はもっぱらNHKを聴いていた。 ある日熊本の益城の辺りを走っていた時に、放送の中、男女アナウンサーの掛け合いに引き付けられた。 お二人ともまさに会話のプロ、巧いんですねえ、その言葉の掛け合いが。 感心してしまってしばし車を止めて聴き惚れてしまった。
その時の話題が日本の唱歌だった。 そしてこの「海」が出てきた。 (どうもこの歌が中心に、とプログラムされていたような感じ) 二人でこの歌の良さ、美しさを語っていた。 このとき初めて知ったが、この曲の作詞者、作曲者がはっきりしないのだそうですね。 それならこの歌を文部省はどうやって見つけてきたのだろう、今はそれもわからないらしい。 暫くして、女性アナウンサーが男性の方に、この美しい歌詞、朗読してみたらと言う。 男性アナウンサー、少しためらって、うん、やってみようかと。
すごいんですねえ、その朗読の巧みさ。 この美しい歌詞の情が生き生きと心に迫ってきた。
以前、ある小説家の言葉に、声に出して綺麗に朗読出来る文章が名文なのだというのを思い出していた。 和歌などもそうですね、その昔の人たちも、和歌を声を出して詠っていたのですね。 日本語は本当に美しい。 (若い頃もっと日本語を勉強しとくんだったなあ)
また車を走らせながら、はてそれではこの美しい歌詞が表す海岸はどこなのだろうと思いはじめた。 松原が続くところ。 私は佐賀県唐津の虹の松原を思っていた。 あの海岸はこの歌の歌詞にぴったりだし、それに今どき白砂青松の地が残るのは虹の松原しかないもの。
ほんとにいい歌曲ですね。
投稿: 田主丸 | 2024年9月 1日 (日) 14時44分
田主丸様のご文章の中に、「この曲の作詞者、作曲者がはっきりしないのだそうですね。それならこの歌を文部省はどうやって見つけてきたのだろう」とありますが、文部省唱歌はどれも、文部省に頼まれた方々が個人名は出さずに、文部省唱歌として作ったものだと聞いています。近年になって個人の業績を顕彰しようということで、作者を特定することが行われましたが、この歌のようにわからないままの歌もいくつかあるようです。児童の情操のために心血を注いだ方々に感謝したいと思います。
投稿: kazu | 2024年9月 1日 (日) 17時37分