東京の灯よいつまでも
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:藤間哲郎、作曲:佐伯としを、唄:新川二郎
1 雨の外苑 夜霧の日比谷 |
《蛇足》 東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)にリリースされた新川二郎のヒット曲。
何かの事情で恋人と別れて地方に帰った若者が、外苑や日比谷界隈でデートしたことを懐かしく追想する、といった設定です。
外苑には皇居外苑と明治神宮外苑があり、どちらを指しているのかわかりませんが、どちらも当時のデートの名所。今はどうなんでしょうか。
日比谷といえばまず日比谷公園。日比谷通りを挟んで東側に帝国ホテルがあります。このころの帝国ホテルは、フランク・ロイド・ライトの設計になる重厚で風格のある建物でした。
日比谷公園内には音楽の殿堂・日比谷公会堂と日比谷野外音楽堂があります。昭和22年(1947)の黒澤明作品『素晴らしき日曜日』には、こんなシーンがありました。
貧しい恋人同士がコンサートを聴こうと日比谷公会堂に出かけたものの、入場券はダフ屋に買い占められていて、二人の持ち金では買えません。抗議した男性は彼らに殴られてしまいます。
しかたなく二人は、日比谷野音(と略称されていました)に向かいます。だれもいない会場で、男性は舞台で仮想のオーケストラを指揮し、女性は観客席でそれを聞きます。
フランスでは絶賛を浴びたといわれるほのぼのしたシーンでした。
3番を見ると、今の若い人たちは、羽田空港のロビーで恋人と泣く泣く別れて、飛行機で出身地に帰ったか、海外に旅立ったのだろうと思うかもしれません。
しかし、時代背景を考えると、それはちょっと無理。一般旅行者の海外渡航は、この年の4月に解禁されたばかり。それまでは、ドル備蓄のために、公務員やビジネスマンの公用・商用、留学等の目的以外では海外旅行は認められなかったのです。
国内路線はどうかというと、これも高価で、今のように普通の若者でも気軽に乗れるようなものではありませんでした。
羽田空港ははとバスのコースにも入っていた人気の観光スポットで、デートの場所にもなっていました。この歌の恋人たちもそこでデートしたことがあり、その思い出の場所を別れの場に選んだのでしょう。
もちろん、ロビーで彼女と別れてから搭乗したという可能性がないではありません。しかし、飛行機を気軽に利用できる金持ちのお坊ちゃんや、海外赴任する若手のエリート官僚・ビジネスマンは、この時代のこのシーンにはそぐわないでしょう。
ここはやはり、貧しいとまではいわないまでも、飛行機は利用できない普通の若者がふさわしいような気がします。
(二木紘三)
コメント
蛇足の蛇足です。
東京オリンピックから間もない頃、羽田のロビーでの目撃シーンの一端ですが、盛装した搭乗者が職場の同僚に取り囲まれるのみならず、見送りの家族も加わり、昔流に云えば「水盃で別れ」るような塩梅でした。所持金は固定相場の時代、1ドル360円で500ドルまでプラス日本円2万円、〆て20万円でした。聖路加で防疫を済ませた証拠のイエローブック携行。
昨今では、ジーパンにサンダル履きトートバッグを肩に、行楽地に向かう郊外電車に乗るような気分で機内に乗り込む若い人の姿に、時代の変転の凄まじさを実感します。
投稿: 槃独の呟き | 2011年2月10日 (木) 23時28分
雨のシーロム夜霧のラチャダ
今もこの目にやさしく浮かぶ
君はどうしているだろうか
ああバンコクの灯よいつまでも
単身赴任時カラオケバーでよくこの替え歌を
歌ったものです。昨年も二度ほど訪タイしまし
たが、五年の歳月は経済発展著しい彼の地では
浦島太郎の感じでした。
投稿: relokun | 2011年2月17日 (木) 00時00分
二木様が同年代のため、この曲を知っておられるのではと期待していましたがやっと登場してきました。嬉しいかぎりです。ありがとうございます。
私の幼いときに死別した両親が、青春を過ごした街であるからか、昔も今も東京は私にとってあこがれの街です。
東京をテーマにした詩曲は数多くありますが、私にとっての東京はこれにつきます。
生来の音痴ですがこれから何回も聴かせていただきます。
投稿: 鐵哉 | 2011年2月20日 (日) 20時40分
貴HPを知り、ビックリ!感激しました。
私、民生委員として「サロン」開催で高齢者の方々に懐かしの歌(昭和初期~30年代に流行った歌中心)を歌って頂く為に数曲ですが歌詞化(チラシ作成)しています。
知らない歌が多く有り苦痛気味でしたが、演奏が付いているので大変助かります。
また曲数が豊富なので有難いです(大感謝!)。
歌集本を見ながらの「キー入力」から、演奏を聴きながらの「チラシ作成」が出来て楽しくなりました。
感謝に堪えません。貴HPの更なる歌詞の充実を期待しています。
ありがとう!
投稿: スズヤン | 2011年2月22日 (火) 08時19分
このメロディーを聞くと、昭和35年夏、友人と3人で志賀高原に行き、渋峠を越え草津温泉まで6時間、連れ連れに歩いた当時大阪赤十字看護学生のTAさん、KAさんのことを懐かしく思い出します。
翌昭和36年10月、彼女たちが卒業旅行で、東北経由東京日赤本社に寄った際,1時間半の自由時間を、友人の車での東京見物に誘いました。当日は小雨でした。
港区浜松町の本社から銀座、日本橋の繁華街を抜け、大手町のビジネス街、皇居、日比谷公園を通り、神宮外苑で一休みして、最後の赤坂離宮(当時国会図書館、現迎賓館)では、もう雨はやみ、霞んでいました。少し開いていた正門から前庭に入り、建物の傍まで行きました。
横浜への帰途、喜んでもらえたかな、と一抹の不安を感じたりしましたが、1週間後KAさんより、次のような便りをいただきました。
・・・差し出した手紙も遅かったし、会えないのじゃないかなと、半分諦めていましたが、上野駅で拝顔致しました時はすっかりうれしくなってしまいました。本当に短い時間でしたけれど、今度の旅行で最高に楽しい時間でした。
さすがに首都だけあって、大阪に無い美しさ、上品さが漂っている様でした。
雨の神宮外苑もとっても素敵だったし、銀座や丸の内にも感激しましたが、私の最も気に入ったのが国会図書館のあのヴェルサイユ宮殿の造りでした。何かにつけ羨ましくなるばかりでした。とにかく私たちの目を輝かして頂き、有効な時間だったことは、いつまでも私たちの心に残る事と思います。丁度、志賀高原が忘れないように・・・
あれから50年が経ちました.TAさん,KAさん、東京見物に参加したTUさん、皆さんお元気にお過ごしですか!
投稿: 横浜のM.I | 2011年3月 5日 (土) 11時52分
二木先生おはようございます。
私は昭和19年生まれで67歳になります。
30歳の頃歌謡コンテストでこの歌をうたいました。残念ながら2位でした。
1位になると歌手の道が開かれていました。
仕事で東京へ行きますと必ずこの歌を歌っていました。
彼女と夜のはとバスに乗り他の乗客に聞こえないように、彼女の耳元で小さな声で歌った思い出があります。
今、地域の御老人を集めて、(私も老人ですが(笑)皆で歌う会をボランティアでやっています。
二木さんのコーナーから何度もお借りしてやっています。
懐かしい歌の登場でありがとうございます。
投稿: タンタン | 2011年6月 5日 (日) 06時13分
先日、ブラタモリを見ていて、神宮外苑を歩くと言う事で、彼と異口同音にこの歌を口ずさんでしまいました。
詳しい歌詞を探していて、このページをヒットし、思わずカラオケに乗って歌ってしまいました。
昭和39年は、次男が生れた年で、私は丁度第一線の企業戦士として遮二無二働いていました。
いやー、ほんとに涙が出るほど懐かしいですなぁ。
突然の書き込み、失礼の段、ご容赦の程。
投稿: 高貴 好齢者 | 2012年4月 1日 (日) 17時38分
いつも楽しませて戴いております。「管理人様への連絡」が閉じられておりますので、管理人様が何時ご覧になるかは判りませんがコチラに書かせて戴きました。細かい事ながら歌い手は「新川二郎」ではなく「二朗」であります。一昨年知人にご本人をご紹介されまして、名刺を頂戴いたしましたらそう書いてございましたので・・・・。
欄違いなれど岡晴夫さんの唄を是非是非今後取り上げて戴きたくお願い申し上げます。「小鳩」だけではツライのであります。
投稿: 世間亭東志郎 | 2012年5月24日 (木) 08時01分
「東京の灯よいつまでも」の時は 新川二郎でした。“郎”
投稿: なち | 2012年5月24日 (木) 10時51分
この「東京の灯よ…」についての逸話をひとつ…。
確か昨年だったと思うのですが、NHKラジオ・お昼2:00の「歌の散歩道」
に新川二朗さん(現在)がゲスト出演されてた時の本人談です。
渡された楽譜のタイトルは「ふるさとのやまなみ」(故郷の山脈)表記は不明。勿論歌詞の内容もこのタイトルに沿ったもの。曲の方は佐伯としおさんのこれだったそうです。
楽譜を見て新川さん、「ウーン、曲は素敵だと思いますが歌詞が今の世相に‥ちょっと…。」 それを聞いたディレクター(たぶん)「新川君、これを書いた作詞者誰だか知ってるの?、あの三橋美智也を「女船頭唄」で世に出した“藤間哲郎»氏だよ!
「でも今の時代にそぐわないような気が…今世間は東京オリンピック一色、東京をテーマにした歌をつくりましょうよ!」数日後藤間氏本人から連絡が有り、新川さんと逢う事に。「これでどうだ?!(半ば立腹?)。「うわぁぁ、これは素晴しい、これでいきましょ。……こうして「東京の灯よいつまでも」はリリースされて大ヒット! 新川さんは藤間さんに何度となく、お礼をいわれたそうです。 若かったが故の蛮勇というものなんでしょうか。魅力あるメロディなので、「故郷の山脈」でも中ヒットはいったかもネ。「東京の灯よ…」には遠く及ばなかっただろうけど。一度聞いてみたい気が。
投稿: かせい | 2012年6月24日 (日) 00時54分
「東京の人」でのOO様のリクエストはどうなったかと、やってきましたが、あれから4年、実現していました!上記かせいさんのエピソードですが、半ば立腹しながらも、これほどの歌詞を作れるなんて、藤間哲郎氏の才能には驚嘆しきりです。心に染まない依頼でも、プロであれば、却って良いものができる場合もあるのかもしれませんね。
投稿: Bianca | 2012年8月26日 (日) 19時02分
3番の「いとし羽田のあのロビー」で思い出すことがあります。
日本が高度成長期に差し掛かったころのこと、勤務していた会社も波に乗りかなり儲かったらしく、社長がアメリカ外遊に出かけることになりました。プロペラ機の時代でした。大仰にも社員が大勢羽田まで見送りに行ったのです。
そこで、2階から見下ろしたロビーの異様な光景にハッとしました。真新しい軍服に丸刈りの米軍の新兵らしい数十人が円く並んだソファーにずらりと座っているのです。
みんな一様に不安そうな表情で押し黙っていました。
多分ベトナム戦線へ送られるトランジットだろうと想像を逞しくしました。
彼らはその後どうなったのだろうと今でも思い出します。
投稿: 栃木県・吉沢義之 | 2014年2月 1日 (土) 22時14分
3番「いとし羽田の あのロビー」のくだりについて、二木先生の《蛇足》「ドル備蓄のために・・・公用・商用、留学等の目的以外では海外旅行は認められなかった・・・飛行機は利用できない普通の若者がふさわしいような気がします」は、じつに明快な解説だと思う。
この曲を聴くと、昭和39年は既に高度経済成長期に入っていたが外貨準備高は少なく、当時の新聞経済欄によく載っていた「ドル備蓄」という言葉をなつかしく思い出す。
それにしても、全掲載曲について《蛇足》を付加するというのは大変な労力だと思うが、《蛇足》のおかげで歌詞の”裏”にある意味を把握できるわけだから有難い。
投稿: 焼酎百代 | 2014年8月 9日 (土) 20時28分
二木先生、いつも楽しみに拝見しております。
この歌が流行していた頃、私は中学生。都電に乗って、東京の街をあちこち巡ったものでした。地下鉄より安く、街の様子も観察できて、楽しい乗り物でした。
皇居外苑は、私たちは「皇居前広場」と呼んでおりました。そのお堀端や、日比谷公園の前、神宮外苑に近い青山通りを走るときは、電車も誇らしそうに見えたものです。高層ビルが少なかったせいで、空が広かったです。
何とも懐かしいです。
投稿: 川口雄二 | 2014年9月 5日 (金) 10時37分
『東京の灯よいつまでも』がヒットした昭和39年は東京五輪開催年ということで、この歌が東京五輪とどういう訳か結びついて強く印象に残っています。
当時は某県某市の地方大学で麻雀漬けでしたが、五輪好き?のポン友は重量挙げ競技などを観に遠路上京していたようです。東京は五輪ばかりでなく、新幹線・首都高開通やビルラッシュなどで熱気活気に溢れていましたな(地方在住のため実際に見たわけではないですが)。
投稿: 焼酎百代 | 2015年10月23日 (金) 16時43分
「東京の灯よいつまでも」は心に残ります。知り合いが東京に行き、自分だけ郷里に残ったので半分やけになっていたようです。東京五輪もテレビは親類の家で見たのです。仕事は最初3ヶ月続けばいいと思っていましたが、定年までできました。
「僕は泣いちっち」という歌も流行りました。少し前だったでしょうか。
日本が高度成長の波に乗っていたのと同じ路線に乗っていたのでしょう。
投稿: 今でも青春 | 2015年10月23日 (金) 19時35分
当方65歳。25年前に単身赴任で新橋の支店に通勤し、羽田空港から全国各地に出張していました。定年した今は地方に戻り、艶めいた思い出は一つもなかったもののサラリーマン人生の一番充実した日々を過ごした新橋駅前の汽車がある広場や日比谷公園、羽田空港などを懐かしく思い出しながら、嗚呼、東京の灯よいつまでもと、スナックでのカラオケの1番曲として歌っています。
投稿: SK2 | 2016年7月 9日 (土) 20時30分
横浜の高台にある西谷浄水場展望台から遠く東京の街並みが見えます。
そして遥かに見る東京の景色には71歳の今、もうただ懐かしささえ感じさせられます。
あそこは田舎者の私が悪戦苦闘した街、嬉しかったり悲しかったりそしてたくさん恥をかいた街。見ているとそんな人生を今更に思い出します。
三流大学卒暗愚無能の私には当然ツライ厳しい街でした。
でもこの曲と歌詞は聞く度に東京で負ったそんないろんな思いを癒してくれる優しさを感じます。
会社で知った品の良い山の手言葉だったあのお嬢さん、待乳山を「まっちやま」と発音した蔵前の子。本物の東京人だったあの人達も皆お婆さんお爺さん、あの人達にもう一度だけ会いたいなあ。若いあの時の姿で皆で会いたいなあ。
何にも知らなかった社会人に成りたての頃に帰りたいなあ、この歌はそんな気に私をさせます。
投稿: 望郷人 | 2016年8月29日 (月) 10時07分
新川二朗(二郎を改名)も冠二郎に倣って?年齢のサバ読み((誤)昭和17年生→(正)昭和14年生)を今年公表してましたが、昔、地元石川県のレジャー施設で歌っていたところを村田英雄にスカウトされたそうです。
佐伯としをのヒット曲には『あん時ゃどしゃぶり』(春日八郎)、『ネオン川』(バーブ佐竹)など多数ありますが、なかでも『東京の灯よいつまでも』は繰り返し聴きたくなる心に沁みる名曲です。
投稿: 焼酎百代 | 2016年10月10日 (月) 21時29分
同じ曲への連投で失礼します。
新川二郎改め新川二朗の鼻にかかったような節回しが独特でしたが、〽雨の外苑夜霧の日比谷 いとし羽田のあのロビー ああ東京の灯よいつまでも・・・佐伯としを作曲、二木楽団の名演奏と相俟ってつくづく心に沁みる名曲です。
本曲の大ヒット1本で悠々自適だという某夕刊紙の新川二朗インタビュー記事を読んだことがありますが、やはり本人の才能と努力の成せるわざではないかと思う今日この頃です。
(新川二朗)http://www.youtube.com/watch?v=GjJBunThqfM
投稿: 焼酎 | 2017年9月17日 (日) 12時51分
「東京の灯よいつまでも」昭和39年オリンピックの年に大ヒットした今でも大好きな曲ですが、新川二郎の歌で、私は幼い頃に照れくさい思いをしたことがあります!
前年の昭和38年、私が小学3年生の時ですが、当時ラジオでよく聴いていた「指切りの街」この歌も大好きだったのですが、ある日、家には誰もいないと思っていた私は、大きな声で、♪♪♪そのひとみ そのひとみ 僕のもの 僕のもの~♪♪♪と、気持ちよく歌っていたところ、突然後ろから、お~い、おまえそんな歌どこでおぼえた~と父の声がして、誰もいないと思っていたので、ビックリしたのと同時に恥ずかしかったという思いをしたことを憶えています。
そしてその日、家族そろって夕食を食べる時、焼酎で晩酌している父の口からそのことがでるのかなぁと、ドキドキで心配していましたが、父は黙っていてくれました。
今思えば懐かしい笑い話ですが、幼かったその頃の私にとっては真剣なことでした(笑)。
そしていつも無口で怖いと思っていた父のやさしさを初めて感じた日でもありました。
「東京の灯よいつまでも」一人でドライブ中の時なんかは今でも口ずさんでる私の大好きな曲です。
投稿: 芳勝 | 2018年10月21日 (日) 01時06分
「東京の灯よいつまでも」は、懐かしい歌です。
この歌が世に出た昭和39年、既に東京を離れて、関西の地でサラリーマン生活を始めていました。
歌っている新川二郎さんが郷里(石川県)出身ということもあり、親近感を持つ好きな歌でした。
時が過ぎ、定年間近な頃、東京出張の帰りの夜、羽田空港へ向かいました。そして、空港ロビーの雑踏の中で、中学校で仲良かったK君に、ぱったり出会いました。K君も、直ぐ私を認めました。旧交を温め、暫く歓談の後、彼は小松空港に向けて、私は大阪空港に向けて、別れました。
「東京の灯よいつまでも」の歌詞3番の、♪…いとし羽田の あのロビー…♪のところに来ると、あの奇遇と別れが思い出されるのです。
ついでながら、同じ歌詞3番の出だしの、♪花の唇 涙の笑顔…♪では、大好きな「夜霧の第二国道」(宮川哲夫 作詞、吉田正 作曲、フランク永井 唄 S32)の歌詞2番の出だしの、♪花の唇 泪(なみだ)の瞳…♪をよく連想します。
投稿: yasushi | 2018年10月21日 (日) 09時59分
聴くたびに懐かしさが込み上げます。
私の中では(昭和21年生まれ)
昭和懐古ソング(ノスタルジック)では「ああ上野駅」と双璧です。
投稿: りんご | 2018年10月21日 (日) 17時50分
この曲が流行ったころは、私が社会人となって5年目の頃でした。
いきつけの居酒屋に日参していましたが、カウンターの上にあるポータブルプレイヤーから流れていたこの曲を懐かしく想い出しています。
ドーナツ盤 懐かしく想い出します。
http://www.youtube.com/watch?v=jn3T2xpof9k
投稿: 一章 | 2018年10月21日 (日) 21時03分
二木先生、いつも楽しみに拝見しております。1964年(昭和39年)オリンピックの年に大ヒット、今2021年(令和3年)もう57年も前のことになる 就職や進学などで都会へ行った友人も多く自分も東京に行って新聞配達でもして勉強したいと“夢”見ていたことでした 昨年N・Kのど自慢予選会で「東京の灯よいつまでも」を歌ってみましたが、みごと落選 2020五輪が新型コロナで延期となりましたが今年は何とか開催出来ればうれしく思います
投稿: takasan | 2021年4月18日 (日) 08時44分
又マタまた 緊急事態宣言 一体どうなっているのでしょう
ヤルときは徹底的にやって終息させるべき・・・と思うが
ああ~新型コロナの火よいつまでもでは誰が困るのでしょう
早く東京に行きたい・・・・・オリンピックも心配だ
投稿: 新川三郎 | 2021年4月23日 (金) 20時01分
新川二朗さんは8月21日に82歳で亡くなりました。
君を慕いて、指切りの街、真赤な地平線、望郷、金沢の灯よいつまでも、なども好きです。
投稿: Hurry | 2022年8月23日 (火) 06時56分
この歌は、58年前、東京オリンピックが開催されたときに大ヒットしたのを覚えています。地元の企業に就職しましたが、若い時は東京にあこがれを何時も持っていたものです。今日、新聞で新川さんの訃報を知り、大変残念に思います。いつも口ずさむ歌でした。ご冥福をお祈りいたします。
投稿: takasan | 2022年8月23日 (火) 20時11分
S46年田舎の学校を出て東京へ行きました。寝台列車です。まだまだ若造には飛行機など縁がなく、数年たって東京を去り地方へ帰ったときも国鉄東京駅からでした。
新婚旅行が初めての飛行機。それから高度成長・バブルへと進みます。そのころから羽田がこの歌を実感できるような場所になってきましたね。
歌詞、曲ともにいつまでも心の中で生きている名曲です。新川二郎さんの伸びのある声が聞こえてきます。ご冥福をお祈りいたします。
投稿: 遠木道程 | 2022年8月24日 (水) 01時13分