ブルーライト・ヨコハマ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:橋本 淳、作曲:筒美京平、唄:いしだあゆみ
街の灯(あか)りが とてもきれいね |
《蛇足》 昭和43年(1968)12月25日に発表されるや、たちまち大ヒットとなり、150万枚を超える売り上げを記録しました。
同じ頃、私は2年8か月勤めた出版社を辞め、フリーになりました。フリーではたしてやっていけるかどうか不安でいっぱいでしたが、幸いあまり途切れることもなく仕事があり、深夜帰宅が続きました。
その頃乗ったタクシーでは、カーラジオからたいていこの歌が流れていました。将来への不安と現実の多忙とがない交ぜになった時期に頻繁に耳にした曲なので、特別な感懐があります。
初めてこの曲を聴いたとき、歌はうまいものの、のびと深みのないいしだあゆみの声質に違和感を覚えました。しかし、大ヒットしたのは、結局彼女の声質がこの曲に合っていたからでしょう。
いしだあゆみは大阪でフィギュアスケート選手として活動中、その美貌を聞きつけた芸能プロにスカウトされ、昭和35年(1960)に芸能界入りしました。
昭和39年(1964)にレコードデビューするとともに、女優としても活動し、TBSのテレビドラマ『七人の孫』で人気を博しました。
『ブルーライト・ヨコハマ』の大ヒットから9回連続してNHK紅白歌合戦に出場したあとは女優に専念、演技者としても卓越した才能を見せました。昭和52年(1977)の『青春の門・自立編』や昭和61年(1986)の『火宅の人』ではいくつもの映画賞を受賞しています。『男はつらいよ・寅次郎あじさいの恋』では、マドンナ役を務めました。
名作テレビドラマ『北の国から』で、純と蛍の母親役を演じたことを覚えている人はまだ多いでしょう。
『ブルーライト・ヨコハマ』は、その後懐メロ番組でときどき歌われるぐらいで、話題になることはほとんどなくなりました。ところが最近、由紀さおりがそれに新しい生命を吹き込みました。
彼女がアメリカのジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」と組んで制作したアルバム『1969』が、世界各国で大反響を呼んだのです。アルバム発売に先駆けてリリースされたiTunesではジャズ部門で第1位を獲得、その後発売されたアルバムも、ビルボード誌のジャズ・アルバム部門で5位に輝きました。
特筆すべきは、全12曲のうち1曲を除いて日本語の歌詞で歌われたということです。そのうちの1曲が『ブルーライト・ヨコハマ』でした。由紀さおりの歌唱は、いしだあゆみのオリジナル版とはまた違った味わいがあります。
坂本九の『スキヤキ(上を向いて歩こう)』以来の快挙といってよいと思うのに、日本でそれほど騒がれなかったのはなぜでしょうか。
『スキヤキ』がアメリカなどで大ヒットした昭和38年(1963)は、高度経済成長が端緒についたばかりで、国民の多くには二等国意識がありました。そうした時期に日本の歌謡曲が世界に認められたというので、スキヤキなどという奇妙なタイトルをつけられたのも気にせず、大喜びしたのです。
しかし、現在の日本は政治三流、経済不調でも、文化面ではサブカルチャーを中心に世界のAクラスに入っているのはまちがいありません。そんな状況では、この程度の成功は取り立てて騒ぐほどではないということかもしれません。
ただ私は、この成功がもしかしたら若いJポップ歌手に影響を与えるかもしれない、与えたらいいなと思っています。Jポップには歌詞に必然性のない英語のフレーズが半分ほども入っている曲が少なくありません。これはアメリカンポップスへのコンプレックスの表れでしょう。
ついでにいうと、Jポップの多くは、歌詞は詩ではなく散文であり、曲はリズムばかり強くて、肝心のメロディは起承転結のない平板な作品が主流になっています。なかには、テンポをやや速めた御詠歌のような曲さえあります。
由紀さおりのアルバムの成功を見て、日本語だけの歌でも、またメロディにメリハリのある40年ほども前の歌でも、十分世界に通用するのだということを、若いシンガー・ソングライターが理解してくれたら、と思います。
「ブルーライト・ヨコハマ』からずいぶん離れてしまったので、この辺で……。
(二木紘三)
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コメント
またまた懐かしい歌をそして彼女の諸々を、まして9回連続してNHK紅白歌合戦に出場したことも初めて知りました。
私が訪れて見たい憧れの街は横浜で、確か昔平野愛子だったかと思いますが「港が見える丘」に発しNHKみんなのうたで知ったダ・カーポ(常に初心にかえるとの思い)の「よこはま詩集」で、杉紀彦と榊原まさとしプラス弘子が横浜の情景を歌い上げたこの歌に、ふるさととは別の郷愁をそそわれてしまいました。
何時かこの歌を聴きながら横浜をさまよってみたい!
投稿: 尾谷光紀 | 2012年3月 5日 (月) 11時13分
2003年度のNHK朝ドラ「てるてる家族」では、いしだあゆみの義弟にあたるなかにし礼の小説を基に、石田家の家族が描かれていましたね。私はあまり朝ドラは見ないのですが、この朝ドラだけは最初から最後まで見たのでよく覚えているのですが、いしだあゆみを演じたのが上原多香子、番組の中でも「ブルーライト・ヨコハマ」を歌いましたね。上原が歌うこの曲もYouTubeにアップされているので、興味のある方アクセスしてみてください。
投稿: KeiichiKoda | 2012年3月 6日 (火) 09時37分
この歌は2007年是枝裕和監督の(面白いとは思いませんでしたが)「歩いても歩いても」と言う映画の主題歌にもなっています。管理人さんは違和感があるとのこと、私にとってもいしだあゆみの歌い方はコンピューター音楽のようで、人間の息吹が感じられません。またやせぎすな体のせいでファッションモデルには向くでしょうが、生きて呼吸する肉体を感じさせない歌手と言えそうです。ただ「ホームレス中学生」では人情味のあるおばちゃんを演じていました。大阪出身とかで、素顔は温かいのかもしれません。
投稿: Bianca | 2012年3月 7日 (水) 13時17分
この曲が流行り始めていた頃、伊勢佐木町の「ハマチク」というレコード屋の老舗がありましたが、そこでよくこの曲を流していました。私のようなレコード世代の横浜の人はよく知っている店でした。いろいろな歌手がよく、ここでキャンペーンをしていました。弦哲也さんも歌手デビューしたばかりで、ギターを弾きながら、ここの店の前で歌っていました。私の家内が丁度お腹に子供が居た頃でした。昭和44年に娘が生まれました。この曲は今でもよく思い出します。私は唄いませんが、家内にカラオケでよくよく唄わせます。今では娘も2人の子持ちになり、私たち夫婦も齢を重ねて、共に70才を過ぎていますが、今でもイセブラは大好き。この歌を聞くと、一番横浜らしい曲だと思いながら、無くなってしまった「ヨコチク」の前をふたりで、去った日々を思い出し、レコードの全盛の頃を偲んでいます。
投稿: 代々浜っ子 | 2012年3月 7日 (水) 23時02分
私は入社した数年横浜の戸塚区に住んでいましたので、よく肉付きの良い女性を誘って「イセブラ」を楽しみました。今はこの街もどうなっているのでしょうか。
投稿: 海道 | 2012年3月 8日 (木) 14時36分
ブルーライトと言うややレッドライトに近い都会雰囲気の歌を聞くと、亡き母を思い出します。3年前暮れに95才の生涯を閉じました。典型的かどうか…、甘えん坊の尽くせないバカ息子でした。葬儀にも四七日にも出られず、自分自身の哀れを呪いました。まもなくようやく亡母を訊ねます。春の雑草花を飾りたい。
「演技者としても卓越した才能…」は母が彼女を見た時、まだ準備段階だったのでは…。父母が海辺の故郷に隠居してまもなく、いしだあゆみ主演の「日本沈没」ロケ隊が来ました。岩場からギッコンと言う櫓で漕ぐ小舟に乗る(沈没する日本列島から避難する)場面などの撮影だったと、楽しそうに話してくれました。
日本海の魚港街の主婦をいしだが演じた映画も教えてくれ、母は彼女に好感を抱いていたんですね。高倉健との共演で、魚商店の娘が流れてきた又は幼馴染のやくざの恋人、そんな筋ではなかったかと思います。年代的に、二木さんの解説と会うのかどうか不明ですが…
都会生まれ育ちの母は父が逝った後の晩年に、日本海小村の難しい人付き合いに悶々しながら、ブルーライトヨコハマを口ずさんでいたそうです。村人と打ち解けられない我や寂しさがいしだのイメージにかさなり、心を和ませたのではないでしょうか。
投稿: TangoMinato | 2012年3月25日 (日) 09時49分
久しぶりにこの素晴らしいサイトを開きました。2500万近いアクセス数に驚き、かつ管理人さんに大拍手をお送りします。
さて、ブルーライト・ヨコハマをオーボエ(?)で楽しんだ後、すぐYouTubeで由紀さんと元祖いしださんのヴァージョンを聴きくらべてみましたら、元祖の素人っぽい鼻にかかった響きのほうが、私には新鮮で魅力的に感じられ、懐かしみました。
管理人さんへのお礼をもうひとつ。「蛇足」にありましたJポップスへの慨嘆、まことに痛快でした。「必然性のない英語フレイズ」「詩でなくて散文」「リズムばかり強い」「メロデイ-に起承転結なく平板」「御詠歌」などのご指摘に、日ごろの鬱憤が晴れました。でも、ひょっとしたら歳かも!?との疑心が起きてきて、またすぐ曇ってしまいました・・・。76歳男性。
投稿: XYZ | 2012年3月26日 (月) 12時06分
いつもながら先生の《蛇足》 には感心させられていますが、今回の由紀さおりのくだりには全く同感!と溜飲を下げました。先生の《蛇足》 はいつも客観的で偏らない表現に努めておられるのを感じておりましたが、今回の《蛇足》 には先生の視点の一端が垣間見れたような気がします。歌は優れた詩と曲が合体した一つの作品ですが、おっしゃるように最近のJポップと呼ばれるものは詩と呼べるようなものは殆ど見られませんね。それどころが言葉ですらなくなって他の楽器と同じようなパーツでしかないような気さえ致します。日本の言葉の持つ美しさや力を存分に発揮した歌が聴きたいものです。
投稿: うずらのたまご | 2012年3月30日 (金) 19時06分
久しぶりにコメントさせて頂いたついでに、勢いでもう一つ。近頃は歌手などは仲間内だけでなく自らをアーティストなどと呼んでいます。一体、どれだけの歌が歴史の篩に耐えられると思っているのでしょうか?
投稿: うず | 2012年3月30日 (金) 23時17分
はじめまして。時々拝読しております、二十代です。
最後のJポップへの思いに色々と考えさせられました。
自分自身も、周囲の人間にも、はやりの歌をキャッチするような人間がおらず、新しい歌といってもほとんどが2000年代前半、開拓する歌は昭和の方へ向かうばかり……という、おそらく今は割と多い二十・三十代の傾向を私も持っています。
自分自身は南インド音楽を学びながら、日本語の生徒たちに少しずつ、日本の歌謡曲や合唱曲、童謡などを伝えています。
以前オーストラリアにいた時に、アイリッシュバーのカラオケで一つだけ入っていた日本の曲が「スキヤキ」でした。その時ほど、拍手と激励をいただいたことはありません。
この人たちに、歌詞のことは何も分からないのに……なんだか不思議な気がしたものでした。
投稿: ともみ | 2012年7月10日 (火) 14時58分
皆さんBonsoir
ブルーライト・ヨコハマ 大好き!
この曲、日本歌謡史上に燦然と輝く名曲中の名曲
歌詞は橋本さん、作曲は筒美さん 歌 いしだあゆみさん
まさに最高の布陣
テンポもモデラートで快適
ノリが良くて、しかも品位があって・・・
またまた、そして、あゆみさんのソフトで独特な発声と歌唱法、タマンナイ!
あたしがグラッ”とくるのは
・・・・・小舟のように、の箇所の歌い方がなにか俗曲のような
ほかの方のカバー曲を聴いても、その部分はたんたんと歌うだけなのでイマイチ
こんな名曲と遭遇するのは100年に一回ぐらいかも
ながくなりました。
Au revoir
投稿: トッコ | 2012年9月27日 (木) 23時18分
この地域は、幕末の開港までは海辺の寒村でした。文明開化と共に、横濱・横浜・ヨコハマ・YOKOHAMAと目覚ましい発展を遂げていきます。
この歌の題名ブルーライト・ヨコハマは都会的で港ヨコハマの魅力を十分伝える名曲とおもいます。
文明開化当時、私の先祖は横浜辨天通りで、外国人向けに彩色写真の製作・販売をしていました。江南写真館江南信国という人物です。明治維新当時の横浜は、この写真を見る限り日本で一番先進的な場所だったと思います。
投稿: タケオ | 2016年8月24日 (水) 21時40分
2012/3/6の私の投稿コメントへの追記です。なかにし礼原作の、いしだあゆみの家族を描いた2003年のNHK朝ドラ「てるてる家族」が13年ぶりで再放送中(NHKBSプレミアムの7:15-30AM)。私も、この再放送も見ているのですが、この石田家(ドラマでは岩田家)の姉妹は皆才能ある姉妹なんですね、長女はグルノーブル・オリンピックのフィギュアスケートの日本代表、次女はいしだあゆみ、一番下が宝塚出身の歌手で、作詞家・小説家のなかにし礼と結婚する。まもなく、上原多香子演じるいしだあゆみ(このドラマでは岩田夏子という名前になっている)が「ブルーライト・ヨコハマ」を歌って大ヒットを飛ばす場面が出てくるはずです。私の記憶では、本人のいしだあゆみも昭和の大歌手(淡谷のり子?)の役でゲスト出演をしていたと思います。興味のある方はチャンネルをあわせてみてください。
投稿: KeiichiKoda | 2016年8月26日 (金) 10時30分
本日の「てるてる家族」の再放送をご覧になった方はおられますか?上原多香子演じるいしだあゆみ(ドラマでの芸名いわたなつこ)の「ブルーナイト・ヨコハマ」が大ヒットし、その年のNHK紅白歌合戦に出場し、この歌を歌う場面がありました。YouTubeにもこの場面がアップされているので、URLを示しておきましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=dflBGh5jnuY
なお、本人のいしだあゆみも特別出演していますが、「昭和の大歌手」ではなく、場末で歌う、名もなき歌手として登場します。このアップされたYouTubeの映像の中にも紅白で歌ういわたなつこをTVを観ながらひっそりと応援する姿がありました。
投稿: KeiichiKoda | 2016年9月17日 (土) 08時51分
タイトルに横浜が付いたヒット曲は数多くありますが、横浜の街を素敵なイメージにして一段と有名にした歌は、何と言ってもいしだあゆみが歌った大ヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」ではないでしょうか!
幼少の頃、横浜と言えば童謡「赤い靴」の歌詞にあるような、外国船が行き交う大きな港、波止場、それから港唄に出てくるような浜のマドロスとか、そんなイメージがありました。
しかしこの歌のヒットにより、「ブルーライト・ヨコハマ」のタイトルからも、都会の素敵な街というイメージを持ったような気がします。
これまでにも横浜には中華街や山下公園などのコースで何度か観光しましたが、その都度私が必ず立ち寄る所は「ランドマークタワー」の69階にある展望台です。特に昨年は願望だった夜に訪れ展望台から眺めた横浜の街は、光輝いていて美しく絶景でした。まさに「ブルーライ・トヨコハマ」でした。
50年ほど前、テレビ番組「スター千夜一夜」で、いしだあゆみがフィギアスケートをしている映像を観ましたが、ヒットを連発している頃の、健康的で可憐なその頃の、いしだあゆみは大好きな歌手でした。
その頃、アルバイトした小遣いで、ブルーライトヨコハマ・喧嘩のあとでくちづけを・砂漠のような東京で・の3枚のEPレコードを買いました。
投稿: 芳勝 | 2018年8月17日 (金) 00時10分
長崎のsitaruです。いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、私にとっても思い出深い曲です。というのは、人前で、一人で歌って、下手だと言われなかった唯一の曲だからです。
私は、子供の頃からひどい音痴で、それを人から指摘されることが何回もありました。まず、小学5年生終わりの春休みに、長崎市街を見下ろす稲佐山(いなさやま。標高330m。ここから見下ろす夜景は、新世界三大夜景に選ばれたそうです)に近所の人たちと花見に行ったのですが、そこで花見酒に酔った人から、「小遣いをやるから、何か歌え」と言われて、当時流行っていた城卓矢さんの「骨まで愛して」を歌ったのですが、よほど下手だったのか、その人は何も言わず、苦笑いをしながら小遣いを呉れました。次は、中学1年の音楽の時間に、担任でもあった担当の先生に、唱歌「花」の二部合唱の下のパートを歌うように指示され、高音が無いので歌い易いと思って、歌い出したのですが、途中で「もうよろしい」とストップをかけられました。あとで考えると、音階の幅が少なかったので、文章の「棒読み」ならぬ「棒歌い」になってしまったようです。次は、高校生の時、家の中での何かの祝い事の会食の時に、次兄に言われて、当時ドラマの主題歌としてよく流れていた、あおい輝彦さんの「二人の世界」を歌ったのですが、この時は、「音痴だな」とストレートに言われました。それ以来、とにかく人前で一人で歌うことは出来なくなりました。歌は好きなのに、うまく歌えないのは悲しいことです。実は次兄も相当の音痴らしく、人前で歌う所を見たことがありません。これは、どうも父親の遺伝らしいのです。父は、泥酔した時に限って、「荒城の月」をぼそぼそと歌うことがありましたが、やはり音痴でした。母は、高音の綺麗な声で、上手に歌っていましたから、音痴は父親から来たものに違いないと思いました。ただ、長兄だけは、スナックに通って、カラオケで相当に練習したようで、上手になっていました。
そして、いよいよ「ブルー・ライト・ワコハマ」ですが、これを歌ったのは、二十代の末の頃で、その頃私は宮崎市で教師をしていました。そして、研究室の学生7,8人と学生スナックに行き(そのスナックの名前は「時間割」というもので、いかにもという感じでした)、学生たちの歌を聴いていたのですが、どうしても歌って下さいと言われて、仕方なく歌ったのが「ブルー・ライト・ヨコハマ」でした。この歌は音階の幅が比較的狭いので、歌い易かったのです。歌い終わったあとの学生の反応は、意外にも好意的なものでした。当時の学生にはだいぶ昔の曲で、耳遠いものだったことが幸いしたのかもしれません。私はホッとしましたが、感激したのは、学生の誰もが本当に歌がうまかったことです。中でも、薬師丸ひろ子さんの「探偵物語」を歌った女子学生には、素人でこんなに上手に歌える子がいるのかと驚愕しました。その子は、後に宮崎県北部の小学校の先生になりましたが、もっといろんな曲を聴かせて貰っておけば良かったと後悔したくらいです。
現在も相変わらず歌好きで、買い貯めたCDの曲を、パソコンでmp3ファイルに変換して保存したり、YouTubeの歌映像を楽しみながら、好きな曲が出て来ると、やはり歌うことが多いです。
投稿: sitaru | 2020年11月28日 (土) 07時50分
ブルーライト横浜の“ブルーライト”とは、何がモチーフだったのでしょうか。私も年に数回程度横浜に出掛けますが、横浜港が青い照明で飾られているという印象はありません。
ブルー(青)はレッド(赤)、グリーン(緑)と共に光の三原色で、3種の光が重なると白色光になります。
発光ダイオードは電流を流すと光を発する半導体で、赤色と緑色の発光ダイオードは早くから開発されていました。しかし青色のダイオードは開発が遅れたため、半導体による照明や映像の実現のために、20世紀後半、青色発光ダイオードの熾烈な開発競争が世界で繰り広げられていました。
日亜化学という四国の中小企業で研究開発を行っていた中村修二は、1993年、世界に先駆けて青色発光ダイオードを発明しただけでなく、商品として販売すると発表して世界を驚かせました。この開発競争には、DNAの二重らせん構造の発見と同じ位のドラマがありますが、ここでは割愛致します。中村修二は2014年にノーベル物理学賞を受賞しています。彼の発明のお陰で、我々はLED(Light Emitting Diode)で多くの色彩を描く事が可能になりました。昨今の我々の生活の欠かせないスマートフォンにもこの技術が応用されています。
話は変わりますが、山下公園に面したスターホテル横浜のブルーライトバーは、サザンオールスターズの『"Love Affair~秘密のデート』にも出て来る有名なバーで、私も一度だけ行ったことがあります。とても落ち着いた雰囲気のバーでしたが、コロナ禍の影響か、6月に閉店してしまったようです。この店が開店したのが、1985年ですので、『ブルーライト横浜』がヒットした1968年よりずっと後になります。少なくともブルーライトバーとブルーライト横浜は関係ないようです。
投稿: Yoshi | 2020年11月30日 (月) 20時43分
みなとみらいに住んでいたこともあり、横浜は思い入れの強い街のひとつです。
横浜に本拠地を置く企業やスポーツチームのイメージカラーが青であるように、市民の8割は「横浜=青」を連想すると言われています。これは港の色といえば青であることに由来しており、この歌の誕生した昭和43年当時も同じだったと考えられます。
「街の灯りがとてもきれいね」とあることから日没後の時間であることがわかり、歌詞全体から幸せに包まれた大人の男女が愛をささやき合う雰囲気がひしひしと伝わってきます。ブルーライトというのは実際に見える青い光のことではなく、港町横浜の夜の美しさと二人の愛情の深さを象徴するものだと思われます。
1998年ある番組の調査で、全国名曲の街ベスト1に選出されたのがこの曲です。あまたあるご当地ソングの中でも1位に選ばれるほど誰もが認めた名曲だと言えます。横浜市の大半は丘陵地であり港はほんの一部でしかありませんが、いつの時代も横浜は時代の先端を行くお洒落な港町であり続けています。こうした横浜の情景やイメージが続く限り、この歌も愛され続けていくのでしょう。
投稿: ひでさま | 2020年12月 2日 (水) 18時00分
筒美京平作品では史上最高と考える、いしだあゆみが歌ったからの大ヒット、横浜をこの曲とともに連想する人はかなりと思う、レコード発売が1968年12月というから52年も経過したのか、横浜駅 新横浜駅などに 発車メロディにしたらよかとよ。
投稿: 真弓です | 2020年12月15日 (火) 13時48分
この ブルーライトを これじゃん! と思う映像を発見したので紹介すると、1970年4月から11月にかけてTBS木下恵介アワーで放送されたドラマ あしたからの恋 を動画で見ることができた、日産フェアレディZで ヒロインの尾崎奈々を乗せて三浦半島をドライブして プロポーズしたあと 大出俊と夜の横浜で夕食をする店からの 映像が まさに ブルーライトヨコハマ なのだ オンタイムでは見ていないが ケンカばかりするがハッピーエンドの ラブコメだ、当時 尾崎奈々22歳 大出俊29歳 ヒロインの母親役が山岡久乃とてもかわいいお母さん。いまなら見ること可能。この作品の尾崎奈々さん短い女優生活でいちばん当たり役ちゃうかな。
投稿: 真弓です | 2020年12月15日 (火) 14時09分
兄が妻を天国に送り出して、一年、世田谷でハムレットの舞台を見に金沢から出てきたので、乗り鉄で雪景色の大糸線を走行中、栂池あたりで、兄が京都大学ではない国立大学に在学時代の冬に毎年、栂池の民宿で泊まりスキーを楽しんだと、とにかく一日中ほど いしだあゆみ ブルーライトヨコハマがゲレンデに響き渡っていたぞ とのこと ほお 私の感想は とにかく 歴史的な大ヒットだわ 糸魚川駅で じゃあね。
投稿: 真弓です | 2023年9月28日 (木) 23時01分
横浜へは、年に数回出かけます。特に元町のチャーミングセールの時は、ほぼ毎回行っています。妻が買い物をしている間、私は港の見える丘公園辺りまで散歩をして時間を潰しますが、先日公園に行って驚いたことがあります。私はかつての様に本町から坂を登って行ったのですが、何と元町中華街の地下鉄の駅からエスカレータで丘の上まで登れるようになっていました。
本町へ出かける時は、大抵中華街でランチを取り、夕刻はビストロなど適当な店で軽く飲んでから帰ります。今は乗り換え無しで都内へ帰れるので便利です。
投稿: Yoshi | 2023年10月 2日 (月) 11時05分