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2010年10月 4日 (月)

青春日記

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

1 初恋の
  涙にしぼむ 花びらを
  水に流して 泣きくらす
  哀れ十九の 春の夢

2 今日もまた
  瞳に燃ゆる 夕映えに
  思い乱れて 紫の
  ペンのインクも にじみがち

3 泣き濡れて
  送る手紙の 恥ずかしさ
  待てば淋しや しみじみと
  街の舗道の 雨の音

4 明日(あした)から
  二度と泣くまい 恋すまい
  いくら泣いても 笑(わろ)うても
  胸の傷手(いたで)は 治りゃせぬ

《蛇足》 佐藤惣之助、古賀政男、藤山一郎というゴールデンコンビによって、昭和12年(1937)3月に発表されました。恋に悩む若者の感傷を歌って、多くの人の共感を得ました。

 タイトルに日記のつく歌としては、ほかに松平晃・伏見信子の『初恋日記』、島倉千代子の『からたち日記』『思い出日記』、初代コロムビア・ローズの『哀愁日記』、フォー・セインツの『小さな日記』などがあります。
 また、高峰三枝子の『懐かしのブルース』やペギー葉山の『学生時代」にも、日記という言葉が出てきます。

 ところで、人はどんなときに日記を書くのでしょうか。
 フランス近代文学の研究者のベアトリス・ディディエは、その著『日記論』のなかで、獄中など自由を束縛されているとき、旅に出たとき、心身の危機にあるとき、そのほか特殊な体験をしているとき、恋愛・革命・戦争など自分や社会に大きな変化が起きているとき──を挙げています。
 要するに、非日常的な状況にあるとき、あるいは非日常的な体験をしているとき、人は日記を書くというのです。

 ただ、これは西欧の、しかも文学という視点から見た場合の指摘であり、日記一般には当てはまらないでしょう。
 少なくとも我が国では、日常生活のなかで書かれた日記がいくつもありますし、現に書いている人も大勢います。私の祖父も母も、日常のありふれた出来事を淡々と書いた日記を遺しました。

 ベアトリス・ディディエの言葉のなかに心惹かれる一節がありました。「人間の歴史のなかで日記の時代があったとすれば、 個人の一生においても日記表現に向いた時期がある」と述べ、その例として「青春の危機の数年間」を挙げているのです。
 青春の危機とは恋愛や生き方等についての懊悩・煩悶でしょう。原口統三『二十歳のエチュード』は、日記形式ではありませんが、断片を書き連ねたという点で日記に近く、その典型的な例といってよいと思います。

 懊悩・煩悶というほど深刻なものではありませんでしたが、
青春時代、私も人並みに悩んだ時期がありました。しかし、日記を書こうとは全然思いませんでした。もし書いていれば、もう少し奥行きのある人間になっていたでしょう。

(二木紘三)

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コメント

曲もこれぞ青春と聞こえますが、この時代の詞は綺麗ですね。

投稿: 海道 | 2010年10月 5日 (火) 17時37分

日記には誰かに読まれるように書いたものと、自分だけにしまっておきたいものがあります。作家の日記は殆ど読まれることを想定して書かれていますね。私は青春時代、日記は書きませんでしたが、殆ど友人や彼に手紙を書いていました。やっぱり誰かに心情を分かってもらいたいという気持ちが強かったのだと思います。
その当時原口統三に心酔しておりましたから、あちこちの手紙に統三の言葉を書き散らしていたと思います。青春日記は知らない歌でしたが、半年前に偶然にyou tobeで映画のさわりのところを見て私の青春時代に憧れたマント姿の青年にすっかり心を奪われてしまいました。18歳の青年の研ぎ澄まされた感性、私は統三のような感性を持つ青年に出合いたかったのです。一生懸命探していたのだと思います。残念ながら見つける事は出来ませんでした。今でも探しています。永遠の課題です。

投稿: ハコベの花 | 2010年10月 5日 (火) 20時22分

母が生前よく口ずさんでいた、懐かしい歌です。母は18歳で養女となり、同時に結婚しました。養子の父とは従兄妹同士です。女学校を卒業するか、しないうちに、祖父母(わたしからは曾祖父母)が勝手に決めた縁組でした。明治・大正期には、このように家父長が勝手に決める婚姻が多かったのです。母には、その頃東京に遊学中の、こころを寄せていた別の従兄がいたのですが、肺結核を得て20代半ばで亡くなりました。夭折した従兄が母をどう思っていたかは、分かりません。母の片思いだったのかも知れません。
 生前母は、その従兄の死について多くは語りませんでしたが、志半ばで逝った彼に愛惜の涙を流したであろうことは確かでしょう。その涙も乾かないうちの、否も応もない結婚でした。今にして思えば、母はこの歌に若かりし頃の自分の姿を重ね合わせて、亡き従兄を偲んでいたように思います。二木様アップしていただきありがとうございました。
 

投稿: ひろし | 2010年10月 8日 (金) 15時41分

ひろし様 良いお話有難うございます。
人は愛してくれた人よりも、愛した人のほうに心が残ります。夭折された人なら尚のこと、いっそう美しく心に残っておられることでしょう。お母様も悲しいことに出会うたびに、その方を思いだしては生きる力を頂いていたのではないでしょうか。他の歌のところで「女は失恋すると、すぐ相手を忘れる」という意見がありましたが、そんな事は絶対にありません。永遠に美しい人として心に残っています。「ととせへぬ おなじ心に 君泣くや 母となりても」です。男性の皆様、どこかの女性の心に必ず貴方が棲んでいますよ。

投稿: ハコベ | 2010年10月 9日 (土) 15時21分

ハコベ 様 
 拙文にこころ優しいコメントをいただきありがとうございます。しばらくPCを開かなかったので、御礼を申し上げる機会が遅れましたことをお許しください。
 母は明治生まれ、大正育ちの典型的な自己主張をしない(できない)女性でしたから、過分なおことばをいただき、きっと草葉の陰で恥じ入っていることと思います。

 ハコベ様(〈ハコベの花〉様と同じ方とお見受けしますが)は、愛しい人を思う心に男女差はない、だから男性諸氏の言う「失恋した女性は、相手をすぐ忘れる」ということはありえないと、自らの体験を踏まえて反論されていますね。わたしは男ですから、失恋した女性の相手に対する思いがどの程度であるかはわかりませんが、少なくとも、わたしの母が亡き従兄について綿々と語ってくれた中身を思い出す度に、あなた様のご意見に理があると思います。

投稿: ひろし | 2010年10月22日 (金) 22時58分

イブの午後、雪が舞い始めました。この雪は鉛色の雲間からゆっくりと純白な姿となって母なる大地に降り立ち、いずれまた姿を替えて天空に昇っていく・・・のかぁ。そんな思いにひたりながら「初恋」を久しぶりに何度となく聞いています。管理人さんのコメントでこの歌は「佐藤惣之助、古賀政男、藤山一郎というゴールデンコンビで昭和12年(1937)3月に発表」と知りました。小生の生命が芽生え始めたころ歌ですね。いまも心地よく懐かしく聞くことのできるこの歌は、亡き母が心の中で口ずさんでいたのを羊水を介して耳にしていたのかもしれません。母は嫁入り前に急逝した実姉の替わりに父に嫁がされたと聞いております。

投稿: 亜浪沙 | 2010年12月24日 (金) 17時05分

ハコベさんの
「人は愛してくれた人よりも、愛した人のほうに心が残ります」
これはいただきます。

投稿: みやもと | 2010年12月24日 (金) 19時32分

ハコべさん
良い事を仰いますね。同感です。いつも感心しながら読ませて頂いています。

投稿: 海道 | 2010年12月25日 (土) 17時30分

>・・・今でも探しています。永遠の課題です。

>・・・その涙も乾かないうちの、否も応もない結婚でした

>・・・人は愛してくれた人よりも、愛した人のほうに心が残ります。

>・・・女は失恋すると、すぐ相手を忘れる

>・・・ととせへぬ おなじ心に 君泣くや 母となりても


>・・・母は嫁入り前に急逝した実姉の替わりに父に嫁がされたと聞いております。

わが身にとって、どれも、これも、ありがた過ぎるほどのお言葉!!!。
なれど、我がこころに納得性は、みじんもない!。
破れた初恋にはリカバリーはない。


>・・・男性の皆様、どこかの女性の心に必ず貴方が棲んでいますよ

ありがとうございます!。そう信じたい!。信じてみたい!!!。
あまえてみたい?。
我がこころの押し入れに深く納めさせていただきます。

投稿: 寂しい寂しい心 | 2010年12月26日 (日) 06時11分

>【他の歌のところで「女は失恋すると、すぐ相手を忘れる」という意見がありましたが、そんな事は絶対にありません。永遠に美しい人として心に残っています。】
ハコベさんと同じように私も思います。忘れるわけがありません。ただ、忘れるように見えるとしたら、それはその女性の「思いやり」だと私は思います。
妻の心の奥底に、プラトニックな想いを寄せた相手がいつまでも……、それを許容できる男性は少ないのではないでしょうか。

投稿: 眠り草 | 2010年12月26日 (日) 10時05分

恋って良いものですねぇ。哀しいほどの切なさを味わう事ができますもの。こんな心地良い感情は恋以外にはありません。
寂しい心さん、私は最近探していた青年に近い人に会える事が出来ました。恋心とは少し違う感情ですが、心に灯りが点ったような気がします。
眠り草さん、男性にも心の奥に秘めている女性がいるのではないでしょうか。水商売の女性の甘言に夢中になって通い詰めた男性諸氏、奥様に心の痛みを感じることはありませんか。恋心も様々です。自分が一番清らかな心に戻れる恋が本物の恋だと私は思っています。

投稿: ハコベの花 | 2010年12月26日 (日) 16時44分

>恋って良いものですねぇ。

確かに!。但し、少し、我儘な点が無きにしもあらずかな?。
私も、最近、探していた女性に近い人に会えました。
(私より、18歳も若く、未亡人です)
携帯のアドレスを教えてくれて、はっとしました。
メールのテスト送受信は済んだんですが、
昨日、来たメールでは、
○○さん(私のことです)と話をしてると楽しくて、
時間が経つのを忘れてしまいます。
とのこと。
言われてみて、私も、同じであることに気付いたのです。
恋心とは少し違う感情ですが、心に灯りが点ったような気がします。

>・・・男性にも心の奥に秘めている女性・・・

これを言われるとつらい!。
まともに顔が見れません。
仕方ない、口には出さず、
心で叫ぶ日々→我が愛妻は、これ一人!。お世話になってます!。

投稿: 寂しい寂しい心 | 2010年12月26日 (日) 18時51分

寂しい心様
誤解のないように説明させていただきます。私がその青年に心がひかれたのは言葉使いの美しさと品の良さ、頭の良さです。私が教えられる立場です。勿論、夫も知っている青年です。彼から学ぶ事が多いからです。戯れな気持ちなど全くありません。戯れの恋は恋ではないと思っています。

投稿: ハコベの花 | 2010年12月26日 (日) 22時58分

味のあるコメントが続く中に味気の無いコメントですがこの歌を藤山一郎はこのページの詞通りに歌っていますが、1番の「初恋の涙にしぼむ」を「涙ににじむ」4番の「明日(あした)から」を「明日(あす)からは」としている歌詞もありますね。

投稿: 海道 | 2012年2月 4日 (土) 16時46分

何故か、この歌を無性に聴きたくなることがあります。私の人生の中で一番幸せだった時代、わずか数年の青春時代、その時は幸せと思うことはなかったのに年月を経て振り返れば、肌は白く、頬は紅く、心は夢に満ちていて、毎日が楽しかった。憧れの君は遠くにいて、いつかまた会える。今思えば夢の様な日々でした。来年は後期高齢者、私が涙ぐむ時は悲しい時ではなく、幸せな日々を振り返る時です。青春を歌った歌を作ってくれた先人に感謝です。まだこの先に美しい青春が待っているようなそんな気分になってきます。心は自由です。時々、青春に戻ってみましょう。

投稿: ハコベの花 | 2014年12月15日 (月) 22時18分

ハコベの花様

最近のコメントで、 貴女の名前見付け 読ませて頂きました。
良い青春時代を 送られましたね、私より年下のは分かっていましたが
来年後期高齢者 になられるのでしたら私と五つ違いです。私は
来年は傘寿になります、青春日記 この歌が大好きな昭和一桁生まれの
Nさんいつも リクエストして来ます。(リハビリテーションで琴で伴奏をしています) この歌を 大正琴で習ったのはもう 20年以上経ちます。教えてくれたのは、ギターの先生でフランスに5年も留学したK先生です。いつも
自分は、日本で五本の指に入る、ギタリストだと言っていました。ギター
も大正琴もうまいです。先生のお父様がなくなられた時 喪中ハガキがきて
それっきりになりました。青春日記 今でも暗譜で弾けます。いい歌ですね。

投稿: 君恋し | 2014年12月16日 (火) 01時45分

昨年都内で高校の同窓会がありました。
顔のわからない方も何人かいらっしゃったなか、一人の女性と目が合いました。向こうも私に何か気が付かれたようでした。「もしかしてあなたとは一年一組の○○先生のクラスでご一緒だったでしょうか?」と尋ねましたら、にっこりとほほ笑んでうなずかれ近寄ってこられました。

彼女だったんだ、懐かしいなぁ、と思いました。彼女については唯一つ思い出があります。彼女は私の席の近くにいらして、席に座るとき、いつも両手を腰の後ろに回して手を下に滑らして、スカートの裾を整えて座られました。私は彼女のその女性らしい仕草をいつもじっと見つめていたのです。「いいなぁ」と思っていました。思い出といってもたったのそれだけです。彼女と言葉など交わしたことなどありませんでした。

後で彼女と中学の時も一緒だったというT君に、「彼女、綺麗だったよね」と話しかけたら、「ダントツだったよ」と答えました。高校一年生の私は、ひ弱で小さな劣等生で、教室の隅に隠れて息をしているような存在でした。女性に声をかけられるような青春ではありませんでした。当然ながら、彼女に声などかけようもありません。今、彼女の方からほほ笑んで近寄ってくださったことに感激しました。しかし、どんな言葉を交わしたのか思い出せません。

今年は同窓会の招集はありませんでした。来年あるだろうか、彼女も出席されるだろうか、などと思いをめぐらせています。面影の青春が待っているようです。

投稿: yoko | 2014年12月16日 (火) 09時28分

毎月積み立ての集金に我が家に来てくれる青年と話をするのが楽しみなのですが、今は手紙を書く習慣が全くないことがわかりました。女性に「君のほほえみが忘れられないと書いてあった」というと「わあ、いいですねぇ。素敵!」と言われます。男性に言うと「キザですねぇ」と言います。メールの文字ではキザに見えるかも知れませんが美しい文字で書かれてあると嬉しく感じます。手紙はメールより長い文字が書けます。品性とか知性もわかります。素敵な文章のペンのインクの香りがする手紙を読んでみたいですね。ラブレターは少しキザのほうが嬉しいものです。もう一度青春がきたら素敵な手紙を書いてみたいと思います。

投稿: ハコベの花 | 2015年7月 4日 (土) 23時59分

統三の母君原口福子氏は、昭和三一年五月ようやく逗子を訪ね、息子が入っていった海をじっと見つめて佇み、やがて、浜辺の石を二、三個拾い上げてハンカチに包み、歌を詠まれたそうです。
 二十歳のエチュードのこし去り逝きし吾子の納めをしのぶ逗子浜
 (中村稔 私の昭和史・戦後編 第六章から)

母親を残して自死するなんて、不孝ものの骨頂だと思います。

投稿: 樹美 | 2015年7月 6日 (月) 18時13分

「青春日記」を聴きながら『二十歳のエチュードⅢ』を読み直しました。最初に読んでから60年近くになります。高校1年生でした。統三が守ろうとした魂の純潔とは何であったろうと考えています。その年、私は恋をしました。しかし、彼が防大生になったのを知った時のショックは今でも続いています。寒い暮れの夕方、帰省した彼を非難した自分を思い出します。私のささやかな魂の純潔を守りたかったのかも知れません。統三の純潔とは違いますが、高校生の私の大きな勇気でした。しかし心の中に彼は青い炎となって今でも燃え続けています。死ぬ前に思い切り強く彼に抱きしめられたいと言うと、事情を知っている友人たちはいつまでも子供だと私を笑います。純潔とはなんでしょうか。高齢者になっても失う事のない青い透明な光の塊のように思えるのですが・・・統三にとっては道ちゃんだったのでしょうか。

投稿: ハコベの花 | 2015年7月 6日 (月) 21時40分

この歌は全く知らないが胸に沁みる歌詞ですね。
ハコベの花様のコメントを辿って、さながらハコベの花様の青春日記を垣間見る思いが致しました。切ない恋愛小説を読んだような思いになれました。因みに最後に読んで心に残っている恋愛小説は水村美苗さんの「本格小説」です。実らなかった恋の相手こそが永遠の恋人として胸に宿るのですね。死ぬ前に一度強く抱きしめられたいお心忖度できます。その思いこそがハコベの花様の現在の宝とも思われます

投稿: りんご | 2015年7月 6日 (月) 22時12分

「青春日記」から管理人さんとハコベの花さんが意外にも『二十歳のエチュード』を連想していらっしゃるのを知り、たまたま編訳全一冊版の『失われた時を求めて』を読み始めたところでもあったからか、大昔の青春の耐えがたくもなつかしい日々が蘇って来ました。一生の道筋を決める読書があると言えるならば、私には『二十歳のエチュード』との出会いがそれでした。原口統三は、満年齢でまだ十九歳とは思えぬような教養の深さで、ランボオやヴァレリイ、ニーチェと、まばゆいばかりの未知の精神世界に私の目を開かせてくれました。しかしそれよりも、鋭い感受性と自分へ妥協を許さない厳しい思考に戦慄して、私の青春前期の幼稚な精神はカオスへと揺さぶられ、ずっと迷宮をさまようことになったのでした。「表現は所詮自己を許容する量の多少のあらはれに過ぎぬ」と言われて、少年はものが書けなくなりました。ただし、今思い返すと『エチュード III』に流れる詩情は「青春日記」にも通じるところがあり、ショパンになった夢の章を朗唱しては、級友に感傷を笑われもしました。橋本一明がそこに橋本の妹への思慕を読み取っていましたが、すべての暖かいものを拒絶する「精神の極北」を目指した統三には、その思慕すら逗子の海へ歩み入る引き金の一つだったのでしょうね。ああ青春。

投稿: dorule | 2015年7月 6日 (月) 23時48分

18歳の時、私は「君の微笑みが・・・」の青年から手紙を貰いました。友人の下宿先で知り合った同じ大学を受験した人でした。まあ、勉強しなかった私の夢は砕けたわけですが、彼と出会ったのは人生にとって大きな収穫だったと思います。4年間私たちは随分勉強をしたと思います。60年安保に世の中が騒然となった時でした。ダンボール箱2杯の手紙が溜まりました。洗礼を受けたいという彼にニーチェの言葉を持ち出し反対しました。本当はニーチェなど私にはわかっていなかったのですが、統三の言葉を引用して猛反対をしました。彼は大学を卒業して大手の商社に就職し、アメリカに行く夢を語ってくれました。まだアメリカは遠い国でした。彼が一人前の商社マンになるのを待つことは私の家庭の事情で出来ませんでした。彼が休日を利用して私の家を訪ねてきました。二人で浜名湖巡りをしてボートに乗った時私は結婚することを告げました。「私をさらえるか」と問いました。就職したばかりの彼には無理な事です。そのころベストセラーになった小田実の「何でもみてやろう」を彼が、私は福永武彦の「草の花」を彼に渡して浜松駅のホームで見つめ合っただけで別れました。「今ひとたびの」と手紙をかきました。それが私の青春の終わりでした。16歳から22歳までが私には夢だったように思われます。かけがえのない青春でした。ここで皆様の青春に出会えるのも夢のようです。りんご様いつも応援有難うございます。感謝しています。

投稿: ハコベの花 | 2015年7月 9日 (木) 00時15分

「青春の危機」とは、「懊悩・煩悶」と同義語だと思いますが、それが時として「自死」につながる結果を招きます。「二十歳のエチュード」を遺して、文学界や若者に大きな影響をあたえた原口統三は、書いた直後に入水自殺をしています(1946年)。享年19歳9か月でした。かれと同じように若者にショックをあたえた、もう一人の「煩悶青年」がいます。原口統三の死より40年あまり前(1903年)に、華厳の滝に身を投じた藤村操です。かれは直前に「厳頭之感」という遺書を木を削って書いていました。享年16歳10か月でした。「二十歳のエチュード」といい、「厳頭之感」といい、この十代の若者の知性と教養と洗練された表現力は並外れていますね。徹底的に自己を見つめ、人生や生き方などに純粋・苛烈な思索を展開したかれらの特権が「青春」なのですね。自己を追い詰め、遂には自己を否定してしまうような生き方を今の若者はどう思うでしょうか。「時代が違う」とか、「秀才に陥る病弊」だとか、いろいろ非難の多いことも承知はしていますが、
 本題から離れたコメントになってしまいました。申し訳ありません。

投稿: ひろし | 2015年7月 9日 (木) 17時12分

少年老い易く学成り難し、と言いますが、私の場合、少年老い易く学踏み込めもせず、でした。

青春は父の存在との葛藤でもありました。

父は軍隊では隊長を勤め、戦後は少年野球チームの監督であり、スポーツ好きの田舎の名士でした。写真が好きでたくさんの集合写真を持っていました。

片や私は、スポーツはからきしだめで、ひきこもりで、集合写真の私の姿をみじめに悲しく感じ、破り捨てていました。幼少時は大好きであった父をいつしかうっとうしく感じ、避けるようになりました。

高校三年のある夜、ふと眼を覚ますと父と母が会話していました。父は、「あいつはとても社会には出れないだろう、社会では通用しないだろう」と話していました。

私は悔しくて布団の中で泣きました。「解ったよ、俺は一人で生きて行く、お前らの世話にはならないよ。お前ら歳とってかってに死ね、俺は田舎には帰らないよ」と密かに誓いました。

就職では大手の会社の面接も受けましたが、すべて不採用でした。出来たばかりの小さな会社にかろうじて採用されました。

その夏、会社の寮に父がひょっこりと訪ねてきました。
父は手術後の体で痩せて弱弱しそうでした。
私は「何しに来た」と冷たく言い放ちました。
父は「近くで仕事の会合があったので、寄ってみた」と言いました。

その夜、とりとめもなく父と話しました。父は一通り会社のことを聞いた後、田舎に帰って仕事を探さないか、と言いました。私は再び怒りがこみ上げてきました。

小さくとも、こんな私を採用してくれた会社には恩義があり愛着もあります。今ある仕事に頑張ろうと思っていた矢先です。”馬鹿にするな、田舎なんかに帰れるか”と思いました。

父は何を思ったか、四畳半の私の部屋の引き出しに手を伸ばしました。私は慌てました。”あ~~、止めろ、馬鹿、止めろ~”と声にならない叫びをあげました。父はゆっくりを引き出しを開け、中を一瞥すると、ゆっくりと閉じました。

気まずい時間が過ぎました。父も私も声が出せませんでした。引き出しの中には原色写真の成人雑誌が数冊入っていたのです。私は「糞~、この野郎~、勝手に人の部屋の引き出しを開けやがって」と思いました。

コンクリートの躯体でできた会社の寮は真夏日、深夜を過ぎても熱が覚めず、その上二人とも興奮しているからか、寝付かれません。そこで二人で大通りの喫茶店に入り閉店の夜二時まで涼むことにしました。

夜が明けて、朝、追い出すようにして父を帰しました。
ホッとしました。僕は仕事が忙しいんだ・・・

三ヶ月後、父は死にました。

母の話によると父はふいに、「○○に会ってくる」、と言って私の所に出かけて行ったそうでした。死期を悟っていたのかもしれません。老後は私と暮らしたかったそうでした。

時々、「父さんごめんな、出来の悪い息子だったよね、」と言って、泣く時があります。

恋人もいず、四畳半で成人雑誌をみていた、青春でした。

今年の春、そのときの会社の寮と父と入った深夜喫茶を訪ねてみました。もう無くなっていました。たくさんのことが思い出されます。


投稿: yoko | 2015年7月 9日 (木) 18時20分

つまらない誤りです。訂正させてください。

>大手の会社の面接も受けましたが、すべて不採用でした。
=>大手の会社にもいくつか願書を提出しましたが、いずれも面接には至りませんでした。

私は都心のビッグターミナル最中に住んでいますので、
就活解禁の時期ともなりますと、日々リクルートスーツ姿の若者をみかけます。
「頑張れよ、採用されなくてもめげるなよ」、
と声をかけたくなります。
マクドナルドで偶然彼、彼女らが隣の席にいたとき、つい声をかけてしまいました。
過ぎ去った青春、懐かしいですね。

投稿: yoko | 2015年7月11日 (土) 09時08分

『巌頭之感』中学3年の時丸暗記しました。今でも言えます。「ホレイショ」の哲学の意味がずっとわからないままでした。『ハムレット』を読んだ時、作中に名前が出てきたのでああ、この人かもと思いましたがやっぱり中身はわかっていません。私が若い頃、藤村操が送った恋文が公表されましたね。送られた女性は迷惑をかけてはいけないとご自身が亡くなるまで大事にしまわれていたとか。
yoko様 一連の青春時代の文章、心の動き小説になりそうですね。頑張って小説に書き直してみたらいかがですか。芥川賞候補になるかも。歌はいろいろな思い出を誘い出してくれます。そしてそれがこれからの自分の人生を考える糧ともなります。豊かな精神生活を充実させる手だてともなります。このプログは思いを共有できる人に出会える宝庫です。皆様に有難うを言いたいと思います。

投稿: ハコベの花 | 2015年7月11日 (土) 10時47分

ハコベの花様
哀切極まりない恋の終わりに涙が込み上げました。
きっと彼の胸の小箱には乙女のままの
ハコベ様が潜んでおります。
あれから幾星霜。巡り合った女性、妻となった女性
どの方もハコベの花様には適わなかったことでしょう。うら若い乙女のまま、プラトニックのままに別れた相手であればこそ誰も適わないのです。
商社マンとなって海外をまたにかけて活躍の彼、折節に小箱のふたを開けてハコベの花様を偲ばれたと推察できます。ITの発展で探そうと思えば不可能ではないと思います。敢えての手段に訴えず「相手の幸せを願う大人の恋」として胸の小箱に納めておられるのですね。至上の恋愛小説ができます。ハコベの花様の筆致でオールド新人登場も可能です。

投稿: りんご | 2015年7月11日 (土) 12時50分

 高尚なおはなしは、大変結構ですが、そればかり続いては、食傷の向きもあるかも知れませんので、箸休めに。
 以前、海道さんが指摘されましたが、歌詞4番の冒頭「明日(あした)から」は「明日(あす)からは」と書かれたものもあります。詩の雰囲気から言えば「明日」は「あした」がふさわしく、歌って抵抗がありません。ただ、前後の意味を考えると、「明日から」を強調する「は」を付けたい気分になります。
 発表時は、「明日(あした)から」だったんでしょうか?

投稿: MAEDA | 2015年7月11日 (土) 16時33分

ハコベの花さま、
お言葉ありがとうございます。歌の題名に誘われて私の青春を思い出しました。読んで共感していただける方がいらっしゃるとやはり嬉しいです。

投稿: yoko | 2015年7月11日 (土) 20時40分

佐藤惣之助の詞のあまりの素晴らしさ、美しさに、古賀政男(33歳。)も流石に気負い過ぎたか、びびったか!?曲調が高尚に成りすぎた感じかなぁ。私にはそう思えてならないのです。
歌詞は当時の若者の共感を得られたようですがメロディの馴染みにくさからか 、後年TVやラジオから流される頻度はやや低かったのか、それとも私の胸の琴線に触れる機会が無かったのか、この「青春日記」は私のエアポケット歌の一つです。
 七五調の並びが美しいですねぇ。言葉を並び替えることで30首ほどの短歌が創れそうです。
 さて、「明日(あした)から」、「明日(あす)からは」についてですが…。 昭和12年のリリース時は「あしたから」だったようで、後年ステレオ化再録の時に藤山一郎自身が「あすからは」と歌い替えたようです。1番の「涙にしぼむ」も「泪ににじむ」と歌っています。 既に佐藤惣之助は故人になっていました。何か歌う上で違和感らしきものを感じたのでしょうか。 今となっては謎です。藤山一郎という人は原詞を大事になさる方ですから…。

投稿: かせい | 2015年7月12日 (日) 01時16分

 かせいさま
情報、ありがとうございます。藤山一郎が歌い替えたんですね。理由は分かるように思います。わたしも、この替え詩で歌うことが多いのですがそれでも「あした」を「あす」と歌うとそれだけで、この美しい詩の格調が下がる気がして...悩ましいところです。

 * 諸氏のコメントに「食傷」と失礼な皮肉を用いたことをお詫びします。

投稿: MAEDA | 2015年7月13日 (月) 02時13分

私は二木様のこのプログの前のプログからずっと自分の思いを書かせていただいております。夫の顔を見るのも嫌になって居る時に、このプログに出会ってどれほど気持ちが癒されたことかと今でも感謝しております。田の畔に咲いているハコベの可憐な花にも心を癒されました。
青春時代に恋をした彼たちを思い出していつか会えるかもしれないという希望が生まれたのがこの「青春日記」の唄でした。私は歌は下手で人前では歌いませんが、皆様の投稿文で元気を貰うことができました。「思いでは雲に似て」「雪の降る街」など本当に自分の日記のようなつもりで書かせて頂きました。こうして今、元気に明るく生きて居られるのも皆様のお陰だと思っております。音符も読めない私は、歌が歌える人や楽譜の読める人達を羨ましく、尊敬の念さえ抱いております。皆様に感謝です。
朝風呂様またいつか良い歌をお聴かせくだされば嬉しく思います。尾谷様にも感謝しております。

投稿: ハコベの花 | 2017年4月21日 (金) 13時44分

[血に染めし歌を我が世の名残りにてさすらひここに野に叫ぶ秋」啄木の歌が朝から頭に浮かびす。同じ青春時代を過ごした人達が一人、二人とあの世に旅立っていきます。恋した人や恋してくれた人がこの世から去って行くことの淋しさは耐え難いことです。恋の華やかさの裏には必ず苦悩がついてきます。最後の苦悩が永遠の別れです。ああ、彼の手紙が1通でも残っていたらどんなに嬉しかったことか。秋の野に咲く紫の花々を彼たちに捧げることが出来たらどれほど幸せな事か。秋の日暮れは恋の終わりの様に淋しいのです。

投稿: ハコベの花 | 2017年10月20日 (金) 22時19分

雨模様の空を見上げていたら、この歌が口をついて出てきました。プログを開けてみたら8年前の自分がいました。今もそっくり同じ気持ちでいることに懐かしさを覚えました。私にとっては青春は何より大切なものだったように思われます。今年の8月に4年上の兄が亡くなりました。葬儀にひょっとしたら私が恋した彼と会えるかもと思っていましたが、彼の姿はありませんでした。兄より先に黄泉の国に旅立たれたのかもしれません。兄と一番仲良しだった人に、他の人の安否は聞いてみたのですが、彼の安否は聞けませんでした。我が家で麻雀したりビールを飲んだりした彼らも年を取っていましたが、会えば青春です。お葬式が楽しかったなんて、恋した人の事を聞けたらもっと楽しかったのに残念でした、が良いお葬式だったと思います。いつの日かこの青春も幕を閉じることになるでしょう。それまで青春でいたいと思います。

投稿: ハコベの花 | 2018年11月 5日 (月) 13時51分

いい曲ですね

  若き時代の 恋の悩み 苦しみを 
   心地良く流れるメロディにのせて
    軽妙洒脱に 言葉がながれてくる

  この曲を聴くと ある映像が浮かび
   その方々の 苦しみ歩んだ道すじが思い出されてきます 
  藤山一郎の他に  山本富士子さんも 歌われたのです

  ある映像と云うのは 
   ご主人である山本丈晴さんの ギター演奏で
    山本富士子さんが この 青春日記
    を歌われているものでした  
  何年か前までYouTubeにアップされていたのです

   何とも云えず 美しい情景 美しいご夫婦でした

  その後 丈晴さんと 富士子さんの 結婚にいたる
  大変な苦しみを知り 美しい情景と感じたのは
    なるほど そうだったのかーー と
    合点がいった次第です

  それ以降 この曲は 大好きなものとなりました 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年11月 5日 (月) 21時16分

心がささくれ立った時に私はこの歌を聴きます。そしてユーチューブに入っている「青春日記」の映画の一コマを見ます。
山本富士子の手紙を読んでいる時の根上淳の目を見て、私の送った手紙を読んでいる彼の顔を思い出し、心地よい感傷に浸ります。彼女が来るのを待っている時の彼の不安そうな顔、彼女が現れた時の嬉しそうな顔、私も22歳の6月に戻ります。改札口で私を待っていた彼の顔、4年ぶりで出会ったのに私を見つけてパッと明るくなった彼の顔、すべてが映画のように思い出されます。楽しかった青春の終わりの日が近づいていたのですが、こうして40年以上も忘れずに生きているなんて、その日の私には思ってもいませんでした。思い出が私をいつも救ってくれているのです。気持ちがふっくらと豊かになるのです。

投稿: ハコベの花 | 2018年11月30日 (金) 17時12分

ハコベの花さま 「青春日記」のリクエストありがとうございました。
久し振りにこの曲を聴いているうちに、中学時代の初恋の彼女の想い出が懐かしく蘇ってまいりました。
なぜあの時、もうちょっと彼女に前向きでアタックできなかったかなーと・・・今さらながら当時の自分に勇気のなさに悔やんでおります。
初恋って忘れられようとしても忘れられないものですね!
でも、半世紀以上も過ぎ去った今日、初恋の彼女を懐かしく想い出しただけでも幸せと思うべきでしょうか?

投稿: 一章 | 2018年11月30日 (金) 20時31分

一章様、私は恋の思い出を持っている人は幸せだと思います。年をとっても思い出せばその年令に戻ります。中学生に戻ってその女性を思い出せば気持ちは若くなりますね。お顔もきっと若くなって居られるとおもいます。私の好きな歌がもう一つあります。梶光夫が歌った「青春の城下町」です。流行って居る頃はこの歌を知りませんでしたが、中年になって知りました。
「流れる雲よ城山に 登れば見える君の家 灯りが窓に灯るまで 見つめていたっけ君の家 ああ青春の思い出は わがふるさとの城下町」この歌を聴くと高校生に戻ります。同じ町の2歳年上の高校生がじっと見つめてくれていた日々の恥ずかしさ。とても懐かしいのです。初恋だったのかも知れませんね。青春は仄かな甘い思い出なのです。甘い悲しみも伴っていますね。

投稿: ハコベの花 | 2018年11月30日 (金) 21時49分

ハコベの花さま
交流掲示板に書いています。

投稿: 一章 | 2018年12月 1日 (土) 13時59分

素晴らしい歌ですね。今度ハーモニカで演奏します。
練習していたら母が昔お父さんがハーモニカでよく吹いていたと言いました。大正生まれの父の好きそうな歌です。

投稿: 馬越 千恵 | 2019年5月 4日 (土) 16時22分

「青春日記」私がこの唄に強烈に惹かれたきっかけは、1993年に発売された「島倉千代子・古賀政男を偲んで」というタイトルのアルバムの中に収録されていたこの一曲を聴いた時でした!

古賀メロディの魅力は云うまでもありませんが、そのアルバムの歌詞カードで、佐藤惣之助のこの唄の詩を初めて眼にした時、私はそのあまりの素晴らしさに感激したことを憶えています。
また、お千代さんはこの唄の3番の歌詞を「セリフ語り」にしています。私にはそんなところも魅力の一つでした。

2010年10月5日ハコベの花様ご投稿コメント
>「日記には誰かに読まれるように書いたものと、自分だけにしまっておきたいものがあります。」
『蛇足』に記された、ベアトリス・ディディエの『日記論』
>「・・非日常的な状況にあるとき、あるいは非日常的な体験をしているとき、人は日記を書くというのです。」

私は独身のころに日記を付けていましたが、自分の体験からしても、上記の「両・文面」には妙に説得力を感じます。

「青春日記」私が初恋をした中学生のころ、そして妻と巡り逢った23歳のころ、いずれも私が日記を付けていた時期ですが、ここでこの唄の歌詞を見ながら二木先生が奏でるこのメロディを聴いているとき、私はその都度そのころの自分を今でも鮮明に想い出します。


投稿: 芳勝 | 2021年6月10日 (木) 18時19分

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