愛の灯(ほ)かげ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:近江俊郎・奈良光枝
1(女) 2(男) 3(女) 4(男) |
《蛇足》 新東宝映画『夢よもういちど』の主題歌として作られ、昭和23年(1948)12月、コロムビアから発売されました。
作詞・作曲・唄とも、昭和21年(1946)の大ヒット曲『悲しき竹笛』と同じで、同じように大ヒットとなりました。
この曲のリリース時、私は6歳でしたが、出だしの1行の歌詞とメロディは覚えていました。不思議ですね。
敗戦から3年半余り経ち、復興は進んでいましたが、それでも東京など大都市では、防空壕や廃材で作ったバラックに住んでいる人が大勢いました。
また、戦争中に相次いだ空襲、ことに昭和20年3月10日の東京大空襲によって、すべての身寄りを失ってしまった人たちが数え切れないほどいました。
そんな状況でも、というよりそんな状況だからこそ、恋は生まれます。1番はまさにそんな恋を歌ったものといってよいでしょう。
恋をするのは若者に限ったことではありません。この年の11月、『吉野朝の悲歌』などで知られる歌人・川田順は、新村出、谷崎潤一郎、吉井勇などの友人に遺書を送って家出しましたが、子息らに発見されて連れ戻されました。
彼が死を決意して家出したのは、歌弟子で某大学教授夫人とのかなわぬ恋が原因だったといわれます。この事件は「老いらくの恋」として全国に喧伝され、流行語にまでなりました。
このとき川田順は66歳、相手の夫人は39歳でした。
なお、『夢よもう一度』は、船橋聖一の小説を映画化したもので、淫蕩な妻に振り回されている大学教授が、自宅の一隅に間借りしている清楚な女性と恋に落ち、波乱の末結ばれる、という筋書きです。主演は上原謙と高杉早苗でした。
レコードでは4番の「夜霧」を近江俊郎は「夜露」と歌っていますが、夜霧が正しいようです。時間か経費かの関係でそのままいこうということになったのでしょう。
(二木紘三)
コメント
大好きな歌をアップして頂き有難う御座います。
この詞のような純愛はどこへ行ってしまったのでしょう。例え青いと言われようと私はこの種の歌を追及したいと思います。奈良光枝単独版のテープでは夜霧と歌っています。
投稿: 海道 | 2011年6月15日 (水) 18時37分
軽快な古賀メロディーのアップありがとうございます。
近江俊郎はおっちょこちょいな性格だったようで、「黒いパイプ」の録音の際にも2番の歌詞を間違えて1番の歌詞で歌っています。
投稿: タイチョー | 2011年6月20日 (月) 16時45分
近江俊郎と云えば「湯の町エレジー」が真っ先に出てきますが、奈良光枝だと出にくいのは、共唱でヒットした曲が多いせいでしょうか。近江俊郎との共唱では他にも「悲しき竹笛」が大ヒット。「青い山脈」は藤山一郎と共唱、霧島昇との共唱では「乙女舟」「恋の十三夜」。いずれも作詞は西條八十。
独唱では「恋の山彦」「赤い靴のタンゴ」「雨の夜汽車」「白いランプの灯る道」「秋草の歌」。いずれも西条八十作詞。作詞者、作曲者に恵まれ、この歌手には天も二物を与え多様ですーー美声と美貌と。惜しくも例外とはならず、薄命でした。合掌。
投稿: 槃特の呟き | 2011年7月 6日 (水) 00時09分
愛の灯かげを初めて聞いたのは1972年8月に放送された「郷愁の歌声」でした。この時、近江俊郎さんと奈良光枝さんがデュエットして聞かせてくれました。奈良さんの美しさは今でも脳裏に焼付いています。オリジナルコンビが唄う悲しき竹笛をネットで見せて頂いて感激していますが、愛の灯かげも是非見たいですね。奈良さんはお若い時も勿論お綺麗でしたが、40代になってからの美しさは、お若かった頃より色香に磨きと深みが増して
ステージに登場する時など、震えが来る位でした。あれほど美しい人は往年の女優の中にもいないと思います。
ところで、愛の灯かげの三番の歌詞ですが、奈良さんが女性の立場で歌いますが、歌詞の内容は2番と同じで、どう読んでも男性の想いを綴ったものではないでしょうか。特に「主ある君は垣根の花よ」と言う箇所ですが、君とは愛する女性のことではないかと思うのですが如何でしょうか。
投稿: 英叡智悟 | 2011年7月16日 (土) 12時11分
二木先生 今晩は 毎日「うた物語」で心が癒されています。ありがとうございます。
時折、愛用の蓄音機で、作詞・作曲・唄とも同じで、私の好きな「悲しき竹笛」に耳を傾けていますが・・・
この曲「愛の灯(ほ)かげ」・・・初めて聴きましたが、軽快なリズムに誘われながら過ぎ去った日々を懐かしく想い出しています。
私の生まれは東京都(現在の三鷹市)で、当時、父が中島飛行機製作所に勤務していて、昭和20年3月10日の東京大空襲で転々と疎開生活(富山・群馬・三重県など)で過ごし、その年の8月に両親の故郷である佐賀に移り住むようになりました。
この曲のリリース時、私は小学2年でしたが、二木先生の蛇足にあるように当時の時代背景の中で、映画「夢よもう一度」を含め諸々の恋物語が誕生したんですね。
私も後期高齢者!せめてこの「うた物語」で、恋物語の夢を見たいものです。
投稿: 一章 | 2017年4月27日 (木) 22時27分
焼野原で生まれる恋!あんな酷い状況で映画を作り、こんなに美しい曲を作って日本人は立ち上がってきたんですね。特に一番の歌詞にはちょっと次元の違う陶酔を感じます。坂口安吾が日本人は戦時から解放されて人間に戻れ。堕落せよそして生きよと叫んでいた時代ですね。私は戦後第一期歌謡曲の後半を聞いて育った世代です。うた物語にたどり着くまではこの曲も映画の話もまったく知りませんでした。戦後の見方が少し変わりそうです。ありがとうございます。
投稿: 岩下 | 2017年8月30日 (水) 00時21分
私は子供すぎてこの歌は知りませんでした。引退して通った健康センターで毎回この歌を唄う初老の男性が居たので、憶えてしまいました。切実に歌われるその方には何か想い出があったのでしょう。この歌はうら若い乙女の歌だと思いますが、「小鳩」だなんて今の若者に解るでしょうか。
投稿: 海道 | 2021年6月19日 (土) 09時47分