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2010年10月22日 (金)

君恋し(戦前版)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華、唄:二村定一

1 宵闇せまれば 悩みは涯なし
  みだるる心に うつるは誰(た)が影
  君恋し 唇あせねど
  涙はあふれて 今宵も更け行く

2 唄声すぎゆき 足音ひびけど
  いずこにたずねん こころの面影
  君恋し おもいはみだれて
  苦しき幾夜を 誰がため忍ばん

3 去りゆくあの影 消えゆくあの影
  誰がためささえん つかれし心よ
  君恋し ともしびうすれて
  臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや


《蛇足》 昭和4年(1929)3月公開の映画『君恋し』の主題歌。松竹キネマ、マキノ・プロダクション、河合映画製作社、日活など6社の競作でした。同年に同じ題名(原題は`The Man I Love`)のアメリカ映画が公開されていますが、この歌とは関係ありません。

 作詞者の時雨音羽
(本名は池野音吉)は大蔵省に勤めていたとき、日本ビクターの社長に依頼され、この歌を作詞したそうです。
 当時の日本ビクターはアメリカ資本で、洋楽しか扱っていませんでしたが、この歌の成功で自信がついて歌謡曲の制作に踏み切ったといいます。時雨
音羽も大蔵省を辞めて、専業の作詞家に転身しました。

 曲は、当時流行り始めたジャズ調を取り入れたのが特徴ですが、日本的な哀調を残したのが日本人の心情にアッピールしたようで、大ヒットとなりました。
 ポストリュードの前半に『埴生の宿』の一節が使われています。

 歌ったのは浅草オペラの花形シンガー、二村定一
(ふたむら・ていいち)でした。
 戦後フランク永井の唄でリヴァイヴァル・ヒットしました。

(二木紘三)

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コメント

人間は死を前にした時、何をして置きたかったかの問に、会いたい人に会っておきたかったというのが一番多かったとテレビで言っておりました。会いたい人は肉親だったり、恩人だったりということもあるかと思いますが、やっぱり一番は恋した人ではないでしょうか。歌謡曲の中で恋を歌ったものが一番多いのも、人生の中で恋ほど心に残るものが他にないのかもしれません。

身体が痩せるほどの恋をした人を私は知りませんが、意外としおらしく見える女性でも、自惚れと傲慢な気持ちがある事は事実です。打算も働きます。ですから悩むのですね。どこかに冷めた気持ちがあって、相手を見ています。年を経て、やっとあの人はかけがえのないほど素晴らしかったと思える様になってきます。ここから恋が美しく思える様になります。紅い唇のころは夢の中の恋に酔っている様に思います。

投稿: ハコベの花 | 2010年10月25日 (月) 21時35分

ハコベの花 様
年が経つほどに同感です。逢いたいなあ、あの人に。
死ぬ前に一度。

投稿: アイセンバーン | 2010年10月27日 (水) 11時16分

アイセンバーン様
「あらざらむこの世のほかのおもひでに今ひとたびの逢ふこともがな」たまには出さない手紙書いてみるのも良いかもしれませんね。

投稿: ハコベの花 | 2010年10月27日 (水) 16時52分

ハコベの花 様
心に沁みる返歌ありがとうございます。
君恋し(戦前版)のころは、生まれておりませんでしたが、フランク永井さんが歌ったころは中学生ぐらいでしたか。その当時はラジオから流れているのをただ聞いているだけでしたが、今改めてしみじみと聴いております。お元気で。

投稿: アイゼンバーン | 2010年10月28日 (木) 13時46分

二木様、

現戦後版の以前のコメントで気になっていた戦前版のアップありがとうございました。

最近の歌謡曲ではあまり聞かれないポストルードなど、今では知る由もない当時のざわめきが聞こえるようです。

歌詞以外でといえば「夢去りぬ」で知られる服部良一の曲はいろんな題名と歌詞が付けられていますが、ぜひ歌詞が一番しかなく中ほどの歌声も楽器パートの一部のような「夢去りぬ」を二木様のオーケストレーションでお聞かせいただければと思いキーボードをたたいております。

投稿: タンゴK | 2010年11月17日 (水) 23時06分

私は、小学校の頃でしたか?ラジオで、君恋しの原曲を聴いた事がありました。
そして、点字で発行された、歌詞ブックにも、この歌詞が載っていました。
そこには、うた、二村定位一とあり、歌詞は3番まで書いてありました。
そして、その歌詞ブックを持って、近くのカラオケボックスに行った所、この原曲も、カラオケとして、出ていました。
が、最近になって、それは削除されていました。
何とも残念でなりません。
だれかもう一度、この原曲を、リバイバルで歌ってくれないかなと思っています。
ユーチューブの中にも、SPレコードがアップされているのを見ます。
そして、フランク長いは、「みだるる」と歌っていますが、原曲では、「みだれる」と歌っていますし、点字の歌詞ブックにも、「みだれる」と書いてあります。。

君恋し 二村定一 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ExGBJx6pjTc

メロディーが聴けて、大変嬉しく思います。

投稿: 殿川 | 2012年10月 8日 (月) 17時15分

息子の血糖値が高くなってきたのでお医者さんから「少し痩せるといいね」と言われました。「痩せるほどの恋をすればいいのですね」と私が言ったら「今時そんな恋をする人はないよ」と笑われました。「あります」と私が言ってみたいですね。靴音かホウバ下駄の音が・・・聞こえるような初夢を見たいですね。おめでたいでしょうか。もうすぐお正月です。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月30日 (金) 21時04分

 みなさまの  唇あせねど の解釈に関して

 私は ぬ  を古文での 完了の ぬ と考えています

 その変換で ねど 褪せてしまったけれど

 と 時間のうつりかわりと 女性の謙遜の気持ちを
 うたったものかと  愚考しております

 人のうつろいについては さまざま謡われていますね
  まぁ 男性のうつろいは 書かれていませんね

 和歌 短歌はいわずもがな

 風の盆恋歌での
  若い日の美しい 私を抱いてほしかった

 古都逍遥では
  ゆきて還らぬ 紅唇よ   熱き心よ今何処
  ああ花も夢もかえらず
  逢いたい逢いたい  今の君に逢いたい

 惜別の歌では
  君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

 ゴンドラの唄では
  いのち短し 恋せよ乙女
  あかき唇 あせぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを

  いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

 などなど いろんな近代曲の歌詞にみられます
  それほど 男女ともに大切なことがらと考えます

 生老病死 残念ながらどうしようもないものですね

  何がおこっても あわてない あせらない
 と 自分によく言い聞かせておかないといけません

 この歌詞にもどると 金田一先生にお聞きしても??? かな  
 絶対の答えは 作詞された時雨音羽先生のみが知っている  
 昔 「私だけが知っている」 という番組がありましたね 
 書きながら 記憶のふたが 開きそうです

   乱筆にて  失礼いたしました
            のの三乗

投稿: のの三乗 | 2017年12月 1日 (金) 14時03分

今日は午後から妻が踊りの会に出かましたので 一人でゆったりとコーヒーを煎れながら 先日 紀伊国屋書店で買ってきた 日野原重明先生の 生きていくあなたへ でも読もうかなと 思いながらも ちょっとPCを開いたところです  君恋し は何年か前に舞台で 私が歌いながら同門の女性の方と相舞いをして あまりに意気が合ってたのか? 後で散々外野からやっかみ半分で噂され 当分の間 いや~な気持ちになったことがありますが もとより大好きな歌ではあります  
のの三乗 様は 戦前版の方がお好きなようですが 何となく分かるような気がします 人の心の移ろい や 男女ともに大切なこと と 受け止められる 繊細でリリカルな心情の吐露は 密かに待ち望んでいたところです これからも又 賑やかに盛り上がれば 楽しいですね・・・

投稿: あこがれ | 2017年12月 1日 (金) 16時57分

のの三乗様
文語の完了の助動詞「ぬ」は次のように活用します。

未然:な 連用:に 終止:ぬ 連体:ぬる 已然:ぬれ 命令:ね

 つまり、完了の助動詞「ぬ」では「ね」となるのは命令形だけです。命令形は、次の接続助詞「ど」にはつながりません。
 「褪せたけれど」なら、「褪せぬれど」となっているはずです。

 いっぽう、文語の否定(打ち消し)の助動詞「ず」は次のように活用します。

未然:ず(ざら) 連用:ず(ざり) 終止:ず 連帯:ぬ(ん) 已然:ね(ざれ) 命令:ざれ

 私の前の説明(戦後版「君恋し』)では、否定の助動詞「ぬ」と書きましたが、「ぬ」は「ず」から派生した否定の助動詞で、正確な書き方ではありませんでした。
 しかし、いずれの場合も、「ね」は否定の助動詞の已然形で、これは次の助詞「ど」につながります。

 ですから、「唇褪せねど」は「唇は褪せていないのに」という意味になります。

 褪せていない唇、朱き唇等が情熱や若さを象徴する言葉だというのは、その通りだと思います。

投稿: 釣り人コマツ | 2017年12月 1日 (金) 17時30分

 思い悩んで 
 書かせていただきます

 「唇褪せねど」 は 「唇は褪せていないのに」
   と断定されたことに対してです

 釣り人コマツさまのいわれるように
  文語の活用型を追うと 否定の ず の已然形 ね
 ということにはなります

 完了の ぬ ととると ね は命令形だけですね
  ですから  否定の ず からの変化だと

 ほんとうに そうなのでしょうか
  すっとは 腑に落ちないのです

 何故 完了の ぬ > ぬれ > ねと考えたか

 詞の 一 二 三 番の調和を無視できないなと 感じたことにあります

 見てください  三節目の
  君恋し のあとの言葉です
  
  一  唇あせねど

  二  おもいはみだれて

  三  ともしびうすれて

   みだれて  うすれて  には変化があります
   
  時間的に 変わっているのですね
    
   褪せず  ととると この一番だけが
    変化がないと 主張することになります

 もうひとつ  その主張にかぶってきますが

  昭和初期のころの 女の方はどうだったのだろうという点です

 現代の女性より 弱く 謙譲を美とする方たちが多かった    (ここらは お叱りをうけるかもしれませんが)
 男性は 黙ってついてきてくれる女性を望んでいた
 奥ゆかしく 三歩さがってついてきてくれる女性を

 私は 唇が紅いままなのに あの人はどうしたのだ
  プン プン  という詞を書くでしょうか

 「唇の 紅さは 衰え おちたけれども  貴方が恋しい」

  これが そのころの女性の心理 (男性の作詞家が書く) と思えてならないのです 
  いいか悪いか 何が正しい 正しくないの問題ではなく  そう感覚的に思えるのです

 最後のヒントは 
  
 臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや

  これも ゆるむ という時間的変化です

 男女の仲の 時間的なうつろいを 基本としてかかれた歌詞と 思えるのです

 これは あくまで私見ですし 挑戦的に書かせていただいてるわけではありません

 ですから 先の投稿にも
絶対の答えは 作詞された時雨音羽先生のみが知っていると書かせていただいております 

 失礼いたしました  悩んでいた のの三乗より

投稿: のの三乗 | 2018年1月26日 (金) 21時32分

のの三乗様
 文法はともかくとして、食べられない、眠れない、という恋をして見たらいかがでしょうか。私は帯が緩むほどの恋は知りませんが、若い時に小姑の意地悪で5日で6キロも痩せました。ですから唇は褪せなくても、10日でも想う人に思いが届かなければ痩せることはあると思います。試しに素敵な方に真剣に想いを寄せてみてください。この歌の意味が実感できると思います。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月26日 (金) 23時39分

のの三乗様
おっしゃる意味がよく分かりません。
2番、3番との兼ね合いから、また戦前女性の心情から、助動詞の活用形まで変えてしまうというような乱暴なことは、音羽時雨はしないと思いますよ、訊いてみるまでもなく。
文語完了の助動詞「ぬ」の已然形「ぬれ」(……てしまった)が「ね」に変えられたという用例があったら教えてください。

投稿: 釣り人コマツ | 2018年1月26日 (金) 23時57分

私も、のの3乗様のおっしゃることがよく判りません。

いつぞやは、のの3乗様=能勢の赤ひげ様 だと思っていましたが、このコメント内容からして おかしいな?と、感じてましたが、その直後の 能勢の赤ひげ様からの コメントで、納得できました。

又、いい日旅立ち での勘違い・・あとで調べてみて、セレナ様のお年が友和さんより、2才年長だと知り己のそそっかしさに赤面しました。

コメントに責任を持つ 能勢の赤ひげ様のご意見に改めて納得、教えられました。

投稿: あこがれ | 2018年1月27日 (土) 07時45分

のの三乗様
あなたは「あせねど」は「あせてしまったけれども」という意味で音羽時雨先生は書いたとおっしゃりたいのですね。それなら、先生は「あせたれど」と正しい文語で書いたはず。
「あせね」の部分は四分音符3つだと思いますが、「あぁせぇねぇ」と聞こえますので、八分音符6つかもしれません。四分音符3つの場合は、3つめの四分音符に「たれ」を入れればいいし、八分音符6つの場合は「あぁせぇたれ」と無理なく当てはめられるので、あなたのおっしゃるとおりの意味の「あせたれど」で問題なく歌えます。
二番の「おもいはみだれて」と三番の「ともしびうすれて」は変化があるが、一番の「唇あせねど」が否定だとしたら、変化がない、だから「あせてしまったが」のはずだというご意見もよくわかりません。
一番、二番、三番・・・で趣旨が違う歌なんていくらでもありますよ。というより違っている歌が大多数です。同じように、各番の同じ部分で文字数が違っている歌も昔からあります。フォークソング・ブーム以降とくに増えましたが。

投稿: ねの3乗 | 2018年1月27日 (土) 12時21分

投稿内容の変更は左欄の「管理人への連絡」でお願いします。

投稿: 管理人 | 2018年1月28日 (日) 14時43分

  「君恋し」は、恋に身を焼く女性の心情を謳った歌詞と、短調のメロディがよくマッチして、聴く人の心に響く名歌であろうと思います。
  ここのところ、歌詞1番のなかの、”唇あせねど”の受け取り方について、幾つかの投稿がなされています。それらを閲覧して、改めて歌詞を熟読して、私なりに、あれこれ思いを巡らせてみました。
  ”唇あせねど 涙はあふれて”の文脈から、 ”唇あせねど”は、”唇はあせてしまったが”と身の上を謳っていると受け取りたいように思います。文法的には、”唇あせぬれど”とすべきかも知れませんが、歌詞として、しっくりしないため、苦肉の策として、”唇あせねど”としたのではないでしょうか。
   歌詞から想像するに、主人公の女性は、恋に身をやつし、身体が憔悴している状況でしょうから、唇が乾いて潤いがなく、つまり、精神的要因で唇が色褪せていることは、あり得ましょう。一方、”涙はあふれて”は、眼は乾くどころか、眼からは水そのものの”涙”が溢れでるのを止められないのでしょう。この”褪せる”と”溢れる”の二つの、相反する事柄を、”唇あせねど”の”ど”(”…が、しかし、…”の意味)で結び付けた表現と受け取りますと、さもありなんと詩情が膨らみ、心にすっと入ってくるように思いますが、如何でしょう。 
<補足> ”唇はあせていないのに、涙はあふれて”(主旨)との解釈・表現では、詩情に乏しいように思います。

投稿: yasushi | 2018年1月29日 (月) 13時23分

yasushi様
 男女を問わず年を取ってくると肌の色が悪くなるのと一緒で、唇の色も紅の色が褪せて白っぽくなったり黒ずんできたりします。この歌の女性はまだ若くて唇は紅かと思います。人を恋しても相手に想いが届かず悲しくて切なくて苦しみで胸が一杯になるという歌でしょうね。臙脂の紅帯ですからまだ若い娘さんでしょう。若い娘さんの届かない思い、痩せるほどの思いですから本当に恋、焦がれているのでしょう。純情な娘さんの気持ちわかってあげて下さい。私も若い娘に戻ってこんな恋をしてみたいと思います。この相手の男性はこれほど思われて男冥利に尽きると思います。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月30日 (火) 11時28分

ハコベの花様からの、うら若き乙女の思いの届かない恋についての投稿を、深い関心を持って拝読しました。ハコベの花様の思いがよく伝わりました。
  我が身を振り返ってみますと、多くの人が若い時に経験するであろう、思いの届かない恋、あるいは、成就しない恋の辛い思いは、いずれ、時が解決してくれるでしょうが、その後の人生における大切な、ひそかな思い出となりましょう。
  ついでながら、女性側から謳った「君恋し」に対応して、男性側から謳った歌を一つ選ぶなら、「無情の夢」(佐伯孝夫 作詞、佐々木俊一 作曲、児玉好雄 唄 S10)を挙げたくなります。

投稿: yasushi | 2018年1月30日 (火) 17時31分

見た目(唇)は失恋前と変わらないのに、涙が止まらない――というほうがはるかに詩情があるのではないでしょうか。

投稿: 河合春緒 | 2018年1月30日 (火) 17時37分

「管理人への連絡」が見つからなかったので、済みませんがまた書かせていただきます。前はいい足りなかったので。

大事な人を失ったとき、悲しみはすぐに顔つき(唇など)に表れず、それが長く続くと、やがて外見にも現れてきます。それが三番の「臙脂の紅帯、ゆるむも悲しや」だと思います。

愛する夫または妻が亡くなったあと、「あの人、大事な旦那さんが亡くなったのに、前とちっとも変わらないわね」と陰口をきく人がいます。
しかし、通夜や葬式で泣きわめいたり、盛大に涙を流す人より、普段の顔つきで忙しく立ち働く妻や夫のほうがずっと悲しみが深いという話を聞いたことがあります。
私自身が経験したことです。

投稿: 河合春緒 | 2018年1月30日 (火) 21時29分

 私の前の投稿('18-1-29)に関連しまして、河合様からからの投稿がありました(1/30)。まずは、拙稿に目を通され、コメントして下さったことに対してお礼申し上げます。
  さて、河合様からのコメントに関しまして、改めて、私の受け取り方を申し上げたいと思います。
  健康な普通の人が涙を流すのは、悲しいとき、辛いときであろうと思う訳ですが(嬉し涙もありますが)、このことと、褪せていない唇(=潤いのある唇)とは、直接、因果関係はないであろうと考えます。つまり、 潤いのある唇をしているから、涙が出易いとか、逆に、涙が出難い、ということはないと考えます。従って、”唇は褪せていないのに、涙は溢れて(主旨)”としますと、どうして”のに”なのだろうかと疑問符が付き、よって、詩情の乏しい表現になってしまうのではなかろうか思うのです。(それとも、”のに”で、”意外にも”の意で、意外性を謳っているのでしょうか。失恋して涙を流すのは自然のことで、殊更、意外性があるとは思えませんので、そこまで穿った見方は如何かなあと考えます。)
  一方、単純に考えて、失恋の痛手で、①唇が褪せてしまった(潤いを失った唇の)場合、更に辛さが進むと、②”泣けて 涙も枯れはてて”、眼は涙を失い、潤いのない状態になり、もっと辛さが進めば、歌詞3番にあるように、③身も心も痩せ細ってしまう、と想像されます。①と②の中間の状況を表そうとすると、”唇は褪せてしまったが(=のに)、涙は溢れて”(主旨)という表現になるのではないでしょうか。つまり、①に近い方かな、②に近い方かななどと、詩情が膨らむ表現になると思います。”のに”も、 潤いを失った唇と潤いを失っていない眼を結びつける繋ぎの言葉として、意味を持ってくると思うのです。
  以上、一私見であり、全く主観的な受け取り方です。当然、他の受け取り方もあろうかと思います。それはそれで受け止めたく存じます。
<補足> ”泣けて 涙も枯れはてて”の表現は、「星の流れに」(清水みのる 作詞、利根一郎 作曲、菊地章子 唄 S22)の歌詞1番を参考にしました。

投稿: yasushi | 2018年1月31日 (水) 11時40分

Yasushi様
恋は理屈ではありませんので、実際に燃えるような恋をすればいいのです。理屈で考えると滑稽になってしまいます。美しいお嬢さんに恋い焦がれてみてください。私は一応、女ですので素敵な男性に想いを寄せたことがあります。まだ心の片隅に面影を抱いています。何と至福な時だったでしょう。理屈で考えても何にもなりません。
私はこの歌を失恋ではなくて片思いの恋だと解釈しています。恋ほど素敵なものはありません。それがたとえ片思いであってもです。恋に恋しているだけでも幸せですよ。

投稿: ハコベの花 | 2018年1月31日 (水) 15時12分

昨年夏夫に教えられてから、たびたび訪問している新参者です。
今回は「唇褪せねど」で楽しませていただきました。情感派対論理派?文法派?の論争とでもいいますか。

どちらの味方というわけでもありませんけど、「失恋の悲しみで唇は褪せてしまったけれども、涙が流れてとまらない」て、日本語として変じゃありません?
「私は東京生まれだけれども、東京の地理をよく知らない」とはいいますが、「私は東京生まれだけれども、東京の地理をよく知っている」とはいわないと思います。まあ、日常会話ではあとのほうのような言い方をする人は珍しくはありませんけど。

投稿: 那須は雪 | 2018年1月31日 (水) 16時04分

趣旨から外れますけどご容赦ください。

河合春緒 さま
よくぞ書いてくださいました。
私は未だ線香を絶やさないという時期に「りんごちゃん、ご主人亡くしてよく元気でいられるね。私だったらお父さんに死なれたらそんなに元気にしておれない」と言われ内心怒り心頭に発しました。因みに彼女は校長経験者で、イケメンご主人も校長経験者の金時持ちです。
私は3年で13キロ痩せました。鏡を見てぞっとして死ぬ思いで食べて5年半で8キロ回復しました。

でも彼女はとても良い人なのです。大多数の人は以下同文でした。

投稿: りんご | 2018年1月31日 (水) 17時07分

那須は雪 様の投稿を拝見しました。
  「失恋の悲しみで唇は褪せてしまったけれども、”涙は枯れることなく”、流れて止まらない」と受け取ったら、日本語としておかしくないと思いますが、如何でしょう。
  私としては、「唇あせねど」の受け取り方の議論は、前回投稿で終了、と考えておりましたが、一言述べさせて頂きました。

投稿: yasushi | 2018年1月31日 (水) 17時07分

「唇褪せねど」についてそろそろ燃え上がり始めましたので、このあたりでやめましょう。前にもどこかで書いたような気がしますが、詩の受け取り方は、自分がこうだと思う解釈でいいのではないでしょうか。
以後、この件についての投稿は非表示とします。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2018年1月31日 (水) 17時41分

第三節が一番好きです
この節は、フランク永井の曲では省かれていますが、表現が、あまりにも生めかしいからでしょうね 
「エンジの紅帯」がゆるむ場面など、ほんとに、たまらない情景ですね
でも、当時の花柳界の女性たちが生きていた姿が、見事に、婉曲に描かれていて、なんともいえない余韻を感じさせてくれます

投稿: 田村 弘 | 2022年6月14日 (火) 17時54分

田村様の投稿に引かれて皆様のコメントを拝見し大変勉強になりました。3番があったことなど初耳で新鮮でした。「紅帯ゆるむ」については、傑作だと思う「みだれ髪」の「春は二重に・・・・三重に巻いても余る秋」が浮かんできます。まだみだれ髪は取り上げて頂いてないようですが、いつか塩屋埼には行きたいと思っています。

投稿: しょうちゃん | 2022年6月14日 (火) 19時30分

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