« この胸のときめきを | トップページ | 白いランプの灯る道 »

2011年9月29日 (木)

かえり船

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生、唄:田端義夫

1 波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

2 捨てた未練が 未練となって
  今も昔の せつなさよ
  瞼(まぶた)あわせりゃ 瞼ににじむ
  霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音

3 熱いなみだも 故国に着けば
  うれし涙と 変わるだろう
  鴎ゆくなら 男のこころ
  せめてあの娘(こ)に つたえてよ

《蛇足》 昭和21年(1946)11月、テイチクから発売され、大ヒットとなりました。

 歌手の田端義夫は、気さくな人柄からバタヤンの愛称で親しまれました。ギターを胸の高い位置で水平に構え、「オースッ」と威勢よく挨拶してから歌い始めるのが特徴でした。もっとも、若い頃は、普通の構え方をしていたようです。

 戦前は『大利根月夜』『別れ船』など、戦後は『かえり船』『玄海ブルース』『ふるさとの灯台』『別れの浜千鳥』『島育ち』など、多くのヒット曲を連発しました。
 日本歌手協会の会長を長く務めましたが、平成25年
(2013)4月25日、94歳で亡くなりました。

 この歌は敗戦によって南方諸島や台湾、朝鮮、満州、樺太などから引き揚げてきた人びと、いわゆる引揚者の心情を歌ったものです。なお、軍人の場合は引揚者ではなく、復員兵といいます。

 筆舌に尽くしがたい苦難を重ねた末、やっとたどり着いた日本。船からその影を見たとき、万感胸に迫って泣く人も多かったはずです。帰還前になくした家族や自身が受けた被害、国に残してきた老親や恋人は無事か、家は残っているかなど、さまざまな思いが胸の中で渦巻いたことでしょう。

 引揚者が上陸したおもな港は、博多港、佐世保港、舞鶴港、浦賀港仙崎港、大竹港、鹿児島港、函館港などですが、この歌の舞台になったのは博多港だといわれています。
 一番の小島は博多湾外の玄界島
(上の写真)だと思われますが、船は湾内の能古島(のこのしま)近くに停泊し、引揚者たちは検疫などを受けたのち、上陸したといいます。

 ところで、この歌には故国という言葉が使われていますが、同種の言葉に祖国と母国があります。この3つはどう違うのでしょう。
 ほとんどニュアンスの違い程度ですが、祖国は外国との関係において自分の国をいう場合に使われます。したがって、よく愛国心が絡みます。
 愛国心にも幅があって、アンブローズ・ビアスが
「愛国心はならず者の最後の拠り所(下記注参照)」と皮肉る国家主義的愛国心から、なでしこジャパンが優勝して誇らしいという素朴な愛国心までさまざまです。

 母国は国外にあって出身地をいうときや特定の文物の発祥国もしくは本場を指すときに使う例が多いようです。

 故国は故郷の郷が国に変わった言葉と思えばよいでしょう。外国で生活しているとき、あるいは外国から帰る際、生まれ育った国をひたすら懐かしむときに使われます。

 この歌を歌うとき、故国を祖国と歌う人がいるようですが、以上のようなニュアンスの違いを考えると、はやはり故国と歌うべきでしょう。

Hikiagesen
(上の写真は昭和20年〈1945〉10月18日に博多港に到着した朝鮮からの引き揚げ船)。

(注)正確には、この言葉は英語学者ジョンソン博士の辞書の定義で、ビアスが愛国心について書いた言葉のあとに引用したものです。ビアス自身の定義は”Combustible rubbish ready to the torch of any one ambitious to illuminate his name.”

(二木紘三)

« この胸のときめきを | トップページ | 白いランプの灯る道 »

コメント

バタヤンと同じ時代を生きてきた人達にはファンが多い
ですね。あのギターの持ち方はディック・ミネの真似
だとか。戦地慰問もなされ、苦しい時代を明るく生きて
居られます。

投稿: 海道 | 2011年9月30日 (金) 08時50分

バタヤンの歌はファン層が厚いですね。 実はツイッターで二木さんにお願いツイットをだしてみました。
 奇しくも同じバタヤンで知られた曲でした。
「 二木紘三さんにリクエストしてみる
 二見情話(照屋敷さん)、
 旅の終わりに聞く歌は(比嘉栄昇さん)
 なんとか時間つくってMIDIカラオケにしてください」

都合のいいお願いですが、なにとぞよろしく です。

投稿: 木挽屋次郎 | 2011年10月 1日 (土) 09時48分

懐かしくも、切ないバタヤンの持ち歌をアップしていただきありがとうございます。
 この歌の舞台が博多港だとのことですが、わたしたち家族が朝鮮からの引揚げで上陸したのも、この港でした。この歌では、夢にまで見た故国の島影を目の前にした作者の、よく生きて帰ってきたという万感の思いが込められていますが、わたしの場合は、まったく作者のような思いも喜びもなく、忙しなく下船し、真っ暗な博多駅(福岡市もご多分にもれず戦災にあっていました)から下関行きの貨車(客車ではありませんよ)に乗り込んだ記憶しかありません。プサン(釜山)港から引揚げ船(確か徳寿丸だったと思います)に乗船したところまでは記憶にあるのですが、博多港下船までの部分が空白なのです。多分、乗船出来て安心したことと、疲労困憊が重なって眠り込んでいたのだろうと思います。とにかく乗船するまでは生死にかかわる経験の連続でしたから。もし起きていたら、作者と同じ感慨をもったかもしれませんが。もっとも作者は故国への熱い思いと、外地に残して来た女性(恋人?)への別離の思いを同時に感じているのですが、もちろんわたしは、そのようなこととは無縁でした。
 今年66年ぶりに博多港に行く機会を得ました。現在の博多港は海岸線を埋め立てて、随分博多駅から遠くなったとのことです。昔日の面影を偲ぶよすがはありませんでした。 

投稿: ひろし | 2011年10月 5日 (水) 10時43分

いい歌ですね!
二木先生の《蛇足》から永い年月を経て最初のふるさとへのUターンに於ける『かえり船』のストーリーに、あらためて日本で生まれ日本で生きている幸せをかみ締めました。

しかしバタヤン(と気やすく言っていいのか?)のもう1曲のベリーべりー・グッドの歌、それは御前崎灯台に歌碑があり1度見に行って見たい『ふるさとの燈台』です。
  “真帆方帆歌をのせて通う~~~そよ風の甘き調べにも思いあふれて流れ来る流れ来る熱き泪よ”
と全部おぼえていて2番と3番の間奏に江戸子守歌の“ねんねんころりよ・・・”のメロディが入っているバージョンの方がより一層哀愁をそそります。もしかしたら作詞された清水みのるさんのふるさとは、歌詞にある“はるかなる・むらさきの小島”は本当に“ふるさとの小島”ではと思うほど心が安らぎ感動する歌詞で、長津義司さんのイントロと穏やかなメロディも是非皆さんに聴いていただきたいと思うのは私だけでしょうか?
二木先生『ふるさとの燈台』の《蛇足》も是非お願い致します。

投稿: 尾谷光紀 | 2011年10月 5日 (水) 23時26分

前に森の水車にも書きましたが、清水みのるは浜松の伊左地という浜名湖畔の生まれです。お医者さんの息子さんだったと聞きました。それで海に関係する歌が多いのだと思います。伊左地には灯台がありませんので、御前崎の灯台のそばに歌碑を建てたと聞いております。本当にかえり船もふるさとの灯台も素晴らしい歌詞ですね。特にふるさとの灯台はメロディもすばらしいと思います。真帆方帆歌をのせて通う・・なんて情緒のある歌詞でしょうか。清水みのるの子供時代の浜名湖は鄙びていてきっとこの歌詞の通りだったと思います。名歌ですね。私は歌は下手で歌えませんが、尾谷さんやその他の男性の方々の声で一度これらの歌を聞いてみたいものです。

投稿: ハコベの花 | 2011年10月 6日 (木) 15時36分

10/5のひろしさんが言われるように、ロマンチックな歌詞も現実にはそれどころではなく、かさかさしたものかもしれませんね。ちょっと違うかもしれませんが、私は若い頃かなづちだったので、鵠沼海岸でおぼれて姉の会社の人に助けられました。その時、姉も横でおぼれましたが、会社員はまず姉を助けました。「ああやっぱり女は得だな」とそのとき思いました。「こんなことしながら俺は死ぬんだろうな」、そう思いました。
でも、その時「おい!俺につかまれ」と違う男が現れて私に言いました。必死にからだにすがりついたら、「おい、強く掴むな、自分も泳げ」と言われ、足で蹴っ飛ばされました。からだは少し離れたが「ここで離れてはおしまいだ」と思い軽く握りながらバタ足しました。そして助けられました。

でも、文芸は現実に体験した本人にも分からない真実をついた面があるように思えてなりません。2番の「捨てた未練が 未練となって今も昔の せつなさよ」なんかいいですね。

そして、この哀愁の旋律がぞくぞくさせてくれるじゃありませんか。端ヤンがまだ健在なんてびっくりですが、嬉しい情報でした。二木先生、ありがとうございました。

投稿: 藤森 吟二 | 2011年10月11日 (火) 20時40分

「にじむ」か「しみる」か
 2番の「瞼あわせりゃ 瞼ににじむ 霧の波止場の 銅鑼の音」には違和感を持っていました。ドラの音が聞こえてくるのだから「しみる」のほうがすっきりするし、「にじむ」では一旦眼に入り、出て来るような感じになるがな、と思っていました。田端義夫が「にじむ」と唄っていることは知りつつもしっくりと来ませんでした。
 BGMで流している曲を聞いた時驚きました。「しみる」と唄っているではありませんか。慌ててCDを引っ張りだして調べたところ「しみる」と「にじむ」の二通りがありました。
 私の持っているCDは次のとおりです。
  しみる=懐かしのメロディ<下巻> TECE-1017・テイチクエンタテインメント
  にじむ=田端義夫ベスト1 TFC-609・テイチクレコード

 レコードに限れば、少なくとも四、五年は「しみる」と唄っているようですが、「にじむ」に変わった時期は知りません。『別冊・1億人の昭和史・昭和流行史(1978)』では「にじむ」になっています。
 ついでにインターネットで調べてみるともう一箇所変化したところがありました。やはり2番の「今も昔の」を初期は「今じゃ昔の」と唄っています。こちらは早い時期に「今も昔の」になったようです。

投稿: 周山 | 2012年11月19日 (月) 12時18分

沖合を東に通過する引揚船を何度みたことでしょう。年かさの少年があれは興安丸だよと教えてくれた。復員兵も乗船していたのかも知れない。彼らには祖国への`かえり舟`だった。その頃に、この唄を聴いたのかどうか? 記憶の底を覗いても、何も見えないのです。静かにメロディーをまだ聞こえる左耳に導きつつ、微かに浮かぶ景色が見える。戦後まもない心象…

水曜日マギー・サッチャーの葬儀があります。蛇足で仰られる祖国・故国・母国・愛国は、彼女と切っても切り離せませんね。ウェストミンスター聖堂大鐘とビッグベンの鐘を、チャーチル国家葬を参照しつつ、`鳴らす`否`沈黙させる`と議論が喧しい。1980年代、国を二つに割りながら、徹底した自由主義と愛国をUK同胞に刻み付けた稀なる人・マギーさんへの敬意をどう解釈するか、、、

○○国の解説を読みながら、母国の代りに「父国」と言うゲルマン民族を思いました。アイアン・レイディーですから、水曜日のテキストは日本式「母国」の栄えある宰相で良いのではないか…。 合掌。

投稿: minatoya | 2013年4月16日 (火) 07時38分

 “オースッ!千の風になりまっせェ~”と・・・4月25日94歳で旅立たれましたバタヤン! おおきに!おおきに!おおきに!
亡母が良く歌ったバタヤンのデビュー曲「島の舟歌」の終わりの “~ならば千鳥よこの俺と歌を仲間に暮らそうよ” の声が今でも耳に残っています。
 船シリーズの中でもこの「帰り船」の情景はすばらしく、そして「ふるさとの灯台」“~~灯台の我が家よ懐かしき父のまた母の膝はゆりかごいつの日もいつの日も夢をさそうよ (3)歳降りて星に月に偲ぶ紫の小島よ灯台の灯りよそよ風の甘き調べに~~”  心が震えるようなイントロ・・・数度の夜逃げや赤貧や橋の下でのボイス・トレーニング等々で得た哀愁を帯びた声・・・モーサイコーです。
主役で日高澄子と共演した『月の出船』も同名の挿入歌共に心にずーと残っています。
 
 天上のステージでぼろぼろのギターを高めに抱えて歌うバタヤン!心からご冥福をお祈り致します。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年4月26日 (金) 17時20分

バタヤン(田端義夫)さん(私の亡き父の年代ですから、大先輩です)のご冥福をお祈りします。
4月26日早朝、NHKラジオ深夜便(作家でつづる流行歌:高橋掬太郎作品集)を聞いていて、番組の冒頭で、アナウンサーが急遽、「前日25日、田端義夫さんが94歳で亡くなった事」を伝え、昭和21年10月発売「かえり船」を流してくれました。
レコード発売は、私が生れる1年前でした。次々に歌の先達が亡くなられ、淋しいかぎりです。

投稿: 竹永尚義 | 2013年4月27日 (土) 17時51分

昨日投稿させていただきましたが、引揚げ船のことに触れずじまいでした。昭和22年九州・小倉市生まれですから、直接的には知りませんが、いわゆる外地から皆さんが死ぬ思い出、やっと西日本各地の港(博多港、門司港、大竹港など)に帰って来られたこと、厚生省引揚げ援護局というのがあり、またラジオでは「尋ね人の時間」というのがあったことを記憶しています。
引揚げ船には、旧海軍の生き残り艦船(例えば、藤山一郎さんが帰還した元の航空母艦「葛城」など)も使われました。よくぞ、還って来られました。
将来の日本人にこんな惨めな思いをさせたくはありません。
以上、追記させて頂きます。

投稿: 竹永尚義 | 2013年4月28日 (日) 17時08分

ラジオから流れる〔かえり船〕を初めて耳にしたのは小学校3、4年のころでしか・・・育った田舎は、玄界灘に面した人情豊かなしずかな村です。北に面した砂浜からみる玄界灘には、烏帽子灯台と小呂島(おろんしま)が重なるように目に入ります。二つの島は、7里隔てていて、手前の烏帽子灯台は岩礁で、砂浜からは7里の海上に浮かんでいます。二つの島の間を黒い煙をはきながら東にゆっくりむかっていく大きな船を何回か見かけました。年を経て、この歌を聴くにつけ、あのときの、あの船が、大陸から博多港あたりに向かう引き揚げ船だったのだと確信しまた。二木紘三先生のコメントにある玄界島も、東に面した白砂青松の海岸からすぐそこに見えます。懐かしい過去を皆様方と共有できて、この上なく満足しています。田端義夫さんのご冥福を祈りつつ指をおきます。

投稿: 亜浪沙(山口) | 2013年5月 3日 (金) 17時38分

この歌はラジオから良く流れており存じていましたが、復員船の歌と知ったのは最近です。
幼少時代ラジオからは「尋ね人」の時間があり、「昭和19年当時、ハルピンで〇〇に従事していた△△さん、弟さんが・・・・」という現代の伝言ダイヤルのような放送が連日されていました。また、興安丸という復員船が舞鶴に入港というニュースも晩御飯を食べながら良く聞いていた記憶があります。戦争・戦災の直接体験のない世代ですが、戦争の傷跡は幼少期の記憶として残っています。

投稿: タケオ | 2014年11月26日 (水) 20時41分

 戦後抑留から帰還した人々を歌った異国の丘があります。僕はその頃流行ったこの歌は恋歌とずっと思っていました。小学生でした。後年、詩を吟味してはじめて望郷の歌であることを知りました。田端は大阪駅に到着した帰還兵の上に自身のこの歌が流れていて感涙したそうです。「異国の丘」に勝る歌だと思っています。
 定年後、カラオケ初体験の級友に覚えさせました。それから歌が彼の持ち歌になりました。音痴ながら忘我の境地で毎回歌っていました。
 先年病に倒れ病臥中。回復を祈りつつ、「おい起てよ!かえり船歌わんか!」

投稿: 鈴木 英行 | 2015年4月19日 (日) 20時05分

 「蛇足」にビアスの「・・の辞書」が引用されていることに先ほど気づきました。皮肉な解釈を加えたこの本は学生のとき日本語の類似の本「日本語笑辞典」?で知りました。後年ビアスの辞書も買いましたが、読んだのは一部分であとは本自体を始末したようです。今見当たりません。
 また、私も引き揚げ家族だったのですが、あまり語ってくれず、どこに引き揚げたのかさえわかりません。今は聞くすべがないのです。

投稿: 今でも青春 | 2015年4月20日 (月) 20時39分

 満員の復員兵を乗せた、薄暗い灯に照らされた夜行列車の車内。
 みんな押し黙って列車の振動に身を任せている時、網棚に寝転んでいたバタやんが、横臥した姿勢でやおらギターを取り出し、歌い始めたのが帰り船でした。 聞き入る兵隊さんの疲れ果てた顔に涙が流れてました。
 武装警官隊という映画でした。当時、日本の警官はピストルを持たされていなかったため、敗戦国の日本人に対して横暴にふるまっていた外国人の暴力団等への有効な対抗手段として、占領軍の許可により持つことが出来るようになり、その結果、大阪駅前を不法占拠していた闇市を潰す事が出来たのです。
 その映画の一シーンでした。
今でもこの歌を聞くと、あの夜行復員列車の光景が思い出されます。
 おぉ、波また波、雲また雲よ、果てしなき大海原、
燃える希望と憧れを、、、という泉詩郎の映画説明が入っているレコードがあるのですが、これを覚えてカラオケで歌う時の前口上してやってみたいと思っているのですが、セットになっていて結構なお値段なので
そのままになっています。

投稿: たーサン | 2015年4月23日 (木) 21時21分

♪波の 背の背に 揺られて揺れて…。一世を風靡したバタやん、田端義夫さんが亡くなられて2年がたちましたね。庶民派バタやん、私の大好きな尊敬する大歌手でした。いまでもカラオケのときはこの歌を必ず歌います。なぜ私がバタやんを好きで尊敬するかというと、彼の歌にはどの歌も必ず人生の哀歓がにじみ出ているからです。それは、バタやんが苦労に苦労を重ねて大歌手の道を通りおおせたからにほかなりません。昭和28年の暮れに、まだ本土に復帰していなかった鹿児島県の奄美大島の戦災孤児福祉施設をバタやんが慰問に訪れた時、バタやんが童謡の「浜千鳥」を涙ながらに歌って彼らを慰め、以後彼らとの交流はずっと続いたということです。そんなバタやんに、国民栄誉賞をあげたかった。いつまでも心の琴線に触れる歌、バタやんの歌を歌い続けます。

投稿: 光男 | 2015年10月 4日 (日) 11時15分

「帰還船みな密封の過去を持ち」

 私の拙い川柳です。私の友人は、中国の琿春(フンチュン)という、今の北朝鮮との国境で生まれ、幼児の時に終戦になり、親に手を引かれ何とか日本に帰って来ましたが、いつか機会があったら故郷に行ってみたいと思っていました。たまたま日本語ボランティアとして、日本語を勉強している学生たちにネイティブの日本人が会話の相手をしてあげる旅行に参加しました。その時、そこの高校の校長先生は、自分の娘が現在日本へ留学をしていると言い、歓迎の意味でその町に沢山あるカラオケ屋さんに我々を招待してくれました。そこで友人は東海林太郎の「国境の町」を歌いました。そして、彼は翌日、その先生に自分の出生がこの地であり、親に連れられて日本へ必死の思いで帰ったが、この地が忘れられないと話したところ、先生は役所の人に話してくれ、自分の生家や、思い出の地を案内してくれたそうです。興奮して嬉しそうに私たちに語る彼に、我々はみんな中国人の友情にジンとなりました。我々は今、中国人の悪口を言いますが、政治と現実とは違います。あの大戦の時、置き去りに、あるいははぐれてしまった日本人の子供たちを、沢山の情け深い中国の方が我が子として育てて下さいました。それが「中国孤児」です。その後、日本への望郷の思いに駆られて、中国孤児たちは続々と日本へ帰ることを希望し、実際に帰りました。でも、育てた中国の母はいかばかり悲しかったことでしょう。この子のために日本へ帰らしてあげたいという深い母心で、「私のことは考えるな、お前は故郷の日本へ帰りなさい」と言いましたが、別れの汽車のホームで「帰らないで!」と叫んだエピソードは私の胸を打ちます。もし私がその立場なら帰りません。

 「行かないで!義母(中国母)が叫んだ風の駅」

投稿: 吟二 | 2016年12月 7日 (水) 22時43分

吟二さまの
人情味あふれるコメント
哀切なエピソードの紹介に胸が熱くなり
思わず涙が込み上げました。
繰り返し二木先生の演奏を聴いては又涙が込み上げます。

11年前 初孫に男児を授かった時に
「この子を戦場に送る世だけは来ないでください」と祈りました。(無神論者のこの私がです)

投稿: りんご | 2016年12月 8日 (木) 08時30分

昭和20年 まだ2歳にも満たない長女と妊娠中の大きなお腹を抱えて戦火を逃れ、軍人の夫を残して中国(新京)から引き上げてきた家内の母親が、TVから流れてくるバタやんの「かえり船」を聴くたびに大粒の涙を流しながら口ずさんでいたことを思い出します。
かえりの船の中でひどい下痢の為、ぐったりした我が子(私の家内)を抱きかかえ隠し持っていたビオフエルミンを飲まし続け、なんとか親子2.5人で故国の土を踏んだ時のことや、それから数年してシベリヤに抑留されていた家内の父が舞鶴に引き上げてきた時のことなどが思い出されて込み上げてきたのでしょう…。
三人姉妹の女系家族の中で、長女の婿である私に新京時代の思い出を懐かしそうに話してくれた親父とお袋のことが思い出されて「かえり船」を聴くたび思わず目頭が熱くなります。吟二様のコメントにあるような話も、おふくろから涙ながらにたくさん聞かされました。“生みの親より育ての親”とも言うじゃありませんか…。

投稿: あこがれ | 2016年12月 8日 (木) 12時52分

みなさんのこの歌に対する思いを拝読し胸が詰まってきました。管理人にまず感謝を申し上げます。

私は昭和18年満州奉天で生まれ、昭和20年2月には下の妹が奉天満州医科大学で生まれました。
父の自叙伝や生前の話によると、父は昭和20年3月末奉天からハルピンに転勤で単身赴任、3月とはいえ天地、草木すべてが凍結しているハルピンの寒さは痛く感じたそうである。
満鉄勤務の父は毎週土曜日に世界一と称された超特急アジア号で奉天の満鉄社宅に帰ってきた。

日本の戦況不利と言われる中、7月下旬に生後6か月の妹も連れて4人はソ連により近い北満のハルピンに引っ越した。

家族がハルピンで生活をはじめて10日余りの、昭和20年8月9日午前1時頃の深夜に突然 ものすごい爆発音があり隣家の人も全員 戸外に避難したそうである。
「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄してソ連軍が参戦したそうである。翌朝 満鉄に出社すると「ソ連とは日ソ不可侵条約があるから大丈夫。攻撃などしてこない」と議論している者もいたそうである。

ハルピン市内は大火災、ロシア人、朝鮮人などは無許可で職場放棄していなくなってしまう。父は書類等の焼却、塹壕堀、またソ連軍の暴虐を屈辱を避けるためモルヒネや劇薬を獣医室から持ち出し皆に分配したそうである。
8月10日頃から沢山の避難民がハルピンに逃げ込んでくる。ソ連軍は興安嶺を突破した情報も入ってくる。
満鉄社員には「職場を離れず死守すべし」という命令が下る。学校や集会所は難民で一杯になり、列車も超々満員で
混乱している。

そんな中 8月13日父に召集令状が来た。父は「決して早まるな」と何度も語気を強めて母に「青酸カリと砂糖袋」を渡したそうである。母は乳のみ児の妹を抱き終始うつむいて受け取ったそうである。2歳半の私はそばで無心に遊んでいたそうだ。

父はお世話になった方々にも黙って静かにハルピンを南下、新京に向かったそうである。新京に到着すると日本人の家だけが燃えている。暴徒の反乱各地で生起している。

8月17日の夕方 部隊長から「現地召集兵は逃走するように・・」との命令が出た。
独身者は安全な奉天、大連に南下したが、家族持ちの父は北に残っている家族を救出するためソ連軍占領下のハルピンに北上しなければならない。・・・
 
 ・・・
父たちはハルピン駅に命からがら到着したが、ハルピンはソ連軍がいたるところで威嚇発砲している。悲惨で阿鼻叫喚な市街に変わり果てた中を 父は「家族は生きている。大丈夫だ」と祈りながら家族を探しまわったそうである。

母はハルピンにきて1か月弱 知人もなく知らない街を、逃げ回ったそうである。この時の恐怖、不安、どんな行動をとったかを 母は口にしたことがない。父は知人や家族のいそうな建物を探し回るが、ソ連軍占領下なので見つからないように苦労したそうだ。

8月18日の夕方 父ははじめてたずねる馬家溝の街の入口に避難し潜んでいた私達を奇跡的に探しあてたそうである。
父は 神仏のお導きではないかと言ったりする。

昭和21年9月 コロ島から博多港へ引揚げることができた。
この間にも奇跡的な出来事が沢山あるようである。私は今生かされていることに感謝したい。
 管理人さんにこの歌写真、説明をとりあげていただきあらためて感謝します。

投稿: けん | 2016年12月 9日 (金) 11時32分

5年ほど前に、このブログにコメントした者です。戦後71年も経てば、先の大戦ですら風化してくるのですから、敗戦による外地からの復員や民間人の引揚げ時の苦労話が話題にのぼることは、まずないでしょう。せめて、わたしは、この歌を引き揚げという、未曾有の体験を思い出すよすがにしています。
 間違った国策によって多くの国民を死地に陥れ、塗炭の苦しみを与えた戦争は、もう二度と繰り返してはなりません。そのためにも、次の引揚げ時の悲劇を皆様に、是非知っていただきたいと思います。
 わたしが今、住んでいる横須賀に浦賀港という良港があります。この港は昭和21(1946)年から翌年まで引き揚げ港に指定され、期間中約56万人の復員兵や民間人の引き揚げ者を受け入れました。しかし、折角故国に還って来ても上陸できず、中には悲劇的な最期を遂げた人もいました。感染症(とくにコレラ)の流行があったからです。コレラ患者が出た船では、GHQ(連合国軍総司令部)の命令で徹底的な水際作戦がとられ、検疫所の許可が下りるまで、最低でも14日間の洋上待機が義務付けられました。指定引き揚げ港は全国で12港ありましたが、コレラ患者が一人でも出た船は、すべて浦賀港に回航されましたので、多い時には20隻以上の船がぎっしりと浦賀水道を埋めていました。この間、食糧事情の悪化や医薬品の不足、不衛生な環境、心理的な閉塞感などから暴動まで起きた船もありました。船旅の途中でなくなった方々は水葬されたケースが多かったようですが、夢にまで見た故国を眼前に亡くなった方々の想いは、いかばかりだったでしょう。無念の想いを抱いて亡くなった方々を荼毘に付した所に、現在は供養塔が建っています。約2,000人が亡くなったそうです。
この事実は横須賀市民でも知らない人が多く、そのため横須賀市は市政100周年の事業に組み入れ、8年前に「浦賀港引揚げ記念の碑」を浦賀港に建てています。なお、供養塔は場所柄一般の人の拝観はできません。

投稿: ひろし | 2016年12月 9日 (金) 15時17分

続、皆様のコメントに(ひろし様、けん様、あこがれ様)またもや胸が詰まりました。
奔放な美貌の母は置いといて、皆様のご両親は
なかにし礼の「赤い月」さながらの壮絶な体験を潜り抜けられたのですね。「流れる星は生きている」の藤原ていさんも他界されましたね。惨い戦争は絶対に繰り返してはいけませんね。

投稿: りんご | 2016年12月 9日 (金) 18時08分

けん様、ひろし様の体験談に言葉もありません。戦争末期生まれのため終戦時の新聞・ラジオ報道は記憶にないですが、バタヤン歌唱や二木先生演奏を聴くにつけ、本曲解説掲載の引揚船の写真と相まって、引揚者や復員兵の想像を絶する苦労の一端が伝わってきます。
引揚者や復員兵が国土復興の一翼を担い、朝鮮特需を経て高度経済成長へとつながっていったわけですが、1948年に東京新橋・渋谷・湾岸工場地帯・進駐軍施設を撮影した鮮明な35mmフィルム(ハリウッド映画「東京ジョー」の背景に使った映像)を視ると、特に新橋の通勤風景など、これが戦後タッタ3年後の姿かと感嘆するくらい表面的には目覚ましい復興の一端が見える映像です(ただし湾岸の空襲で鉄骨だけが焼け残った工場群は敗戦国の象徴です)。
himag.blog.jp/45957239.html(コピペ願います)

投稿: 焼酎百代 | 2016年12月 9日 (金) 20時02分

あこがれ様、けん様、ひろし様の切々と述べられるコメントを拝読し、胸が締めつけられました。

私の体験では、皆様のコメントには程遠い感がします。
私は、1940年10月に東京都、現在の三鷹市で生まれました。
当時、父が「中島飛行機」の荻窪工場に勤務していました。
第二次世界大戦の末期、1945年3月10日東京大空襲で多くの方々が犠牲となられました。
悲しいことです。

私ども家族は、父の知人を頼りに富山、群馬、三重県などへ転々と疎開をしました。
疎開先では、兄と妹を含め親子4人・・・両親は食べるものには大変苦労したそうです。
疎開先のある海岸では、米軍のB29爆撃機が無数飛んできたのを記憶しています。

やがて終戦となり、父の会社は閉鎖となり、両親の故郷である九州の佐賀に身を寄せることになりました。
父が胸を患い病弱であったため、母が日用雑貨の行商をして何とか生計を立てていたようです。

戦後71年、今思えば戦争の悲惨さ・・・二度と繰り返してはいけないとつくづく思います。

戦後間もないころから、バタヤンのこの曲を聴くたびに、やっと戦争は終わったんだ、これからは平和な国に向かうのだと励ましてくれました。

それにしても、二木先生の演奏には心に沁み込みます。
ありがとうございました。

投稿: 一章 | 2016年12月10日 (土) 10時59分

私も1940年生まれです。戦争の悲惨さを知っているのは私たちの年代あたりまででしょう。でも外地から引き揚げてきた人の事を思えば、家も家財も消失してしまっても、土地があってバラックも建てられて家族が生きていただけでもマシだったと思います。小学校2年の時、引き上げ者住宅に住んでいた級友が長く休んでいたので、お見舞いに行きました。屋根と柱と周りは板で囲ってはありましたが、仕切りのない、ひと家族当たり3畳ぐらいのところに多分10家族ぐらいが住んでいたと思います。土間は雨漏りがしたのかドロドロで、不衛生だと子供でも思いました。その子はいつも同じ服をきていましたから、着替えも無かったのでしょうね。街中なのに外で豚を飼っていました。その汚さを今でも思い出すとゾッとします。お母さんが持って行った花を空き瓶にさして喜んでくれました。食べ物ならもっと喜んでくれたでしょうが、皆、飢えていましたから・・もう2度とあの時代に戻りません様にと願うばかりです。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月10日 (土) 12時11分

前の投稿、今、読み直したらおかしいところがありました。1家族当たり3畳ぐらいの部屋と言っても低い仕切りがあるだけですが、それが10か所ぐらい並んでいたわけです。プライバシーなどは全くなかったでしょうね。どのくらいの期間住んでいたかはわかりません。級友もいつの間にか学校で見ることがなくなりました。幸せになっていたらいいのですが、消息はわかりません。
まだ防空壕に住んでいた子もありましたが、冷えたのでしょうか、風邪を引いてあっという間に亡くなってしまいました。皆、栄養失調でしたから、結核も多かったです。風邪は死に直結していました。親の苦労に頭が下がります。

投稿: ハコベの花 | 2016年12月10日 (土) 23時15分

私が小学校2.3年生の頃ラジオから引き揚げ船のニュースが良く流れてきました。舞鶴港に興安丸が中国から入港、その入行時の故国に帰った喜びの様子が録音で伝えられたり、尋ね人の時間とというのもNHKの番組でありました。
「昭和19年当時満州○○で△業をしていたAさん弟さんのBさんが探しています・・・・」この歌は敗戦直後の日本の世相を良く伝える貴重な歌と思います。

投稿: タケオ | 2017年12月23日 (土) 21時26分

私が幼い頃に母から聞いた話では、終戦の時、父はビルマ(ミャンマー)にいたそうです!
両親は戦中に結婚し、前年19年生まれの未だ乳飲み子だった長男を抱えた母は、サイレンが鳴る度にB-29の空襲から逃げた時の恐怖や、防空壕の中で泣く赤ちゃんの声を静めるため、口を塞いでいるうちに、我が子を亡くしてしまい、声を殺して嗚咽するお母さんを実際に目の当たりにして、その時ばかりは本当に辛かったなど、終戦をむかえるまでは、生きた心地がしなかったと話してくれた事があります。
父は全く戦争のことを語ろうとはしない人だったので、父がどうやって日本に帰って来たのか?は、誰に聞く術もなく、解らず終いです。

ここで皆さまからの貴重なコメントを幾度となく読み返しながらこの曲を聴いていると、時々胸が締め付けられることがあります。
その中でも、2016年12月9日、けん様ご投稿
>8月18日の夕方、父は初めてたずねる馬家溝の街の入り口に避難し潜んでいた私達を奇跡的に探しあてたそうである。「父は、神仏のお導きではないかと言ったりする。」
私は、恐れながら間違いなくお父様の仰る通りだと思っています。
「かえり船」、この歌はプロを目指していた我が家の長男が、ギターを弾いてよく聴かせてくれたので、幼い頃から好きな歌でした。
私もギター歴がもうすぐ50年になりますが、バタヤンの「かえり船」と「ふるさとの燈台」は、可愛がってくれた亡き長兄や、必死で育ててくれた亡き両親を偲ぶことのできる、私にとっての特別な歌でもあり、今でも時々は弾き語りをしています。


投稿: 芳勝 | 2018年6月 1日 (金) 01時39分

芳勝さん 2016年12月9日の私のコメントを読んで頂き有難うございます。終戦後 ソ連軍が占領したハルピンで暴虐の限りをつくすなか、青酸カリを懐に入れ生後6ヶ月の妹と2歳5か月の私をかかえ見知らぬ街角に潜み生死不明の父を待っている母。出生時、父は母に渡した劇薬のことを気にしながら「死んではいない」と言い聞かせ必死で私たちを探し求めました。
 父は8月17日夕、南の新京から北のハルピンに命がけで引き返しました。完全武装のソ連軍の監視を潜って占領下のハルピン市内を5時間以上探しまわりました。父が頼りにしていた親友一家は惨殺されたり、奉天などに避難したりして家族と再会するまでは生きた心地がしなかったそうです。
 父はこの奇跡の再会を「神仏の御導き」とよく口にしていました。また2歳5か月だった私は両親のいうことを聞いて行動したそうです。
 昭和20年8月18日から翌21年8月末までは敗戦国民としてソ連軍の監視下ハルピンで過ごしています。両親は理不尽なことが多かったのでしょう。そのことについてほとんど話してくれません。
 8月末約1000名の満鉄社員に引揚げ命令が下ります。日本「帰着まで1ヶ月を要す」と準備した食料品、写真、宝石類などを八路軍の「身体検査」で没収されてしまいました。その後延々2キロに及ぶ避難民の死の行軍は 勝者側から「日本鬼子」と罵られ数百キロ続きます。末尾を避難する日本人女性、子供、老人は殺戮、盗難、強姦、人攫い・・阿修羅の世界だったそうです。また数百名の勝者は蛆虫、ハイエナのように徒党を組み、日本人の悪口を連呼しながら追尾し、落伍者の荷物をはぎ取り罵声、怒号の惨状だったと父は書いています。父は3歳半の私を先頭集団から遅れないように歩かせたそうです。・・・父の自叙伝を読むたびに「生かされてきた我が身」に感謝しています。断片的ですがいろんな人に励まされたことや助けられたことを思い出します。私達より辛く苦しい思いをした人のことも思い出します。
 バタヤンの「かえり船」を聞くと胸が痛くなります。古希になるまで生かされたことに感謝し、これからも前向きに生きなければという気持ちになります。

投稿: けん | 2018年6月 1日 (金) 22時10分

けん様

戦時中、壮絶な体験をされたご家族が、21年9月に無事、博多湾へ引き上げて来られた時、お父様とお母様は、さぞどんなお気持ちだったのだろうかと想像するだけでも、胸を打たれます!
文面にある、あの戦乱の中で、ご家族を守られたご両親は、ただ凄いの一言です。
「青酸カリと砂糖袋」を渡されたお父様とそれをお受け取りになられたお母様のお気持ちは、如何ばかりだったのかと、どうしても考えてしまいます。
恐れながら、けん様のコメントには、「生かされていることへの感謝」の文字がよく見られます。
私の中学時代の尊敬する女性担任の先生が、道徳の時間や、朝のミーティングでいつも教えてくれたのは、「感謝の気持ちを持ちなさい」そうすれば必ず良いことがありますよ!でした。その先生の教えに共感したその時から、50年経った今でも、それは正しいと思って生きています。

実は今朝5時ごろ、自宅裏にある公園のベンチで、今日もギターを弾いていたのですが、ちょうど「かえり船」を弾き終えた時、拍手が聞こえたので振り向くと、80代くらいの散歩中のご夫婦が、知らぬ間に私の後ろで足を止めて聴いていたらしく、仲良くなって頂きました。
草笛の練習も怠らないようにしています!


投稿: 芳勝 | 2018年6月 1日 (金) 23時47分

私も旧・満洲からの引揚げ者の一人です。けん様他の壮絶な終戦・引揚げ体験に比べますと、まだ、ましな方であったのかと思いながら、当時の日々を思い起します。
  私は、昭和12年に旧・満州のハルビン市で生まれました。父親が電力関係の会社員をしていた関係で、あちこち転勤があり、終戦時(‘45/8)には牡丹江市に在住して、円明(えんめい)国民学校(小学校)2年生でした。ちょっと脱線になりますが、作詞家・小説家として有名な、なかにし礼さんが、当時、同じ円明国民学校1年生(つまり、1年後輩)に在籍されていたことが、「赤い月」(なかにし礼 著、新潮社 刊 2001)に書かれています。
終戦への動きは、突然始まりました。8/9の夕方であったように記憶しますが、父親が仕事で会社に行って不在ななか、急に汽車でハルビンへ退避することになりました。それこそ、“着の身着のまま”で母親と子供5人が、社宅の人達とともに、駅に向かいました。炊いたご飯に手をつけず、そのまま置いての逃避行のシーンは、今も脳裏に残っています。
ハルビンでは、職場から遅れて到着した父親も合流して、市内の収容施設(鉄筋コンクリートの3階建てだったと記憶)等で、翌年の秋まで、帰国を待ちながら過ごしました。ハルビンの冬は厳しく、道路や広場はカチン、カチンに凍り、子供たちが工夫してスケートに興じていました。一方、父親達は労役に狩り出され、朝 家を出て、夜 家に戻ってきたときは、髭が真っ白に凍っている有様でした。ある日、自動小銃(マンドリン)を持った、酔ったロシア兵が一人、母・子だけの我が住いに押し入りましたが、たまたま手元にあった日本の軍服(父は予備役少尉でした)を差し出すと、それを受取って出て行きました。幸い、これ以上の怖い目に遭うことはありませんでした。
 ‘46/10に、ようやく帰国することになりました。大勢の帰国者とともに、私の一家7人は、ハルビン市から列車(無蓋車)で南下し、大連港近くのコロ島に暫く留め置かれた後、貨物船(リバティ船)に乗って、2~3日後に博多港に到着しました。船のなかでの食事のおかずに、佃煮のノリがあったことを、なぜか鮮明に憶えています。博多港では、汽車に乗り込む前に、頭から下着のなかまで、DDT粉末散布の消毒を受け、山陽本線、北陸本線経由で郷里・石川県へ向かいました。

投稿: yasushi | 2018年6月 3日 (日) 14時20分

 けん様、外満州引き揚げの方々この歌は本当に身にしむ感じではないでしょうか。けん様の書かれたことは、本当にすごいと思いました。満鉄に私の父もいたと聞いています。また、最近読んだ本で、コロ島に集まったいきさつは「3人の引き揚げ遂行に当たられた民間の方々の必死の奮戦の賜だと思います。3人の名前は「ポール・邦昭、新甫八朗、武蔵正道」のようです。NHKのテレビでもOAがありました。
 今、この歌のギター演奏に努力をしています。
 

投稿: 今でも青春 | 2018年6月 3日 (日) 21時57分

国破れて山河在り! 戦前末期生まれですが「かえり船」を聴くたび戦没者の御霊に祈りを捧げると共に、引揚者の方々の艱難辛苦に頭が下がる思いです。
なお「踊子」に投稿した焼酎駄文に、芳勝様、けん様からご返信頂き誠に有難うございます。吉永小百合嬢に象徴される「ひたむき・健気・清潔という少女像」や、うた物語に投稿される女性の方々のような良妻賢母像は今や影をひそめ、秘書を足蹴にし現在落選中の猛女などが“増殖中”の昨今です。
(占領下日本の輸送)http://www.youtube.com/watch?v=3K67U7p1BVk
(1948年東京新橋渋谷湾岸)http://himag.blog.jp/45957239.html

投稿: 焼酎 | 2018年8月26日 (日) 11時31分

今年もまもなく8月15日の終戦記念日がやってきます。
毎年お盆の頃になると、「なつかしのメロディー」のようなテレビ番組で田端義夫がこの歌を歌っていたのを思い出します。この歌は聞くのもいいですが、自分で歌ってみると戦争を知らない昭和25年生まれの私でさえ、当時の雰囲気に浸れる気がします。戦争が終わった安堵感と戦いに敗れた虚脱感がないまぜになった、何とも言えない気持ちが伝わってくる気がします。

この歌が今までに多くの人々に歌い継がれているのは詞とメロディーが見事なまでに一体化しているからでしょう。特に「かえり船」の題名が示す通り、この歌の白眉である1番のなかで、後半の高音部分から始まる「霞む 故国よ 小島の沖じゃ」カ行の硬い音を三つ並べて高揚感を出した後、「夢も わびしく よみがえる」ヤ行、ワ行の柔らかい音を並べて気持ちを鎮めているところは詞とメロディーが相俟って秀逸です。

東亜の盟主を気取り満州やアジア各地への進出を図ったけれど、その夢ははかなく潰え、無残にも破れ去った日本。戦いのさなかに散華した人々はもちろんのこと、その他大勢の生き残った日本人への鎮魂の歌として、いつまでも歌い継ぎたい歌の一つです。

投稿: Toshi | 2021年8月 9日 (月) 11時49分

戦後の懐かしい情景を思い出します。
ごく、親しい身内に満州・チチハルから命からがらに引き揚げ船に乗って引き揚げてきた者がおります。まかり間違えば、中国残留孤児になるような状況だったとのことです。佐世保港に入港したときは、起き上がる体力もなく、おそらく、故国の島影をみる力はなかったと思われます。
私の方は、お米だけは不自由せずに群馬の片田舎でのほほんと暮らしており、引き揚げの方々のご苦労には、思い至りませんでした。(と言っても4,5歳くらいですから)しかし、その頃からこの歌は何度となく聴いて、胸にしみてきております。懐かしく聴かせていただいております。また、ブログのハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。

投稿: ゆるりと | 2021年9月26日 (日) 05時22分

「かえり船」私が幼い頃に今は亡き長兄がギターの弾き語りでこの曲をいつも聴かせてくれました!

そのころ私は5歳で兄は15歳でしたが、当時初めて聴いたギター(鉄弦)の音色と兄のその歌声は、長年が経った今も私の脳裏にこびりついたまま離れることはありません。

私はギターを弾き始めて50年が経つので、ギターの腕前は当時の兄よりも幾分巧いはずなのですが、しかし、5歳のころの私に15歳の兄が、初めて私に聴かせてくれた「かえり船」そして「ふるさとの燈台」私にとって想い出深いこの二曲だけは、亡き兄が弾いていたその当時のギターの音色に、私が弾く音色が勝ることは、これから先も永久にありません。

『・・・田端、清水、倉若のトリオは、戦後ポリドールの再開が遅れていたので、揃ってテイチクに移り、また「造船作業」を始めたのです。最初は、「別れ船」で戦地へ見送った兵士が、復員してくる唄にしようと、「かえり船」ができました。当時外地からの引揚船が、続々と港についていたので、その風景が目に浮かぶようなこの曲は、多くの人の共感を呼んだのです・・・。』(昭和の流行歌・保田武宏氏解説より)

「かえり船」「ふるさとの燈台」バタヤンが歌ったこの珠玉の二曲は、私の心の中にいつまでも残り続ける名曲です!

投稿: 芳勝 | 2021年10月 3日 (日) 13時41分

 芳勝様の尊敬されるご長男のギターの弾き語りの「かえり船」が、今でもこころの中に残り続いてるお話、感動しました。
 15歳でバタヤンの「かえり船」「ふるさとの燈台」をギターで弾き、5歳の弟に歌って聞かせるお兄さん!
恰好いいですね。すごいです。
 
 私は3歳半の時満州から引き揚げました。引き揚げ先の田舎の子供の世界でも、年上のガキ大将が仕切っていました。
 私はいつも兄を持つ同級生の後ろを歩かされ、その年上の命令で一番先に悪さをやらされていました。見つかって逃げる時は 一番遅く、いつも捕まっていました。たたかれたこともありました。

 いつも強いお兄ちゃんが欲しいと願っていました。願いかなって(?)小学校に入る頃には 虎の威を借りる同級生を相撲で投げ飛ばすようになりました。

 命からがら引き揚げてこれたという運の強さや負けず嫌いが強かったようです。懐かしい思い出です。

 草笛で「かえり船」を演奏していると、散歩中のお年寄りから声を掛けられ、引き揚げの話を聞くことが多くなりました。最後は「毎日を元気に過ごしましょう」と声を掛け合っています。
 

投稿: けん | 2021年10月 4日 (月) 22時34分

満州からの引揚者ということで、ふと松島トモ子さんが思い浮かびました。
最近お名前を目にすることもなくなりましたが、ご健在でしょうか?
目がくりくりしてて可愛らしい女の子でしたね。

わが故郷の同級生KT君は瓦を素手で割っていました。ST君は10円玉を指に挟んでつぶしていました。SM君は片手懸垂をしていました。いじめられっ子だったYK君は背も高く大きくなって眼光鋭く皆を見下ろすようになりました。皆若くしてこの世を去ってしまいました。寂しいですね。

クラスの大将KM君は健在です。有名企業で全国を渡り歩いて活躍した後、今では町内会会長です。4年前の古希の会も開催してくれました。

かってのガキ大将、いつまでも強く強く、僕たちの行く道を灯台となって明るく照らしてください。いつまでも、いつまでも。


投稿: yoko | 2021年10月 7日 (木) 07時36分

素晴らしい歌詞ですね。
波の背の背に 揺られて揺れて
捨てた未練が 未練となって
外地に残して来た女性というコメントがありました。
そうだなかと思う反面、納得したくない気持ちもあります。
帰国できて、込みあげる喜びの歌が多い中で、
わびしく、よみがえる夢とは何でしょう。
今も昔のせつない捨てた未練とは何でしょう。
出征するとき、生きては帰らじと、永遠の別れを告げ捨てた、故国に残した娘と解釈してみたい。

投稿: たけし | 2022年1月28日 (金) 02時26分

『かえり船』 についての前の拙投稿(’18-6-3)から、早くも、3年近く経ちました。
このたびの、たけし様の投稿に触発されて、改めて、歌詞全体を眺めて、この歌の詩情について、思い巡らせてみました。

私なりの解釈・理解は、次のようになります。
なお、歌の主人公は復員兵(独身)とすると、しっくりくるように思います。
<歌詞1番>
現状を謳っている。
月に照らされた夜、私が乗っている帰還船は祖国(故国)に着き、港の沖の小島の近くに停泊している。勇んで出征したときとは、うらはらに、敗戦を抱きしめた、わが身がわびしい。
<歌詞2番>
出港したときのことを思い出している。
思えば、”生きては帰らない”と、祖国への未練を断ち切って、国を出たのだ。
目をつぶると、霧の波止場を出港したときの、銅鑼の音が聞こえてくる。
一度は”生きては帰らない”と覚悟を決めたことだが、帰ってきた今、祖国で生きることへの未練が甦ってきて、せつない。
<歌詞3番>
これから先のことに目を向けている。
とにかく、祖国に帰り着いた。これからは、明るい未来があるのだ。
出征のときに別れた、あの娘(こ)はどうしているだろう。僕が故郷へ帰るには、少し時間がかかるだろうから、鷗よ、飛んで行って、一刻も早く、あの娘に、僕が帰ってきたと伝えておくれ。

投稿: yasushi | 2022年1月28日 (金) 13時08分

yasushiさん ありがとうございます。
勇んで出征した若い夢が敗戦でわびしい。
死ぬ覚悟が、祖国で生きる未練で甦ってせつない。
清水みのるに「かよい船」もあり、この方がしっくりきます。
私の父は次男で甲種合格、ノモンハン事件で九死に一生を得て帰還しました。
もし、この時死んでいたら、私は生まれていなかったわけです。
風呂に入ると、菊の紋章のような砲弾の模様があちこちに残っていました。
父は石川県鹿島郡、母は能登島出身です。

投稿: たけし | 2022年1月29日 (土) 02時18分

たけし様には、早速に、『かえり船』 についての拙投稿をご覧くださり、有難うございました。
歌に対する思いを共有できることは、とても嬉しいことです。

お便りによれば、ご両親は石川県のご出身で、お父上は”ノモンハン”で戦われたとのこと、ひょっとしたら、たけし様も旧・満州からの引揚げ者であられたのかと。
前の投稿(’18-6-3)で述べましたように、私の一家も旧・満州から郷里・石川県の粟津温泉の在に引揚げました。父は小松市、母は金沢市の出身でした。

投稿: yasushi | 2022年1月29日 (土) 13時28分

田端義夫に「別れ船」・「かえり船」・「かよい船」があります。
https://youtu.be/bKOjBX_5NAI

そしてネットに『別れ船』の記事を見つけました。
http://www.norari.net/bar/040711.php
昭和15年に作られた『別れ船』という出世兵士の歌に、、
昭和21年に復員兵の「かえり船」が対応しています。
夢、潮路、銅鑼の音、波の背 恋の歌だと理解しました。

『別れ船』  清水みのる:作詞 倉若晴生:作曲 田端義夫:唄
1.
名残つきない はてしない 別れ出船の かねがなる
思いなおして あきらめて 夢は潮路に 捨ててゆく

2.
さよならよの 一言は 男なりゃこそ 強く言う
肩を叩いてニッコリと 泣くのじゃないよは 胸のうち

3.
望み遙かな 波の背に 誓う心も 君ゆえさ
せめて時節の 来るまでは 故郷(くに)で便りを 待つがよい

投稿: たけし | 2022年2月 9日 (水) 23時30分

「かえり船」ようやく戦争が終結し、祖国日本へ命からがら帰還できた人たち、またその日がくるのをひたすらに待ちこがれておられただろうご家族にとって、田端義夫のこの唄が、どれほど心に沁みただろうか、私はここでこの曲を聴く度にそんな思いが募ります!

『蛇足』に記されている、>『・・筆舌に尽くしがたい苦難を重ねた夫、やっとたどり着いた日本。船からその影を見たとき、万感胸に迫って泣く人も多かったはずです。帰還前になくした家族や自身が受けた被害、国に残してきた老親や恋人は無事か、家は残っているかなど、さまざまな思いが胸の中で渦まいたことでしょう。‥』私はこの記述にまさに同感の思いが込み上げます。

また、蛇足欄には昭和20年10月18日に博多港に到着した朝鮮からの引き揚げ船の写真が載せられていますが、この大型引き揚げ船のデッキには、私の想像をはるかに超えた途轍もなく大勢の人たちのごった返す人だかりとともに、下船する多くの人たちによりこんなにも巨大な船がやや傾いていることにも私は驚きを隠せません。この引き揚げ船の写真こそがどんな文字や言葉よりも、当時の状況を我々に伝えてくれている。私にはそのように思えてくるのです。
そして、ここでメロディを聴きながら、煙突から黒い煙を吐き出しながら無事に博多港に到着した、この大型引き揚げ船の写真をじっと見つめているとき、私には2聯の歌詞の『・・霧の波止場に響く銅鑼(ドラ)の音・・』が、まるで聴こえてくるかのようです。

「かえり船」昭和21年、作詞家:清水みのる・作曲家:倉若晴生・田端義夫のトリオでヒットしたこの曲を思う時、同トリオはその前後にも数多くの『船シリーズ』を作成しています。その中でも昭和15年作『・・波止場で出征兵を見送る風景を歌った・・』という「別れ船」との深い絆を、私は今改めて感じています。

投稿: 芳勝 | 2022年2月11日 (金) 18時23分

以前図書館で歌謡曲集を見ていたら、戦後編の最初が「リンゴの唄」、二番目がこの「かえり船」でした。

私の記憶によれば、当時は演歌とか歌謡曲とか言わず、流行歌と言っていたように思いますが、その流行歌が戦前のものも含め次々に世の中にあふれ出て、何にもなくなってしまった中、次の生活の為に辛苦する人々に希望と歓びをもたらしていたように思います。
私もとてつもない軍国少年で竹刀、柔道と軍歌ばかりの生活だったのが終戦を機に一転、たちまちのうちにアメリカさまさまになり、映画と野球そして流行歌の波に吞み込まれてしまいました。
しかし今思うに、当時の歌は歌曲唱歌童謡類を含めみな素晴らしい名曲ぞろいだったと思います。流行歌などとバカにしてはいけませんね。 素晴らしい日本語、美しいメロディー、そしてその情感を見事に表現する歌手たち、みな心に融けこんでいく曲ばかりでした。

私が特に好んだのがこの「かえり船」でした。 まだ幼いころだったから戦後の帰国船の事も、復員兵引揚者の方々のご苦労も多く感じ取ることはできていませんでしたが、この歌の中の何かが私の心を捉えていたのだと思います。 私の語彙不足でこの何かを表現することができないのが残念ですが。

その後この歌をよく口ずさむようになりましたが、長ずるにつれこの歌の真髄が次第に理解できるようになりました。それは望郷の思いと言ってもよいのでしょうか。帰国者の方々の往時の苦難、本土を目にした時の歓び、これからの希望、それらを見事に表現した真に優れた歌曲だと思います。
「瞼あわせりゃ瞼ににじむ~」、「鴎ゆくなら男のこころ~」あたりジンと胸にひびきます。
わたしはこの曲を、日本の歌の中で最高のものと判じていますし、最も好きな歌でもあります。

後年この歌の望郷の念をしみじみ感じてしまう経験をすることになりました。

1992年から94年頃まで、私はアフリカ、モザンビークで仕事をすることになりました。 場所はモザンビークの北端二アッサ州、ここにはいわゆる反乱軍と呼ばれた Renamo の基地が点在しています。 州都 Lichinga の近くには政府軍Frelimo の基地があり、私はその双方の武装解除および兵士たちの除隊帰村を執り行うことになりました。
州都 Lichinga は州都と言っても村みたいな所で水が少なく、私はその北方のManiamba に基地をおきました。そこはサヴァンナには珍しく水が豊富で、どういう配線か電気も通っています。
Maniamba にはなにもありませんでした。 テレビ、ラジオ、電話なし。 勿論音楽テープも CD も DVD もありません。 いつしか暇なときは部屋のベランダでぼんやりジョニ黒をすするだけになりました。
(ジョニ黒はマラウィからの密輸品で、密輸ものだから一品しかありませんが、有る時にはたっぷり有ります)

ここから少し離れたところの部落に、国境なき医師団の二人のデンマーク人医師が基地を設けており、彼らは時々文明の息を吸いにやってきます。 ある夕食時、その一人が話しかけてきました。 なに?と問うと何やら音符を書いたものを見せるのです。私は音符が読めませんのでとまどっていると、彼は近くのおんぼろピアノに行き、ポロンポロンと叩き始めました。 それがなんと、この日本の名曲「かえり船」なのでした。
これには驚きましたが、話を聞くと、彼らがここにやってくるたびに私がこの歌を唄っているのが聞こえていたのだそうです。そしてそのメロディーが気にいって楽譜に残そうとしているとのことでした。生憎私は音符が読めも書けもしませんが、何とかまともに歌うようにして楽譜を完成させたのでした。
ついでにもう一つ別のうろ覚えらしい歌について問われましたが、それは「七里ヶ浜哀歌」でした。 こんな歌を私は口ずさんでいたのかと思いましたが、またなるべく正しく歌うように努めて楽譜を完成させました。
随分昔ドイツのハンブルグで聞いた日本の若者の、音楽は世界語なんですよという言葉を思い出したのでした。 良いメロディーに国境はないんですね。

その夜またジョニ黒をすすりながら考え込んでしまいました。 もう歳だから本部での仕事をしたらというのに、どうしても最前線でなければ嫌だといってやってきたのでした。昔からどんなところでも生き抜ける自信があると頑張っていたのでしたが、矢張りこれだけ文明の果つるところ、怯む思いが心の中に湧いてきていたのだろうか、「かえり船」は望郷の歌、「七里ガ浜哀歌」は母が好きな歌、それがしょっちゅう口に出てきていたとはホームシックに捉われていたのだろうか。

もう三十年も昔の話です。


<蛇足>
一か月ほど後、この二人のデンマーク人医師は通訳のポルトガル人とともに三人居住の部落で毒殺されてしまいました。 Lichinga から調べに来た警察官の話によると、どうも部落の Witch に自分の魔術的医療の邪魔者として消されてしまったらしいとのこと。 勿論誰も逮捕されることはありませんでした。

投稿: 田主丸 | 2022年6月29日 (水) 21時25分

私は「ニイタカヤマノボレ」の数日前の生まれですから空襲や戦後の食糧難などは断片的にしか記憶がありません。父親が復員してきた日のこともワンシーンだけ頭に残っています。国道を境に焼け残った我が家に大きな背嚢を背負って帰って来たまだ30の若い父の姿と緑色のキャラメル(調べたら軍粮精というらしい)だけがしっかり記憶にあります。どこからどういう風に帰ってきたのかわかりません。ひょっとしたら幸運にも内地にいたのかも。農家の三男坊で一選抜の上等兵でしたからシナ事変あたりからずっと戦地にいた筈で私の赤ちゃん時代の
写真が多いのは戦地に送っていたからだそうです。
ただすぐ下の妹は20年の春生まれで、想像するに若い所帯持ちの兵隊は子作りのために、たまに帰していたのでしょうか。
平均余命が指で数えられるようになって思うことは、数百万の英霊と戦没者、銃後の犠牲者の犠牲の上に人民主権の現在の私の暮らしがあるということです。平和とは戦争のない状態であると習いましたし、力は正義なりという言葉も教えられました。我々世代は食い逃げの世代かと自嘲しています。
もし今次の大戦がなかったら、もしこの戦争に日本が勝利していたら、天皇主権が続き身分制は残り徴兵制もあり参政権も制限的で不敬罪姦通罪も消えないでしょう。
この77年を我が国は左右に揺れながら、アメリカを傭兵にして質の高い国民性を発揮して生き延びてきたのだと思います。
「身捨つるほどの祖国はありや」と歌った歌人の父は戦地からかえり船には乘らなかったのでしょう。今回のロシアの暴挙、ウクライナの徹底抗戦を見るとき、わが憲法の前文(諸国民に委ねる)が浮かんできます。ウクライナの人たちには「祖国はある」んでしょうね。

投稿: しょうちゃん | 2022年6月30日 (木) 10時29分

 「かえり船」を聞きながら、思い出しました。
 昭和30年冬の夜、小学5年生の私はシベリアから帰還されたFさんを出迎えました。どんなに苦しくても祖国や家族を思い、希望を持ち続こと、極寒のシベリアに送られ極悪状況の中、重労働や粗末な衣食住に耐え抜いたことなどを話されました。


 コロナウイルスに注意しながら「ラーゲリより愛を込めて」を観ました。「感動した。何度も泣いた。」と複数の友人たちから薦められた映画でした。8月9日までは私たちも映画の中の山本幡男さんと同じように平和な暮らしをしていたと思います。うた物後を愛される方々にも沢山いらっしゃると思います。 
 昭和20年8月9日には 満鉄勤務の父、26歳の母の、生後6ヶ月の妹とハルビンに住んでいました。
運よく父はシベリア送りを免れ、ソ連占領下で1年後葫蘆島から博多港へ引揚げることができました。ハルピンから葫蘆島に避難するまで約1カ月位かかりました。「かえり船」に辿り着く迄、多くの日本人が掠奪、殺戮、強盗等で生命や財産を無くしています。3歳半の私は「親から離れるな」、「勝手な行動をするな」、「人のために」、「逃げるな」、「弱いものを苛めるな」など言われ続けました。
  
  ・・・・・・   ・・・・・・
 映画のあらすじ 
    「希望を持ち続けた山本幡男」
 第二次世界大戦終了後、60万人を超える日本人がシベリアの強制収容所(ラーゲリ)に不当に抑留された。不当に抑留され捕虜となった日本人の強制収容所(ラーゲリ)において、生きることへの希望を捨てなかった男・山本幡男(やまもとはたお)を描いた作品。当時の過酷な収容所生活を鮮烈に、虐げられ続けた日本人捕虜の心情の機微を繊細かつ詳らかに表現し、読者の心を揺さぶる珠玉のノンフィクション作品となっている。 ・・・・    ・・・・

投稿: けん | 2023年1月30日 (月) 15時43分

「かえり船」私はこの曲のイントロメロディを聴くだけで、今は亡き長兄との、心に媚びりついたまま離れない幼い頃の想い出が一瞬に蘇ってきます!

けん様の思いの丈が詰まったこの度の貴重な御文、私は感慨深く拝読させていただきました。

今日は思うところがあり、久しぶりにお父様の著書であるご本『ある村長の・満州引揚げ・戦後復興奮戦記』第三章『敗戦』(私の敗戦日は八月十八日)の記述を再読させていただきました。
その中の昭和二十年八月十三日に召集令状をお受けになられた・・・
そしてお父様が日本の敗戦を確認されたのは八月十八日だった・・・等のくだりを拝読するだけでも如何に戦時中においての世の中が混乱していたかが容易に想像できます。

「かえり船」思えばいつの間にか、戦後からもう77年が過ぎたのですね。恐れながら戦争を知らない未熟で愚か者の私が唯一会得したと思い込んでるもの、いやそう思って止まないもの、それは『・戦争は悲しみしか生まない・』私はこの珠玉の名曲を聴きながら、そんなことを強く思うことが最近多くなりました。

投稿: 芳勝 | 2023年1月31日 (火) 16時51分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« この胸のときめきを | トップページ | 白いランプの灯る道 »