夜来香(イエライシャン)
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞・作曲:黎錦光、日本語詞:佐伯孝夫、唄:李香蘭
あわれ春風に 嘆くうぐいすよ (原詞) 那南風吹来清凉 那夜鴬啼声凄愴 |
《蛇足》 比類なき人生を歩んだ比類なき女優・李香蘭(リー・シャンラン、本名:山口淑子)の持ち歌で、かつ最大のヒット曲。
この歌は李香蘭の波瀾万丈の人生と切っても切り離せませんが、それについてはネット内外に大量の文献がありますので、ここでは概要を述べるにとどめます。
1920年に遼寧省瀋陽郊外(のち撫順へ)に生まれた山口淑子は、父親が満鉄の中国語教師であったことから、日中両国語を自由に話すようになりました。1938年、中国人・李香蘭として芸能活動を開始、満州国の国策映画会社・満映(満州映画協会)や中国の映画会社で数多くの作品に出演し、またヒット曲を連発しました。
1941年の紀元節に来日、日劇に出演することになった際には、観衆が劇場を7回り半も取り囲む騒ぎとなり、消防車が放水して観衆を追い散らしたというエピソードが伝わっています。
やがて日本の敗戦。李香蘭は漢奸(ハンジエン)として告発されましたが、友人たちが奔走して彼女が日本人であることを証明しました。漢奸とは日本に協力的だった中国人を指す言葉で、売国奴という意味です。漢奸は中国人に対する罪状であったため、法律上日本人に適用することができず、彼女は釈放されました。
昭和21年(1946)2月28日に帰国した彼女は、本名の山口淑子に戻り、日本映画の主演女優として活躍します。また、アメリカに渡ってハリウッド映画やブロードウェイのミュージカルにも出演。
滞米中に日系の世界的な造形芸術家、イサム・ノグチと結婚しますが、4年後に離婚。3年後の昭和33年(1958)、外交官の大鷹弘と再婚、芸能界を引退しました。
昭和44年(1969)、フジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者として芸能界に復帰、さらに昭和49年(1974)、時の総理・田中角栄の要請で自由民主党から出馬し、参議院議員となりました。いくつかの要職を歴任したのち、平成4年(1992)に政界を引退。
平成26年(2014)9月7日、94年の波乱の生涯を終えました。
さて、『夜来香』ですが、これは中国の著名なソングライター、黎錦光(リー・チンクァン、作曲家名は金王谷)が、上海百代唱片公司の音楽部主任だったとき、映画『春江遺恨』の挿入歌として作ったもの。
1944年(昭和19年)、同レコード会社の事務所で、庭に咲いていた夜来香の花を見ながら作詞・作曲した、と彼自身が語っています。台湾の同名の古歌や民謡風の『売夜来香』などをモチーフとして、洋楽の感覚を取り入れた軽快なメロディに仕上げたといわれています。
黎錦光は当初、この歌を中国人歌手に歌わせるつもりでしたが、テストの結果に満足いかず、どうしようかと迷っていました。そのころ、たまたま事務所を訪れた李香蘭が歌ったところ、彼のイメージ通りの歌唱だったので、彼女に歌わせることにしたそうです。
そのレコードが発売されると、たちまち全中国で大流行しました。さらに、黎錦光と親交のあった服部良一が編曲して発表したところ、英語・フランス語・タイ語などに翻訳されて、一躍世界に広まりました。
山口淑子が佐伯孝夫の日本語詞で歌ったのは昭和25年(1950)のこと。同年1月にビクターから発売されると、これまた大ヒットとなりました。
この歌が作られたのは戦前のことですが、山口淑子の日本語版が発売されのが戦後ということで、「戦後第1期歌謡曲」のジャンルに入れました。
黎錦光は1907年、湖南省の生まれ。学生時代、当時まだ無名だった毛沢東に教わったそうです。その毛沢東がのちに引き起こした文化大革命では、黎錦光も走資派として迫害を受け、辛酸をなめました。1993年、上海で病死。享年86歳。山口淑子に負けず劣らずの波瀾万丈の生涯でした。
なお、夜来香は月下香とかオランダ水仙とも呼ばれ、英語名はチューベローズ(tuberose)。8月下旬から9,10月にかけて芳香を放つ百合形の白い花をつけます。
日本語詞では季節と花期がずれていますが、まあ歌だからいいでしょう。
(二木紘三)
« なつかしき愛の歌 | トップページ | 一本の鉛筆 »
コメント
中国語を習うきっかけとなったのがこの歌でした。
夜来香と呼ばれる花は、数種類有るようで、チューベローズがこの歌の夜来香であることは初めて知りました。
台湾旅行のときは、花屋さんでチューベローズを買い、ホテルの部屋に飾ります。夜、遊びから帰って、部屋のドアを開けた時に匂ってくる香りは、思わず「♪夜来香~♪」。
この花は、日本に持ち帰っても(?植物検疫)1週間くらいは咲き匂ってくれます。
投稿: 華女 | 2011年4月11日 (月) 20時45分
快いテンポで中国の歌の中ではピカイチのいい歌ですね。
「夜来香」という花は園芸店でよく売られている「夜香木」と姉妹だと思っており、年に5~6回二胡・柳琴・楊琴のグループとボランティアをしている彼女たちに、数年前「夜香木」をひと鉢ずつプレゼントしたことがあります。夏の夜うす黄色で小さいラッパ状の花から白粉に似た香がしておりました。
そして山口淑子のことも蛇足で知りフッと思い出した歌で『東京セレナーデ』は彼女が歌っていたのでは?と。
青いランプに灯をつけて
カーテン引く手のやるせなさ
泣けば涙の星空を
ああ 流れ来る来るあの歌は
誰が歌うか 東京セレナーデ
のように記憶していますが、よく姉たちが歌っていて覚えたのは小学校3~4年の頃だと・・・少しマセテいたようです。
このプログで忘れかけた諸々を思い出させていただき、そして友人も多く平々凡々と古希を迎えた自分は幸せ者だと心から感謝をしております。と思うのも年取ったせいかな?自分にとって今がそれなりの<青春>真っ只中で、9グループの地域活動が活力源にもなっています。
投稿: 尾谷光紀 | 2011年4月14日 (木) 23時39分
山口淑子さんの「東京セレナーデ」は「東京夜曲」ですね。
歌い出しで検索すると歌詞、MIDI、歌があります。
♪青いランプに 夜は更けて・・
投稿: なち | 2011年4月15日 (金) 07時21分
なちさん!
♪青いランプに灯をつけて→ ~ 夜は更けて
そして「東京セレナーデ」→「東京夜曲」を、更に佐伯孝夫作詩・佐々木俊一作曲ということもわかりありがとうございました。
ボケがきているかも知れませんが60余年前の記憶でしたし、久しぶりに聴いた山口淑子の歌にあの頃の苦しかった貧乏時代を思い出し、今の平和ボケした幸せをかみ締めています。
以前の「手紙」についても貴重なご教示ありがとうございました。
今日『造幣局桜の通り抜け』に行き、昨年投稿した川柳「日本の心ここだと通り抜け」が短冊になって“鐘馗(しょうき)”という桜の木にぶら下がっておりました。
投稿: 尾谷光紀 | 2011年4月15日 (金) 16時26分
川柳、おめでとうございます。
ネットにも載っているので観て来ましたよ。
昔、通り抜けに行った時に投稿しましたが没でした。
震災で倒れた桜の木に、桜の花が咲いているのをテレビで観て、
被災者の心にも、いっぱい咲いて欲しいなぁーと思いました。
投稿: なち | 2011年4月15日 (金) 19時34分
山口淑子さんの人生は、父の満州従軍期と、ほぼ重なります。
父は、近衛兵として入隊後、満州の関東軍に所属、延べ6年以上、満州の満ソ国境の警備、でした。
李香蘭は、知っていたが会ったことは無いそうです。
ただ、父は上官に反抗的だったため、昇格できず、古参兵として、かなり、自由気ままに過ごしたようです。
いつも駐屯地を抜け出して、地元の満州人と、交流していたようです。
そのため、父は、今も北京語が話せます。
数年前、父が、中国旅行の飛行機の中で、中国人の青年達と一緒になり、機内食が食べられなくて、隣の中国人青年に「この弁当食べてくれますか?」と北京語で話しかけたところ、その青年が、日本語で、「あなた、北京語が話せるんですか!」と、それぞれが、相手の国の言葉で、話してしまって、大笑いしたそうです。
その後、機内では、話が弾んだようですが、満州従軍の話しはしなかったそうです。
現在父は95歳、まだまだ元気で農業を行っています。
投稿: 月の輪熊 | 2011年7月10日 (日) 14時26分
カラオケで僕の持ち歌です元満州生まれなので大好きです
投稿: 山下輝明 | 2013年4月10日 (水) 22時19分
先日NHK朝ドラ『ブギウギ』を観ていましたら、『夜来香』に出合いました。
場面は大戦末期の上海で、李香蘭役の女優さんが中国語で歌っていました。
八十数年前に作られた歌ですが、メロディも歌声も素晴らしく、とても新鮮に、魅力的に感じました。
原語による歌声は初めて聴きました。♪あわれ春風に 嘆くうぐいすよ…♪の日本語歌詞は、馴染んでいて、すっと口を衝いて出てきますが、…。
二木先生の《蛇足》に、” …、黎錦光と親交のあった服部良一が編曲して…”とありますすが、ドラマの中にも、これに符合するように、日中二人の作曲者の交流場面があり、あたかも、その歴史的場面に自分が居合わせているようなわくわく感を憶えました。
投稿: yasushi | 2024年1月10日 (水) 15時16分
先日このホームの苑内を掃除中、突然ある歌が頭に浮かんできた。
なんとまあ古い時代の歌が。
ベンチにやすんで口ずさんでみた。
ゆけ嘆きの馬車 赤い花散る 都の夕べ
旅を行く 帰り来ぬ
恋しやふるさと いとしこの街
君が故に 幾たび振り返る
(メロディーは書けません。
歌詞に少々 記憶違いがある 後述)
たしか覚えたのは終戦の頃、突然今になって頭に浮かんできたのだった。 ところが題名と二番三番が思い出せなかった。
部屋に戻り、インターネットで調べようにも題名が分からないからすぐ出てこない。 ようやく、「ゆけ嘆きの馬車」でこの歌が出てきた。
「夜霧の馬車」
行け嘆きの馬車
赤い花散る 港の夕べ
旅を行く 我を送る
鐘の音さらばよ
いとしあの町 君ゆえに
幾たび 振り返る
(二番三番 省略)
ようやくあの頃の事を思い出してきた。 歌手は李香蘭、テレビがない時代だからお顔は知らなかったが、絶世の美人だということは聞いていた。
李香蘭の歌は数多くあったようだが、私が覚えたのはこの「夜霧の馬車」「何日君再来」そしてこのページの「夜来香」だった。 (前二曲はこのサイトにないので、今この「夜来香」のページをお借りしています。)
「夜霧の馬車」は何といってもそのリズミカルなメロディーがいいんですね。 ターンターン タララッタンターンターン、、、 幼い少年の心にひびいたのですね。
「何日君再来」、私たちの頃は「いつの日君帰る」という題名で日本語の歌詞で唄っていたのだった。 中国語の歌詞は覚えなかったが、題名は「ホーリーチンツァイライ」として覚えている。 これは名曲中の名曲とされており、テレサ・テンさんが最も好きな曲だったとか。 いえ、私もこの三曲の中では一番好きな歌です。
そしてこの「夜来香」、<蛇足>にもあります通り、当時李香蘭が活躍していた中国のみならず日本でもすばらしく好まれたのだった。 最後の方の「イェライシャ~ン」というところが心をゆさぶりますね。
そしてこの李香蘭、そのすさまじいまでの美貌を生かした映画と澄み切った音声、日本人社会だけではなく、敵地とされる中国内部全域にわたって愛されたのだった。(ひょとして毛沢東もファンだったかも)
終戦時漢奸として処刑されようかというところ、あやうく日本国籍を証明して無事放免されたとか。 ものの本によれば、中華民国軍事裁判の関係者がみんな李香蘭のファンだったので、なんとか処刑しないで済ませようとしていたのだとか。 戦後帰国してからの活躍はみな様ご存じの通り。 まことに日本女性最大の波乱万丈の人生をおくった方だった。
このような魅力的な女性、今どこかにおられたら近づいてみたいでね。
歌の話しやら、人の話しやら、とりとめもなくすみません。
投稿: 田主丸 | 2024年10月 4日 (金) 20時50分
私が「うた物語」を」知ったのは2012年ですからこの「夜来香」のページは、今日はじめて見ました。まず<蛇足>の熱のこもった解説に感動しました。「比類なき人生を歩んだ比類なき女優・李香蘭」という形容表現はぴったり。その通りです。たぐいまれな美貌を持った女性の一代記といってもいいのではないでしょうか。
私は中学生の時、テレビでジュヂィ オングを知った時、ええっこんな美人が地球上にいるのか!と大変驚きましたが、山口淑子は日中両国に通じる絶世の超美人だったのですね。
父が兵役で中国戦線に行っていて北京語が堪能だったため、戦後もこの歌を原語で歌ったり説明などしてくれました。大きくなってからは山口淑子が「3時のあなた」の司会者として活躍していたたこと、また参議院議員になったことなどを知っています。知っているといっても実におおざっぱにです。
94歳まで生きたのですか、まさに波乱万丈の人生でしたね。長生きした人というのはそれだけで立派だと思います。しかしこの人が戦後日本に帰る時、中国人の裏切り者として処刑されるところだったという場面がすごいですね。
日本国籍が取れて、日本人であることが認められたということですが、それ以前に中国人、中国国民党軍兵士の多くが李香蘭を死なせたくなかったという気風に満ちていたということが大きかったのでしょう。
投稿: 越村 南 | 2024年10月 5日 (土) 11時16分
『夜来香』といえば、李香蘭さん、渡辺はま子さん、テレサ・テンさん他による、女性の歌声を思い浮かべますが、男性による歌声もあります。
久しぶりに聴いたのが、男性オペラ歌手・五郎部俊朗さんによる『夜来香』で、ピアノ伴奏(ルンバ調)のもと、爽やかで美しい歌声は、感動新たです。
ついでながら、五郎部俊朗さんの歌声では、『藤山一郎とその時代 ~歌は美しかった~』(日本コロムビア)ほか、計5枚のCDが手許にあり、五郎部俊朗さんがピアノ伴奏で歌う昭和歌謡などを、ときどき楽しんでおります。
『夜来香』も、その中の1曲です。
投稿: yasushi | 2024年12月15日 (日) 15時52分