« 東京の灯よいつまでも | トップページ | なつかしき愛の歌 »

2011年3月10日 (木)

東京ブルース(淡谷のり子)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo



作詞:西條八十、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子

1 雨が降る降る アパートの
  窓の娘よ なに想う
  ああ 銀座は暮れゆく
  ネオンが濡れるよ
  パラソル貸しましょ 三味線堀を
  青い上衣(うわぎ)でいそぐ君

2 ラッシュ・アワーの 黄昏を
  君といそいそ エレベーター
  ああ プラネタリウムの
  きれいな星空
  二人で夢見る 楽しい航路(ふなじ)
  仰ぐ南極 十字星

3 だれも知らない 浅草の
  可愛い小(ちい)ちゃな 喫茶店
  ああ あの娘(こ)の瞳は
  フランス人形
  私を待ち待ち 紅茶の香り
  絽刺(ろざし)する夜を 鐘が鳴る

4 昔恋しい 武蔵野の
  月はいずこぞ 映画街
  ああ 青い灯 赤い灯
  フイルムは歌うよ
  更けゆく新宿 小田急の窓で
  君が別れに 投げる花


《蛇足》 同名の東宝映画の主題歌として、昭和14年(1939)に作られたもの
 
昭和12年(1937)の『別れのブルース』、同13年(1938)の『雨のブルース』と『思い出のブルース』に続いて発表された服部良一のブルースです。いずれも淡谷のり子が歌いました。

 戦後派には、昭和39年(1964)にヒットした西田佐知子の『東京ブルース』のほうがなじみがありますが、ブルースの特徴は淡谷版のほうがよく出ていると思います。

 銀座・浅草・新宿と、『東京行進曲』と同じ盛り場を、新感覚のメロディー、ブルースで歌ったもの。
 歌詞にも、ネオン、エレベーター、プラネタリウム、喫茶店、紅茶、フランス人形といった
、当時としては都会的なアイテムがちりばめられています。

 1番の三味線堀は、寛永年間から大正初めまで、今日の台東区小島町にあった堀割。不忍池から流れ出た忍川が鳥越川につながるところに舟溜まりとして掘られたもので、形が三味線に似ていたところからこの名がついたといわれます。
 三味線堀を出た流れは鳥越川を経て隅田川に注ぎました。
 大正の半ばごろにはほとんど埋めたてられて、この歌のころには地名としてしか残っていなかったはずです。
 上の絵は、『新撰東京名所図会』のうちの
山本昇雲画『三味線堀』(明治41年〈1908〉)

 2番のプラネタリウムについて天文家の小川誠治さんから、有楽町駅前にあった「東日天文館」かもしれない、という示唆をいただきました。
 東日天文館は、日本で2番目のプラネタリウムとして、昭和13年
(1938)11月に開館。同20年(1945)5月25日の空襲でプラネタリウムのあった階などが被弾しましたが、建物やドームは残って、戦後東京放送のスタジオとして使用されたそうです。
 昭和42年
(1967)、新有楽町ビル建設に伴い解体されました。

 この歌がリリースされる1年前のオープンで、場所も有楽町というデート(当時はランデブーでしょうか)の名所でしたから、作詞に当たって西條八十が着目したのでしょう。

 3番の絽刺は「ろざし」は刺繍のこと。絽は透けて見えるような薄い絹織物で、夏の羽織や単衣(ひとえ)、袴などに使われました。この絽に色糸で模様を作ったのが絽刺で、要するに日本刺繍ですね。

 4番「武蔵野の……映画街」といえば、新宿駅中央東口を出たところに武蔵野館という映画館があります。もうなくなったかもと思って調べてみたら、健在でした。学生時代(昭和30年代後半)に私が通った新宿の映画館で今もあるのは、この武蔵野館とミラノ座ぐらいかもしれません。
 ミラノ座と向かい合わせに建っていたコマ劇場はなくなってしまいました。

 『東京行進曲』の4番に「変わる新宿 あの武蔵野の」というフレーズがありますが、今は変貌がさらに加速されているように思われます。盛り場としての新宿はとうの昔に「私の新宿」ではなくなってしまいました。

(二木紘三)

« 東京の灯よいつまでも | トップページ | なつかしき愛の歌 »

コメント

三味線堀近辺に 昭和十年代住んで居たことがあります 当時カフェとも喫茶とも呼ばれていた 女給という女性が酒の相手をしている店が 軒を並べていました 林芙美子の放浪記の世界でした 射的屋 大衆酒場等が混在し 夜ごと酔った女給の嬌声が聞こえてくる 一種の風俗街でした 西条八十も 取材に来たことがあるのでしょうか 

投稿: 夢見る男 | 2011年3月11日 (金) 11時12分

  あゝ忘れていました!淡谷のり子という偉大な歌手を。
この曲と共に「別れのブルース」(~やくざに強いマドロスの~)、「雨のブルース」(~あー帰り来ぬ心の青空~)のフレーズと、何と言っても服部メロディの美しさは心の中に帰り来ぬ青春時代の思いが脈々と生きているようです。
 彼女はシャンソン・ラテン・ジャズの先駆者で、ソプラノというよりハイトーンが素晴らしく“ブルースの女王”と謂われており、往年は《毒舌と酷評》でやや敬遠されたようでもありましたがそれを栄養にして育った歌手も沢山誕生しました。
 これからウン十年振りにこの曲や「人の気も知らないで」「暗い日曜日」「夜のタンゴ」「巴里祭」「思い出のカプリ」「アマポーラ」「ルンバ・タンバ」等のオリジナル原盤『淡谷のり子・別れのブルース』のLPを聴きぐっすり眠ります。
3/11発生した三陸沖大地震の悲惨さ惨に、何かしなければ・・・との思いを募らせながら。

 阪神淡路大震災では、瓦や壁が壊れ今のところへ引っ越しました。


投稿: 尾谷 光紀 | 2011年3月13日 (日) 23時13分

 二木紘三 様

 アマチュア天文家の小川誠治でございます。

 このたびは、東日天文館のことをご紹介してくださいまして、誠に有難うございました。
 当館は開館していたのが短期間であったため、資料が大変少なく、空襲前のいつまで営業(開館)していたか、旧・五島プラネタリウムの最後の館長である、村山定男先生はせっせと通われたそうですが、その中に女性の解説員がいたとおっしゃっていますが、資料には見当たりません、などの謎も多いのです。もし本欄をご覧になりました皆様で、見に行ったことがあるとか自分はないが父母が行った、近所に解説員がいた、チラシや写真を持っているなどなどなんでも結構でございますので、情報がございましたらぜひお知らせくだされば幸いでございます。(正確には、1943年毎日新聞への社名変更に伴って、毎日天文館と名称変更しています)

 蛇足欄で、「同名の東宝映画の主題歌として、昭和14年(1939)に作られたもの」との解説がございましたが、私が所蔵している当時のチラシを見ますと、出演者の中にデイック・ミネや川田義雄(「地球の上に朝が来る~」の川田晴久)などの名前が見られます。(東宝直営 第1映画劇場ニュース第86号)

 また、ミス・コロムビアさんの「星月の歌」は天文館開設時に毎日新聞で歌詞の募集をしたようですが、これも詳しいことがわかりません。こちらの関係でご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示くだされば幸いです。

 あわせてよろしくお願いいたします。

投稿: 小川誠治 | 2011年3月23日 (水) 22時49分

 3.11以来、何も手に付かずに1カ月余り、漸く文字を書く気になりました。
 歌詞4番の最後「花」は何の象徴表現なのか、教えを乞う次第です。
 比較・参考のため、西条八十の別の作品を以下に掲げますが、こちらの「花」も充分には解釈出来ないような体たらくです。
 雨の夜汽車(唄:奈良光枝)
2.言えず別れた言葉の花が 
  濡れて泣いてるプラットホーム(以下略)

投稿: 槃特の呟き | 2011年4月24日 (日) 22時30分

槃特の呟き様
聴く人、歌う人によって花の解釈は様々なのではないでしょうか。「今ひとたび」「愛しています」私なら「このまま私をさらって下さい」かな。昔の作詞家は語彙が豊富で表現が豊ですね。「私をさらえますか」若ければプラットホームでもう一度言ってみたい言葉です。(槃特様、とお呼びするのは失礼かと存じますが、お許しを・・)

投稿: ハコベの花 | 2011年4月25日 (月) 23時53分

ハコベの花様
 「仰天する様な」と形容する以外に詮術を知らないような解釈を承ったといった感じです。別れ際に真情を口にする人、呑み込んでしまう人、様々でしょうが、フランス象徴派の研究者が此の言葉で何を表そうとしたのか、一般解が有りそうな気がしたので、敢えて質問した次第です。

投稿: 槃特の呟き | 2011年4月26日 (火) 17時58分

何にも言えずに別れた若い日がありました。帰り道「別れ来てふと瞬けばゆくりなく冷たきものの頬をつたりて」という啄木の歌を思い出していました。結婚が決まってしまった私を「さらえ」と彼に言いたかったのです。けれどもそれは商社に就職したばかりの彼の将来を潰す事になりかねません。「さらえ」と言えなかった自分と、彼を傷つけた悔恨に今でも苛まれる夢を見る事があります。槃特さんを驚かせてしまいましたか。飲み込んだ言葉は半世紀にわたって私を悲しませているのです。

投稿: ハコベの花 | 2011年4月26日 (火) 23時10分

ハコベの花様
 いやはや、途轍もない思いの淵を覗かせて貰った様な気が致します。「東京ブルース」は扨て措き、「雨の夜汽車」は、歌手がそれ程深刻な思いを籠めて歌っているようには響いて来ませんでした。男女間の如何ほど深刻なエピソードに出逢おうとも、沈香も焚かず屁もひらずと云った道を歩んだ者には、顰蹙を買いそうな揶揄と受け取られるかも知れませんが「ご馳走さま」と返すのが精一杯です。

投稿: 槃特の呟き | 2011年4月27日 (水) 16時41分

槃特の呟き様

学識豊かで知性と教養に満ち溢れた方々には、私の感想など申し上げるのも無謀と言うものでしょうが、笑われることを覚悟して申します。
この歌4番の「花」は、優しい言葉、あるいは幸せに満ちた笑顔。 この場合は幸福な思いを感じさせるのが花です。
槃特の呟き様が例に挙げていらっしゃる「言葉の花」は、秘めたがゆえに一層輝きを増す、言葉(思い)の結晶(花)のごときもの。
そのように私は感じました。

西條八十の詩には(手元の八十の詩集では))花の名が度々出てきます。それは具体的な花の名で、当然そこでの「花」のイメージはさまざまです。
ポピュラーな詩、あるいは詞における「花」は、また少し違った意味を持つのではないでしょうか。
一般的な解がどうなのかは、私は存じません。

ハコベの花さんに捧げます。

ご存じかもしれませんが、西條八十には【亡き母を念(おも)ふ】と言う散文があります。
八十の母は、十七歳で西條家に嫁ぎますが、相手は式が行われる直前に急死します。
それで、姑の命令によって、西條家の中年の番頭と結婚を余儀なくされるのです。この番頭が八十の父です。

母の死期が近付いた時、八十は一夜付き添います。すると、母は本来夫となるはずだった人の名を呼んだのです。
その人は美しい人だったと、母はいつも口にしていたそうな・・・。
西條八十は
「私は七十余年老いやつれた彼女の胸になほ生きてゐる若きロマンティシズムの焔の強さに驚嘆した。
私の父に対しては徹頭徹尾貞良な妻であった母。しかも、心内に最後まで初恋の強い記憶を忘れなかった母。
 私の母は生まれながらの詩人であった。」と書いています。

投稿: 眠り草 | 2011年4月28日 (木) 03時27分

眠り草様
心に沁みるお話し有難うございました。西條八十のお話しは始めて知りました。切ない話ですね。女は家庭を守るために愛した人のことは心の奥底に沈め、夫に尽くします。けれども晩年になって人生を振り返ると、沈めていた青春の思い出が光はじめます。愛した人は自分の青春そのものです。愛おしく切なく、八十のお母さんも思わず名前を呼んだのでしょう。別れは別れた時よりも、年数を経て思い出した時のほうが悲しく感じます。ですから別れの歌が多く作られるのでしょうね。何にもなかった青春よりも、悲しい思い出でもあった方が人生は豊になるように思います。散りゆく花も美しいものです。

投稿: ハコベの花 | 2011年4月28日 (木) 15時48分

 事務的な日本語にどっぷり漬かってきた極めて散文的な人間が、韻文の世界の象徴表現に方程式の一般解の様なものを求めるのは見当違いを犯すことになると云う事を、このたびの私の質問に頂戴したお答えから良く理解できたと考えている次第です。蒙を啓いて下さったご投稿には多謝、多謝です。露呈した私の無知と無恥は慙愧に堪えません。

投稿: 槃特の呟き | 2011年4月28日 (木) 22時08分

槃特の呟き様
 貴方の御質問の意味とかけ離れた事を書いてしまったのかと考えております。高校生の時(現代国語)という授業がありました。3回ぐらい授業を受けたのですが、選択科目だったのですぐやめてしまいました。先生の解答が間違っている様に思えたからです。私は国語が好きでしたし、多分、この受け持ちの先生より本も読んでいると自負しておりましたので、先生の解答のほうが間違っていると勝手におもってしまったのです。文学の解釈は1つではないとは思いますが、私のほうが間違っていたのかも知れません。槃特の呟きさんの一般的な解答が分かる方が居られましたら、是非ご教授をお願いしたいと思います。

投稿: ハコベの花 | 2011年5月 4日 (水) 00時23分

 この度の私の単純な疑問を発した投稿に思いもかけないお応えを頂戴しました。それらを咀嚼した上で、以下の様に考えて自らを納得させようと思う次第です。
 眠り草さまのお答えの中に「結晶」という言葉が有りましたが、これは取りも直さず「華」のことで、「美しいもの」「優れたもの」の謂と思います。私が求めた一般解は無理としても、「真情の籠った香しい言葉」あたりが最大公約数くらいにはなろうかと思います。

投稿: 槃特の呟き | 2011年5月 4日 (水) 23時15分

槃特の呟き様
花は、あるものは可憐で、あるものは気高く、清らかな香気や甘い香りを放つものもあれば、嫌われる匂いを持つものもあります。
その姿形、色、香りは、皆異なるので、そのために「一般解」と言う言葉に少し戸惑いを覚えます。私は「花」を「結晶」と表現しましたが、多分その色彩はさまざまなのであろうと…。
上手に説明する事が出来ませんでしたが、槃特の呟き様が笑わずに受けとめて下さいました事に感謝いたします。

投稿: 眠り草 | 2011年5月 6日 (金) 00時25分

僕は「東京行進曲」は、鉄道雑学本に載っていた事から聴いた事があるのですが、この東京ブルースは初めて聴く曲です…。

「蛇足」の最後の方にある事には僕も同感で、変わりつつある東京を見るたびに、小さい頃の憧れや思い出が、一つ二つと消えて行くのか…と、痛感しております…。

今年には地下鉄銀座線渋谷駅が、東急デパート3階から渋谷ヒカリエに移されると同時に、4代目車両となる2代目1000系が投入され、今までのアルミカーは、海外へと譲渡されてしまいます…。

色々なモノが日に日に変化していくのが、都市の宿命かと思うと、やはり寂しく成りますね…今までのモノは、全て思い出というのも、時の流れの残酷さが身に染みてきます…。

長文に成ってしまい、申し訳ありませんm(_ _)m

投稿: 銀座線01系 | 2012年1月20日 (金) 19時12分

ご無沙汰しました。久し振りでyou tubeの歌を聴きましたらば、4番の「フィルム」は「フイルム」と歌っていますね。あの頃はフィルムとは言わなかったものです。何か納得しました。
それと、「新宿」を字の通りに「しんじゅく」と歌ってます。戦前は「しんじく」と言ってましたが…。

投稿: 遠藤雅夫 | 2012年2月22日 (水) 09時26分

西條八十という人は本当に小田急が好きですねw
最後の「君が別れに 投げる花」は確か元の詞では「投げキッス」だったのを、のりピーが「こんなの嫌だ」と言って変えてもらったという話を聞いたことがありますが、初吹込み時はどう歌っていたか興味があります。

投稿: ねこぢる | 2019年8月12日 (月) 23時21分

ネットでは♪君別れの投げキッス では唄ってないようです。
「それからの西条八十は淡谷に作詩をしていない。」とあります。
http://blog.livedoor.jp/melody1964/archives/2014-08-08.html

投稿: なち | 2019年8月13日 (火) 06時45分

正しくは「君が別れに 投げキッス」です。
「ネットでは」も何も昭和十四年の初吹込み時に西條に直談判して変えさせちゃったんですよ。さすが女王様ですw
下記はそのオリジナルです。戦後に再録したものよりテンポがかなり速くて雰囲気が良くないので、若干スローにしてエコーをかけてありますけどね。
https://youtu.be/YBZKwRbuqZE

投稿: ねこぢる | 2021年9月24日 (金) 06時33分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 東京の灯よいつまでも | トップページ | なつかしき愛の歌 »