マリーナの鐘
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 夢かうつつか 胸に響くは МАЛИНОВЫЙ ЗВОН 1. Сквозь полудрему и сон |
《蛇足》 ロシアではよく知られた歌で、気のおけない集まりなどで好んで合唱されるそうです。しかし、日本人でこの歌を知っているのはよほどのロシア民謡・歌謡通に限られ、一般にはほとんど知られていません。
そのため、訳詞・日本語詞が見つかりません。歌詞がないと歌ってもらえないので、拙いながら私が日本語詞をつけました。
原題は『マリーノヴィ・ズヴォン』で、これは「木苺(マリーナ)の鐘」という意味です。この鐘は当然ロシア正教会の鐘でしょう。ちょっとわかりにくい題ですが、この解釈として次の2説があります。
1つは、木苺のように柔らかく優しい音を「木苺の音色」と呼ぶ言語習慣から来たという説。
もう1つは、鐘の鋳造で名高いベルギーの町・マリーヌ(フランス語読み)をロシア語化してマリーナと呼ぶようになったという説。
どちらの説でも、マリーナはローマ字ではmalinaで、ロシア女性の名のMarinaとは綴りが違います。
原詞には「母の窓辺」(マチェリンスコエ・アクノ)という言葉が出てきます。これは簡単にいうと、「母が決まって座る場所」という意味ですが、少し説明が必要です。
ロシア・ソ連はナポレオン戦争以降、日露戦争、革命による内戦、両度の大戦など、何度も大きな戦争を戦ってきました。
男たちが戦いに出ている間、女たちは家の街道を見渡せる窓辺やバルコンに座を占め、編み物や繕いものをしながら、息子や夫、恋人が無事に還るのを今日か明日かと待っていました。そうした歴史から、「母の窓辺」「母のバルコン」といった言葉が特別な意味を持つようになったといわれます。
以下に原詞の意味を掲載しておきましょう。
1 半ばの眠りと夢の中より
聞こえるものは木苺鐘の響き……
これは夜明けを告げる急使
草叢で鳴るものは小鈴
あれはロシアの平原
紅色に灯るものは七竈の花房
あれは故郷の濃い繁み
何かが心をかすめ……
朝焼けに木苺鐘の響き……
愛しい故郷の地に伝えてよ
幼きよりかの地に魅惑されてしまったと
この木苺鐘の音色に魅せられたように
2 この木苺鐘の響きは
待ち侘びる母の窓辺から
あの高天の星から
そうだ、過ぎ去った悲しみから……
埃道が朝焼けに浮かぶ
あの野を私たちは歩いたものだ
朝焼けに、まるで夢の中から
聞こえるものは木苺鐘の響き
朝焼けに木苺鐘の響き……
愛しい故郷の地に伝えてよ
幼きよりかの地に魅惑されてしまったと
この木苺鐘の音色に魅せられたように
なお、この曲の楽譜と関連情報の入手については、当サイト常連のシモン・イサコフスキーさんのお手を煩わせました。また、上記の訳は同氏愛嬢のアンナ・イサコフスカさんによるものです。お礼を申し上げます。
(二木紘三)
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コメント
二木先生 小生の勝手な願いをかくも美しく哀愁溢れる旋律に乗せてかなえていただきました。ウクライナ人歌手グナチュークが1987年に歌ったものと、メロディーとテンポが同じであります。先生の詞は歌いやすいのではないでしょうか。原詩のほうは小生には大変歌い難いものなのです。きっと「うた物語」の多くの読者に愛される曲になることでしょう。
カルパチアより
投稿: イサコフスキー | 2011年1月16日 (日) 21時48分
シモンさんの 紹介文を先生のサイトで読ませていただきユーチューブで検索して メロディを掴みかけたこのごろでした。何とかして この歌を自分も 唄ってみたいと ロシア語のサイトまでたどり着き 訳してみようと書類にして毎日かばんにいれていました。こんなに早く歌詞がわかるとは・・・ 。先生 ありがとうございます。時には ディスプレイが曇ることありまして、 皆さまのお話に泣かされております。開かない日がない位 「うた物語」が 私の日課になっています。
投稿: 伊藤 光春 | 2011年1月17日 (月) 15時27分
金曜日娘が寄宿舎から帰ってくる嬉しい日であります。来週の日系友人の方の宴に招待されているのですが、二木先生作詞「マリーナの鐘」を歌うものだと思っていましたら、「侍日本」のほうが、必要以上に叙情的な「マリーナの鐘」より遥かに衝撃力があるのだと言い張り、下品にも醤油入りに堕落した丹前下を羽織り、ポーランド騎兵のサーベルを日本刀に見立て、you tubeのある方の演舞を延々と真似して練習するのです。主催者の日系ポーランド人は元公家(華族)であります。日系は小生の家を含め、三十家族に及ぶでしょうか。いや樺太出身の家系を含めると、百になると研究者TM氏はおっしゃいます。小生にとって侍は、復員した長兄が酔うと日本刀を抜き放ち「キサマラータルンデル」と言い、父母までをも圧倒した日々を思い出させるので、嫌いであります。
投稿: Junnosuke Isakowski | 2011年1月22日 (土) 06時26分
二十代のとき、父が車で道東の草原を見せてくれました。
はっきりと場所を思い出せませんが、釧路から中標津へ向かう途中だったように思います。
遠くには道東の山々が薄青くシルエットのように見え、見渡す限りさえぎるものの無い大草原でした。
あれは、牧草畑だったのかも知れません。マーガレットに似た花が一面に咲いていましたから……。
通る車もなく誰もいないその場所に佇み、心が洗われるようなひと時を過ごしました。
ロシアの草原を私は見た事がないのですが、この歌詞からはその風景を思い出します。
初めて聴くロシア民謡ですのに、すぐに歌えるのはなぜでしょうか……。
最近いろいろな事で疲れ切ってしまった心身に、この歌は美しい草原に吹き渡る清らかな風を思い出せてくれました。
二木先生、イサコフスキーさん、ありがとうございます。
投稿: 眠り草 | 2011年5月26日 (木) 09時57分
眠り草様 お言葉に恐縮いたしております。中標津には上武佐ハリストス教会がありますよ。マリーナ鐘があるかどうかは知りませんが、由緒ある会堂です。八端十字架もいいものですね。道東の風景を見ると、僕もなぜか泣きたくなるような感動をおぼえます。白い花は除虫菊かも知れませんね。旧外地引揚者は荒蕪の地に入植させられました。農地がなくて満蒙を侵略したのですから、帰還したとしても良好な農地が提供されるわけがありません。開拓者は手っ取り早く除虫菊を栽培したものです。僕は枝幸に近いオホーツクの漁家出身ですが、戦後開拓地区に入るとすぐ目につくのが除虫菊の群落です。この辺りは樺太に近いせいか、ロシア極東のラジオ放送がよく聞こえました。短波ではなく長波―NHK第一よりさらに左側で同調―です。子供のころ”プラシチャーイ オーチクラーイ”という歌詞のものと、無歌詞の哀愁漂う旋律をよく耳にしました。ロシアにはじめて旅行したとき、船の夕べの宴で楽団がこの歌詞のほうのメロディーを演奏しました。「Прощание Славянкиプラシチャニエスラヴャンキ(’スラブ女の別れ)」というものでした。もう一つのものを知りたくて、ハミングして聞かせましたら、Тоска по Родинеタスカーパロージニエ(’故郷に心ひかれ、望郷、郷愁、ノスタルジア’)という名の軍隊の行進曲だと教えていただきました。ラジオから聞こえるロシアメロディーもいいものです。それにしても軍隊行進曲がかくも悲しく切ない旋律をもつとは。
投稿: イサコフスキー | 2011年5月30日 (月) 04時47分
イサコフスキーさま
ハリストス教会には気が付きませんでしたが……マリーナの鐘はきっと今も優しく響いている事でしょう。
マーガレットに似た花は除虫菊かもしれないのですね。酪農地帯でもあり、牧草の花かとばかり思っていました……。
原野の開拓の厳しさは、昔よく聞きました。苦労して荒地を開墾し、ようやく農作物が育って明日の収穫を楽しみに眠っても、目覚めると時期ではないのに霜が降りていて全てが無に帰した話など。
生きているうちに、もう一度あの景色を見たいと思います。針葉樹や白樺、ナナカマドやグミの赤い実も懐かしいのです。今は東京の近くに住んでいるのですが、ふるさとの札幌にさえ、体力的なことから長い間帰れないでいます。ここ一年ほどは弱り切って、気持も酷くささくれ立っていました。
心が蘇るような歌……、二木先生とイサコフスキーさんに改めて感謝いたします。
投稿: 眠り草 | 2011年5月30日 (月) 10時15分
このページを開き、ご解説により、初めて「木苺(マリーナ)の鐘」という呼び名を知りました。
ずっと以前から、「木苺」の水彩画を私は部屋に飾っています。その絵が好きなので……。
特に何かを思い出して買ったわけではないのですが、きっと意識しない私の心の深いところに木苺の実はあるのでしょう。
見失っていたパズルの一片を見つけたような気持です。
投稿: 眠り草 | 2011年6月 4日 (土) 12時08分
眠り草様 僕の故郷には白系露の奥様をもっていらっしゃる怠惰な―父がそう言うのですが―Sさんが山の中の一軒家に住んでいました。真理奈という名の娘さんがおられました。昭和三十年頃の学芸会では紙製のケーキが登場しましたが、真理奈は本物のおいしいロシアケーキを劇にもってきました。天火の無い掘立小屋でどうやって焼いたものか今でも謎です。あの小屋には、木苺、野生李、グスベリ、野葡萄、こくわ、野苺、などの瓶詰が並んでいました。李は大量にあったので、酒まで作っていたようです。父がよく手土産に持たされました。今僕は東欧の山なかで李ブランディーを飲んでいるのは、ある種の運命でしょうか。オホーツクは二月第一週に氷が侵入し―「流氷」という用語はなかった、単に「氷が来た」と言ったものです―、海面を封鎖します。漁師は電報配達や郵便逓送の副業で現金を入手します。僕の父もそうでした。Sさんに薬が郵送されてき、僕が父に代わって送達しました。小屋の土間に皮を剝かれた猫が横たえられているのに仰天し、帰って父母にその有様を伝えました。「猫まで食ったのか」と驚いた父は、母に隠しておいた白米と砂糖を用意させ、かの掘立小屋に向かいました。猫は兎の間違いでした。ここ東欧でもそうですが、羊、山羊、兎、豚は顔から尾まで皮を剝かれ、軒先に吊るされるています。眼球がそのまま見えるので、猫に見えたのです。日本人には残酷な光景ですが、ここでは豊饒の光景なのです。奥様と真理奈さんは衰弱激しいSさんのために、禁じられている罠を仕掛け、貴重な兎一匹を捕獲し、滋養スープと美味しい兎肉料理―東欧ではデリカテッスです―を作ろうとしていたのです。Sさんは亡くなられました。タマラさんと真理奈は私たちと十年暮らしました。真理奈は眠り草様の故郷の札幌の高校教師と結婚しました。もう老境にある僕にとって、毎日がこのような悩ましい思いでの反復にあります。札幌はライラックの香りに満ちていることでしょう。今でも思い出せます。なぜか泣いてしまいそうです。当地ではマリーナはまだ咲いておりません、しかしカフカスキエ・ヤゴドィ’コーカサスの漿果’という濃い青色のベリーが食べごろです。
投稿: イサコフスキー | 2011年6月 5日 (日) 06時33分
ロシアケーキ、それはクッキーに近いものではありませんでしたか?
昭和20年代、厚い鉄板で母がクッキーを焼きました。やはり厚い鉄製の、中に筒のある鍋で生イーストを使い、パンも焼いていました。イサコフスキーさんのお話から、そんな事を思い出します。グスベリ(グーズベリー)で母が作ってくれたジャムの味。山からのお土産、コクワ(猿梨)のキウィフルーツに似た味。スモモ、カリンズ(フサスグリ)……懐かしいですね。二十歳の頃、友達と郊外に野ブドウを摘みに行き、ブドウ酒を造ろうとカメに仕込んでいましたら、「それは密造に当たる」と、父に厳しくとがめられたことも良い思い出です。流氷はついに見ることなく年を取ってしまいまいましたが、厳しい冬を含めて北海道は懐かしく美しく、いくつになっても忘れられません。スズランやライラックが咲くこの季節の札幌はことに。
もう少し生きて、道東の草原を再び見、マリーナの鐘を聞くのが今の望みです。
投稿: 眠り草 | 2011年6月 5日 (日) 08時53分